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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
番外編 メフライル物語

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エヴェレン子爵家の世子1


 メフライルは父親のことをあまり良く覚えていない。彼が十歳にもならないころに、彼の父は死んでしまった。彼の記憶に残っている父はいつも忙しそうで、一緒に過ごした時間は少なく、思い出と呼べるものはほとんどない。


 メフライルの父が多忙であったのには、もちろん理由がある。エヴェレン伯爵家はイスパルタ朝、いやアンタルヤ王国の北部に領地を持つ貴族だったのだが、イスファードの謀反に加担したことにより、ジノーファによって領地を削られ爵位もまた子爵へと落とされていた。


 残された領地もまた、内乱(イスパルタ朝の歴史では北アンタルヤ王国の存在は認められていない)や防衛線維持のための負担によって窮乏し、荒廃一歩手前の状態になってしまっている。この難しい状況下でエヴェレン子爵家を継いだのがメフライルの父であり、彼のなすべき仕事は文字通り山ほどあった。


 あるいはその多忙が祟ったのかもしれない。前述した通り、メフライルが十歳にもならない頃、彼の父は病によって早世した。後に残されたのは、未だ立ち直ったとは言いがたい領地と女子供だけになった子爵家。家臣らが不安を覚えるのも無理からぬことであったろう。


 父が死んだとき、メフライルはあまり悲しくなかった。もともと接点が少なかったからだ。もしかしたら、死というものをまだ良く分かっていなかったのかも知れない。とはいえ母は泣いたし、妹は不安げで、周囲の重苦しい空気は彼を塞ぎ込ませるのに十分だった。


 不幸中の幸いというか、メフライルの父が死んだ時点ではまだ彼の祖父が、つまり前当主が健在だった。それで家臣たちは葬儀を理由にして隠居していた彼を引っ張りだし、当座の混乱を収めることにした。


「とはいえ、このままご隠居様を頼るわけにはいくまい」


 家臣たちはそう話し合った。前当主が隠居したのはジノーファの仕置きの一環である。一時的に引っ張り出すだけならばともかく、継続的に領地運営を行わせるとなると、王の不興を被るかも知れない。仮に王が容認したとしても、周囲の者たちが問題視するだろう。謀反に加担した北部の貴族たちを見る目は未だ厳しいのだ。


 しかしだからといって、十歳にもならないメフライルに領地運営の陣頭指揮を執るなどできるはずもない。このような場合、例えば家令が執務を代行することもあるが、多くの場合それは領地が安定していることが条件だ。エヴェレン子爵領はいまだその段階にはなかった。


 つまりエヴェレン子爵家は早急に新たな当主を、それも十分な能力のある当主を立てる必要があった。そして白羽の矢が立てられたのが、当時近衛軍の兵站計画部にいた当主の弟、つまりメフライルの叔父だった。


 メフライルの叔父が近衛軍兵站計画部に入ったのは、ジノーファの仕置きが行われた後である。イスパルタ軍がアンタルヤ王国北部へ進駐し、防衛線を立て直すべく魔の森での誘引作戦を立案・実行していたころ、彼はエヴェレン伯爵家から出向する形でその作戦に協力していた。


 見るからに文官肌だった彼は後方に回され、そこで補給関係の仕事に従事した。そしてその仕事を評価されて、仕置き後に兵站計画部へスカウトされたのだ。兄が当主になり、そろそろ潮時と考えていた部分もあるのだろう。彼は近衛軍兵站計画部への入隊を決意したのだった。


 このような経歴の持ち主であるから、メフライルの叔父が当主として、そして領主として十分な能力を持っていることは明らかだった。また彼は古巣である近衛軍兵站計画部に伝手がある。その伝手はエヴェレン子爵領を運営していく上で、大きなアドバンテージとなるだろう。また元近衛軍士官の当主であれば、王やその周辺の者たちの見る目も変わるはず。彼に白羽の矢を立てた家臣たちにはそういう思惑もあった。


