公爵夫人とあたし
イドネ伯爵についての情報は集まらなかった。カルアさんが集める噂話で語られる貴族は殆どが王都の中に居る人たち。それかもしくは余程有名な人でしかないそうだ。イドネ伯爵は紙の産地を治める人ではあるけれど、さほど有名ではないらしい。
「社交期になればまた状況も変わるでしょうけれど」
カルアさんが少し申し訳なさそうに言ってくれた。あたしとしてはこうして調べてくれただけでもありがたい。申し訳ない顔をされるこっちが申し訳ない。
で、手詰まりである。
こうなると、あたしにできる事って本当に無いんだな、と少し落ち込む。ルディのお母さんにもさり気なく探りを入れてみたけれど、カルアさんでも無理だったものがこんな子供のあたしに聞き出せるわけもない。
元貴族、という事でお父さんにも聞いてみるけれど、
「よく知らんなあ」
の一言で終わった。……リィリヤは「イドネ伯爵」と聞いただけで紙の産地だと言い当てたのに、お父さんにはそれも無いんだろうか。
ちょっぴり不満に思ってそう突っ込んだら、
「付き合いのない貴族の事まで覚えたりなんかしないさ」
と笑われて終わった。そのやり取りを聞いていたお母さんが苦笑する。
「お父さんは昔から大雑把なのよ」
学園で出会った他の貴族はもうちょっとちゃんとしてたらしい。お父さんは元々貴族には向いてなかったのかもしれない。
ついでに、
「貴族同士のあれこれにあんまり首を突っ込むなよ。貴族同士の事は貴族に任せておけ」
と警告された。リィリヤ絡みで聞いたと思われたらしい。
「お父さんは貴族嫌いなの?」
前々から気になっていた事を聞いてみたら、お父さんは苦笑した。
「嫌いじゃないさ。でも理不尽な奴も居る。そんな奴ら相手に、お前だとどうにもできんだろう」
そう言われて思い浮かぶのは、あたしとローアを攫ったあの男だ。魔法で嬲られた事を思いだす。あの時あたしは反撃できたけれど……お父さんが今言っているのは、もっと権力とかそういうことについてなんだろう。
「お父さんは、貴族としての身分を捨てるの、惜しいと思った事は無いの?」
そんな風に理不尽な目に合わないように済む力を、お父さんは持っていた筈なのに。
「貴族と関わらなければ平和なもんさ」
そう言ってお父さんは笑う。
けれどあたしたちに、もう貴族と関わらない、という選択肢は無いのだ。お父さんが元貴族というだけじゃない。あたしとローアがリィリヤと友達だから、だけじゃない。あたしたちの後見人が公爵様になってしまっているのだから。
それでも、あたしたちは守られているからいい。きっと公爵様はそのために後見人になってくれたのだろう。
ルディは違う。小母さんの実家の事がある限り、逃げられない立場なのだ。
そのルディの家に行くと、何やら騒がしくなっていた。いつものようにパタパタと愛らしさを振りまきながら駆け寄ってきたルディに聞く。
「なんかね。沢山本を買ってくれる人が居るらしいの」
この世界の本は基本的に注文を受けてから作る。それで制作に忙しいらしい。
「どんな本?」
「簡単な絵本。字の読み方の練習に使うやつ」
ざわざわと落ち着かない作業場で、それでも淡々と作業をしている筆記者さんの手元を覗いてみる。
お手本にしている原本は絵と文字でできた絵本だったけれど、筆記者さんが手元で書き写しているのは文字だけだ。
「絵はどうするの?」
あたしのその問いに答えたのは、筆記者の一人だった。まだ若いその人は、ちょっと呆けたように騒がしい作業場を眺めている。仕事しなくていいんだろうか。
「別の所に頼むんだよ。でも二百冊も受けてくれるかなぁ……字を書くよりも絵を描く方が大変だよな。絵本の場合、絵がほとんどだし……」
「二百!? え、学校でも開くんですか?」
「慈善活動……だとさ。でも絵本とか大量発注については、うちより得意なところあるのに、どうしてわざわざうちを選んだんだろう」
「絵本……を寄付でもするの? どこに?」
全体に識字率が低いこの国では、字を読めるのは裕福な家だけだ。寄付を必要とするような貧しい人たちは字が読めない。いくら簡単な絵本であっても、寄付の意味が無いのではないだろうか。
