48 折角
須走は二人に「ホットでいい?」と確認すると、会計してしまった。やむを得ず久瀬がトレイを持つ一方で、三廻部が押し問答する。結局須走のおごりということになって席に着くと、彼女は事情を説明し始めた。
「私は今年の四月に開発会社を辞めて、小さなシステム会社を立ち上げたの。前のとこは結構ひどい経営で、技術者を使い捨てにするようになっててね。優秀な人ほど袋叩きに遭うような場所に成り果ててた。何回か同じプロジェクトで関わってた軸屋くんが心配だったから、独立する時に誘ったんだけど、『案件がゴタゴタしてるからちょっと待ってくれ』って言われちゃった。あの時強引に引き抜いておくんだったよ……あ! 直原くん、こっちこっち」
いきなり須走が手を振ったので久瀬達が振り向くと、くたびれたジャンパーとジーンズの男がこちらに歩み寄っていた。角刈りに太い眉の長身で、無精髭に覆われて表情はよく見えない。彼はそのまま須走の横に立つと、
「軸屋は?」
と短く尋ねる。
「今は一般の病室に移ったって。部屋は……」
と須走が告げると、初対面の二人に目で会釈し、慌ただしく歩いていった。
「彼は直原くん、軸屋くんとは同期よ。今日大家さんから連絡があった時、電話をとったのが直原くんで助かったわ。彼から私に連絡があって、それで飛んできたの」
須走は珈琲はそのままで水を一口飲むと、ため息混じりで言葉を絞り出した。
「……軸屋くんがコードを書けなくなったのは、辞めた会社でのことが原因だと思う。ちょっと揉めたみたいで」
そして彼女は、少し遠い目になって一気に語りだす。
「彼は、仕事が早くて正確で、それで孤立していったんだよね。コードはエレガントなものを書くし、発想も技術もよくて。それはいいんだけど、能力差があってチームで浮いてた。チームリーダーに度量があればよかったけど、プログラマなんてコミュニケーションが苦手な連中ばっかりだし……。
「そうして少しでも孤立が始まると、情報が入ってこなくなるのね。普通はそこでスタックして、進行管理だとか営業だとか、技術系じゃない人が気づいて調整に入るんだけど、軸屋くんは自力で調べられるだけ調べて、何パターンもコードを書いてたみたい。システムを引き継いだ直原くんが、あとでコードを確認して気づいたんだって。だから彼、睡眠時間なんてほとんどなくて、いつも気を張った状態だったんだと思う。元々プログラマの意識って『自力で調べられるところは調べる。他人の助けは恥』みたいなところがあるから……はたから見ても判らないの。
「で、いきなりのエンディング。大きな案件で自分の担当が終わったら、会社を辞めちゃった。その当時は別案件が修羅場だった直原くんが、それをあとで知った。彼は近々うちに合流する予定だったから、私に連絡してくれたの。そこで慌てて連絡したんだけど『もうコードが書けない』って言われちゃって……あれだけ才能があって真面目なプログラマが、こんなことで潰されるなんて。世の中おかしいよね」
しんみりと締めくくられた話に、久瀬が少し怒ったような声で尋ねる。
「あいつの、軸屋のフォローを誰もしなかったんですか?」
「勘違いしないでほしいんだけど、どこの会社もそうじゃないのよ。ただ、前にいた会社は社内での足の引っ張り合いがひどかった。だから私は、ちゃんとした開発会社が必要だと思って独立したのね。だから、軸屋くんこそ参加してほしかったんだよね……」
三廻部が追いかけて質問する。
「プログラムを書けるようになれば、候哉くんと一緒に仕事をしてくれるんですか?」
「もちろん。『独立したよ』って葉書を送ってからも、電子メールで何度も話してる。ただ、思ったよりも彼の心は頑ななんだよなあ。どうやったらほどけるのか、私だって色んなプログラマを見てきたけど、見当がつかない」
途方に暮れた表情の須走を前にして、三廻部が顔を歪めて頭を下げる。
