第5章 9
◇
一足先に宿に戻ることにしたゼーベンヌは、覇気のない足取りで黄色の鼠亭に向かっていた。
心の中がもやもやとしていて、今は何をするにも億劫に思う。
彼女にとって今日の探索は、自身の至らなさを眼前に突き付けられたにも等しい内容であった。
特に何か大きなミスをしたかといえばそういう訳ではなく、どちらかと言えば昨日よりも活躍したと言ってよい。
にも関わらず、ゼーベンヌの心中に浮かんでくるのは苦い感情ばかりなのだ。
その理由は、ゼーベンヌにも何となく分かっている。
物事が上手くいかない焦燥感だとか、あの時もっと別のやり方があったのではないかという後悔だとか、そういうものよりももっと大きな感情が、彼女の中にはあった。
それは、ゼーベンヌがエイジャの部下となって半年近く経った今初めて感じる気持ちでもあり、それをそうだと素直に認められるほどゼーベンヌは自身の感情を上手くコントロールすることが出来なかった。
端的に言い表せば、ゼーベンヌはエイジャに対して敗北感のようなものを感じていた。
いつもふざけてばかりいて諸先輩方から叱られているエイジャではあるが、彼の隊は彼を中心に一つにまとまっていて、隊員一人ひとりの士気も高い。休憩時間中にはしゃいだりしてはいるが、訓練は至って真面目に行っているのだ。
ゼーベンヌもエイジャに対して一定の敬意は払っていたし、隊長と副隊長という関係上一緒に活動したりすることも多かった(一緒に謝りに行く事も多かったが)のだから、彼が隊長として最低限必要な仕事をやっている事は知っていた。
だが、そこにある種の侮りがなかったかと聞かれれば、彼女の答えは「あった」になる。
当然といえば当然の事かもしれない。誰しも、普段の行いを見てその人物の人となりを判断するものだ。きちんと仕事をやっている者はその分評価されるものだし、遊んでばかりいる者が高い評価を得るというのは、そうはないことである。
あるいは何か大きな功績を残しているなどしていれば、エイジャに対するゼーベンヌの評価も違っていたのかもしれないが、彼は公的な記録に残るような大きな功績は揚げていなかった。
それに、普段は実務にほとんど参加しないという隊の活動状況もある。少なくとも、ゼーベンヌがエイジャの部下になってから実戦の場に出たのは、今回が初めてであった。もっと早くエイジャの実力を知る機会があれば良かったのかもしれないが、生憎この半年間はエイジャの隊が出張るような事件は起きておらず、結果としてゼーベンヌはエイジャの悪い面ばかりを見てその人となりを判断してしまったのである。
仕事は多少出来るかもしれないが遊んでばかりいるこの人が本当に隊長をしていて良いのだろうか、と。
それを、この数日間の任務によって少しずつ覆され、あげくに今日の探索では意気込んだ自分の方が隊長の足を引っ張ってしまっていた。エイジャの実力をまざまざと見せ付けられると同時に、そんな隊長の事を心の隅で嘲笑していた自分自身が情けなくなったのだ。
――何をやっているのかしらね私は。そうよ、ちょっと考えれば分かることじゃない。この国の騎士団が、実力のない者を上に置く訳がないんだから。曲がりなりにも五年以上この隊の隊長をしているあの人が、弱い訳ないじゃないの。
ははは、とゼーベンヌは心の中のもやもやを吐き出すように笑うが、それは彼女の心を慰める事にはならず、むしろ余計に自分が惨めに思えてきてならなかった。
そんな風にして、見るからに落胆した様子で歩いていたゼーベンヌであったが、宿の前までたどり着いたところで彼女の目の前に一人の女の子――レイが現れた。
「…………」
「あら、レイちゃん、……一体どうしたの?」
「…………」
問い掛けに答えず黙ったまま小さく俯くレイに、ゼーベンヌはレイを見つめながらなんと言うべきかしばし悩んだ。
ゼーベンヌの前に立つレイは、やはり昨日と同じ服を着ていたわけだが、昨日別れる前に使ってあげた軽洗浄魔術によってそれなりに綺麗になっていたため、少なくとも、昨日一昨日のような浮浪児然とした印象は見受けられなかった。髪だけは、髪質のせいかボサボサ髪のままであったが、それもまあ、この世界のトリートメント事情を考えれば仕方のない事であろう。
