第6章 15
◇
「っ!!」
「――!!」
修一の右手が、動く。
剣を抜くために、師匠に勝つために。
相変わらず勝てるイメージは浮かばないが、それでも尚、――勝つために!
「涅槃寂静――」
修一が踏み込みながら、そう唱え、
「――!」
師匠が右腕を畳んで、防御した。
「――剣っ!!」
「――っ!」
叩き付けられた剣は、師匠の右上腕骨を軽々と叩き割った。
刃筋を立てれば、オーガの体表を容易く斬り裂ける剣技だ。
刃引きした側であったとしてもその威力は絶大であり、峰として当てられた事で鈍器のような働きをするとなれば、骨を叩き砕くことなど容易いだろう。
師匠は今、修一の戦意に当てられて更に幾らか抜いているのだが、それでもダメージを受けるのだ。
半端な技ではない。
とはいえ、本来なら鞘に納めるまでが一連の動作であるこの技も、相手を斬れなければそれも出来ない。
修一の腕は騎士剣を振り切った状態で止まり、師匠はその延長線上に弾き飛ばされる。
飛ばされた先でも師匠の目がはっきりと自分を捉えているのを見て修一は、剣を振り上げ、そのまま地面に向けて振り下ろした。
「飛線!!」
飛来する斬撃に対して、師匠の取った行動はシンプルだ。
「――――カアッッ!!!」
吼える、ただそれだけである。
それだけで、目前まで迫る斬撃を掻き消してしまった。
耳を聾するほどの叫声とともに、形のないものが弾ける音が響いた。
そして師匠が、――拳を握った。
「――っ!?」
飛線を放った勢いのまま駆け出そうとしていた修一は、師匠の拳から感じる圧力に、思わずたたらを踏む。
あり得ない、と思ってしまうほどの威圧感を感じるが、それも当然であろう。
この戦いで師匠が拳を握るのは、これが初めてなのだ。
それが、全力を出せとの言葉を受けて取った行動であれば、推して知るべしというものだ。
そもそも師匠は、タツキを弟子に取ってからというもの、タツキへの指導や鍛練以外で拳を握ったことはない。
加えて述べるなら、師匠は右手でも平然と拳を作っているが、別にこれは師匠の右腕の骨が治ったという訳ではない。
流石に、一、二秒程度で治るはずもなく、師匠の右上腕骨は真っ二つに折れたままだ。
ただ、骨が折れていても師匠は拳を握れるのだ。
……色々と、無理矢理な身体の使い方をすることで。
「……」
両手で拳を握る師匠。
その立ち姿からは、一切の予兆を感じ取れない。
あらゆる気配を遮断しているかのように、次にどう動くのかを、全く窺い知ることができない。
故に修一は、師匠が動く前に、止まった足を叱咤して再び駆け出した。
一気に距離を詰め、そして。
「! 陽炎っ!!」
「ふんっ!」
直感的に、陽炎を使って回避行動を取る。
師匠はまだ動き出していなかったが、動くのが見えてからでは、遅過ぎるだろう。
修一が一瞬前までいたところに、空気を切り裂くほどのエネルギーを纏った右拳が突き出される。
なんの躊躇いもなく折れた方の腕で殴ってくるあたり、師匠も大概であると言えた。
そして繰り出された拳に関しては、中段突き、だと思うが、修一には見えなかったのではっきりとは分からない。
……見えなかったのだ、拳が。
気が付けいたときには、師匠は拳を振り切っていた。
――やばっ……!?
代わりに修一は、師匠の目がいまだ自分を捉えている事実に、息を呑む。
陽炎での移動は、ほんの数瞬、数メートル程度の距離を、高速で滑り抜けるというものだ。
決して消えている訳でもワープしている訳でもなく、ただただ、瞬間的な加速と停止を行っているだけに過ぎない。
だから、目で追われることも、無くはない、――とは、思っていたが。
「っ!?」
左側面に回り込んだ修一に対して師匠の裏拳が飛んでくる。
左拳をしならせるようにして打ち出され、軌道が全く見えない。
こちらの動きは見切られていて、あちらの拳は目で追えないのだ。
圧倒的に、見る力が負けている。
それでも修一は、今までの戦闘経験によって培われた武術的な直感で、拳を躱してみせる。
――っぶねえ!? 掠った!!
