それぞれ願いのために
アヤロンの民の里に招かれたその日の晩、ジノーファはラグナの家で夕食を食べた。ラグナには妻が四人いて、子供も多い。大家族に混じっての食事は賑やかだった。
夕食を終えると、ジノーファたちはラグナに送られ、使わせてもらうことになった空き家に向かった。到着し、別れを告げて家の中へ入ろうとした時、ジノーファはラグナに呼び止められた。
「ジノーファ。その、なんだ、少し歩かないか」
何か話したいことがあるのだろう。そう思い、ジノーファは頷いた。他の三人には先に休んでいるようにいい、彼自身はラグナに連れられて夜道を歩く。二人とも明かりは持っていないが、月が出ているのでただ歩く分には十分だった。
ラグナは何も喋らず、のしのしと歩いた。ジノーファも話しかけることはせず、ただ彼の背中を追って歩く。ラグナが向かったのは、人気のない静かな水辺。風もなく穏やかな湖面には、明るい月がゆらゆらと揺れている。
しばらくの間、ラグナはやはり何も喋らなかった。虫の音と、波の音だけが静かに響く。それでも気まずさはない。ジノーファは時間がゆっくりと流れているのを感じた。ここが魔の森であることを考えれば、それは貴重な時間だろう。やがてラグナがゆっくりと口を開いた。
「……ジノーファは、たしか今年で十八だったな」
「はい」
「十八か……。若いな」
ラグナは呟くようにそう言った。その口調に侮るようなものは感じない。むしろ自分にもそういう頃があったと思い出しているようだった。
「……実はな、我輩には三人の兄がいた。一人は生まれて間もなく死んだと聞いている。そして我輩が十五のとき、長兄が死んだ。魔窟で主と戦ってな」
ラグナは月の揺れる湖面を眺めながらそう語った。いや彼が見ているのはきっと、死んでしまった兄の面影なのだ。ジノーファはそう感じた。
「長兄には妻と子供が一人ずついてな。次兄が引取った。だがその次兄も我輩が十八のときに死んだ。森へ狩りに行ったとき、魔獣にやられたそうだ。次兄にも妻と子供がいてな。長兄の妻子と合わせて、今度は我輩が引取った」
ラグナは淡々とした口調のまま、静かにそう語った。ということは、四人いた彼の妻の内、二人は兄嫁だったことになる。長兄や次兄の子供は年齢的に独立ちしているのかもしれないが、あるいは先ほど一緒に食事をした子供たちの中にも、ラグナの甥や姪が混じっていたのかもしれない。
「そうこうしている内に、我輩にも子供が生まれた。あれは二人目の子供であったか。男児であったのだが、我輩ではなく嫁に似たのか、小柄な子でな。だが頭のよい、聡明な子であった」
懐かしむように、ラグナはそう語る。ジノーファは何も言わずに彼の話を聞いた。ただこれまでの話の流れからして、その子も恐らくは……。
「あれはあの子が六歳のときであったか。魔獣がここまでやって来てな。逃げ遅れて、喰われて死んだ。骸は、半分しか弔ってやることができなかった」
それを聞いて、ジノーファは胸が締め付けられる思いがした。この世界で命は安い。それは知っている。歴史に名を残すこともない民草は、今日も大した事のない理由で命を落としているだろう。それも分かっている。
だがそれでも、もしも自分の子供がたった六歳までしか生きられなくて、しかも魔獣に食われて死ぬなんてことになったら。それを想像しただけで、ジノーファの胸は張り裂けそうだった。そして沈痛な顔をしている彼に気付くことなく、ラグナは月の浮かぶ湖面を眺めながらさらにこう語る。
「だが、この程度の話、ここではありふれている。誰もが親兄弟、子供を失っている。今までだけではない。この呪われた森で暮らす限り、この先もまた悲劇は我らのすぐ隣にあるのだろう。先ほどお主と一緒に食事をしたあの子供たちとて、一体何人、我輩より先に死んでしまうことか。いや、そもそも我輩もまた……」
「ラグナ。もう、いい」
何だかもう聞いていられなくなって、ジノーファはラグナの話を遮った。ラグナは振り返ると、口元に小さく苦笑を浮かべる。