「いや、寄付じゃ無くて学校、みたいなもんかな。貧しい家の子か孤児かは分からないけど、字の……読み方だけ教えるんだってさ」
「へえ……それ、いいですね」
かつて、字の読み書きをできるようになりたい、と渇望していたあたしだから、そうやって字の読み書きを平民に教えようとする人が居る事は嬉しい。
「どこまで役に立つんだろうなって気がするけどな」
文字を書くことを仕事にする人が、そんな事を言うとは。
でも、本を売る人だからそう思うのかもしれない。技術階級でもない平民は、本何て高くて買えないのだから。技術階級でもそう沢山買える人は滅多にいない。
二百冊。それだけでも注文者は恐らく貴族だろう、と分かってしまう。でなければ大商人だ。
せめて活版印刷の技術ができれば、と思う。ルディの家に出入りして何となく分かる様になった事がある。本が高いのは、紙の値段よりも、書き写す筆記者たちの労働力の対価の為だ。転生前の世界でも最も費用が嵩むのは人件費だった。それは変わらないらしい。
もっともその技術ができれば、筆記者たちは職を失うわけだけど。
「でも……文字が読めるようになれば、世界が広がりますよ」
平民が主に暮らす界隈では文字は使われないけれど、技術階級や貴族が主に行き来する通りになれば、看板に文字がつかわれ始める。
政治的な告知だってまずは文字で書かれた紙で配布されるのだ。平民街ではそれを読み上げる人が居て、それで内容が分かるようにはなってはいる。でも一回聞いただけでは意味が良く分からないことだって多いし、それを覚えているのだって難しい。
それでも生活していける、と言えば確かにそうなんだけど。
「ま、俺は食っていければそれでいいんだけどさ」
何だか投げやりな口調で若い筆記者(名前なんだったけ……)が言うので、ちらっと見上げて聞いた。
「仕事しなくていいんですか?」
彼は首を竦めて自分の作業台へと向かった。
あたしたちの会話が終わるのを待っていたらしきルディがあたしの腕を引く。
「お部屋行こ?」
ルディは根っからのインドア派だ。
引っ越し以降、あたしたちの「教育」は公爵家の屋敷で行われる。週2回とそんなに多くはないけれど。その「教育」と更にリィリヤだったりジーハス先生だったりに会いに行くのを合わせると、あたしは随分な頻度でローゼルグライムのお屋敷に入り浸っている事になる。午前をルディと過ごして、午後にお屋敷に行くとか、その逆というのも珍しくない。
それだけ入り浸っているのだから、今まで出くわさなかった事の方が奇蹟だったのかもしれない。
「あら。今日はレッスンかしら?」
優雅で冷たい微笑と共にそんな言葉を掛けられ、あたしとローアは硬直した。気分としては接敵である。コマンド「逃げる」を選択したい。
公爵夫人である。
「はい。お邪魔致します」
にっこり、とあたしにできる限りの笑顔を浮かべて、頭を下げる。公爵夫人が不愉快そうに顔を顰めるのが目の端に映った。あたしだって顔を顰めたいよ! 怖くてできないけど。
「そう……サラ・テシオドール」
フルネームで呼ばれてあたしは思わず顔を引き攣らせた。一体、何の用だろう。そんなあたしに構わず……寧ろちょっと面白そうな顔に見えた……公爵夫人は言い放つ。
「貴女に話したいことがあるの。今日のレッスンが終わったら私の所へいらっしゃい」
「へ?」
思わず間抜けな声を出してポカンと口を開けてしまったあたしを誰が責められようか。だって突然すぎる。用? あたしに? 公爵夫人が?
絶対、碌なことじゃない。
そんなあたしの反応に構わす、公爵夫人はさっさと立ち去ってしまった。あたしの承諾の返事なんて求めてない。従うのが当然なんだろう。まあ、実際言う事聞くしかないんだけど。
でも「私の所」ってどこだよ。部屋? 公爵夫人の部屋なんてあたしは知らない。探せとでも?
あー! 嫌な感じ!
段々と滾って来た怒りにプルプルと震えるあたしをローアがちょっと同情した様に見上げる。けれども言う言葉は非情だった。
「俺、今日は授業終わったらリィリヤと遊ぶから。お姉ちゃん頑張ってね」
そう。今日はリィリヤも居るという話だったのだ。終わったらリィリヤと遊べる筈だったのに!