陽炎での移動方向を無理矢理変えて後方に避けた修一の鼻先に、師匠の拳が掠めた。
ゾッとしている暇もない。
距離を詰め切れなかったのだ。
今度は、向こうが攻めてくる!
――来んじゃねえよっ!!
振り向き、踏み込んでこようとしている師匠に、修一は咄嗟にチカラを使った。
今回は、フィンガースナップも無しだ。
なんの予備動作もなしに、師匠の眼前に熱を集めた。
「――!」
だというのに師匠は、それを察する。
頭を振って躱すと、前髪が僅かに焦げただけにとどまった。
そして更に踏み込もうとして、
「むっ……」
――足が地面から離れないことに気付いた。
極低温まで冷却された地表の水分が、師匠の靴底に氷着したのだ。
一瞬、師匠の行動が阻害され、修一はその間になんとか体勢を立て直す。
鼻先を掠めただけでボタボタと垂れ落ち始めた鼻血を、袖で乱暴に拭い、それから両手で剣をしっかりと握って振り上げた。
「……能力か」
「破断鎚っ!!」
師匠の拳が届くであろう距離の、ギリギリ外から全力で剣を振り下ろす。
破断鎚は、修一が使う奥義の中で一番安定してダメージを叩き込める技だ。
修一自身、この技に対しては絶大な信頼を寄せている。
「……」
それに対し師匠は、振り下ろされる剣を迎えるように左手を上方に持ち上げた。
緩やかに開いた左手の甲を騎士剣の腹に沿わせると、そのまま円を描くように左手を動かし、真っ直ぐ振り下ろされる一撃を、いとも簡単に往なしてしまった。
往なされた騎士剣は、篭められた勢いそのままに地面に叩き付けられる。
ガキィン、と耳障りな金属音が鳴り響き、修一は悔しそうに顔を顰めた。
――くっそ……!!
空手道の回し受けか。いや、おそらくもっと別の技術だ。
これほど簡単に躱されると、修一としても忸怩たる思いを抱かざるを得ないのだが、それを嘆いていても意味はないのだ。
「うりゃああっ!!」
だから修一は、地面に剣先を当てたまま身体を右回転させる。
存分に遠心力を乗せ加力した銀線が、師匠の膝下目掛けて振るわれた。
師匠の両手が届かない高さであれば往なせず、足が張り付いたままでは躱せないだろう、という考えのもと振り抜かれた騎士剣は、――しかし無情にも、空を切った。
「……っ」
「なっ……!?」
何故なら師匠が、両足を力強く引っ張り上げ、張り付いた靴から足を抜いたからだ。
どう考えても、そんな一挙動で脱げるような靴ではないはずなのだが、師匠は当たり前のように脱いでみせた。
そして剣を振り切った姿勢のまま驚愕の色を浮かべる修一に、師匠は滞空したままの状態から、蹴りを放つ。
そんな状態でどうしてそれほど綺麗に蹴りを放てるのか、と益のない考えが浮かぶと同時に、今の体勢からでは避け切れないだろうと理解した修一は、せめてもの防御策として、お互いの間に氷の壁を作り出した。
咄嗟に作ったにしては、まだ、上等な部類に入る出来だと、刹那の時間で修一は思う。
「――――っ!!?」
……それが、役立つかどうかは別にして。
砕け散る氷ごと蹴り抜かれた修一は、分厚い氷の壁によって直撃は避けたものの、衝撃のままに吹き飛ばされ、空き地の外周を囲む壁に叩き付けられた。
優に、十メートル以上は飛んだだろうか。
壁の木材が割れ、半ば壁を突き破る形となってようやく止まった修一の肉体は、数回の地面との接触によって擦過傷だらけとなっている。
先程拭った鼻血が再度流れ出てきており、それも含めて全身からの出血が目立つ。
ひびの入った胸骨は今もズキズキと痛むし、壁に叩き付けられたせいで頭もくらくらする。
この世界に来てから今日までで、これほど多大なダメージを負ったのは初めての事である。
――白峰一刀流剣術奥義ノ四、
「…………霊、装填」
それでも修一にとっては、大したケガではない、と強がれる程度のケガだ。
痛いものは痛い、だが、それ以上に修一には大事なことがある。
弱音を吐くのは、戦いが終わってからでいい。
「……裸足で蹴ってしまったが、大丈夫そうだな」
師匠が少しだけ心配そうにして呟いた先では、全身傷だらけになった修一が、どうにかこうにか立ち上がろうとしている。
