舞踏会が始まるまでに 1
サブタイトル:全ては愛のために(笑)
人目に付かぬ木陰に、一組の男女がいた。逢引であろうか。しかし二人には逢瀬を楽しんでいるような、甘い雰囲気はない。それどころか女の方は美しいその瞳に涙を浮かべ、悲痛な面持ちをしている。そして男の胸に縋りつきながらこう言った。
「フレイミース様……。それでも、それでもわたくしは貴方様のことが好きなのです」
「分かっている。分かっている、シルフィ。わたしもだ。わたしも貴女を愛している」
そう言って男は女を抱きしめた。女は少し安心したのか、悲痛な表情を緩めてさらにこう言葉を続ける。
「わたくしはずっと、貴方様と結ばれるものと思っておりました。それなのに、こんな……。到底、納得できません」
「わたしも同じ気持ちだ、シルフィ。愛し合う二人が引き離されるなんて、間違っている。どうすればいいのか、二人で一緒に考えよう」
「はい……!」
男の言葉に、女は涙を拭って頷いた。これは愛ゆえの困難。二人はそう信じた。
□ ■ □ ■
晩餐会から三日後。オーギュスタン二世が言ったとおり、今度は舞踏会が開かれた。ランヴィーア王国とロストク帝国のさらなる友好を謳った式典だ。ただ実際のところは少々異なるのだろう、とジノーファは思っている。
「見栄、かな?」
ジノーファが小さくそう呟くと、隣に佇むシェリーも小さく頷いた。スタンピードへの対処はともかく、ダンジョン攻略ではランヴィーア軍はほとんどいいところがなかった。それをそのままロストク帝国本国へ報告されるのは面白くない。
いかに同盟関係にあるといえども、いや同盟関係にあるからこそ、弱みを見せることはできないのだ。それで、こうして晩餐会や舞踏会を開いて盛大に歓待し、国の体面を保とうとしているのではないか。ジノーファはそんなふうに考えた。
もっとも実際のところ、決して“盛大”というわけではなかった。招待客も王都フォルメトにいた者たちだけで、国中から主だった者たちを集めたというわけではない。要するに、準備の時間が足りなかったのだ。
「……ところで、シェリーはこの前と同じドレスで良かったの?」
ジノーファの言うとおり、シェリーは晩餐会のときと同じネイビーのドレスを着ていた。合わせているイヤリングも同じものだ。ただ、煌びやかな舞踏会の雰囲気に負けないよう、化粧だけは少し強く施していた。
「はい。あまりお手数をおかけするのもどうかと思いまして……。それにジノーファ様も同じ衣装ではありませんか」
シェリーの言葉にジノーファは苦笑する。彼女の言うとおり、ジノーファも晩餐会のときと同じ装いだった。舞踏会のためにまた衣装を選んではどうかと勧められはしたのだが、また着せ替え人形にされるのが目に見えていたので、「同じものでいい」と言って彼はそれを断ったのだ。
「ジノーファ様が同じものを着ておられるのに、わたしだけ図々しくドレスを替えることなどできませんわ」
「そう、か……。それなら、わたしも換えれば良かったな。そうしたら、また違うシェリーのドレス姿が見られたのに……」
「まあ……!」
ジノーファの残念そうな呟きを聞いて、シェリーの表情がパッと華やいだ。そしてニコニコしながらそっとジノーファの腕を取る。今はまだシェリーのほうが背が高いので少しバランスが悪いが、しかし本人たちに気にした様子はない。
(今日は、シェリーと一曲踊れるかな?)
腕にシェリーの体温を感じながら、ジノーファはそんなことを考える。舞踏会の会場にはすでに多くの人が集まっているが、まだダンスは始まっていない。舞踏会が正式に開会するのは、オーギュスタン二世とジョゼフィーネ王妃が姿を現してからなのだ。
ジノーファが舞踏会の開会を待っていると、にわかに会場の人々がざわついた。ジノーファが視線を向けると、そこには一組の男女がいる。どうやら今ほど会場入りしたらしい。美男と美女で、親密さをアピールするかのように互いの腰に手を回している。
(おや……?)
