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あるオークの話

 血に濡れた床。血が跳ねた壁。血を被った姉。


「……姉さん」


 グローシェは出入り口で呆然と呟く。

 彼女の姉はゆっくりと振り向いた。手に下げた斧からは液体が滴り落ちている。

 ぶつ切りにされた肉塊はどうやら父母らしかった。なんとなく見慣れた手足が転がっているからそう判断しただけだが。

 オークの身体は丈夫だが、叩き切るための道具相手には敵わないのだな、とぼんやり思う。


「ああ、グローシェ。おかえり!」


 姉は斧をゆらゆらと引きずりながらグローシェに近寄る。


「お父さんもお母さんもこの人と結ばれることを反対するんだ。だからね、黙ってもらった」


 この人、と持ち上げられた首は見覚えがあった。

 女たらしで遊び歩いているという男――。目を見開いたまま事切れている。

 いつもの柔らかな笑顔に狂気を覗かせながら姉は喋る。


「ああ、彼? 静かになったから家に来てもらったらあんまりひどいことを言うから、こうしちゃった!」


 もうずいぶん長いこと姉と両親は喧嘩をしていた。

 グローシェは仲裁をしていたが実質板挟みだ。どちらかの味方にもなれず、そのことを双方から罵られ疲弊していた。

 だから最近は朝から晩まで山に入っていた。力仕事は好きだったし言い争いを聞かなくてすむから。

 その結果が、これなのか?

 自分が身をすり減らして間に入っていれば、姉は最後の正気の火を消さずに済んだのだろうか?


「……姉さん……」

「そんな目で見ないで。それとも、グローシェも私に反対するの?」


 笑みを貼り付けたまま斧を振り上げる。

 狂気に落ち興奮状態で、もはや自分が何をしているかも分かっていないのだろう。

 普段の姉なら真っ向からグローシェに攻撃を仕掛けることはなかったはずだ。


 なぜなら、グローシェは強いから。



 一夜明けて。

 夫婦とその長女、長女の恋人が惨殺されていることが発覚した。

 次女は怨恨から全員を殺害したと証言し、鞭打ちと牙を抜く処罰の後に、逃亡しないよう片足を折った状態で奴隷商へ引き渡した。

 ジンネボーグ神は自らの地に罪人の血が染みることを嫌っており、つまりこれは処刑にも等しい刑であった。 

 誰もが真相を求めたが、グローシェはただ「自分が殺した」としか言わなかった。



 短い悲鳴をあげながらグローシェは飛び起きた。

 床に直に置かれたペラペラのマットレスに寝ていることに数秒遅れて気づく。ひどく狭い部屋だ。マットレス以外に家具はなく、端には多くはない荷物がまとめられている。

 窓という名の穴からは朝日が差し込んでいた。灰褐色の肌を照らし、その部分だけ温かい。

 普段は服を着て寝る習慣なのに今はなにも纏っておらずあたりに散乱している。

 ぽかんとしているとドアが開く。目覚ましとしては最適な、大きい軋み音をあげた。

 

「あっ、起きたんですね。おはようございます、姉御」

「……ティト」


 頭にカラフルな布を巻いた青年が人当たりの良さそうな顔で微笑んだ。


「いまちょっと散歩してたんですが、あちこちで朝飯の屋台が出てましたよ。食べに行きません?」

「……ひとつ聞いていいか?」

「どうしました?」

「もしかして、アタシとあんた……昨日……?」

「はい。昨夜はお楽しみでしたね」


 ティトはあっさりと頷いた。

 強いめまいを覚えグローシェは頭を抱えた。

 異種族と、行為を!?