拳を握るのも、靴を脱ぐのも、同じことだ。
師匠にとっては、鞘に収めてある剣を引き抜くに等しい行為なのである。
そして、ようやく立ち上がった修一がゆるやかな動作で剣を振り上げたのをみて、師匠は力強く右拳を握り直した。
すでに、右腕の骨は完治しかけている。
折られてから、まだ十秒も経っていないのに。
「……白峰一刀流剣術」
修一は、全身の痛みを感じながらも、四肢や身体運用に必要な体幹の筋肉等が損傷していない事に、内心で安堵する。
まだ、全部出し切っていない。
だからこそ、まだ戦えることに安堵する。
ちょっぴり霞む視界の向こうに、右拳を引き絞るようにして構える師匠が見える。
こちらの意図を、察してくれたのだろうか。ありがたい。
なら、このまま、行かせて貰おう。
「――奥義ノ一、」
迎え撃つ師匠は、騎士剣の刃がほのかに青白く輝く理由も、修一が一体何をしようとしているのかも、分かっている。
霊装填は、武器や肉体に霊力を纏わせる技だ。
ほんの少しでも、威力を嵩上げしようといているのだ。
全力を尽くすという言葉に偽りはないのだろう。
それが、嬉しく思えるのだ、師匠は。
「――来い」
おそらく、先程のものとは段違いのものが来るだろう。
咆哮では打ち消せないようなものが。
牽制で使ったのとは比べ物にならないようなものが。
それに対するなら、拳しかない。
「飛っ――!」
裂帛の気合を込めて、修一が叫ぶ。
師匠が、右中段突きの構えのまま待ち受けた。
そして、来る。
「――せええぇぇえええんっ!!!」
「!!」
師匠をして、素晴らしい一撃だと思えた。
漲る感情を、全て剣に乗せて振り抜いている。
これだけのものを見せてもらえたのだ、このまま負けてもいいかも知れない。
刹那過ぎったその考えを、しかし師匠は否定する。
全力で来いというのだ。
ならば、望みどおりにしてやりたい。
「――ふんっ!!」
拳が、音を突き抜ける。
『喧嘩狂』と、『怪物』と、――『武神』とさえ呼ばれた人間の迷い無き一突きは、あらゆるモノを突き破るのだ。
それは当然、――目の前の一撃とて例外ではなかった。
「…………駄目、か」
剣を振り抜いたまま修一は、目の前の光景に対して、納得に似た感情を抱いた。
やっぱりか、と。
それはひとえに、勝ちへの確信を持てないまま剣を振った自分が、悪いのだ、と。
強い。
文句なしに。
ひょっとしたら、親父よりも。
「――じゃあ、仕方ないな」
ポツリと呟いた言葉は、まるで諦めにも似た響きを伴っている。
それが意味することなど、分かり切って――。
「おい、これで全部か?」
「――――」
師匠が、問う。
それは、「そうじゃないだろう?」という意味合いの問いであり、
「――もちろん、…………次で、最後だ!」
それに対する修一の答えは最初から決まっていた。
右手一本で剣の柄尻を握り、真っ直ぐ腕を伸ばす。
剣先は相手に向け、左手で、右手首を上から押さえる。
両足を極端に大きく開き、右足を前、左足を後方に引く。
剣の高さは目線の位置、目線の先は、相手の胴体。
正真正銘、最後の奥義。
――白峰一刀流剣術奥義ノ十、
「修羅血潮唯一」
◇
「……なんなんだ、この人たちは」
師匠に対して真っ直ぐに剣を向けた修一に、クリスが、呆然と呟く。
クリスは、――千鳥足蔓の時点で、この戦いの当事者二人が、恐ろしいほどの実力者であることを理解した。
修一に関しては、悔しくも一度負けているためまだ納得できる。が、師匠は、どう考えてもおかしい。
あんな動きが、人間に出来るものか。
明らかに、人類の限界を超えている。
勿論、それに喰らい付いている修一も化け物じみているが、そちらはまだ、理解の出来る強さだ。
喰らい付いている、そう、喰らい付いている、だ。善戦している、と言い換えたほうが正しいかもしれない。
クリスから見て、師匠と修一との戦力差は、それほどまでに見えるのだ。
そも、先程修一が使った『飛線』は、斬撃を飛ばす技であり、これに関しては、魔術というものが存在するこの世界では、そこまで珍しいものでもない。