「弟君、どうか子爵家に戻ってきてください。あなたの力が必要です」


「……分かった」


 家臣たちに説得され、また非公式に前当主の父とも話し合い、メフライルの叔父はエヴェレン子爵家の当主就任を承諾した。こうして彼は、未亡人となった兄嫁と義兄弟結婚することにより、エヴェレン子爵家の家督を継いで当主となったのである。ただし結婚そのものは、早世した彼の兄の喪が明けるまで待たれた。


 とはいえ家督の継承は葬儀後にすぐさま行われた。また祖父の意向もあり、叔父の当主就任と同時にメフライルの世子指名も行われた。「エヴェレン子爵家を絶やさぬため」というのが表向きの理由だったが、そこに「孫の立場を守るため」という意図があるのは誰の目にも明らかだった。


 当のメフライルはというと、大人たちの意図や思惑はまだ良く分からない。言われるままに世子となった。彼にとっては、近い将来に叔父と母が結婚することのほうが大問題だった。父と接点の少なかった彼は、自然と母と一緒にいることが多く、それで叔父に母を取られたように感じていた。


 とはいえそんな子供の嫉妬に大人たちが構うはずもなく、父の葬儀からおよそ一年後に彼の叔父と母は結婚式を挙げた。当然ながら彼も子供用の正装に身を包み、四歳年下の妹と一緒にその式に参列した。


「お母様、すごくきれい!」


「うふふ、ありがとう」


 妹はドレスを着た母の姿に大はしゃぎしていた。そんな妹に母は優しく、そして幸せそうに微笑む。確かにメフライルの目から見ても、ドレス姿の母は美しかった。そもそも彼女はまだ三〇にもならない。それでいて少女のあどけなさを卒業した彼女は、満開に咲き誇る白い木蓮の花のように、凜としつつも艶やかだった。


 とはいえ何よりも彼女を美しく見せていたのは、彼女の浮かべる幸せそうな微笑みだった。前当主、つまり彼女の夫の葬儀からこのかた、二人はずっと同じ屋敷で暮らしていて、お互いの人となりも良く分かっている。「この人とであれば上手くやっていけるだろう」という気持ちが、彼女の中にはあったのだ。


「……では誓いの口付けを」


 メフライルと妹が最前列で見守る中、最後に二人が口付けをかわす。その瞬間、参列者が皆立ち上がり、割れんばかりの拍手が式場に響いた。メフライルと妹も立ち上がって拍手を送る。万雷の拍手の中、唇を離した二人はそのまま互いを抱きしめ合う。その様子を彼はすこしザラリとした気持ちで眺めた。


 結婚式の披露宴は、夕日が沈む頃にお開きとなった。メフライルの母にとっては二度目の結婚であることもあり、披露宴はあまり盛大にはされなかったのだ。ただ妹は興奮が冷めやらぬ様子で、夜になってもまだ母の白いドレスのことを熱く語っていた。そんな我が子に、母は優しくこう言い聞かせる。


「あなたが素敵なレディになったら、もっと綺麗なドレスを着れるわ。だからもういい子は寝る時間よ。ベッドに行きましょう?」


「じゃあ、今日はお母様と寝る」


「お、お嬢様!」


 妹が母と一緒に寝たいというと、なぜか壁際に控えていたメイドが慌てた。母も少し困ったような笑みを浮かべている。「ダメ」と言われると思ったのか、妹は母の膝に手を置き、上目遣いに「いいでしょう、お母様」と言っておねだりする。それに応えたのは、今日彼女の義父となったばかりの叔父だった。


「いいじゃないか。まだまだ甘えたい盛りだろう。一緒に寝てあげたらいい」


「ほんと!?」


 妹が歓声を上げる。母は「しかたないわねぇ」と言いながらそんな娘の頭を撫でた。彼女は娘を抱っこして立ち上がると、メフライルの方に視線を向けてこう言った。


「メフライルも、もう寝なさい」


「はい。そうします」


 メフライルがそう答えると、母は一つ頷いた。そして次に今日夫になった叔父にこう尋ねる。


「旦那様は、どうされるんですか?」


「もう少し仕事をしてから休むよ」


「まあ、こんな日にも仕事ですか?」


「少しだけさ。すぐに休むよ」


「旦那様の少しはアテになりません」


 母がそう言うと、心当たりがあるのか、叔父は肩をすくめて苦笑した。とはいえ母も本気で責めているわけではない。最後に小さく笑って、エヴェレン家の家族はそれぞれの部屋へ向かった。


