あるワーウルフとヒトの子について(後)
音も気配も匂いもなかった。どんな状況であれ戦士たるククが気づかないわけがない。
いや――魔法の残滓をわずかに感じる。ワーウルフの使う魔法よりもっと高度な魔法だ。
「ずいぶんな驚きようですが、平静になるまで待つ時間もないので名乗らせていただきますね? ワタシはキュロヒ。こちらは妻のディアナ」
ハイエルフは淡々と名乗り、隣のアラクネアもぺこりと頭を下げた。
そこに敵意はない。それどころか警戒もなく、余裕すら感じられる。自分たちが強者だと自覚した者の振る舞いだ。
ククは無意識にふたりを観察する。
ハイエルフは耳や足が欠損しているが、補っている足はどうやら隣のアラクネアのものらしい。というのもアラクネアは足が一本ないからだ。
杖のようにしてアラクネアの腕に掴まっている。馴染んだ所作なのでこれがふたりの常時なのだろう。
「それでどうですか? その子を渡していただいても?」
「いきなり、なんなんだ……。これを、どうするつもりだ」
なぜ見知らぬ異種族に渡せるとこのハイエルフは思っているのだろう。傲慢な性格と伝え聞くがその通りのようだ。
アラクネアは、ククの腕の中で手足をばたつかせる赤子を指さした。
「養子として迎え入れたいのです。わたくしたち夫婦の子と為ってくれるものを探しておりました」
「なに……?」
「ハイエルフの夫と、アラクネアのわたくしでは子を為せません」
この状況下では嫌味に聞こえる。
牙をむき出しにしてククは鼻でせせら笑う。
「だからなんだ? 自分たちで、子を作れないから、他の子を奪うと、宣言しているような、ものだぞ」
「ああ、理解が早くて何よりです。こんな簡単なことを順序だてて説明しなくてはいけないのは億劫なので」
ハイエルフはつまらなさそうに口を挟む。
「あなたの手に余るその子を、ワタシたちが育ててやるといっているんです」
いいのか? いいのか!?
良いわけがない。兄の子どもだ。もし兄が生きていたならけして手放さなかっただろう。だが彼は死んでしまった。
だがこうもやすやすと受け渡していいはずがない。これでは、本当にこの赤ん坊の存在を否定していることになる。
――ククは、善側の者であろうとした。正しいだけでは赤ん坊の命を救えないというのに。
「ああ、タダで引き渡すのは抵抗があると? ならばこうしましょう。我々の国で開発した魔導大板――ワーウルフでも操作できるようにカスタマイズしたものがあります」
聞いたことはある。
外の情報を手早く仕入れることができる魔道具。
旅人はたまに持っていた。正確には、旅人の遺物に入っていた、だが。
「これと交換しましょう」
「交換って……」
「それで解決ではありませんか」
心の底からそう思っているのか、ハイエルフは簡単に言う。
ククは頭に血が上るのを感じた。
「ふざけるな! この命は、そんな安いものではないッ!」
弱い魔獣なら失神するほどの圧をククは放つが、ふたりは動じなかった。ただ静かにククと、赤ん坊を見ている。
アラクネアは静かな声で語りかけた。
「主人が失礼をいたしました。ですが、その安いものではない命を、あなたは扱いに迷っている。違いますか?」
「……ッ」
「忌まわしき創世神によって意思を失くし、大気に漂う『魔力』となってしまったはじまりの神ですが――しかしわたくしたちの親であることには変わりありません。一柱に誓って、宣誓いたします」
深々と頭を下げたのちに、顔だけあげてアラクネアは不敵に微笑む。
目元を隠すレースがほんの僅かはためき、その下にあるガラス玉のような黒い目がククを見つめていた。
「ひもじい思いはさせません。暴力に怯える暮らしをさせません。さみしい夜を送らせません。生きていくために必要なことを教えます。わたくしたちの手から離れるその時まで、守護をいたしましょう」
ハイエルフが片手をククに差し出す。
「さあ、どうします?」
本当はもう分かっていた。
手段は、ない。
□
パメラ達が魔王クレハとの激闘を乗り越えたばかりの頃。
ゴトゴト国のとある家の一室では、同じくサーバーダウンという激闘に勝利したキュロヒが座っていた。目の下にはくっきりとくまが刻まれている。その横でルボは話を聞いていた。
「――そんなわけで、あなたのおじはワタシたちにルボを渡したわけだ」
「めちゃくちゃ脅してるじゃん!」
けらけらとルボは笑う。これまで断片的に話は聞いてはいたので、実の両親が死んでいることも、自分がワーウルフたちには受け入れられないこともすでに知っていた。
特にショックはなかった。
ゴトゴト国では様々な事情を抱えたものが集まっており、どんな過去を持っていたのか聞くことも多い。なので種族によって許されないことや、決められたルールから外れた場合何が起きるのかという生々しい話もよく聞いていた。
なので、自分の生死についておじが悩んでいたことも「まあそうだろうな」としか思わない。狭く孤立したコミュニティに反することは死と同意義であると分かっていたので。
彼の尻尾を梳いてやりながらキュロヒは不機嫌そうに返す。
「脅してはいない。お前を手放すための理由をワタシたちのせいにするという逃げ道を作ったにすぎないよ」
「でもさぁ、父ちゃんたちが悪者になってるよね!」
「善人ではないからね、ワタシは。悪者ぐらいでいいんだ」
妹も友人も救えなかったんだから。
小さく付け足された言葉を、ルボの耳は確かに拾っていたがその横顔があまりに寂しそうなので何も言わなかった。
ルボを挟むかたちで座っていたディアラは、編み物の手を止めて笑う。
「ちゃんとその後、わたくしたちはルボのご両親のお墓を作りましたよ? ……さすがに、ご遺体を置き去りにあなたを連れて行くのも非情かなと思ったので」
「ふうん……」
そもそもゴトゴト国には死者を弔う文化が薄い。亡くなれば国の外に置き去られる習わしだ。
だからお墓と言われても、そこに参ろうと発想がルボにはない。たとえそう考えたとしても――二〇年前の簡易な、そして管理されていない墓は見つからないだろう。
ルボはふと真面目な顔になる。
「交換で魔導大板を渡したわけじゃん。オレ、魔導大板と同等の価値ってこと?」
「そうだ」
キュロヒは頷く。
ふわふわサラサラの尻尾を自分の膝から下ろしながら続けた。
「価値を見いだす者には大いに価値はあるが、価値を見いださない者には一切価値がない。それはすべてに言えることだ。分かるね」
「うん」
「ワタシもディディも、魔導大板には非常に高い価値があると思っている。この先の世界を少なからず変えていく価値が――だから、つまりそういうことだよ」
キュロヒはぶっきらぼうにまとめた。
呆れたようにディアナはため息をつく。
「単純に『あなたが大切』と言えばいいものを……」
「……」
それは言わないらしい。
代わりにキュロヒはルボの頬にそっと触れ、額を合わせた。ディアナも編み棒を傍らに置きルボの肩に触れた。
幻影魔法もなにも使用しない、壁のない触れ合い。両親の体温に挟まれてルボはくすぐったそうな顔をした。
「何者であろうが何処に行こうが、お前はワタシたちの息子だ。最期までそれだけは覚えていなさい」