特に男の方の顔を見て、ジノーファは既視感を覚えた。誰かに似ている気がするのだ。そして彼の赤い髪を見てはたと気付く。そう、ダンダリオンやシュナイダーに似ているのだ。ということは、彼の正体は……。
「ジノーファ様。あの赤い髪の方が、フレイミース第三皇子殿下です」
シェリーがそっと、ジノーファの耳元でそう囁く。それを聞いて彼は小さく頷いた。思った通りである。フレイミースは現在ランヴィーア王国に留学中だから、この晩餐会に招待されていても不思議はない。
「では、パートナーの女性は?」
「……おそらく、シルフィエラ王女殿下かと」
それを聞いて、ジノーファは小さく眉をひそめた。フレイミースとシルフィエラが婚約したという話は聞いていない。それにも関わらず、二人の距離感はまるで婚約者同士のよう。あまり褒められたことではない。
あるいはこの場で二人の婚約を発表するのだろうか。ジノーファはそう思った。二人の婚姻はロストク帝国とランヴィーア王国の同盟関係の強化に資する。決してありえない話ではないだろう。
会場入りした二人の周りには、すぐに人だかりができた。彼らは他の招待客へにこやかに挨拶しているが、その顔には焦燥が滲んでいるように見える。そのことにジノーファが内心で首をかしげていると、不意にフレイミースと視線がぶつかった。
次の瞬間、フレイミースの目に激しい敵意が燃え上がる。それを見てジノーファはますます困惑した。彼とは間違いなく今日が初対面。あれほど激しい敵意を向けられる覚えはない。しかしジノーファの困惑を他所に、フレイミースはシルフィエラの腰を抱いたまま彼の方へ近づいてくる。そして挨拶もなしに、いきなりこう言い放った。
「ジノーファ卿、卿に決闘を申し込む! 卿にシルフィエラ姫は渡さない! わたしと姫は愛し合っているのだ!」
「フレイミース様……!」
「見ていてくれ、シルフィ。例え相手が聖痕持ちであろうとも、わたしは負けない!」
「はい、信じております……!」
そう言って二人は見つめあう。当事者に巻き込まれたはずのジノーファは、しかし完全に蚊帳の外だ。しかも彼にはこの寸劇に巻き込まれる心当りが全くない。そもそも、繰り返しになるが、この二人とは今日が初対面だ。
一体、なにがどうなっているのか。ジノーファはさっぱり展開についていけず、眉間にシワを寄せて小さく頭を抱えた。ただ、当事者に巻き込まれたからには、ずっとそうしているわけにもいかない。それで彼はまずこう尋ねた。
「……初めまして、フレイミース殿下。そしてシルフィエラ殿下。わたしはジノーファと申します。ダンダリオン陛下より、帝国騎士の身分をいただいております。ところで、お二人にお会いするのは今日が初めてだったと思うのですが、以前にどこかでお会いしていたでしょうか?」
「いや、間違いなく今日が初対面だ」
「ではなぜ、シルフィエラ殿下を『渡さない』などとおっしゃるのですか。どのような事情があるのでしょうか?」
「ジノーファ卿には、すまないと思っている。しかしこれはわたし達にとって必要なことなのだ!」
ダンダリオンに良く似たその端正な顔に苦悩を滲ませながら、フレイミースはジノーファにそう答えた。いや、本人は答えたつもりなのだろうが、しかしジノーファは相変わらずさっぱり事情がつかめない。
「いえ、ですからなぜ必要なのかを……」
「さあ、ジノーファ卿。決闘を受けてくれ! 卿に勝利し、自分がシルフィエラ姫に相応しいことを、わたしは証明する!」
ジノーファはいよいよ本格的に頭を抱えたくなった。情熱的なのは結構だが、話が通じない。完全に周りが見えなく、いや自分の言動に酔ってしまっている。これではもう、恐らく何を言っても無駄だ。
しかし事情も分からない中、決闘を受けるなど論外だ。フレイミースのことだけなら、ダンダリオンはそう大事にはしないだろう。しかしシルフィエラまで関わってくると、ことはロストク帝国とランヴィーア王国の同盟関係にまで及ぶかもしれぬ。加えてこの場にはランヴィーア貴族が多くいるのだ。下手な対応はできない。