 今更罪のひとつやふたつ増えても変わらないが、それにしても質量が重すぎる。これにはジンネボーグ神だって苦笑いだろう。


「な、なんでだっけ……?」

「ほら、初対面の時に姉御の足を治したじゃないですか。その話になって『礼をしたい。なんでも言ってくれ』って」

「それは覚えている……」


 奴隷商に運ばれている時にたまたま近くにいたティトに話しかけられ、折られた足を治してもらったのだ。

 その後奴隷市場の片隅で値段をつけられて大人しく売られていたが、他のエリアで売り出されていた観賞用デスサクラが暴れ出した。

 見かねて檻をひん曲げて抜け出し、デスサクラを制圧したはいいものの逆に脅威として処分されかけた。

 そこをどさくさで脱走したティトに救われ、成り行きでふたりで逃げ出し、そのまま共に旅をして――数ヶ月目のことである。


「たしかに『なんでも』だけどな……!? ああクソ、酒飲んでたから判断力が落ちていたんだ……もう絶対飲まない……」


 ぞっとしない話だ。

 合意というかまあ悪い気はしなかったからこうなったが、本心から嫌なら今頃ティトは物言わぬ死体だ。オークの前ではヒトの身体はもろすぎる。


「シラフでも同じ事言われたら誘いましたけどねえ、俺」


 グローシェの心配をよそに、あくび混じりにティトは言ってのけた。


「……ティトはヒト、アタシはオーク。年齢は揃えるとアタシのほうがちょっと上だよな?」

「そうですね」

「抵抗は無かったのか……?」

「え〜? 俺、年上好きですし。男女も種族も関係なく遊んでますよ」

「聖職者ァ! 無節操にもほどがあるだろ!」

「節度は守っていますよ!」

「ど、どこが!?」


 隣の部屋から壁を殴る音が聞こえた。

 壁が薄いので騒ぐと隣にすぐ響くのだ。じゃあ昨晩は……と考えて、やめた。


「ギャンブルに酒にタバコに夜遊びって……いつかは酷い目に遭うんじゃないか」

「酷い目に遭うことが罪滅ぼしになるならいくらでも」


 ティトは陰りのある瞳で笑う。

 ふたりとも、互いになにがあったかは聞いていない。

 だが何かしらあったことは察していた。グローシェ――オークに牙がない理由をティトはどこかで聞き及んでいるだろうし、治癒魔法が使えるティトの頭に大きな火傷痕が治療されず残っていることにグローシェは意味を感じていた。 


「真面目な話はここまでにして、飯行きましょう飯。飯食わなきゃ1日が始まりません」

「真面目とは……?」


 言いながらグローシェは立ち上がり、布で口元を隠す。

 牙無しはやはり、外聞が悪い。自分で背負うと決めた咎ではあるが不便だ。

 少ない荷物をまとめて外に出る。

 活気のある町だ。あまりひとか好きではないグローシェはティトがいなければ最低限のものしか買わずに離れていただろう。

 だから、大きな町への買い物のときは文句を言いながら姉がついてきてくれた。社交的な姉がうまいこと値切ってくれたものだ。

 息を吐く。

 思い出が胸を締め上げる。


「……よね、姉御? あれっ、姉御?」

「あ、ああ……すまない。なんだった?」

「いや、ほら。数日後に港に行く荷馬車についていくんですよね? って聞きたくて」

「合ってる。護衛と荷物運びが欲しいって言っていたし、船に乗るための口利きもしてくれるとのことだから行く予定だ」

「それなんですが。俺、もう少しこちらの地にいようと思いまして」


 驚かなかったといえば嘘ではない。

 ティトもグローシェが行商に誘われている時にそばにいたが何も言わず、そのため一緒に来るものだと思っていた。


「俺の信仰する神様が、うん……色々あって弱っているんです。海を渡ったら加護は届かないでしょう」

「そうか。魔力が少し落ちるのか」

「とくに治癒が。代替手段を探すか、自分の能力を伸ばすかしときたいな、と」


 ティトの治癒力が少しばかり落ちたとして困ることはなさそうだが――魔力持ちには魔力持ちなりに思うところがあるのだろう、とグローシェは考えた。

 オークは基本魔力を持たないか、微量だ。


「そうなると海を渡るにはまだ早すぎるというわけだな」

「はい」

「別に、あんたがそうしたいならそうすればいい。ここで別れずとも、あたしもいずれはティトと違う道を選ぶつもりだった」

「そこは寂しいとか言ってくださいよお〜」

「何を求めるているんだか……」


 ヒトとしては背の高いティトだが、オークのグローシェよりは低い。

 彼は少し目線をあげる。


「海向こうに何があるんです?」

「魔王城があるそうだ。それらしいものはあると聞いた」

「はは、そうですか」


 ティトは笑う。裏の感情が見えない。


「姉御の死に場所は、そこにしたんですね」

「ああ」


 活力にあふれる空気の中、ふたりだけが濃い死の影を落としている。


「ティト、あんたも死に場所が見つかるといいな」

「そうですね」


 故郷に帰れず、行く宛もない。

 ならばせめて死に場所ぐらいは見つけたい。

 ふたりの共通点はそこであった。


「……でも」

「ん?」

「……なんでもない」


 あんたは若いんだからもう少し生きてみたら、と言えなかったのはグローシェの小さな後悔であったが――。



 数年後。


「え!? 姉御!? 生きてた!? というか助けてー!!」


 罠にかかってしかも魔猪に狙われているバカの中に見知った顔がいて、グローシェは笑ってしまった。

 得体の知れない少女にスライムとどういう組み合わせだか謎ではあるが、とりあえず死に場所ではなく寄辺は見つけられたようだ。

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