伝えたい事
その日、ジノーファは書庫で本を読んでいた。書庫と言っても、そう大したものではない。空き部屋の一つに本棚を並べ、窓際にソファとテーブルを配置した、ただそれだけの部屋である。
書庫の本棚に収められている本は、全てジノーファが自分で買ってきたものだ。彼は読書を趣味の一つにしている。それで街へ繰り出すと、よく本を買ってくるのだった。ある時など、収蔵家の遺品が売りに出されていたとかで、二〇〇冊近い本を一度に買ってきたこともある。
もちろん、宮殿の図書室とは比べるべくもない。それでも要するに書庫とは、ジノーファの趣味の部屋である。使用人たちもそれを弁えていて、彼がそこで本を読んでいるときには、呼ばれない限りはあまり近づかない。それでジノーファはふと視線を上げたとき、シェリーが静かに佇んでいるのを見て、少しだけ驚いた。
シェリーの背格好や目鼻立ちは、初めて出会ったときからほとんど変わっていない。白く透きとおる肌も、濡羽色の艶やかな髪も、そして優しげな風貌も、あのころのままだ。いやむしろ、その美しさは磨きがかかっているようにさえ見える。
なによりも、ずいぶんと雰囲気が変わった。彼女がいると、ただそれだけで空気が和らぎ、安心できるのだ。今でも時おり子供のような稚気を見せるが、言ってみればそれは信頼の証。楽しげに笑うシェリーの姿を見るたびに、ジノーファは満たされた気持ちになれるのだった。
そんな彼女が、今は少し緊張した面持ちで立ち尽くしている。彼女の強張った顔を見るのは久しぶりだな、とジノーファは益体もないことを考えた。
「どうかしたのか?」
ジノーファがそう問い掛けると、シェリーは戸惑ったように視線を彷徨わせた。事情がつかめずジノーファが小さく首をかしげると、シェリーは覚悟を決めたようで、強い決意を滲ませて真っ直ぐに彼の目を見る。そしてこう言った。
「実は、お伝えしたいことがあります」
「うん、何だい?」
ジノーファは読んでいた本を閉じてそう尋ねる。シェリーは少し躊躇ってから、意を決して彼にこう告げた。
「その、二ヶ月ほど、来てないんです。その、月のものが……」
「……! それ、は……!」
「はい。懐妊、したかと……」
シェリーがはにかんでそう告げると、ジノーファは立ち上がって彼女を優しく抱きしめた。シェリーも嬉しそうに彼の背中に手を回し、胸に顔をうずめて甘える。そんな彼女にジノーファはこう告げた。
「そう、か。うん、嬉しいよ」
「はい……! わたしも、嬉しいです」
目の端に涙を溜めて、シェリーはそう応える。ジノーファは一つ微笑むと、彼女を抱きしめたまま、ソファに座りなおす。シェリーは彼の膝の上でごそごそと動き、据わりのいい場所を見つけて落ち着くと、安心しきった様子でジノーファの胸元に身体を預けた。
まるで感慨に浸るように、二人は何も喋らない。けれどもそれは嫌な時間ではなくて、彼らは互いの温かい体温にゆっくりと浸る。ややあってから、ジノーファが口を開いてこんな事を尋ねた。
「男の子かな、それとも女の子かな?」
「まあ、ジノーファ様。気が早いですよ」
シェリーはそう言って、幸せそうにクスクスと笑った。ジノーファもつられて笑う。確かに、生まれてくる子供の性別は、生まれてくるまで分からない。そもそもジノーファはどちらでもいいのだ。元気に生まれてくれさえすればいい。彼はそう思った。
「それにしても、シェリーはしばらく攻略には加われないね」
「それは……、はい。申し訳ありませんが……」
すまなそうにするシェリーに、ジノーファは優しく首を振った。妊婦が攻略を行うのは危険すぎる。今はまだ目立たないが、これからお腹も大きくなってくるだろう。そうなれば動きも鈍るし、激しい戦闘が胎児にどんな悪影響を与えるかも分からない。社会通念上も、攻略は控えるべきだった。
余談になるが、この妊娠と出産のために、攻略を行う女性の数は、男性と比べて少ない傾向にある。そもそも志す人数からして少ないという面もあるが、妊娠を機に攻略から離れ、出産後も育児に追われ、あるいはブランクのために勘が戻らず、そのまま引退というケースが多いのだ。
ただその一方で攻略を行っている、あるいは行っていた女性は、結婚相手として人気がある。ある程度お金を持っていることも理由の一つだが、何より経験値を溜め込んでいるので健康で身体が丈夫なのだ。(もっとも、体の一部が欠損していることもよくあるが)
健康で身体が丈夫であれば、良く働いてくれるし、なにより出産時に命を落す危険性が低い。この時代、出産は命がけだ。無事に子供を産んでくれる、少なくともその可能性の高い嫁が喜ばれるのは、ある意味で当然と言える。
そしてこの特性に着目し、お金に余裕のある貴族や豪商たちは煌石(マナを吸収していない魔石)を買い集め、娘や妻に与えることさえしている。ある意味で命を金で買っているといえ、この世の格差の一つの象徴と言えるだろう。
