エヴェレン子爵家の世子2
家を出ようと決めたメフライルがそのための行動を起こしたのは、彼が十五歳になる年のある日の事だった。その日、彼は叔父の執務室へ向かった。ちょうどお茶の時間だったらしく、部屋の中からは母の笑い声が聞こえる。彼は一瞬躊躇ったが、ちょうど良いと思い直してドアをノックした。
「メフライルです。叔父上、少しいいでしょうか」
「どうした、入りなさい」
許可を得て、メフライルは叔父の執務室に入った。するとお茶を飲んでいた母が彼のほうへ視線を向ける。そして楽しげに微笑みながら彼にこう話した。
「メフライル、ちょうどいいところに来てくれたわ。今、旦那様とまた家族でピクニックに行こうと話していたの。ほら、去年の秋に紅葉を見に行った、あの湖畔よ。今の季節なら、きっと新緑が綺麗だわ」
「それは良い考えですね。ぜひ楽しんできてください」
「メフライル? あなたは行かないの?」
母が小首をかしげてメフライルにそう尋ねる。彼は母には答えず、視線を叔父の方へ向けてこう話を切り出した。
「叔父上、折り入ってお願いがあります」
「聞こう。言ってみなさい」
「私は家督の相続権を放棄して家を出ようと思います。つきましては、叔父上の伝手で近衛軍のどなたかを紹介していただきたいのです」
「メフライル……、あなた、何を言っているの……? だってあなたはエヴェレン子爵家の世子ではありませんか」
困惑した表情を浮かべながら、母がメフライルにそう尋ねる。彼は母の方を振り向いてこう答えた。
「家督は、弟が継げばいいでしょう」
「いえ、ですから。なぜあなたが家を出るというような話になっているのですか?」
「私が家督の相続権を放棄して家を出れば、子爵家を継ぐのは弟です。……母上も、その方が良いのではありませんか?」
メフライルがそう答える。最後の一言は冷ややかに響いた。母はその言葉の意味するところを察すると顔を強張らせる。そして彼女は右手を振り上げた。
「メフライルッ!」
パンッ、とかわいた音が部屋の中に響いた。母は右手を振り抜いたままの姿勢で、目尻をつり上げて顔を赤くしている。興奮のせいか、呼吸も荒い。頬を打たれたメフライルは、しかしいささかも取り乱すことなく、そのまま母を見返した。
「……っ、好きになさいっ」
そう言い捨てて、母は叔父の執務室を出て行った。その背中を見送って一拍だけ瞑目すると、メフライルは改めて叔父と向かい合う。そして懐から一通の封筒を取り出し、それを叔父に差し出した。
「家督の相続権を放棄する旨を書面にしたためてきました。近衛軍への紹介状を書いてください」
メフライルが強い眼差しを叔父に向ける。叔父は数秒それを迎え撃ったが、やがて視線を逸らすとため息を吐き、封筒に手を伸ばしてこう言った。
「……ひとまず、これはわたしが預かっておこう。だが実際に家督をどうするかは、話し合いが必要だな」
「ですから、わたしは相続権を放棄すると……」
「お前がどう考えていようとも、お前は世子で、わたしは当主だ。ならば家督に関わることはわたしに相談してしかるべきではないか?」
ぐうの音も出ない正論に、メフライルは「分かりました」と答えるしかない。叔父はそれを見て一つ頷いてから、封筒を机の引き出しに片付ける。そして彼に「下がりなさい」と言われてメフライルは部屋を出た。
次の日の晩、家督についての話し合いが行われた。メフライルが叔父の部屋に行くと、そこには母の姿もあった。それを見て、メフライルは少し嫌そうな顔をした。彼はこの件について、母とはあまり話をしたくなかった。
さて肝心の話し合いだが、叔父はほとんど何も話さない。そしてメフライルも言葉少なめだ。大半は母が話している。いや、彼女がまくし立てているために、男二人は黙り込んでいると言った方が良いかもしれない。ともかく、彼女はメフライルに詰め寄りながらこう言った。