メイビーの使う『ウインドカッター』然り、デザイアの使う『波濤』然り、似た技なら、いくらかある。
しかし、師匠は、そういったものとはまるで違うように思えてならない。
先程の飛線、あれほどの威力を持った技を、ただの拳で打ち払うなど、有り得ない。
実際に、自分の目で見ても、まだ信じられないのだ。
それを、相対して体感しているであろう修一は、それでも戦いを止めようとしていない。
どうしてそこまでして戦うのか。
クリスには、修一の事情など何一つ分からないし、知る由もないが、それにしたって理解に苦しむ。
「……」
チラリとメイビーに目を向ければ、彼女は腕を組んだまま、なんとも言えないような表情を浮かべている。
何を思っているのか、やはりクリスには判らない。ただ、戦いを見詰める青い瞳は、揺るぎなく修一たちに向けられていた。
海よりも深いその青は見ていると吸い込まれそうな錯覚を覚えるし、――その瞳で自分を見てほしい、と、不思議とそう思ってしまった。
「……シューイチさん」
「……っ」
呟かれた声に反応して、メイビーから目を逸らす。今、何を考えていたのか、これ以上考えるのが恐ろしく思えたクリスは、そちらを見る事で、それを、誤魔化した。
改めた視線の先ではノーラが、その美貌を苦しそうに歪めていた。
この場に現れたときから彼女は、あのような表情を浮かべていた。
こちらは分かりやすいな、とクリスは思う。
ノーラはこの戦い自体に、嫌悪感というか、忌避感というか、何と現すのかは詳しく判らないが、とにかく良い感情を抱いていない。
にも関わらず、こうしてじっと堪えるようにしているのは、この人が修一の事情を知っているからで、それを邪魔するつもりもないからなのだろう。たとえ内心はどうあれ。
ノーラのすぐ後ろで窺うようにして戦いを見ているレイは、どことなく興奮したような面持ちか。
純粋に、応援しているように見える。
タツキはずっとニコニコしているが、全く不安そうにしていない。
師匠の勝利を信じて疑わないのだ。
不意に、服の裾をギュッと握られる。
足下に目を向ければ、妹が震えながら自分にしがみついていた。
修一の全身を染める血の色に、ただひたすらに怯えているようだ。
「……アル」
「! ……はい」
震える妹の名を呼び、それから優しく頭を撫でる。
これほど震えて可哀想に、と思うとともに、やっぱりアイツは気に喰わない、とも思う。
妹を泣かせる奴は、誰であろうとクリスの敵だからだ。
そうして、そんな気に喰わないアイツこと修一に視線を戻してみれば。
「……?」
ほんの数秒目を離しただけだったが、修一の体勢が変化していた。
伸ばした右腕を胴体ごと、左手で下向きに引っ張っている、というべきか。
立位体前屈のように、じわりじわりと身体を折っていく。
弓を引き絞っているようだ。
というのが、クリスの率直な感想だ。
突き出した剣が番えられた矢で、胴体が弓、伸ばした右腕は弦であり、それを引く左手は、宛ら狙いを定めているかのように繊細に動いている。
師匠までそれを見守っているのは、まあ、いいとして、あの体勢からどうやって攻撃するのか。クリスとしても、興味は、ある。
やがて、引けるところまで引き切ったのか、修一の動きが止まった。
師匠は、一番最初と同じように両手を突き出した構えで修一の挙動を見据えていた。
数瞬、誰もが息を呑み、次の動きを待つ。
これで最後だと、修一は言った。
ならば、この技は、それに相応しいだけの――、
と、そこで、
修一の身体が、消えた。
それは、まだ、いい。
だが、待ち受けていたはずの師匠の身体も、同じように消失し、
「!!」
「――」
――次の瞬間、決着した。
◇
カブたちは、主人に教えてもらった無闇矢鱈と多い師匠の通り名を聞いてからというもの、あれこれと中身のない話をしていた。
通り名、若しくは二つ名が付くのは、良くも悪くも有名になったからである場合が多い。
若い彼らは、自分たちが有名になったら一体どのような二つ名が付くだろうと、皮算用にもならない話で盛り上がっていたわけだ。
そんな中、ふと疑問が沸いてくる。
「そういえば、主人」