 その日の夜は、メフライルはなかなか寝付けなかった。ごろりとベッドの上で何十回目かの寝返りを打つ。目をつぶっても一向に眠くならず、それどころかますます頭がさえていくようにすら感じる。仕方なく、彼はベッドの上で身を起こした。


(水でも飲もう……)


 そう思い、メフライルは部屋を出て厨房へ向かった。夜の屋敷は静かで、また薄暗かったが、月明かりが窓から差し込んでいたので真っ暗というわけではない。厨房までの道は覚えている。それで彼はランプを使わずに廊下を歩き始めた。


 歩き始めて少しして、彼の目は明かりを捕らえた。「誰だろう」と首をかしげる彼の視線の先を、明かりを持った彼の母がすっと通り過ぎる。寝間着姿の彼女は、肩に薄いストールを羽織っていた。どうやら彼女はメフライルには気付かなかったようだ。


(母上……? どうして……?)


 母は今夜、妹と一緒に寝たのではなかったのか。寝かしつけたので自分の寝室に戻るのだろうか。だが母の寝室はこちらではなかったはず。疑問に思ったメフライルは、声はかけずにそっと彼女の後をつけた。そして彼女が向かったのは……。


(あ……)


 母が向かったのは、叔父の寝室だった。母がドアをノックすると、少し遅れて叔父が顔を出す。訪ねてきたのが母だと知ると、叔父は驚いたような顔をした。


「……、…………」


「…………」


 二人が何か言葉をかわす。メフライルは廊下の曲がり角から、息を殺してその様子を見ていたが、二人が何を話しているのかは聞こえない。やがて叔父は少し困ったような顔をして母を部屋に迎え入れた。彼女の肩を抱いて。


 メフライルの視線は、その時の母の横顔に釘付けになった。彼女は少し恥ずかしげに顔をうつむかせ、しかしその口元には確かに幸せそうに微笑みを浮かべていた。メフライルが今までに見たことのない、母の横顔だった。


 二人が部屋の中に入り、廊下に静寂が戻ると、メフライルは一目散に走って自分の部屋に駆け込んだ。そしてベッドに潜り込んで顔を枕に押しつける。見てはいけないものを見てしまったような気がした。だが目を閉じれば浮かんでくるのは、脳裏に焼き付いた先ほどの母の横顔。


(母上は……)


 頭の中がグルグルと回る。メフライルはさっき見た光景の意味が理解できなかった。ただ母があの顔を向けたのが父ではなく叔父であったことが、この時の彼には受け入れがたく思えた。


 さて、結婚式からおよそ一年後、母の妊娠が公表された。そしてその半年後、彼女は無事に三人目の子供を、叔父にとっては初めての子供を出産した。男の子で、メフライルにとっては少し歳の離れた弟になる。


「子はかすがい」という言葉があるが、メフライルの目から見ても、母の妊娠が公表される少し前から、母と叔父の夫婦仲は親密さを増していたように思える。妹は新しい父に懐いていたし、叔父自身も声を荒げるようなことは滅多にない。エヴェレン子爵家はすっかり平穏を取り戻していた。


 ただメフライルに関して言えば、彼は叔父と距離を取りがちだった。妹は新しい父のことを早々に「お義父さま」と呼んでいたが、彼はずっと「叔父上」と呼び続けている。母はそのことが不満らしく、度々「義父上とお呼びしなさい」と彼に注意していたが、彼はかたくなにそれを拒んでいた。


「私があの子の叔父であることは事実だ。気にするようなことじゃない」


 叔父がそう言って問題にしなかったので、母もメフライルに注意はすれども強制はしなかった。それをいいことに、彼は義父のことをずっと「叔父上」と呼び続けた。それが子供っぽい甘えであることに気付いたのは、彼がもう少し大人になってからのことだ。