「メフライル、どうしてあなたが家を出て行く必要があるのですか。あなたは子爵家の長子で、亡き旦那様の血を引く唯一の男子で、だからこそ世子なのではありませんか。勉強も鍛錬も頑張っていると、先生方からは聞いています。あなたも子爵家を継ぐつもりで、これまで頑張ってきたのではないのですか?」
「…………」
「……まさか、御家騒動を警戒しているのですか? あり得ません。旦那様はそのような方ではありません。それはあなたも分かっているではありませんか。旦那様もわたしも、あなたが子爵家を継ぐ日を楽しみにしているのですよ。
あの子が身を立てる先が心配だというのなら、それこそ旦那様が紹介状を書いてくださいます。あなたが家を継ぎ、あの子が外からそれを支える。それが筋というものでしょう。それなのにどうして、あなたが家を出るという話になるのですか?」
「…………」
「何とか言ったらどうなのですか!」
「……わたしは家を出ます。家督は弟が継げばいい」
「またそれですか! ですからそう考える理由を言いなさいと言っているのです!」
「…………」
母が甲高い声で叫ぶが、メフライルは沈黙を貫いた。答える必要がないと思ったのではない。単純に答えたくなかったのだ。母が父よりも叔父を、自分よりも弟を愛しているように思えるからなどと、そんな理由は口が裂けても言いたくなかった。
話し合いは二ヶ月に及んだ。ただこのような調子であるから、話し合いはかみ合わずに平行線をたどった。その様子を見て、埒が明かないと思ったのだろう。ある晩、二人きりになったとき、叔父は母に紹介状を書いても良いと思っていることを伝えた。
「なにも世子から外そうというわけではない。ただ、メフライルも難しい年頃だ。一度外に出て、色々と見聞きしてくるのも良い経験になるだろう。それに近衛軍に伝手ができるのは、悪い話ではない」
「そう、ですね……。でもどうして、メフライルは、本当に……」
叔父の言葉に頷きならも、母は頭を抱えて嘆息する。どうしてメフライルがいきなり「自分は外に出る。家督は弟が継げばいい」などと言い出したのか、その理由が分からなくて彼女は困惑しきりだった。
可能性があるとすれば、やはり御家騒動を警戒してのことだろうか。だが「世子はメフライル」という点については叔父も納得している。母はそのことをよく知っているし、話し合いのなかでも何度となくメフライルに伝えている。
だがメフライルはかたくなに自分の考えを変えようとしない。自分たちの言うことが信じられないのだろうか。そう思うと母は悲しくなる。彼女はメフライルを愛していたし、そのことを伝えてきたつもりだ。弟が生まれてからもそれは変わらない。むしろ二人が仲の良い兄弟になれるよう、心を砕いてきた。
それが報われなかった、などと泣き言を言うつもりはない。そもそも報われるためにやっているのではないのだ。すべては子供たちを愛すればこそ。だからこそそこを疑われたかも知れないという事実に、彼女はショックを隠せなかった。
「親離れの時期、ということだろう。大丈夫だ。それに外に出て世間の波にもまれれば、メフライルは一回りも二回りも成長できる。そうしたら君の、わたし達の真意も理解してもらえるさ」
「はい、旦那様」
そう言って身体を寄せてきた母を抱きしめて、叔父は彼女を慰める。後日、叔父は近衛軍への紹介状を書き、それをメフライルに手渡した。そしてその際、彼はメフライルにこう言い添えた。
「お前はこのエヴェレン子爵家の世子だ。近衛軍ではそのことを肝に銘じて励みなさい」
メフライルはただ一礼してそれに答えた。紹介状を手に入れた翌日、彼は慌ただしく屋敷を後にした。「行っちゃヤダ!」と妹が泣いてメフライルを困らせたが、それでも彼の決意は変わらなかった。