逡巡は一瞬。ジノーファは力技でこの場をひっくり返すことにした。
「殿下、酔っておられるのですね。あちらに個室がございます。少し休みましょう」
「な、わたしは酔ってなど……!」
「いいえ、酔っておられます!」
力強く、ジノーファはそう断言した。酒に酔うか、自分に酔うか。この際大きな違いはあるまい。重要なのは、まずこの場での騒ぎをうやむやにし、その上でフレイミースを落ち着かせて事情を聞きだすことだ。
そのためにはまず、彼をここから連れ出す必要がある。ジノーファはフレイミースに近づくと、そのまま彼の腕をつかんだ。フレイミースは反射的にそれを振り払おうとするが、しかしジノーファはしっかりとつかんで放さない。それどころか聖痕持ちの膂力でつかまれているものだから、腕が痛くなってフレイミースはわずかに顔をしかめた。
その瞬間を見計らい、ジノーファはフレイミースの腕を引っ張った。そして少し背伸びしてフレイミースの耳元に顔を近づけ、小声で何事かを囁く。効果は覿面だった。
「なあッ……!?」
次の瞬間、フレイミースは顔を真っ赤にして仰け反った。しかしジノーファに腕をつかまれているので逃げられない。そして動揺して「な、な、なぜ……?」と喘ぐ彼に、ジノーファはにっこりと笑ってこう告げる。
「さあ殿下。あちらで少し休みましょう」
「あ、ああ……」
今度はフレイミースも大人しく従った。ジノーファは他の招待客たちに騒がしくしたことを詫び、彼の腕を引いてその場を後にする。途中、騒ぎを聞きつけたルドガーがやって来て、ジノーファとは反対側の腕をつかんでフレイミースを連行した。
「フレイミース様!」
「シルフィエラ殿下、国王陛下と王妃陛下がお呼びです」
あっという間に連れて行かれるフレイミースを見て、シルフィエラが声を上げる。しかし彼女が追いすがることはなかった。オーギュスタン二世とジョゼフィーネ王妃に命じられ、侍女が彼女を呼びに来たのだ。この二人に逆らうことなどできず、何度も振り返りながら、シルフィエラもまたその場を後にするのだった。
「……それで、フレイミース殿下。なぜこのようなことをされたのですか?」
個室に入ったところで、ルドガーがフレイミースにそう詰問する。室内にはもう一人ジノーファがいるが、彼はまずルドガーに任せて見守る構えだ。フレイミースも年上のルドガーのほうが、意地を張らずに話しやすいだろう。
ちなみに、シェリーとユスフの二人はこの場にはいない。ドアの前に陣取り、誰も中に入れないように言いつけてある。何かあれば彼女たちが声をかけてくれるはずなので、ルドガーとジノーファはまずはフレイミースのことに集中することにした。
「だ、だから、さっきも言ったであろう。わたしとシルフィエラ姫は愛し合っているのだ。それで……」
「お二人が愛し合っているのは分かりました。それがなぜ、ジノーファ殿との決闘に結びつくのですか?」
「……オーギュスタン陛下は、シルフィをジノーファ卿と婚約させるおつもりらしいんだ」
「……!」
それを聞いて、ルドガーとジノーファは揃って驚いた表情を浮かべた。そして同時に納得もする。それでフレイミースは「シルフィエラ姫は渡さない」と叫んでいたのだ。
「ジノーファ殿、これは……?」
「まったくの初耳です。わたしは何も聞いていない」
ジノーファは困惑しながらそう答えた。まったく、何がどうなっているのか、さっぱり分からない。ルドガーも同じように困惑を浮かべながら、フレイミースに重ねてこう尋ねた。
「殿下、その話は本当なのですか? その、こう言ってはなんですが、性質の悪い噂話にしか聞こえぬのですか……」
「そうであったらどんなに良いか……。しかしこれは本当の話だ。シルフィがジョゼフィーネ王妃から直接そう聞いたのだから」
フレイミースは力なく首を左右に振りながらそう答えた。そうであるならば、なるほど確かに信憑性はかなり高い。ジノーファは一瞬シルフィエラの狂言を疑ったが、いくらなんでもそんな事はしないだろう。