まあ、小さくても相手は女の子だ。可愛らしくなったわね、と一言誉めてあげようかとゼーベンヌは思う。ついでに頭でも撫でてあげようか、とも。
「…………ねえ、」
「なあに?」
しかし、そうこう考えていたところにレイの方から呼び掛けてきた。だからゼーベンヌは、レイの顔を正面から見つめるべくしゃがみこみ、今の自分に出来る精一杯の優しい声で返事を返した。例え、自身の惨めさに嫌気が差していたとしても、それは目の前の女の子には関係のない事である。それを表に出して、レイに不快な思いをさせるつもりはなかった。
なかったのだが――。
「…………かなしいの?」
「……えっ?」
レイが、悲しげな顔をしながら言ってきたその問いに、ゼーベンヌは言葉を詰まらせた。
「…………なきそうなの?」
「レ、レイちゃん、何を……?」
続けて問われ、なんとか言葉を返そうとするが、何を言えばいいのかゼーベンヌには分からなかった。今の彼女の頭の中では、様々な言葉が風に舞う木の葉のようにひらひらと飛び回り、そのどれをも、上手く掴み取ることができないのだ。
そして――。
「わたしにごはんをくれたから、おこられたの?」
「!!」
その問いは、一瞬にしてゼーベンヌを凍り付かせた。重い、果てしなく重い鈍器で頭を殴りつけられたような気がして、目の前が真っ暗になりそうになる。だが、ゼーベンヌはなんとか踏み止まった。
レイに、目の前の女の子に、――悲しそうな表情で言葉を放った自分よりも遥かに幼い少女に、それ以上言わせてはならなかったからだ。
「わたしのせいで――」
「それは違うわ!!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
驚くレイの肩を掴みゼーベンヌは、震えそうになる自分の声を隠そうともせず、真っ直ぐな視線を向けた。
「貴女のせいじゃ、ないわ。私が……、自分で……、」
「…………」
「自分で、……自分が、っ…………!」
鼻の奥がツンとして、知らぬ間に涙が滲んでくる。なのに口の中はカラカラに乾いて、のどは痙攣したみたいに上手く働いてくれない。胃の腑が落ちてしまいそうな感覚と、肺が潰れてしまったような息苦しさ。血が全く頭に行っていないのではないかと思えるほど鈍った思考で、それでもゼーベンヌは、言葉を詰まらせながらも、言うべき思いを言葉にする。
「私が、…………私が、悪いの。……私が、勝手に落ち込んでる、だけなの」
「…………」
「だから、……貴女が気にすることはないのよ」
ゼーベンヌは思う。今日の自分は、本当に愚か者だと。こんな小さな子どもに心配され、あまつさえその責任が自分にあるのではないかと不安にさせてしまったのだ。国を守る騎士団の人間としてこれほど恥ずべきことがあるだろうかと。一人の大人として、子供にこんな表情をさせて、いったい何をしているのかと。
自分の失態は、自分にのみ責任があるのだ。
それを他人に、ましてや子供に押し付けることになるなどという事が、許されるはずもない。
少なくともゼーベンヌはそうであると考えたし、社会通念に則った良識ある大人であれば、間違いなくそう考えるだろう。
「…………ほんとう?」
「ええ、本当よ」
そう言ってゼーベンヌは、レイの肩から手を離し、代わりにレイの頭を撫でてあげた。ギシギシと指に絡むような髪質でお世辞にも綺麗な髪とは言い難かったが、それでもゼーベンヌは、大切なモノを愛でるような手つきで頭を撫で続けた。
「だから、そんな悲しそうな顔しないで、笑っていてちょうだい。子供は笑顔が一番よ」
「…………」
「ね?」
「…………うん」
ぎこちなく頷いたレイに、ゼーベンヌは笑顔を向ける。空元気のような優しさではなく、心の底から湧き上がるような、ごく自然な笑顔だった。先ほどよりは心の余裕が出てきたみたいである。
レイはその様子に困惑したような顔をしたまま、大人しく頭を撫でられるに任せていた。
「貴女の両親は、必ず探し出すわ」
「!?」