「お主は優しいな。まあ、確かに長々と話すような話でもなし」
そう言って、ラグナはまた視線を湖面に向けた。その大きな背中が、今はひどく寂しげに見える。そして少しして、彼はぽつりとこう呟いた。
「……美しいな。だがこの美しさが、我輩はときどき恨めしくもなるのだ」
なんと応えればいいのか、ジノーファは分からなかった。だがそもそもラグナは返答を求めてはいなかったのだろう。多少すっきりとした顔で振り返ると、彼はジノーファの肩に手を置いた。
「戻るか」
「ラグナがそれでいいのなら」
ジノーファがそう言うと、ラグナは一瞬自虐的な笑みを浮かべた。だが暗がりの中であったし、彼もすぐに歩き始めたので、ジノーファがそれに気付くことはなかった。そして数歩歩くとラグナは足を止め、背中をジノーファに向けたままこう言った。
「つまらぬ話を聞かせた。忘れてくれ」
言うだけ言って、ラグナは返事も聞かずにまた歩き始めた。ジノーファも無言でその後を追う。その足どりはいつもと変わらない。
(誰もが何かを抱えている……)
歩きながら、ジノーファは心の中でそう呟いた。彼自身はもちろん、ダーマードやラグナも、そして恐らくはダンダリオンやジェラルドも。いや、ガーレルラーンもイスファードもユリーシャも。
ラグナはその抱えている何かを、自分に知って欲しかったのだろうか。ジノーファはふとそう考えた。そしてすぐに小さく首を振る。いや、違う。彼はたぶん、ただ話したかっただけなのだ。
ラグナは御印を持つ使徒だ。長老衆の中には入っていないようだが、それでもアヤロンの民を背負って立つ立場の人間だ。そう簡単に弱みは見せられない。悲劇だとしても、それがありふれているのならなおさらだろう。彼はむしろ、慰める側にならなければならないのだ。
だがどれだけありふれた悲劇なのだとしても。直面した時、悲嘆にくれてしまうのは、むしろ当然のことだろう。たとえそれを表に出さないとしても、悲しみが消えるわけでない。むしろ表に出せない分、積み重なっていく。
(わたしだからと考えるのは、傲慢かな……?)
相手を選ばなければ話せないこともあるだろう。同じ御印を持つ使徒だからこそ、弱みを見せるような話をしてくれた。そう考えるのは傲慢なのかもしれない。けれども先を行くラグナの背中は、今までよりずっと親しみやすく見えた。
さて、宿舎として使わせてもらう空き家まで帰ってくると、イゼルとノーラが天測を行っていた。二人で数値を付き合わせ、アヤロンの里の位置を割り出して地図に印をつける。ジノーファも見せてもらうと、そこは旧ヴァルハバン皇国のほぼ真ん中だった。そしてそれはつまり、ここが魔の森のど真ん中であることを意味している。
「予想はしていましたが……」
呻くようなノーラの言葉に、ジノーファは小さく頷いた。本当に、こんな場所でよく生き残ってきたものだ。悲劇を繰り返しながら、それでも逞しく。いや、逞しくなければ生き残れなかったのだろう。彼らはここで生きるしかなかったのだから。
今日、ジノーファたちがここへ来たことは、アヤロンの民にとって世紀の大事件であったに違いない。それぞれの家では、彼らのことが噂されているのだろうか。そう考えるとこそばゆい気もする。
ジノーファは空を見上げた。湖面に映っていた月もそうだが、夜空に浮かぶ星はどこで見ても同じだ。アンタルヤ人もロストク人もアヤロンの民も、みな同じ空の下で暮らしている。なんだかそれが、とても不思議なことのように思えた。
「……ノーラ」
「全てご随意に。ただ、報告はさせていただきますが」
ジノーファが名前を呼ぶと、ノーラははっきりとそう答えた。肝心なことはまだ何も言っていないのだが、いろいろと見透かされたような気がして、ジノーファは苦笑する。けれどもそのおかげで、最後の踏ん切りがついたような気がした。
□ ■ □ ■