あたしは八つ当たり気味にローアを睨みつけた。後で覚えてろよローア。
結局、授業が終わったらメイドさんが迎えに来た。美しい所作で頭を下げて、
「奥様の所へご案内申し上げます」
と言う。その丁寧さに勢いを削がれつつ、迎えをくれるんだったら言っといてくれればいいのに、と不満点を探してしまう。
苛々するのは嫌いな公爵夫人と会わなくちゃならなくて、しかもその所為でリィリヤと遊べないからだ。でも所詮、あたしに公爵夫人に文句を言うなんて事できないんだから、苛々しても不毛なのである。前を歩いてあたしを案内してくれるメイドさんの後ろ姿を見ながら、あたしは密かに深呼吸して気持ちを落ち着けた。
それにしても、気が重い。苛々を沈めた代わりとばかりにずっしりと重くなった気持ちを抱えて、あたしは公爵夫人の前に立った。公爵夫人は玄関先で会った時と同じ、冷たく優美に微笑んでいた。臆病者のあたしとしては曖昧な笑顔で戦々恐々と待つしかない。
「イドネ伯爵の事が気になるそうね?」
公爵夫人の言葉に、あたしは顔を強張らせた。何でそれを知ってるんだろう。確かにその話をこの屋敷の中でしてたけど、あれはリィリヤの部屋だった。娘の部屋の盗聴でもしてるんだろうか。だったらコワイ。
そんなあたしの表情を読んだのだろうか。公爵夫人の優美な微笑がうんざりした風に変わる。
「リィリヤやカルアが動けば、夫に知らされるわ。当然でしょう。それでリィリヤから何故調べるのかを聞いたのよ」
なるほど、と思うと同時に不安になる。
頼んじゃいけなかったんだろうか、と。
「リィリヤにそう言う事を聞いてはいけなかったんでしょうか」
公爵夫人は少し考えるように沈黙する。
「……良いか悪いか以前の問題として、まずリィリヤにそういう調べ物は不向きよ。あの子はさり気なく聞き出す事も人脈を辿る事もできないのだから。
そういう意味ではカルアを働かせたのは良い判断だけれど。カルアにも大した事は調べられなかったんではなくて?」
あたしがカルアさんに命じて調べさせたとでもいわんばかり口調に少し腹が立つ。カルアさんが調べてくれたのは、カルアさんの厚意による物だ。リィリヤもあたしも、調べてほしいと命令したわけじゃ無い。
「貴族社会では誰が誰に興味を持ったかすらも、時に思いもよらない噂に発展するわ。興味を示すのにも注意を払わなければならない……そんな世界よ。だから貴女が余分な興味をリィリヤに抱かせることは良いとは言えない……けれどもそれは私が咎める事ではありません。あの子はそれを自分でコントロールしなければならないのだから。……できるとも思えないけど」
言ってる事がまわりくどい。これ、結局はリィリヤに余計な事を言うなと咎めてるんじゃないだろうか。それどころかリィリヤを貶してないか? 確かにリィリヤは不器用だけど! っていうか素直すぎるけど!
それはリィリヤの美点なのに。
密かに苛々するあたしに構わず、公爵夫人は続ける。
「つまり、貴女が貴族に興味を持ったとして、それをリィリヤに聞いても何の益もありません。もし、貴女が今後貴族に関わる相談事を持ちこむならば……夫か……私にしなさい」
「え?」
今、何だろう、この人、自分を頼れって言った? あたしに?
「貴女はローゼルグライムの被後見人です。それは、私達には貴女を助ける意思があるという事。その事を分かっているのかしら?」
「この……調べ物は結構個人的な興味なんですけど……」
「それが不要な事、不利益になりかねない事と判断したら、幾ら後見人とは言っても、私達はその望みを切り捨てるでしょう。けれど貴女、リィリヤにそれができるとお思い?」
思わない。リィリヤは多分真っ直ぐにあたしを助けようとするだろう。
「そうと分かっててリィリヤに頼む、という事はリィリヤを利用する事と同義だと心得なさい」
耳に痛い言葉だった。一人の貴族について知りたいってだけの事でどうしてここまで言われなけばならないんだと思わなくもないけど。けれどあたしがリィリヤを利用しかねない事を、自覚する。あたしが軽い気持ちでした頼みごとが、リィリヤに思いもよらない不利益をもたらすことだって有り得るのだと。
だからこの人は言う訳だ。そういう頼み事は、リィリヤじゃ無くて自分たちにしろ、と。
「……すみません」
なんだか不思議な気分になる。この人、リィリヤを心配してるんだろうか。
あたしはずっと、公爵夫人はリィリヤを嫌っていると思っていたのだ。