(もうここへは戻らない)
メフライルは心の中でそう呟いた。彼はまだエヴェレン子爵家の世子である。だが彼はもうその立場は放棄したつもりで、そのためここへ戻ってくるつもりはなかった。いや、戻る場所もないと思っていた。彼は清々しさよりも、寄る辺のない寂しさを胸に子爵領を後にしたのだった。
さて、近衛軍と一言で言っても、部署や配属先は多岐にわたる。そんな中でメフライルの叔父が伝手を持っていたのは、彼の古巣である北方方面軍の兵站計画部だった。兵站に関わる仕事は数字に強いことが求められ、その点、子爵家の次期当主として教育を受けたメフライルは即戦力として採用された。
メフライルの事情は、すぐに同僚たちに知れ渡った。彼自身、特別隠すつもりもなく聞かれれば話したし、その際には「もう家に戻るつもりはない」とも言った。それを聞いた同僚たちは首をかしげて彼にこう尋ねた。
「だけど、お前はエヴェレン子爵家の世子なんだろう? なら、いずれは家に戻らなきゃいけないんじゃないのか?」
「今やったらあまりにも露骨だろ。時期を見て、弟が適当な歳になったら、すげ替えるんじゃないのか」
まるで他人事のように、メフライルはそう答えた。それを聞いて同僚たちは一応納得する。いかにもあり得そうな話だと思ったのだ。ただそうすると近い将来、エヴェレン子爵家には御家騒動が起こる可能性が高い。同僚たちはそう思い、この話を上司に伝えた。
話を聞いた上司は驚いた。昔の同僚であるメフライルの叔父が書いた紹介状には「エヴェレン子爵家の次期当主として厳しく鍛えてやって欲しい」と書かれていたからだ。だがメフライルの話が本当なら、確かに御家騒動が起こる可能性は高い。メフライル本人がそれを受け入れていようとも、家臣たちが反発すれば御家騒動は起こるのだ。
ましてメフライルが世子になった経緯には、先々代の当主の意向が深く関わっている。実際に御家騒動が起これば、その影響は大きいだろう。巡り巡って防衛線に出ることも、十分に考えられる。
そしてそれだけ大きな御家騒動を起こしてしまったら、その騒ぎはイスパルタ王ジノーファの耳にも入るだろう。彼は防衛線の維持と安定化に心を砕く王だ。「防衛線に悪影響が出るくらいなら、いっそ子爵家を潰せ」。そんな話になりかねない。
エヴェレン子爵家の現当主であるメフライルの叔父も、その辺りの事は弁えているだろう。その上で彼が自分の息子を当主にしたいと考えているのなら、その方法は恐らくただ一つ。メフライルの暗殺である。
メフライルが死ねば、次の世子を定めるというのは自然な流れだ。そしてエヴェレン子爵家には彼の他に男子は一人しかいない。つまり彼の弟、現当主の実子だ。こうなるとメフライルの暗殺は現実味を帯びてくる。
(そんな男ではなかったと思うのだが……)
昔の同僚のことを思い出して、メフライルの上司は内心でそう呟いた。だが全く無視を決め込むのも躊躇われる。少し悩んでから彼は自分の上司、北方方面軍司令官のハザエルに相談することにした。
メフライルの事情を知ると、ハザエルもエヴェレン子爵家に御家騒動が起こる可能性を認めた。またメフライルの態度が少々投げやりなのも気になる。実際に御家騒動が起こるかは別として、彼と現当主の関係は決して円滑ではないのだろう。ハザエルはそう思った。
「そう言うことなら、メフライルが北にいてはお互いにやりにくかろう」
ハザエルはそう思い、メフライルを王都クルシェヒルへ配置換えにした。普通、仕官一人のために司令官がわざわざ動くことなどありえない。とはいえ大した手間ではないし、これで双方が冷静になって御家騒動を回避できるのならやる意味はある。