「オーギュスタン陛下は、今日の舞踏会で話を決めてしまうつもりであったらしい。陛下がシルフィとジノーファ卿の婚約を成立させてしまえば、わたしなどではもう口が出せない。それで、その前に、と思って……」
ルドガーとジノーファが揃って困惑し混乱している中、フレイミースはさらそう言葉を続けた。シルフィエラとの婚姻は、つまりジノーファをランヴィーア王家に抱き込むための方策だ。ではなんのためにジノーファを抱き込むのか。
それは聖痕持ちであるからだ、とフレイミースは考えた。炎帝ダンダリオン一世に比肩する唯一の武人。それこそが一介の帝国騎士でしかないジノーファが持つ、唯一無二の価値なのだから。
逆を言えば、その価値さえ認めさせれば、シルフィエラの相手はなにもジノーファでなくともいいはず。フレイミースはそう考えた。そして、だからこその決闘だった。
「決闘でジノーファ卿を破ることができれば、わたしもまた聖痕持ちに匹敵する武人であると証明することができる。そうすれば……」
「シルフィエラ王女殿下のお相手として申し分ない。血統のことも合わせて考えれば、むしろジノーファ殿以上の良縁。オーギュスタン陛下もそうお考えになるでしょうなぁ……」
ルドガーがそう言うと、フレイミースは小さく、だがはっきりと頷いた。それこそが彼の考えていたことだった。
「そういうわけだから、頼む。ジノーファ卿、男子一生の願いだ、決闘を受けてくれ! もちろん、手加減してくれなどと情けない事は言わない。本気の卿を、わたしは超えてみせる!」
そう言ってフレイミースはジノーファに頭を下げた。それを見て、彼は彼なりに必死で本気なのだと、ジノーファは思った。そしてその上で、身分も年も下のジノーファにこうして頭を下げられるのだから、フレイミースは本来まっすぐで気持ちのいい人物であるに違いない。それで、ジノーファはこう答えた。
「恐らくですが、もうその必要はないでしょう」
「は……? それは、どういう……?」
呆けたフレイミースの様子がおかしくて、ジノーファは小さく笑った。そしてそのまま、ルドガーの方へ視線を向ける。彼は渋い顔で腕組をしたまま、それでも小さく頷いてこう説明する。
「あれだけ多くの人々の面前で『愛し合っている』と宣言したのです。その上でシルフィエラ王女殿下とジノーファ殿の縁談を進めれば、オーギュスタン陛下は愛し合う二人の仲を引き裂いた冷血漢になってしまう。民衆の支持が離れるような真似は、オーギュスタン陛下もしたくはないでしょう」
愛し合う皇子さまと王女さまの仲を、理解のない強欲な父王が引き裂く。大衆演劇の演目になりそうな話だ。そのような醜聞、オーギュスタン二世もご免であろう。そしてさらにルドガーの説明は続く。
「その上、引き裂かれる片方はフレイミース殿下、同盟国たるロストク帝国の第三皇子です。この件が同盟に悪影響を与えるのは必至で、ともすれば同盟国が敵国になりかねません」
その過激な予測に、ジノーファとフレイミースはそれぞれ怪訝な顔を見せる。しかしルドガーは大真面目だった。ダンダリオンにしてみれば、息子を虚仮にされた挙句、お気に入りのジノーファを奪われるのだ。激怒して軍を催すぐらいのことはやりかねない。
「オーギュスタン陛下とランヴィーア王国が最も欲しているのは海です。そしてそのためには、ロストク帝国との同盟は欠かせない。同盟にヒビを入れるような真似は、決してしないでしょう。
むしろフレイミース殿下とシルフィエラ王女殿下が婚約されれば、それは同盟の強化に繋がります。オーギュスタン陛下が何のためにジノーファ殿を欲したのか、はっきりとしたことは分かりません。ですが、この段階でその話を進めるよりは、むしろお二人の仲を認めた方が利は大きい、とそう計算されるでしょうね」
ルドガーはそう言って説明を終えた。それを聞いてフレイミースは目を輝かせる。