「あたしが原因かも知れません。そんなに大変なことになってるって知らなくて、全然関係ないおしゃべりをパソコンでしちゃったから……」
「ん? あなたがもしかして『歴史友達』?」
「え……『歴史友達』ですか?」
「そうそう。いつも笑わない軸屋くんが、その話をする時だけニコニコしてたんだよね。楽しそうだったなあ。毎週月曜。みんながうんざりした顔をしてるんだけど、軸屋くんだけは機嫌がよくって」
須走は満面の笑みを浮かべているが、三廻部は逆に動揺していた。
「え……そうだったんですか? 意外です。わがまま言って時間をとらせてるみたいで、いつも『悪いなあ』って思ってたのに」
「私こそ意外だわ。男友達だと思ってたから」
それを聞いた三廻部が何ともいえないような表情になったのを見て、久瀬が口を挟む。
「三廻部さん、毎週って……例の話?」
「うん、史料で面白いこととか判らないことを相談したり。でも、会うのは嫌がるんだよ」
「あー。候哉としては、疲れた顔を見せたくなかったんだろうなあ。とはいえ、あんな骸骨みたいになる前に、病院に行けって話だよな」
口をへの字にして久瀬が呟くと、須走も眉間にしわを寄せて答える。
「軸屋くん、年末に会社を辞めてからほとんど食べてないんじゃないかな……」
そう話している横から、荒々しい足音が近づいてきた。先程の久瀬よりも殺気立った直原が、まっすぐ出口に向かっている。
「直原くん! どうしたの?」
「知らん。あいつはもう駄目だ」
「ちょっと待って! 何よもう。あ、ごめんなさい。あとでここに連絡してくれる?」
須走は急いで名刺をテーブルに置くと、直原を掴まえようと全力疾走で去っていく。
三廻部が病室に入ると、軸屋が天井をぼんやり眺めていた。
「具合はどう?」
「よく判らない……久瀬は?」
「もう帰ったけど、ちょっと怒ってた。須走さんと直原さんも帰ったよ」
「親に連絡はしてほしくない。俺はもう成人してるし」
「入院するのに身元保証人は必要なんだよ。あたし達は学生だからなれないの。とりあえず、お兄ちゃんの名前を書いておいたから」
「すまん」
「気にすんな……って言いたいけど、気にして。候哉くん、誰も一人じゃ生きられないんだよ」
「あのまま、逝かせてもらってもよかった」
「……残念でした。自分じゃ普通に話してたつもりだろうけど、夕べの候哉くんはすごく変だった」
「……」
「いつもだったら、データは確実なのかとか、いつの記録なんだってうるさいのに、聞き流したでしょ。すぐに判ったよ」
それを聞いて、軸屋が血の気の引いた唇を開いて笑う。
「はは、下手を打ったな」
「最後まで付き合ってくれるんでしょ?」
「だから、俺の最期まで、な」
「却下。あたしの最期という意味だから」
「ははは、相変わらずだな。物理的にその約束はおかしい」
やがて夕食が配られる。軸屋のそれは、流動食が主体のものだった。彼が食べている間、三廻部は成人式での出来事を話していた。
「振袖着るの面倒だからスルーしてたのに、文恵とお兄ちゃんが勝手に予約しちゃって。あれはもう着たくないや。文恵は楽しそうだったけどね。それと、式のあとの同窓会で、五十嵐先生が心配してたよ。軸屋は生活できてるのかって。予言的中だね」
「さすがに、無職で成人式は行けないだろ」
「誰も気にしないのに。あと、猪飼くんも来てなかったかな」
「猪飼か……懐かしいな」
「だから、今度同窓会があったら行こうよ」
「考えておく」
「参加ね。じゃあ、そろそろ帰ろうかな。何か必要なものがあったら明日持ってくるけど?」
「申し訳ないが、銀行のカードを頼む。流しの抽斗に入ってるから」
そう言って軸屋は部屋の鍵を渡した。
「ついでに、おねだりしちゃおうかなあ」
三廻部が笑いながらそう言うと、軸屋はあっさりと口座の暗証番号を教える。
「何でも買ってくれ。遍さんにも迷惑をかけたし、好きなだけ使っていいよ」