ハザエルとしてはその程度に考えていたのだが、結果としてこのクルシェヒル行きがメフライルの人生を大きく変えることになった。クルシェヒルに配置換えとなった彼は、何の因果か第一王子ベルノルトの傍付きに抜擢されたのである。
「お前がメフライルか。うん、これからよろしく頼む」
「はっ。よろしくお願いいたします、殿下」
初めて会ったとき、ベルノルトは裏表のない快活な少年に見えた。実際、彼は気むずかしい性格ではなく、それで彼に仕えるのは苦痛ではなかった。
それどころか、傍で仕えて世話をやくうちに、年下の彼のことをメフライルはどこか弟のようにさえ感じていた。彼が弟妹たちにお兄ちゃん風吹かせている時などは、微笑ましくて緩む頬を引き締めるのが大変だったものだ。
さてメフライルはベルノルトの傍付きであるから、当然ながらダンジョン攻略も一緒に行った。パーティーを組むなら役割分担は重要で、ベルノルトがマッピングをするというので、メフライルは収納魔法を覚えた。
「これで殿下の傍付きを辞めても食っていけますね」
メフライルがそう言うと、ベルノルトが露骨に拗ねる。彼はそれがおかしかった。もちろん、クビになるまで辞めるつもりはない。だがわざわざそれを口にするつもりもなかった。
ダンジョン攻略そのものは至って順調だ。メフライルとベルノルト以外のメンバーは都合によって入れ替わるが、基本的に皆腕利きで連携も問題ない。問題を起こすような馬鹿は選考段階で弾かれている。
第一王子のパーティーなのだからそれも当然だ。それでメフライルからすると攻略が順調なのは当たり前で、むしろ安全マージンを取り過ぎのような気もした。
とはいえ常に腕利きを引き連れてダンジョンに潜っていたわけではない。時には二人だけでダンジョンに潜ることもした。当然ながら周囲は危険だと言ったが、ジノーファがそれを許した。
「息子を、ベルを頼むよ」
ジノーファはメフライルへ直々にそう声をかけた。ベルノルトのことなどどうでも良いと思っていた、わけでは決してない。むしろ息子を愛すればこそ、である。メフライルはそれを感じ取り、少しだけベルノルトのことをうらやましく思った。
ダンジョンの中は、外と比べて別世界と言って良い。その非現実感も手伝って、特に二人だけでダンジョンに潜った時には、ベルノルトもメフライルも外では話さないようなことも話した。
「わたしは、王にはなれない。そしていずれ王家を出る。だから早く、一人前になりたいよ」
「……どうなったら、殿下は一人前だと思うんですか?」
「分からない。だけど一人前になれれば、わたしはもう悩まなくていいんだと思う」
そう吐露するベルノルトの横顔はどこか苦しげだった。彼が王位継承権を持たないことは、メフライルも知っている。普段の彼は、そのことを気にした素振りは見せない。だが決して何も思っていないわけではないのだと、メフライルはその時知ったのだった。
「ライルはどうだったんだ? 家を出たとき、もう一人でやっていけると思っていたのか?」
「どうでしょう……。まあ、紹介状がありましたからね。まったくあてどもなく家を出たわけじゃなかったですし……。ただ……」
「ただ?」
「邪魔者扱いされるくらいなら、と……」
ぽろりと口をついて出たメフライルの言葉は、言うつもりのなかった言葉だった。言ってから「しまった」とも思ったが、同時に初めて誰かに話すことができて気が楽になったようにも思う。何より、ベルノルトが下手に同情せずに受け止めてくれたことが、彼にはありがたかった。
「わたしたちは似ているな」
ある時、ベルノルトはメフライルにそう言った。一方はすでに家を出ており、もう一方はいずれ家を出なければならない。そんな部分を似ていると言ったのだろうか。メフライルはただ「光栄です」とだけ返した。
ベルノルト「メフライルの叔父さんへの風評被害が……」




