泣きそうなほど……
ジノーファを総司令官としてアンタルヤ王国に侵攻し、南下して貿易港を確保する。そして切り取った新たな領地は、ジノーファを総督として彼に任せる。ダンダリオンは自らの計画をそのように語った。
「どうだ、なかなか心躍る計画であろう?」
ダンダリオンは得意げにそう言って、まるで悪戯小僧のような笑みを浮かべた。しかしジノーファはそれどころではない。頭のなかでは色々な考えがぐるぐると回っていて、軽い混乱状態だった。
聞きたいことはたくさんあるのに、その全てが一度に殺到して喉を詰まらせる。二度三度浅い息をしてから、結局彼はまずこう尋ねた。
「……一体、いつから……?」
「考えていたのかというのなら、お前がアンタルヤ王国の王太子ではなくなったときから、だな。ただ、これでいけると確信したのはつい最近、ネヴィーシェル辺境伯の書状の件を知ってからだ」
「……わたしがロストク帝国を選んだと確信された、ということですか?」
「先程、心残りを認めたではないか。まあ、夜逃げされる心配はなくなったと思ったがな。……それよりも余が注目したのは、アンタルヤ王国におけるお前の名声だ」
名声と言われて、ジノーファは本気で首をかしげた。その様子を見て、ダンダリオンは苦笑する。そしてこう説明してやった。
「本気で分かっておらぬようだな。アンタルヤ王国では最近、お前のことを懐かしむ声が、あちこちで囁かれているのだぞ?」
ダンダリオンの言っていることは本当のことだった。ただし、それは相対的な評価でもある。
順を追って説明すると、まず王太子イスファードが全国から物資等を徴発している。それに伴い民衆の生活は苦しくなっており、彼らはそれを「今の王太子のせいだ」と言う。そして「ジノーファ様が王太子だったころは良かったなぁ」という具合に、昔を懐かしんでいるのだ。それが「ジノーファ様が戻って来てくれたらいいのに」という、待望論に繋がるのである。
そしてネヴィーシェル辺境伯ダーマードのような大貴族でさえ、ジノーファの招聘を画策した。もちろん、民衆と貴族が同じことを考えているわけではないだろう。しかしアンタルヤ王国の中で、ジノーファの存在はかつてなく大きくなっている。ダンダリオンはそれを確信したのだ。
「そなたを旗頭に据えれば、アンタルヤの民衆は歓呼して我が軍を迎えるだろう。同様にそなたを新領地の総督とすれば、占領地の統治は安定する。少なくとも、他の者にやらせるよりはずっといいだろう」
つまり、ジノーファこそが最適任者。ダンダリオンはそう判断したのである。しかしながら今のところ、ジノーファは一介の帝国騎士でしかない。よってマリカーシェルと結婚させ、皇室の一員とすることで形式を整える。それがダンダリオンの思惑だった。
「……か、仮にわたしが遠征軍の総司令官になったとして、兵たちが、直轄軍の将兵がはたして納得するでしょうか?」
ジノーファはそう尋ねた。半ば苦し紛れの反論だが、実際それは懸念するべきことだろう。直轄軍は皇帝を最高司令官とする軍隊。ダンダリオンの命令であれば従うだろう。しかし感情が追いつかず納得できなければ、それは士気に関わる。士気が低くては、他国への遠征などおぼつかない。しかしその懸念を、ダンダリオンは笑い飛ばした。
「するさ。何のためにこの三年間、お前をあちこちへやったと思っている」
ダンダリオンの言うとおり、ジノーファはこの三年間、彼の客将として何度も仕事を頼まれ、帝国のあちこちへ足を伸ばした。その際、一緒に働くことが多かったのは直轄軍の将兵であり、そのおかげで顔見知りは多い。
さらに極めつけは、いま行われている魔の森での作戦だ。この作戦には、これまでに延べ一万五〇〇〇人以上が従事している。つまりそれだけの人数がジノーファと一緒に戦ったのだ。そして彼が魔の森に戻れば、この人数はさらに増えるだろう。
つまり直轄軍の将兵にとって、ジノーファはまったく見ず知らずの不審者ではないのだ。それどころか一緒に働き、そして戦い、彼の人となりについてはある程度知っている。そしてそれを又聞きした将兵も多いだろう。
実際、直轄軍の内部において、ジノーファの評判はすこぶる良い。これはダンダリオンが調べさせたことだから間違いない。そこへマリカーシェルの婿、ダンダリオンの義理の息子という立場が加わるのだ。ジノーファが遠征軍総司令官となることに、全員は無理かもしれないが、大部分は納得するだろう。
「シェリーのことも、総督ならば側室の一人や二人いてもおかしくはあるまい。生まれてくる子供にも、十分な教育を受けさせられるだろう」
ダンダリオンは最後にそう語った。それを聞いてジノーファは渋い顔をする。確かにダンダリオンの言うとおりではあるのだろう。しかし全てが唐突な話だ。頭も心も追いつかない。ジノーファは自分がまるで聞き分けのない子供のようになった気がした。それでつい、こんなことを言う。