「なんだ?」
そうした若人たちの馬鹿話を一緒になって聞いていた宿の主人は、カブからの質問に気負いなく応じた。
「どうして、この部屋に来たとき、恐る恐る室内を見渡したのですか?」
「ああ? 何故って、そりゃあ、あの人の姿が見えなかったからだよ」
主人は、そう答える。なんでもない事のように。
「姿が見えない?」
「ああ、あの人の部屋はもぬけの殻だったし、下の食堂にも誰もいなかったから、ひょっとしたらヘレンに会いにここに来ているかもと思ってな」
「わたしに、ですか?」
「いや、一緒になって戻ってきたときにあの人を恐れている様子がなかったから、仲良くなったのかと思っていたんだが」
「それは……」
仲良く、はどうだろう。少しばかり会話した程度だから、まあ、よくて顔見知りくらいではないだろうか。
ヘレンがそう答えようとしたところで、テリムが、頬を強張らせ、口を開いた。
「――食堂に、誰もいなかった?」
「ん? ああ」
「……!」
テリムは表情に、はっきりと焦燥の色を浮かべた。
その様子に、続けてカブも思い至る。
「先生と先輩もいなかったのですか!?」
「先生?」
「黒髪の男と茶髪の女性です、俺たちと一緒に宿に来た」
「ああ……」
そこまで言われて主人も誰のことが理解した。
「いなかったが、……って、まさか!」
慌ててテリムが立ち上がる。
「この近くに、広場などはありますか!?」
「すぐそこに小さな空き地が――」
――――ズズゥゥン!!
と、その時、どこからともなく聞こえてきた重低音が建物を揺らし、主人は言葉を途切れさせた。
小さい地震のような地鳴りに、全員、言葉を失う。
やがて、何かが折れ裂ける音が聞こえ始め、一番近くにいたカブが窓を開けると、少しばかり離れたところにある大木が、ゆっくりと傾いていっているのが見てとれた。
「…………」
大木が周囲の建物の陰に隠れていき、重い物が倒れる音が聞こえる。
しばらく誰もが一言も発せずにいる中で、真っ先に立ち直ったウールが呟いた。
「……どうやら、遅かったみたいだねえ」
それから、カブたち全員が立ち直り部屋を飛び出していくまでにもう少しの時間を要した。
◇
修一が実戦の場で奥義ノ十を使うのは、これで二度目だ。
この技は、手加減とか調節とかいう言葉とは対極に位置するものであるため、使い勝手の悪さは他の奥義と比べても群を抜いている。身体中の筋肉を総動員することで漸く使える奥義であって、そこに、相手を思いやる気持ちだの気遣いだのといった不純物は一切混ざりようがないのだ。ひたすらに、目の前の敵を打ち倒す事のみを追及した剣技であるとも言えた。
そもそも一度目があったこと自体が、修一にとっては後悔の種であった。もう二度と使うまい、とも思っていた。
ただ、今この場においては、他にもう、出来ることがない。
そして目の前にいる相手は、自分が全力を出しても尚、届くかどうか分からない相手だ。
だから修一は、遠慮なく使うことにした。
勝つために。
ただ、それだけのために!
「……!」
伸ばした右腕に目一杯力を込め、筋肉を硬直させる。
そしてそれを、同じように力ませた左手で、絞り上げるように引いていく。
両足は、前へ前へと逸るように地面を踏み付け、それが暴発しないように体幹の筋肉で抑え込む。
絞り上げた右腕とそれを抑える左腕、それぞれに内包された莫大なエネルギーを胴体の捩じれに乗せて両足に送る。
クリスは弓だと感じたが、もう少し正確に表すのなら。
巻き上げ用の滑車が付いた、豪張の機工弓だ。
今まさに修一の肉体は、全身の筋肉を固めることで一つの巨大なバネのようになっている。
それを、同等程度の力でもって引き絞り、捩じり、力を蓄え、そしてその均衡に限界が来たとき、修一の身体は――。
――……まだ、……まだ、……もっと、……もう少し、
全身の筋肉が、ミシミシと軋む。
拮抗した力を無理矢理篭め続けることで、肉体のリミッターを外すのだ。
無事で済むはずがなかった。
それでも、そうしなければならない。
それほどまでに修一は、この勝負に勝とうとしているのだ。
「――!」
――ここ、だ!!
