47 困窮
平日の昼下がり、もう世間から引退してかなりになる平岩敬三はのんびりと盆栽をいじっていた。二月になってほんの少し増えてきたゆるやかな日差しが心地よく、つい時間を忘れてしまう。だが、その平穏も玄関の呼び鈴が連打されたことで破られた。
「すみませーん! 大家さん、いますか?」
突然騒がしくされて少々不機嫌になった平岩は庭から直接玄関に向かう。
「どちらさん?」
玄関先に立っていたのは小柄な女で、髪を上に引っ詰めて黒縁の野暮な眼鏡をかけている。
「あの、平岩荘の大家さんですか? 一〇二号室の軸屋くんの部屋を開けてもらえませんか?」
「うーん。住人のプライバシーには関わらないので、何とも……」
警戒する平岩に、その女は鞄から定期入れを取り出し、開いて見せる。
「あたしは三廻部と言います。軸屋くんの友人です。様子がおかしくて、そのあと連絡が取れなくなったので心配になって。外から呼んでも反応がないんです」
平岩は首からぶら下げていた老眼鏡をかけ、彼女が提示した学生証を見る。写真とも一致しているので、妙な勧誘絡みというわけではなさそうだった。
「じゃあ、とりあえず私からも声をかけてみましょう」
三廻部を残して一旦屋内に戻り、合鍵を片手に握り隣接するアパートに向かう。彼女がせっかちに急ぐので、平岩も足を早めざるを得なかった。彼は追加の情報を得ようとして質問する。
「軸屋さんとはどういうご関係?」
「高校の時から友達なんです。昨日の夜にネットで相談事をしてて、変だなって気になってて。朝になって電話してみたら呂律が回ってなくて」
と、泣きそうな顔で三廻部が訴えてくる。平岩はそれを聞いて、自身も思わず小走りになる。
「そう言われれば、先月見かけた時も顔色が悪かったね。とにかく、ドアを叩いてみよう。返事がなければ開けてみてもいい」
「ありがとうございます!」
「構わんさ。年寄りの面の皮はこういう時に使いなさい」
結局、屋外からの呼びかけにも応答はなかった。平岩は合鍵を差し込み、扉を開く。
「お嬢さん、あなたはここに……」
と言い終わる間もなく、老人を押しのけて三廻部が室内に飛び込む。
「候哉くん!」
暖房もかかっていない六畳一間の室内は、照明がついたままだった。狭い室内に置かれた事務机だけでなく、畳の上にもパソコンやディスプレイが転がっている。その奥に、寝袋から半分身を乗り出して仰向けになった若者がいた。玄関先にいる平岩の目にも、その顔が土気色に変わっていることが判る。怯む老人を横目に、乱暴に靴を脱ぎ捨てた三廻部が駆け寄った。
「大家さん、救急車を!」
久瀬が三廻部からの連絡を受け取れたのは、前夜飲みすぎて自主休講を決め込んでいたからだった。しかし、軸屋が病院に担ぎ込まれたことを聞かされると、鈍い頭痛は消し飛んだ。
「様態は?」
「今、救急の処置室にいて、まだ判らない。それで……」
「判った。あいつの部屋に寄ってからそっちに行く」
「隣の大家さんは事情を知ってるから、開けてもらって。平岩さんっておじいさん」
「ああ。保険証と、あとは着替えやらも持っていく」
「ありがとう。ごめんね」
「いや、連絡をくれてよかった。急いで行くから」
大きな旅行鞄を持って飛び込んだ久瀬は、病院の受付の横で考え込んでいる三廻部を見つけた。近寄ってみると、彼女は書類を広げていた。
「お待たせ。免許証もあったから突っ込んできた」
と声をかけると、ぱっと顔を上げ安心した表情を見せる。
「ああ、よかった。生年月日とか保険証番号とか、あれこれ書かなきゃいけなくて」
「で、どうなの、あいつ?」
「栄養失調だって」
「は?」
「ほとんど食べてなくて、それで意識を失ったみたいだって。様子は見るけど、命に別状はないって」
三廻部が困惑してそう言うと、久瀬は妙に納得した顔になる。
「あー、だからか。大家さんとちょっと話したんだけど、入居する時に書いてあった会社に電話してみたら、年末に辞めたとか言われたんだと。食い詰めて引きこもってたんだろうな」
「ええー、聞いてないよ」
「そういうやつなんだよ。あと、親元の電話番号も不通だったってさ。あいつ親が嫌いだから、絶対に違う番号を書きやがったな」
「……そうなんだ」
「もう普通の病室にいるの?」
「うん。点滴したら意識が戻って。でもまだぼんやりしてて、あんまり事情は聞けなかったよ」
「書類は俺が書くから、三廻部さんはあいつんとこ行って」
「ありがとう。でも、あたしが付き添いしてきたから、これは書いちゃうよ。久瀬くんは、悪いんだけど着替えとかの荷物を病室に運んでくれる?」
それに続けて病室の番号を伝えられると、久瀬は足早にそちらへ向かった。そしてベッドの手前のカーテンを開けた途端、息を呑む。茫々と乱れた髪は見覚えのあるものだったが、その下にある顔は痩せこけて骨に皮が張り付いているような状況だった。落ち窪んだ目がゆっくりとこちらを見る。一歩うしろに下がりながら、問いかける。
「候哉……どうしたんだ」
のけぞる久瀬をぼんやりと見ながら、病人の口元から軋るような声が絞り出される。
「コードが、書けなくなった」
何も返せないままの久瀬。病人は目蓋を閉じて切れ切れに続ける。
「もう終わりだ。色々世話になった」
「何言ってんだ、馬鹿。さっさと飯食って元気になれ。それと、親の連絡先を教えろよ。三廻部さんが困ってるぞ」
「いやだ」
「お前、本当にいい加減にしろよ。ふざけんな」
軸屋は再び目を開ける。そして視線を動かし、声をひそめて罵声を浴びせた友人の姿を視野に収め、かすかに眉を上げた。
だが、反応を見せたのはそれだけだった。
怒りと困惑と心痛に沈んだ様子の久瀬が受付に戻ると、三廻部が若い女性と挨拶を交わしていた。
「あ、久瀬くん。どうだった?」
三廻部が声をかけてきて、久瀬は返答に困る。だが、見知らぬ女性にも見つめられやむを得ず答えた。
「あの馬鹿、もうコードが書けないから終わりだとか言ってやがる。あいつが書けないなんて、あり得ないだろ」
「ああ、やっぱり。それで自棄になったのかしら」
と、女性が嘆息する。二十代後半くらいで、長い髪を一つに束ねただけだが、手に持ったコートや身にまとったビジネススーツから、やり手の営業担当といった風貌。女性としては大柄で久瀬と比べても背丈が変わらない。大きな瞳が目立つ一方で、堅く引き結ばれた口元が意思の強さを感じさせた。
「初めまして。軸屋くんの同僚だった須走春乃と申します」
そう言って軽く頭を下げる。釣られて久瀬も名乗って挨拶すると、
「宜しくね。といっても、私も軸屋くんも、もうあの会社にはいないんだけど」
と苦笑する。機敏に動く目はやや大げさな印象を与えているが、佇まいは落ち着いたものだった。
「ちょっと込み入った話になりそうだから、あそこのカフェテリアで珈琲でもどう?」