ジノーファたちがアヤロンの里を訪れた、その次の日。ラグナとジノーファの間で本格的な話し合いが始まった。ただこの話し合いはそれほど長くはかからなかった。すでに昨日の段階で背景となる情報の共有は終わっている。あとはそれぞれが将来の展望を述べてすり合わせていくことになるわけだが、この点について、二人の考えていることはおおよそ一致していたのだ。
すなわち、アヤロンの民を魔の森から脱出させること。これが二人の一致した目的だった。ただ、その思惑は当然異なる。
ラグナが考えているのは、まず第一に同胞たるアヤロンの民のことだ。呪われたこの森での生活は死と隣り合わせ。この森を脱出し、モンスターが出現することのない、安住の地を手に入れること。それが彼の、いや彼らの悲願だった。
だがそれは当然のことながら、簡単なことではない。そもそも森から逃れられないからこそ、彼らはここで暮らしていたのだ。どこへ行けばいいのかも、そしてどうやって行けばいいのかも分からない。これでは動きようがなかった。
しかしそこへジノーファたちが森の外からやってきた。そのルートを使えば、森の外へ出られるのだ。森を出た先の様子も、大まかではあるが教えてもらえた。脱出のための条件は、かつてないほど揃ったと言っていい。
「まさに天与の好機である。これを逃すわけにはいかぬ」
ラグナはそう語り、ジノーファも頷いた。一方、ジノーファが考えているのは、魔の森の活性化によって大きな被害を受けているアンタルヤ王国のことだ。このままではアンタルヤ王国は魔の森にすり潰され、飲み込まれてしまうだろう。
祖国が亡国となるさまを座して見ているのは、ジノーファとしても心苦しいものがある。できる事があるならやりたいと思うが、一人でできることには限りがあるし、なにより彼は国外追放された身。表立って動くには差し障りがある。そこで目を付けたのがアヤロンの民だった。
魔の森全体を沈静化させることは、現時点ではほぼ不可能と言っていい。だがダンジョンを攻略すれば、そのダンジョンがスタンピードを起こすことは抑制できる。また時間をかければ、少なくともその周辺は沈静化させられる見込みがある。
ジノーファはその役をラグナらアヤロンの民に負わせるつもりだった。彼らを森の外へ移住させ、ジノーファたちが使った入り口からダンジョンを攻略させるのだ。これによってスタンピードを抑制し、防衛線の負担を軽くする。それがジノーファの思惑だった。
「この森と縁が切れるわけじゃない。特にダンジョン、魔窟の攻略とそれに危険はこれまでどおりだ。移住先の立地によっては、もろもろ手間が増える可能性もある。
だが魔石やドロップアイテムを得て、それを生活の糧にしているのは今も同じはず。そういう意味では、生活の変化は最小限で済む。何より移住先で手っ取り早く稼ぐ方法があるのは、大きなメリットのはずだ」
「うむ。場所が変わっても、変わらず腹は減るのだからな」
「それからもう一つ。ネヴィーシェル辺境伯領に移住した後は、税を納める必要がある」
「税、とはなんだ?」
首をかしげるラグナに、ジノーファは税について説明した。要するに辺境伯へ毎年、何かしら価値のある物を支払わなければならないのだという事を理解し、ラグナもさすがに顔をしかめた。
「うぅむ……。面妖な……」
「税の支払いが、アヤロンの民にとって新しい負担になるのは、申し訳ないが間違いない。だが辺境伯にも利がなければ……」
「我らの移住を受けいれてはくれぬ、というわけか……」
ラグナはそう言って難しい顔をしつつも、ジノーファの説明に理解を示した。ただジノーファとしては、そう重い税を負わされることはないだろうと思っている。辺境伯領の税率自体そう高いものではないし、彼らを圧迫しすぎてダンジョン攻略が滞れば元も子もないからだ。
税以外にも、問題はまだあった。最大の問題は、アヤロンの民を受け入れる権限が、そもそもジノーファにはないことである。どれだけアヤロンの民を森の外へ移住させたいと思っても、受け入れ先を調整できなければどうしようもない。そして今回の場合、その権限を持っているのはジノーファではなく、ネヴィーシェル辺境伯たるダーマードなのだ。