やがて、修一の身体が止まる。
これ以上は、引けない。
引けば、どこかが切れてしまう。
修一は、チラリと師匠を見遣る。
先程と、変わらない位置にいる。
それだけ分かれば、十分だった。
篭めた力を全て、――解放する。
「!!」
瞬間、修一そのものが、一本の矢となる。
いや、矢よりも更に強力な、砲弾と表現する方が正確だろう。
「――」
砲弾は、射線上にいた師匠を巻き込み、一緒くたになって吹き飛んだ。
外から見れば、二人の姿が消えたように見えるだろう。
それほどの速度で、衝突したのだ。衝突して尚、それだけの速度を維持するほどの威力なのだ。
修一は、コンマ一秒にも満たない短い時間の中、確かに見た。
師匠の胴体のど真ん中に、騎士剣の切っ先が当たった。
絞った右腕を突き出すようにして発射するのだから、最先端に位置することになる剣先から当たるのは当然だ。
だが。
――っ!!
当たっただけで、刺さらないのだ。
衝突の余力で吹き飛ばされた師匠の身体に、剣が通らない。
おそらく、ギリギリのところで衝撃を殺されている。
僅かに、足りていないのだ。
それでも、修一は、そうなるだろうことも、予感していた。
だから、この方向に飛んだのだ。
師匠の後方には、この空き地に来たときに最初に目に付いた大木がある。
レイやタツキが木の実拾いで遊んでいた、あの木が。
自分が突っ込んだときのように、壁では突き破ってしまう。
しかし、あれほどの太さがあれば、衝撃を受け止めてくれる、はずだ。
そうすれば、きっと……!
「――ふむ」
「!」
不意に、声が聞こえた。
コンマ一秒に満たない時間であると言うのに、確かに師匠の呟きが聞こえたのだ。
その意味を考える暇など、勿論なく。
狙いどおりに、二人の身体は大木に衝突する。
剣先が生木を穿つ感触を感じ、同時に身体中に衝撃を受ける。
響き渡る衝突音を、衝撃に眩む修一の耳は拾い上げることが出来なかったが、さぞ盛大な音が鳴っただろうな、とは思う。
目もチカチカして、ぼんやり見えているのが地面だとしか分からない。
巻き込んだ師匠の身体を緩衝材にしなければ、幾らかの骨が折れたことだろう。
師匠、そうだ、師匠は。
「……」
少しずつ圧し折れていく大木に「申し訳ないな」とは思いつつも、修一はゆっくりと顔を上げる。
手元から、刃を伝って刺さった剣先まで視線を動かし、それから、
「――やるじゃないか、修一」
「……!」
――騎士剣を躱し、大木に背中を預けている師匠に、褒められた。
「……」
騎士剣は、師匠の脇腹を削りながら、コートの背中側を大木に縫い付けている。
おそらく、身を捻って剣先を逸らしたのだろう。
脇腹に滲む真っ赤な血が、師匠も紙一重だったことを窺わせた。
「……」
修一は、身体中の痛みを噛み殺しながら、ゆっくりと剣を引き抜く。
剣先が抜け切ると、それを契機にして、大木が完全に横倒しになった。
ズズン、とこれまた大きな音が鳴ったが、まあ、それはどうでも良い。
「……」
力を込め過ぎたせいで微妙に震える手で、修一は懐から手拭いを取り出し、サッ、と刃を拭う。
それから騎士剣を鞘に落とし込むと。
「…………マジ、かぁ……、」
……後方に、大の字になって倒れ込んだ。
「もう、終わりか?」
「もう、終わりだよ」
一際大きく、溜め息を吐く。
「これ以上は、無い。俺の――」
「――」
「…………負けだよ」
師匠は短く「そうか」とだけ返した。
それから。
「タツキ」
「はい、シシヨー!」
小さな弟子の名を呼んだ。
「帽子を持ってきてくれ」
「! はい!」
嬉しそうに駆け寄ってくるタツキ、その後方に立つ他の面々に対して目を向けた師匠は。
「――ワの、勝ちだ」
右拳を高々と突き上げ、そう勝ち名乗りをあげた。
白峰修一、この世界に来て、初めての、
――敗北、である。