「では……!」
「ええ。お二人が婚約される方向で話は進むでしょう」
ルドガーはそう応えた。ジノーファとシルフィエラの話が出る前であったことが幸いした格好だ。これがもし二人の話が出た後であったなら、シルフィエラは父王の意向に逆らう我儘姫と呼ばれ、フレイミースも他人の婚約に横槍を入れる色ボケ皇子扱いされたことだろう。二人の婚姻が成立したとしても、それは醜聞となり、笑い者とされたに違いない。
だが今なら、若さと愛のゆえに少しばかり性急に行動してしまったのだ、と微笑ましい美談にできる。そうせず、今からジノーファとの話を進めようとすれば、ルドガーの言うとおり同盟関係にヒビが入るだろう。国家として、どちらが傷が浅いかは明白だ。
フレイミースの後先考えない行動が、偶然ながらも良い結果に繋がったのだ。少なくとも彼にとっては。
「そうか、そうか……!」
満面の笑みを浮かべて、フレイミースは何度も頷いた。幸せそうな彼の様子に、ジノーファとルドガーは顔を見合わせて苦笑する。特にルドガーは憂鬱そうだ。ほとんど突発的に、そしてダンダリオンの許しもなくシルフィエラとの婚約を半ば決めてしまったのだ。本国に帰ってから彼がしなければならないであろう事後処理の煩雑さは想像に難くない。
だからそれは現実逃避であったのかもしれないし、あるいは意趣返しか憂さ晴らしであったのかもしれない。ルドガーはニヤリと意地悪く笑ってから、ジノーファにこう尋ねた。
「ところでジノーファ殿。先程は、殿下の耳元で何を囁かれたのだ?」
「ああ、アレはですね……」
「ジ、ジノーファ卿!? 後生だ、黙っていてくれ!」
「しかしですね、フレイミース殿下。ルドガー将軍は本国に帰ってから、この一件の後処理をしなければならないのですよ? その将軍になにか報いて差し上げようとは思われないのですか?」
ニヤニヤと笑いながら、ジノーファはそう応えた。彼もまた、楽しんでいる。二人から遊ばれていることに気付いているのかいないのか、フレイミースは必死な様子でこう言い募った。
「別の報い方があるだろう!? い、いや、ルドガーに必ず後で礼をする。だ、だからあのことは秘密に……!」
「おや、恩賞の代わりとなるような秘密なのですか? それほど重大な秘密であるなら、教えておいていただかねば、職務上、何か不都合をきたす恐れが……」
焦るフレイミースに、ルドガーは抜けぬけとそう告げる。フレイミースは震え上がった。
「ち、違う! 違うぞ、ルドガー! そんな大した秘密ではない!」
「そうですよ、フレイミース殿下。この程度の秘密、恩賞の代わりになどなりません」
「そ、そうであろう、ジノーファ卿」
「これはルドガー将軍に気持ちよく働いていただくための、いわば心づけです。もしそのお気持ちがあるのなら、お礼はこれとは別に、後できちんといたしませんと」
「もちろんだとも!」
「ご立派です、殿下。では心づけのほうを……」
「ま、待て! それとこれとは話が別だ!」
「ですが、ルドガー将軍の働き如何では、ダンダリオン陛下がシルフィエラ殿下とのご婚約をお許しにならない可能性も……」
「うぐ……、そ、それは……!?」
顔を真っ赤にして、フレイミースは言葉を失った。その隙を見逃さず、ジノーファは嬉々として彼の秘密を暴露する。
それは、数年前の話だ。帝都ガルガンドーの宮殿で、仮面舞踏会が催された。招待客はみな仮面をつけているので、その素性は分からない。そんな非日常の仮面舞踏会では、そこかしこで男が女を口説く様子が見られたという。
そこに、フレイミースもいた。彼はその頃、次兄のシュナイダーからいろいろと遊びを教えてもらっていて、この仮面舞踏会にもその延長のつもりで来ていた。さてどの女を口説いてやろうかと品定めしていた時、一人の貴婦人が彼の目に留まる。
フレイミースよりも十ほど年上だろうか。もちろん顔は仮面に隠れて分からないが、大人の女性の妖艶な色香が全身から立ち昇っている。決して扇情的なドレスではないと言うのに、彼女の魅力が内側から滲み出てくるかのようだった。