「ガーレルラーン二世は、側室を持っていませんでしたよ……」
「側室はな。愛妾なら、何人か囲っておるかも知れぬぞ?」
からかうようにそう言われ、ジノーファはついに黙り込んだ。ちなみにガーレルラーン二世が側室を持っていないのは、国内のパワーバランスに配慮した結果だ。貴族の力が強いアンタルヤ王国ならではの事情である。
まあそれはそれとして。ダンダリオンの話を聞いて、ジノーファは彼がこの計画を入念に準備してきたことを悟った。周囲からは飼い殺しなどと言われていたが、とんでもない。彼は外堀と内堀を同時進行で埋めながら、心血を注いで状況を整えていたのだ。今は話さなかった部分でも、色々と手を回しているに違いない。
それを今明かしたのは、「もはや逃がさぬ」という意味なのだろう。ジノーファはそう思った。しかしここへ来て、ダンダリオンは思っても見なかったことを彼に告げた。
「もしお前がこのまま心残りを押し殺し、敷かれた石畳の上を歩くというのなら、余がお前に地位と栄誉をくれてやろう。だがそれを否と言うのなら……」
そう言ってダンダリオンは立ち上がった。そしてジノーファを見下ろし、その肩に手を置く。それからニヤリと笑みを浮かべ、こう言葉を続けた。
「あまり時間はないぞ。時勢とは、待ってはくれぬものだからな」
「……なぜ、……なぜ、そのようなことおっしゃるのですか?」
「さてな。あるいは見てみたいのかもしれん。お前が駒ではなく指し手になった時、世界がどう変わるのかを、な」
あのスタンピードのときのように、とダンダリオンはどこか懐かしむように呟いた。彼が言っているのは、ジノーファがまだアンタルヤ王国の王太子であったころに、殿軍を率いたあの戦いであろう。
「……あの戦いで、ガーレルラーン二世は間違いなくお前を死なせるつもりだった。だがお前は生き残り、世界を変えて見せた」
「……世界というのは、言いすぎでしょう」
「そうか? だが少なくともロストク帝国とアンタルヤ王国は影響を受けた。特にアンタルヤ王国は、予定を大きく狂わされたはずだ」
それはいわゆる待望論のことなのだろうか。ジノーファには判断が付かない。そんな彼にダンダリオンはさらにこう告げる。
「それだけ、お前の一手が痛快であったということだ。そして、そういう指し手を埋もれさせるのは少々惜しくもある。まあ、あくまで余の個人的な意見だがな」
ダンダリオンはそう言って東屋を後にした。残されたジノーファは、半ば呆然としてその背中を見送る。彼は座ったまま、しばらくそこから動けなかった。
□ ■ □ ■
ダンダリオンから彼の思惑と計画を告げられてから、しかしジノーファはそれまでと大きく変わらない日々を過ごしていた。自分で動く気があるならさっさと動けと言われはしたが、さりとてそうすぐに動けるわけではない。
なにより今は魔の森で作戦が行われている真っ最中。ジェラルドの客将であるジノーファは、休暇が終わればまた魔の森に戻る事になっている。それをすっぽかして、勝手に動くわけにはいかない。
また彼の周辺でも、大きな変化はない。マリカーシェルが「諦めません」と宣言し、ジノーファへの恋心を遠回しに告白したことも、噂にはなっていない。あの場にはメイドたちもいたのだが、彼女達の口が堅いのか、ダンダリオンが上手く口止めしたのか、恐らくは後者であろう。なんにしろセンセーショナルな噂の渦中に放り込まれずに済み、ジノーファは安堵した。
ただ、あったことを無かったことにはできないし、勘の鋭い者もいる。そしてその一人はジノーファの傍にいた。シェリーである。彼女はお茶会から帰ってきたジノーファの様子がいつもと違うことに気付き、数日後、二人きりになったタイミングを見計ってこう尋ねた。
「ジノーファ様、その、どうかされたのですか? お茶会に行ってこられてから、顔色が優れないように思うのですが……」
「あ、いや、うん……。……その、ね……」
目を泳がせ、ジノーファはどう答えるべきか迷った。シェリーは何も言わず、彼が態度を決めるのを待つ。ジノーファと目が合うと、彼女は責めるのではなく、まるで安心させるように微笑んだ。
「実は……」
迷うこと、数十秒。ジノーファは心を決め、全てをシェリーに話した。マリカーシェルのことなど、話しにくいことはある。だがシェリーはかつて、自分が細作であることを自ら打ち明けてくれた。それと比べれば、少し気まずいくらい、大きな問題ではない。
「なるほど、そうだったのですね……」
ジノーファの話を聞くと、シェリーは動揺するでもなく、むしろ納得したような表情を浮かべた。顔色と言うのなら、むしろジノーファの方が悪い。彼は悄然とした様子でシェリーにこう謝った。
「すまない。本当はもっと早く話すべきだったんだろうけど……」
「いいえ、ジノーファ様。話してくださって、ありがとうございます」
そう言って、シェリーはおもむろにジノーファの頭を胸に抱いた。ジノーファは少し驚いていたが、しかし抵抗はせず、されるがままに任せる。シェリーの温もりと甘い香りが心地よくて、彼は目を瞑った。