ゼーベンヌの、宣言するようなはっきりとした口調とその内容に、レイは弾かれたように顔を上げた。
「本当は私たちは、ブリジスタ騎士団の人間なの。この村の失踪事件を調査するためにやって来たの。貴女のお父さんとお母さんもこの村でいなくなっているのだから、きっと、何か関係があるわ」
「…………」
「必ず、探し出す。だから……、笑ってちょうだい?」
レイはそのまま、ゼーベンヌに頭を撫でられたまま、ほんの僅かに笑ってみせた。
それは、ゼーベンヌの心のもやもやを吹き飛ばすに足る、素朴で、温かみのある素敵な笑顔だった。
◇
「おや、あそこにいるのはゼーちゃんじゃないかな?」
「ゼーちゃんって、エイジャと一緒にいた奴だよな? 先に帰ってたと思ったら、あんな宿の前で何してるんだ?」
修一たちがエイジャの案内によって黄色の鼠亭が見える位置まで来ると、目に入るのは宿の前でしゃがみこんで何かしているゼーベンヌであった。
「なんか、小さな子とお話ししてるみたいだね」
「本当だねえ、カリカリしてたかと思えば、存外落ち着いてるじゃないか」
「……あ、こっちに気付いた、みたいだよ」
ぞろぞろと大人数で移動していれば、気配がどうこう言う前に普通に気付く。立ち上がったゼーベンヌはこちらの姿を認めると、エイジャに向けて頭を下げた。エイジャはそれに軽く手を上げて返した。
「申し訳ありませんでした」
「いいよ、俺は全然気にしてないし。レイちゃんと何を話してたの?」
「他愛もないことですよ」
そう言うゼーベンヌが、先ほどまでの、何かを引き摺っているような後ろ向きな感情を振り払っていると分かると、エイジャは嬉しそうに微笑んだ。
「そう。まあ、良かったよ。いつものゼーちゃんくらいには戻ったみたいで」
「はい、ご迷惑をお掛けしました」
さて、エイジャとゼーベンヌが他の者には分からないやり取りをしている間、他の者の興味は当然のように目の前の存在に集まった。具体的に言えばレイにだ。
メイビーとウールあたりは話し掛けたくてウズウズしていたし、ノーラとかヘレンもそれなりに気になっているらしい。
カブやテリムは多少は気になりつつも、相手が小さな女の子であったため積極的に話しかけようとは思っていないようだ。
まあ、最近はそういった犯罪も多いらしいから、賢明な判断というべきなのではないだろうか。この世界でもそうなのかは知らないが。
そして、修一はといえば――。
「…………」
「? ……なにか用かよ?」
「っ…………」
何故か、レイにまじまじと見つめられていた。修一は不思議そうに訊ねるが、レイは返事をしてくれなかったため、首を傾げるばかりだ。
そしてすぐに、気にすることでもないか、と思い直した。見たところ、元の世界なら小学生になっているかどうかといった歳の子どもだ。何を考えているやら修一にはいまいち分からないし、そもそも小さな子どもは苦手である。マリーくらいならまだ会話ができるが、それより幼い子どもになれば意思の疎通が難しい子もいたりして、どうにも苦手意識を持ってしまっているのだ。
よって修一は、さっさと宿の中に入ることにした。
「エイジャ、ここが宿なんだよな?」
「ん、そうだよシューイチ君」
エイジャの返答に頷いた修一は、辛抱ならずレイに絡み始めたメイビーとウールを無視して、ノーラを呼ぶ。
「ノーラ、俺たちは先に入って部屋を取ろうぜ。カブ、お前らはどうするよ」
「ああ、俺たちもそうさせてもらうよ。おい、ウール、あとヘレンもだ、荷物を寄越せ、部屋に入れといてやるから」
「お、すまないねえ」
「……ありがと」
カブとテリムが荷物を受け取り、少しだけ名残惜しそうなノーラを連れて修一が宿に入ると、エイジャもその後に続く。レイは、ノーラ以外の女性陣に取り囲まれると逃げ場を失った小動物のようにおろおろし、それを見た皆は、可愛らしいモノを見たとばかりに相好を崩した。
宿に入った修一たちであるが、目に付くところに宿の主人は見当たらなかった。奥に引っ込んで何かしているのか、はたまた所用で出かけているのか。この宿は主人一人で経営しているらしいので、何かと忙しいのかもしれない。