あたしの謝罪に、公爵夫人は鷹揚に頷いた。その仕草にやっぱりちょっと苛っとする。
「それで、イドネ伯爵のことだけれど」
調べるのは諦めろ、と言われる事を覚悟したあたしだけれど、公爵夫人の言葉は意表を突いた。
「会う機会を作って差し上げてもよくてよ?」
その言葉にあたしは思わず頷いた。
「お願いします」
公爵夫人の言う「会う機会」について詳しく聞くのは後日という事になった。まだ計画の詳細が詰まっていないらしい。
「貴女に不本意な事をさせるかもしれないけれど……」
という公爵夫人の言葉に、
「なんでもします」
と反射的に答えてしまった。その瞬間に公爵夫人の目に嗜虐的な光が浮かんだ気がする。気のせいだと思いたい。
一通りの話しが済んで、退出しようとしたときに公爵夫人に呼び止められた。
「もう一つ、貴女に言いたいことがあるわ」
「なんでしょう」
正直、げんなりしながら振り向くけれど、公爵夫人はあたし以上に嫌そうな顔をしていた。
「私を相手に子供らしくない媚を振りまくのはお辞めなさい。私は貴族に媚を売る平民が何より嫌いなのよ」
媚……というのは、多分あたしの愛想笑いの事なんだろう。
「媚びている、というより、怖いから笑ってやり過ごそうとしてるだけです」
その時、ついポロっとそう言ってしまったのは何でなのか。言ってから、「あ、しまった」と思ったけれど、公爵夫人は不快そうな様子を見せなかった。寧ろ呆れた様子である。
「夫が貴方たちを保護する方針でいる以上、私に貴方たちを害せる筈が無いでしょう」
「それって逆らってもいいって事ですか?」
「あまりに生意気な態度を取るようだと、私も夫に言うけれど。貴方たちについてのどうこうする裁量は私には無いわ。精々口で注意する程度。夫の許可が無い限りね……そして夫は、貴方たちに負い目を感じている」
負い目。あの、誘拐事件の事。あたしとローアに残った火傷の跡を、意識する。
「……だから度を越さない限り、私が貴女を害する事は無いと思いなさい」
度を越さない限りっていうのは、調子に乗るなよって事だよね。多分。
「肝に銘じます」
ぺこり、と頭を下げて、あたしは今度こそ退出した。
公爵夫人の部屋を出たらリィリヤとローアが居た。
「サラ、お話は終わりましたか? でしたら一緒に庭に行きませんか?」
リィリヤが言う。ローアは仏頂面である。もしや、ずっと待ってたんだろうか、この子たち。
ああもう、可愛いな! 癒される……!
「うん、行こう!」
開けっ放しのドアの向こうから感じる視線を無視してリィリヤをぎゅっと抱きしめる。でもやっぱり視線が怖い気がするので程々にして放し、手を繋いで庭に向かった。
「お母様とはどんな話をなさったのですか?」
と聞くリィリヤに、何と答えるかしばし考える。
「うーん……。この前話した、イドネ伯爵の事、教えてくれるって」
「お母様が、サラに、ですか?」
「うん。だからリィリヤ、もう調べてくれなくても大丈夫。カルアさんにも、ありがとう、って伝えてくれる?」
「それは勿論……でもお母様はサラの事を嫌っていると思っていました」
「それは嫌われてると思うけど」
「では、なぜお母様が?」
「リィリヤの為じゃない?」
結局そうなんだろう。リィリヤにやらせるなら自分がやる、と、そういう話なのだから。少なくともイドネ伯爵については、もうリィリヤが手を出してしまったから公爵夫人が引き受けた。そうとしか思えない。
だってそうじゃないと、「不要な事なら切り捨てる」という言葉に矛盾する。あたしの近所の子の事が気になるから、というのは、公爵家の人間が動くには弱いと思うのだ。それもすこぶる曖昧な状況で、だ。
リィリヤが足を止めた。
「私、ですか?」
「だと思うよ? 後は公爵様があたしたちの後見人だからとか何とか言ってたけど。でも一番の理由はリィリヤだと思うな」
どうも固まっているらしきリィリヤの頬を突いて言う。リィリヤが納得しているどうか良く分からない曖昧な声で呟いた。
「そうですか……」
ずっと仏頂面のローアがリィリヤの手を引いた。
「ほら、行こう」
ローアに手を引かれて走るリィリヤの後を追ってあたしも走った。超運動音痴のリィリヤはローアに付いて行くのに必死でさっきのやり取りを考える余裕も無さそうだ。それでいいと思う。考え事は思いっきり遊んだ後でしたって良い筈だ。
外に出れば、突き抜けるような晴天が広がっていた。
絶好の遊び日和だ。