「うふふ、こうして抱きしめて差し上げるのも、久しぶりです」
ジノーファの頭を撫でながら、シェリーは楽しげに笑う。確かに背丈が逆転してからは、ジノーファがシェリーを腕の中に抱くことがほとんどだ。そのせいかこうしていると、ジノーファは昔に戻ったような気がした。そして腕の中の彼に、シェリーはこう語りかける。
「ジノーファ様の心残りを、教えてくださいませんか?」
シェリーがそう頼むと、彼女の腕の中でジノーファが少し身体を硬くした。シェリーはもちろんそのことに気付いたが、ただじっと彼が話してくれるのを待つ。ジノーファは身体の力を抜くと、少し躊躇いがちにこう話し始めた。
「……アンタルヤ王国に、わたしの居場所がないことは分かっている」
「はい」
「……出生の秘密も、どうしても知りたいというわけじゃない」
「はい」
「……それでも、ダーマードから書状を貰って、必要とされていると感じたとき、嬉しかったんだ」
それはまるで、荒野に水が湧き出したかのようだった。ジノーファは感情を抑えるために努めて表情を消し、それでも堪え切れなくて唇を噛んだのだ。
「アンタルヤ王国へお戻りになられたいのですか?」
「どうだろう……。でも何かしなきゃいけないと……、何かしたいと思うんだ」
「何を、ですか?」
「……わからない」
ジノーファは自嘲気味にそう答えた。何かしたいと、何かしなければとさえ思う。特に魔の森が活性化したと聞いてからは、その想いは強い。しかし何をすればいいのか分からない。それで結局、言われるままに魔の森で戦っている。そしてこのまま行けば、言われるまま総督になるのだろう。ジノーファは自分の未来をそう予想した。
苦悩するジノーファの頭を、シェリーは痛ましげな顔をしながら優しく撫でる。ジノーファの代わりに答えを出すことは、彼女にはできない。せめて少しでも癒してあげられるようにと、シェリーは彼を抱きしめてその灰色の髪の毛に頬を寄せた。
(きっと……)
きっと答えを出すには、彼は幼すぎたのだ。シェリーはそう思う。今のジノーファのことではない。祖国を追放されたあの時。まだ十五歳にもなっていなかったジノーファは、今の彼が抱える苦悩に答えるだけの何かを、まだ与えられていなかったのではないか。シェリーにはそう思えてならなかった。
「……ジノーファ様。ジノーファ様は、以前にこう仰いましたね。『わたしは空っぽだ』と。その時、わたしが何とお応えしたか、覚えていらっしゃいますか?」
「ああ。『大切なものを蓄えている最中なのです』だったかな」
「はい。ですからもう少し、それを続けてみませんか?」
シェリーは優しげな声でそう言った。それは結局、問題の先送りだ。しかし苦悩に答えるだけのモノを持っていないのなら、まずはそれを蓄えるところから始めなければならない。それがきっと、生きるということなのだ。
「けれど、時間が……」
「良いではありませんか。総督になったからと言って、他に何もできなくなるわけではないのですから」
シェリーはあっけらかんとそう言った。確かに彼女の言うとおりではある。それどころか総督になることで、できる事も増えるだろう。しかしジノーファは彼女ほど楽観的にはなれなかった。
総督になると言うことは、マリカーシェルを正室に迎えるということだ。そしてシェリーは側室となる。今の時代、王侯貴族が側室を持つのは珍しくない。そういう意味では普通のことだ。だが、ジノーファはそれをまだ飲み込めてはいなかった。
「マリカーシェル殿下のことでしたら、わたしは少しも構いません」
しかしシェリーはそう話す。彼女はそもそも、ジノーファと結婚できるとは思っていなかったのだ。それで例え側室であっても、堂々とジノーファと一緒にいられるなら、彼女に不満はない。
「お心の一部をくだされば、わたしは十分に幸せです」
「全部あげるつもりだったのだけど……」
「ジノーファ様のお心は、わたしには大きすぎます」
例え追放されても、国を想い、民を想い、何かしたいと苦悩する。そんなジノーファの心は大きくて、シェリー一人ではきっと十分に助けられない。だからマリカーシェルがいてくれたほうがいいのだ。彼女はそう思っている。
「でももし、我儘を言っていいのでしたら……」
シェリーは言いよどんだ。言ってしまっていいのか、迷っている様子がジノーファにも伝わってくる。
ジノーファは身体を起こし、今度は逆にシェリーを腕の中に抱きしめた。その温かさに支えられるようにして、彼女はまた口を開く。そしてこう言った。
「マリカーシェル殿下をお迎えする、その日まででいいのです。その日まで、ジノーファ様を独り占めさせてくださいませ」
「もちろんだ……」
ジノーファは泣きそうな声でそう答えた。
シェリーの一言報告書「………………」
ダンダリオン「白紙のほうが雄弁とは、な」