もちろん、実際にダンジョンを攻略するわけではないから、彼女らは低いレベルで成長限界に達する。だがそもそも戦力として期待されているわけではない。それを咎める者はいなかった。
加えてマナの吸収が身体の健康に繋がるということで、病弱な体質を改善するためにも煌石は用いられている。また若々しさを保ち、美容にもよいということで、上流階級の女性たち、ともすれば男性たちも、こぞって煌石を求めていた。
国として、特に軍事的な観点から考えると、あまり褒められたことではない。ただそのために煌石の価格が跳ね上がり、それが攻略を行う者たちの収入と意欲を下支えしている面は確かにある。ダンジョンの攻略が行われなければ国としても困るので、消極的に黙認されているというのが現状だった。
まあそんなわけで。実のところジノーファは、シェリーの出産について、それほど心配していない。何しろ彼女はつい先日、成長限界に達したのだ。それも金に物言わせたわけではなく、自ら戦って経験値を得ている。深層にまで到達しており、そのレベルは歴戦の勇士に匹敵、いや凌駕さえするだろう。
それに、暮らしている屋敷にはヘレナやリーサもいる。子供を産む環境としては申し分ない。気をつけるべきは、無事にその日を迎えることだけ。それでジノーファはシェリーにこう言った。
「危ない事はしないで、元気な子を産んでほしい」
「はい。ジノーファ様」
そう応えたシェリーの頭を、ジノーファは優しく撫でる。それからもう一つ気になっていたことをこう尋ねた。
「そういえば、ダンダリオン陛下にはもう報告したのか?」
「いいえ、まだです。まずはジノーファ様にお報せしたくて……」
それを聞いて、ジノーファは胸がくすぐったくなった。頬が緩むのを止められない。なんだか身体がうずうずする。でも暴れるわけにもいかないので、シェリーの脇腹をくすぐると、彼女は笑いながら身をよじった。
「もう、やめてくださいませ」
そう言ってシェリーが抱きついてきたところで、ジノーファはくすぐる手を止めた。そして彼女の柔らかい身体をしっかりと抱きしめる。静かに彼女の背中を撫でながら、ジノーファはまた口を開いてこう言った。
「……シェリー。実はわたしも、ずっと言おうと思っていたことが、あるんだ」
「はい、なんでしょうか?」
身体を離し、ジノーファの顔を覗き込むようにして、シェリーがそう尋ねる。そんな彼女に、ジノーファは少し逡巡してからこう告げた。
「結婚、して欲しい」
「……!」
ジノーファがその言葉を告げると、シェリーは大きく目を見開いた。どうやら思いがけないことであったらしい。
「そ、それは……」
「うん。ちゃんと、正式に、って意味。式も挙げようか」
それはカイブとリーサが結婚して以来、ジノーファが考えてきたことだった。これまでなんとなくタイミングがなかったが、しかし子供ができた以上、今まで通り主人とメイドというわけにはいくまい。
無論、これはジノーファにとっても大きな決断だ。決して捨てられないものを抱え込むことになる。少なくとも今までのように身軽ではいられない。生活の実情は変わらないとしても、間違いなく心構えは変わってくる。そして恐らくは周囲の環境も。
それでも、ジノーファはシェリーをこのまま、愛人や妾のようにはしておきたくなかった。それに子供のこともある。生まれてくるのが男の子であるにせよ女の子であるにせよ、彼は自分の子供を庶子にはしたくなかった。
「あ、あの、わたしは、細作で……」
シェリーはうろたえたようにそう呟いた。その受け答えが、ジノーファには少しおかしい。いつもは自信たっぷりに「メイドですから」と言うのに、こんな時ばかり細作であることを気にする。そんな彼女が、ジノーファは愛おしい。
「うん。分かってる。分かっているから、いいんだ」
ジノーファはそう応えた。シェリーは確かにダンダリオンの細作だ。専属メイドとして派遣されてきたその日に、彼女自身の口からそのことを聞いた。それを聞いて、ジノーファは怒るでもなく受け入れた。三年も前に受け入れたのだから、それはもう小さな問題なのだ。
「どう、だろう。受け入れてもらえるだろうか?」
ジノーファは少し恥ずかしそうにしながら、しかしシェリーの目を真っ直ぐに見て返事を求める。一方の彼女はまだ少し不安げな顔をしている。そして視線を彷徨わせながらこう応えた。
「えっと、その……。わ、わたしは、結婚とか、できるとか、思ってなくって……」
それがシェリーの正直な気持ちだった。彼女とてジノーファのことを愛しているし、そして愛されていると疑っていない。しかしそういう個人の感情とは別に、自分が細作でジノーファの監視役であることを、シェリーは自覚している。
一方でジノーファは、いつまでもこうして燻っている人物ではない。ダンダリオンも彼を気に入っていることだし、いずれは相応しい地位や身分が与えられるだろう。そしてその時には、相応しい妻もまた彼の傍らに立つに違いない。