フレイミースは内心で舌なめずりすると、彼女を今宵の獲物に決めた。そして悠然と彼女に近づき、少々大げさに一礼してから、彼女を褒めそやす。彼女の機嫌が良くなり、「まあ」と小さく笑ったのを見計って、フレイミースはさらにこう口説いた。
『美しい方。どうすれば貴女の微笑を得られるのか、教えていただけませんか?』
『ではダンスを一曲踊っていただけませんこと、小さな貴公子様?』
そう言って彼女が差し出した手を、フレイミースは「喜んで」と言って取った。そして彼女をリードしてフロアの真ん中へと向かう。そこでは仮面を着けた男女が優雅にダンスを踊っており、二人はそこへ混じった。
彼女は、ダンスも上手だった。踊りにくさが全くない。ともすればフレイミースより上手いかも知れぬ。いや、実際この時、彼女の方がフレイミースをリードしていたのだが、彼はそれに気付かなかった。
この時フレイミースが気付いたのは、最初自分が思った以上にこの女性が高嶺の花であるということだ。自分の眼の確かさを喜びつつ、彼はこの花を手折ってやるぞと内心で闘志を燃やした。
やがてダンスが終わると、二人はフロアの中央から退いた。このときフレイミースはすっかり浮かされていて、彼の心は昂揚していた。そして彼女もまたそうに違いないと確信して振り返ったとき、そこにあったのは軽い失望を目に浮かべた彼女の姿だった。
『六十五点ね。上辺は合格としても、内面の軽薄さが所作の端々に現れているわ』
挙句に、この言われようである。フレイミースは激高した。
『ぶっ、無礼者! わたしを誰だと……!?』
『男も女も、この場では何者でもないわ。誰もがただ自分だけを頼りにする。ここで激高するのは、自分が薄っぺらであると白状するようなもの。……ねえ、そうでしょう、フレイミース?』
女は顔を近づけ、フレイミースの耳元で彼の名前を囁いた。その瞬間、激高していたフレイミースの顔から、いや全身から血の気が引く。この時ようやく、彼女の声に聞き覚えがあることに気付いたのだ。
『はは、うえ……?』
『あら、仮面の下は詮索しないのがこの場の作法。それを暴こうだなんて、そんな子に育てた覚えはなくってよ』
反射的にフレイミースは逃げ出そうとした。なんという女を口説いていたのか。よりにもよって自分の母親を口説いていたとは!
何もかもなかったことにして逃げ出したかったが、しかし彼女は、フレイミースの母親たるアーデルハイト皇后は彼の手をつかんで離さない。そして彼女はもう一度息子の耳元でこう囁く。
『明日からの教育は厳しくします。覚悟しておきなさい』
それだけ言い残し、アーデルハイト皇后は去っていった。その後すぐにフレイミースが逃げ帰ったのは言うまでもない。
さて、後日談だ。息子の素行不良を目の当りにして、アーデルハイト皇后はご立腹だった。しかしその一方で、まんざらでもない様子で、周りの者にこう語ったという。
『わたしもまだまだ捨てたものじゃないわね』と。
さらにアーデルハイト皇后はフレイミースに遊びを教えた下手人も看破していた。それで次男のほうにもこう釘を刺しておく。
『もう少しマシな口説き文句を教えてあげなさい』
後にシュナイダーは「俺にまで飛び火したんだぜ?」と愚痴ったものだ。ともあれ、これがフレイミースの最大の汚点の概要である。
「殺せ、殺してくれ……」
恥ずかしい秘密を暴露され、フレイミースは虫の息だった。笑いを堪えつつ、ルドガーはこんな感想を述べる。
「なるほど、シルフィエラ殿下には知られたくないわけだ」
マザコンだの、熟女趣味だの、さんざん言われかねない。ともすれば破談の危機だ。フレイミースは必死にこう頼んだ。
「頼む、絶対に秘密にしてくれ! 絶対だぞ!?」
ジノーファとルドガーは肩をすくめて頷くのだった。
シェリーの一言報告書「これが、若さゆえの過ち……!」
ダンダリオン「認めたくないものだな」