カブが、厨房と思わしきところへ向けて大声で呼びかけると、返事が返ってきた。おそらく夕食の仕込みでもしていたのだろう。「少々お待ちくださーい」とのことであるので、手近にある食堂の椅子に座って待たせてもらうことにした。
と、ここで、エイジャから修一に誘いが入った。
「シューイチ君、ちょっといいかい。話したいことがあるんだけど、俺の部屋に来てもらっていいかな」
「うん? 分かった。ノーラ、ちょっと行って来るから部屋が決まったら教えてくれ」
「はい、分かりました」
宿の交渉をノーラに任せて、修一はエイジャに続いて二階に上がる。階段を上っていると、エイジャが「そういえば」と口を開く。
「レイちゃんが、やけにシューイチ君のことを見つめてたよね」
「ああ、そうだったな。なんでだろうな」
「一目惚れされたんじゃないの?」
「馬鹿言うな。そもそもそんな年齢じゃなかっただろうが」
そう言われ、エイジャは意地悪そうに笑う。
「いやいや、ませてる子なら結構有り得るよ? それに、君としてはどうなのさ」
「それこそ馬鹿言うなよ? あんな小さな子に惚れられても嬉しくもなんともない」
「そうかい?」
「そうだよ。……それに、俺のタイプは女性的な感じの人だ。性格的にも、体型的にもな」
「ふーん、それなら俺と似たようなもんだね。……あ、ここが俺の部屋だよ」
エイジャが扉を開け、室内に入り込む。質素というよりは古めかしいと呼ぶべき内装を見回しながら、修一はエイジャが座るテーブルの対面に座る。年代物の椅子が小さな音を鳴らして軋んだ。
「で、話ってのは」
「うん、俺らが実際に何をしてるのかって話」
「やっぱりか。ただ、聞いても手伝えねえぞ? 俺たちは首都を目指してるから、早けりゃ明日には村を出るからな」
「それでもいいよ。教える目的はどちらかといえば注意喚起みたいなものだし。デザ君あたりにも手伝ってもらおうと思ってるから、シューイチ君の手を煩わせるつもりもないね」
「……マジで何やってるんだよ?」
「実はね」
そうしてエイジャは、この村での一連の出来事について説明を行う。修一は黙ったままその話を聞き、エイジャの話が一通り終わったところで口を開いた。
「なるほどね、なかなか面倒臭そうだな」
「だよねえ」
「ただ、デザイアたちも数日はサーバスタウンで火事の後始末をするって言ってたぞ。本当に呼ぶつもりなのか?」
「まあ、その辺は明日村長に相談してからになるけど、たぶん来てくれると思うよ。
火事の後始末くらいなら警備隊に任せておけばいいことだし、そもそも終わったことよりも今現在問題になってることに人員と労力を投入するのは当たり前じゃないかな」
「んー、それもそうだな」
よくよく考えればデザイア自身も、火事の後始末より獣や魔物と戦ってる方がマシだ、と言っていたので、実際こっちに来そうではある。
「そういえば、その剣ってウチの騎士団で支給してる騎士剣だよね」
「おう、デザイアからもらった」
「ちょっと見せてくれないかな?」
「ほいよ」
修一が手渡してきた剣を受け取ったエイジャは、騎士剣に刻まれた紋章を見て僅かに目を見開いた。
「デザ君、本当に自分の剣を渡したんだね」
「ん、ああ」
「そうかそうか」
そう言って笑うエイジャを変な奴だなと思いつつ、修一は返してもらった剣を腰に差した。
その後もエイジャと適当な事を話していると、コンコンとノックの音が響いた。
エイジャが返事をするとドアを開けてテリムが顔を見せた。
「失礼します。部屋が決まったので先生に教えてくれと、先輩から頼まれました」
「おお、ありがとよ。って、ノーラは何してんだ?」
「部屋が決まるなり外に行きましたよ。まだ外でわいわいやってるみたいですね」
「マジか、あいつらいつまで遊んでんだよ。まあ分かった、部屋に案内してくれよ」
「はい」
エイジャの「先生?」という疑問に「なんかそう呼ばれてんだよ」と返した修一は、テリムに続いて部屋を出た。ただ何故か、エイジャも付いてきた。理由は「後で遊びに行くため」だとか。修一には意味がよく分からなかったが、特に拒みもしなかった。