 さて大人になると言えば、弟が生まれたことはメフライルにとって、間違いなく大人になるための一里塚だった。そもそも彼はエヴェレン子爵家の世子である。またそういう年齢であることもあったのだろう。弟が生まれた頃から、彼は少しずつ性教育を受けるようになった。


 もちろんこの頃は知識だけだったが、それでも知識を得れば分かるようになることもある。メフライルはあの結婚式の日の夜のことを、母が叔父の寝室を訪ねたその訳と意味について理解するようになったのだった。


(母上は……)


 母は叔父との子供が欲しかったのだろうか。母はもう父のことは忘れてしまっていて、父のことは愛していないのだろうか。そして自分の事もまた。「そんなはずはない」といくらメフライルが否定しようとしても、そのたびに彼の脳裏にはあの夜の母の横顔がよみがえる。


 客観的に見るならば、母も叔父も良い親だった。二人ともメフライルや妹のことを気にかけていたし、弟も含めて子供たちのことを大切にしていた。だがそれでも、メフライルの胸の内にしこりは残り続けた。


 そのしこりは母と叔父が仲睦まじくしているのを見る度に、そして二人が弟のことを可愛がっているのを見る度に徐々に硬く、また大きくなっていった。なるほど二人とも、今はメフライルのことをそれなりに扱っている。だが二人にとってはメフライルよりも弟の方が可愛いだろう。何しろ愛し合って生まれた子供なのだから。


 そうであるならば、二人はメフライルよりも弟がエヴェレン子爵家を継ぐことを望むのではないか。叔父にとって弟は、他でもない自分の子供だ。そして彼がそう望めば、母があえて反対するとは思えない。母の実家も貴族だが、彼女の子供が子爵家を継ぐ分にはとやかく言ったりはしないだろう。


 今はまだ先々代の当主であり、「メフライルを世子に」と言ってくれた祖父が健在だ。だが十年先は分からない。そもそも年齢順でいえば、祖父は叔父より先に死ぬのだ。その時、世子の座は一体誰のものになるのか。


 歴史を学んでみれば、御家騒動など枚挙に暇がない。兄弟が殺し合い、親と子供が憎み合う。王座にしろ当主の座にしろ、そこに座れるのはただ一人。そしてそれに魅入られた者はあらゆる分別を無くす。


「権力は人を狂わせることがあります。世子様はそのことをお忘れなきよう」


 メフライルに歴史を教えてくれた壮年の家庭教師は、亡国に繋がったある御家騒動について詳しく説明してから、彼にそう忠告した。彼は無言のまま頷いたが、頭のなかでは別のことを考えていた。「権力は人を狂わせる。ならば叔父はどうなのだろうか」と。


 今のところ、叔父の評価は高い。兄が、つまりメフライルの父がやり残した仕事をやり遂げ、見事に領地を安定させた。私生活においても愛人を囲うことなどせず、かえって家族を大切にしている。


 だがこの先のことなど誰にも分からない。御家騒動には大雑把に言って二つのパターンがある。一つは自分が権力を望み、もう一つは我が子に権力を望む、というパターンだ。このまま弟が成長していけば、叔父は、そして母も、いずれ彼が次の当主となることを望むのではないか。メフライルはその可能性を否定できなかった。


(家を出よう)


 メフライルが初めてそう思ったのは、彼が十三歳のときだった。もちろん、思い立ってすぐに家を飛び出したわけではない。ただ「家を出よう」と決めたことで、彼はふっと肩が軽くなったように思えた。同時に、自分の居場所はもうここにはないのだと思って寂しくなる。だが彼はその寂しさを呑み込んだ。


メフライル「黒歴史ががががが」

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― 新着の感想 ―
[一言] >メフライル「黒歴史ががががが」 言うほど黒くはないが……思春期だねぇ 単純に叔父上が家督を継承してメフライルを養子にするだけじゃだめだったのかな?もしくはメフライルが当主になってお祖父…
[一言] 叔父が義父になるのはまあ、もにょるよね。
[一言] まぁ気持ちは解る。 義父に成った叔父と母親がどんな気持ちで再婚したのか? どんな気持ちで再婚直後から関係を持ったのか? 弟が産まれて育ったらどうしたいのか? 二人の本心はメフライルには理…
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