ただ権限は持っていないものの、ジノーファはダーマードへの伝手は持っている。そもそも今回の攻略自体、彼からの依頼だ。話をすることは確実にできるし、ダーマードが移住を受け入れてくれる公算も高いと思っている。
「そうですね……。収納魔法の使い手たちは戦力として魅力的です。ダーマード閣下も興味を示されるでしょう。なにより使徒、聖痕持ちであるラグナ殿がいます。ラグナ殿を迎えることができ、さらにダンジョンの攻略も担ってもらえるなら、閣下も前向きに検討なさると思います」
意見を求められ、イゼルはそう答えた。もちろん、彼女の立場で確定的なことは言えない。だがダーマードが活性化した魔の森への対処に苦慮しているのは事実だ。であるならその状況を打開するため、できることはなんだってするだろう。
恐らくはロストク帝国との連携さえ選択肢に入っているはず。そうであるならわずか数百人程度の移民を受け入れる程度、大した問題ではないはずだ。しかもその移民は歴とした戦力であり、ダンジョン攻略に伴い、そこから富を得ることも可能なのだから。
こうして、ラグナとジノーファの目的はおおよそ一致していることが確認された。ただ、これはあくまでも二人の間での話だ。ラグナはアヤロンの民を説得しなければならないし、ジノーファはダーマードを説得しなければならない。具体的な話はそれからだ。
「ラグナ、一つ頼みがある」
「奇遇であるな。我輩もジノーファに頼みたいことがあるのだ」
二人の頼み事は同じだった。信頼できるアヤロンの民を一人、ジノーファらに同行させる。それが彼らの頼み事だった。
ダーマードにしてみれば、いくらジノーファやイゼルの報告であっても、魔の森で数百人規模の人々が暮らしているという話は信じがたいだろう。だが証人となるアヤロンの民が同行して証言をしてくれれば、信憑性は大いに増すし、ジノーファも説得が容易になるに違いない。
ラグナにとっても、信頼できる同胞を同行させることには意味がある。呪われた森からの脱出は、アヤロンの民にとってまさに命運をかけた一大事業。その肝となる受け入れ先との話し合いを、人任せにするなど考えられない。ジノーファのことは信用しているが、それとこれとは話が別である。
アヤロンの民の不利益にならぬよう、しっかりと話し合いを見届け、さらに場合によっては自分達の利益を主張しなければならない。特に、税に関わる部分を人任せにはできぬ。ラグナはここを動けないから、信頼できる人物を同行させる必要があった。
そこでラグナが紹介したのが、シグムントという男だった。ラグナと比べると小柄だが、ジノーファよりも背が高いし、身体つきもしっかりとしている。ただ彼は少々疲れた顔をしていた。
「ジノーファ、我輩の弟でシグムントだ。腕も立つし頭も切れる。こいつを連れて行け!」
そう言ってラグナは笑いながらシグムントの背中をバシバシと叩いた。それが痛いのか、シグムントは嫌そうな顔をする。そして兄に非難するような顔を向け、彼に堪えた様子がないのを見てため息を吐き、それからジノーファに向き直った。
「シグムントだ。あんたと一緒に行けと、兄者に言われた。まあ、よろしく頼む」
「ええ。こちらこそよろしくお願いします」
「がはは! こやつにそんな畏まる必要はないぞ、ジノーファ。顎で使ってやるが良い!」
そう言って笑う兄にシグムントはまた非難がましい目を向けた。しかしやはり、ラグナに気にした様子はない。きっと彼は幼少のころから、豪快で大雑把な兄に振りまわれてきたのだろう。
ちなみにこの後、ジノーファはシグムントがほとんど何の説明も受けていないことを知り、呆れると同時に心底彼に同情することになるのだが、それはまた別の話である。
ユスフ「おお、背中に見事なモミジが」
シグムント「兄者の馬鹿力め……」