何度も閨をともにした。子供を身篭りもした。そこまでは考えはしたし、想像もしていた。けれどもそこから先、つまり結婚できるとは考えていなかった。メイドとしてそばにいられれば十分。そう思っていたのだ。
だからジノーファのプロポーズは、シェリーにとって思いがけないことだった。考えたこともない、そして望んではいけないことだと思っていたのだ。けれどもここへきて彼女の心は揺れる。そこへジノーファがさらにこう尋ねた。
「嫌、かな?」
「……いいえ。いいえ、嫌ではありませんわ、ジノーファ様」
覚悟を決めて、シェリーはそう答えた。幸せになるために覚悟がいるというのもおかしな話だ。しかし彼女はまさにそういう心持ちだった。想像もしていなかった世界へ足を踏み込むのである。覚悟の一つくらい必要だ。
「そう、か。よかった」
安堵の息を吐きながら、ジノーファはそう呟いた。呟くと同時に、シェリーを抱きしめる。真っ赤になった顔を彼の胸に押し付けながら、シェリーは小さな声でこう言った。
「いいんでしょうか……、こんなに幸せで……」
「幸せでいてくれないと、困る」
ジノーファに優しい声でそう言われ、シェリーはとうとう耳まで真っ赤になった。その顔を見られたくなくて、いよいよ強くジノーファの胸に顔をうずめる。そんな彼女の背中を、ジノーファは落ち着いた手つきでゆっくりと摩った。
どうやら、彼の方はもういつもの調子に戻ったようだ。その落ち着いた態度が、今は少々憎たらしい。
(もう、ナマイキです……)
年下のクセに、とシェリーは胸のうちで負け惜しみを呟いた。
シェリーの顔が落ち着くのを待ってから、ジノーファは家令のヴィクトールを呼ぶ。そして彼にシェリーの懐妊を告げた。
「おめでとうございます、お二方」
「うん、ありがとう。それで、そういうわけだから、シェリーに割り振る仕事を考えてやってくれ」
「承知いたしました」
ヴィクトールが折り目正しく一礼する。そんな彼に一つ頷いてから、ジノーファはさらにこう告げた。
「それで、子供もできたことだし、シェリーとは正式に結婚することにした。そのつもりでいてくれ」
「それは……。いえ、畏まりました」
それからジノーファはヴィクトールを交えてシェリーと結婚式について相談する。ジノーファとシェリーは簡素なものでいいと言ったのだが、ヴィクトールが「それではお二人が軽く見られます」と言って懸念を示す。
結局、帝国騎士相応の式をあげることにしたのだが、そうすると今度は準備時間が足りない。しっかり準備しようと思うと、シェリーのお腹が大きくなってしまうのだ。それで、式は子供が生まれてから挙げることになった。
「焦ることでもない。しっかり準備して、思い出に残るような式にしよう」
「はい、ジノーファ様」
シェリーは嬉しそうにそう応える。しかしながら実のところ、ジノーファが式の準備に参加する事はほとんどなかった。主にダンダリオンのせいで。
□ ■ □ ■
「よし、でかした!」
シェリーからの報告書を読み、ダンダリオンは喝采を上げた。そこには「妊娠して、ジノーファと結婚する事になった」と書かれている。ようやくジノーファが、ここに根を下ろすことを決意したのだ。結婚まで話が進むのは正直予想していなかったが、より良い結果と言っていい。雇い主に事後報告なのは、まあいいだろう。
早速、ダンダリオンは侍従長を呼んだ。侍従長は「ジノーファを取り込むためには、女をあてがい子供をもうけさせればよい」と吹き込んだ張本人である。ダンダリオンは彼に事の次第を手短に説明した。
「それは良うございました」
「ああ。……それにしても、少し時間がかかった気がするがな」
「陛下が、ジノーファ殿をあちこちへやっていたからではありませんかな?」
「ふ、まあいい。それで侍従長、これからどうするべきと考える?」
「そうですなぁ。ジェラルド皇太子殿下が進めておられる例の作戦に、ジノーファ殿を加えてみてはいかがですかな?」
ダンダリオンの下問に対し、侍従長は淀みなくそう答えた。ダンダリオンは「ふむ」と呟いて、その献策を吟味する。ジノーファに地位や身分を与えるためには、相応の勲功が必要だ。これまで彼は客将として良く働いてくれたが、しかし皇太子ジェラルドの下で働くというのは初めてだ。皇帝と皇太子が認めたとなれば、よい箔付けになるだろう。
それに、ジノーファを取り込めたとして、年齢のことを考えるなら、彼はダンダリオンよりもむしろジェラルドのほうに長く仕えることになる。であるならば、ここで両者に繋がりを作っておくのは上策であろう。
加えて、ジノーファの力はジェラルドの作戦においても有用だ。その彼を作戦に加える事は、戦術的にも理にかなっている。それでダンダリオンは一つ頷くと口を開いてこう言った。
「よろしい。では、そうするとしよう」
シェリーの一言報告書「つまりこれは、できちゃった婚?」
ダンダリオン「それは予想外だった」




