誰がために鐘は鳴る
マドハヴァディティアがガーバードに帰還したのは、ジャムシェド平原の決戦からおよそ十日後のことだった。伴うのは僅か数騎の静かな、いや静かというよりは惨めな帰還だった。
とはいえ帰還できただけでも大したものと言わなければならない。マドハヴァディティア軍が被ったのはそれほどの大敗北だった。クリシュナ軍を踏み潰し、アースルガム方面軍から逃れたところまでは良かった。しかしその後、イスパルタ西征軍本隊という予期せぬ敵に強襲され、マドハヴァディティア軍は壊滅したのである。
(あの時……)
あの時、率いていたのがきちんと隊列を組んだ軍隊であったならば。あれほど無残な敗北を喫することはなかっただろう。マドハヴァディティアとしては悔いの残る結果だ。だがあの時、呑気に隊列を組み直していれば、それこそアースルガム方面軍に背後を突かれたであろう。その意味では避けられない敗北だったと言って良い。
そう、あの敗北は避けられなかった。「敵軍強襲」の一報を受けたとき、マドハヴァディティアは誰に言われずともそれを悟った。損害を最小限にして撤退することも不可能だった。何しろ命令系統が寸断されているどころか、存在していなかったのだから。彼は兵を引き連れていたが、兵を戦わせることのできる状態ではなかったのだ。
あの時、マドハヴァディティアが統率できていたのは、彼の声が届く範囲にいる兵士たちだけだった。その他の兵を統率できていないことを、誰より彼自身が一番良く分かっていた。それで彼は命令の届く範囲に、ただ一言だけ、こう命じた。
『駆けろっ! 振り返るな!』
マドハヴァディティアは先頭に立って馬を駆けさせ、それを見た多くの兵がその後を追った。結果として、イスパルタ軍の攻撃を逃れることのできた兵の数は、彼の周囲に居た兵の数の数十倍にもなった。兵を逃れさせるという点において、彼は最善の命令を下したと言って良い。
ただし「逃れた兵の数」は「マドハヴァディティア指揮下の戦力」とイコールではなかった。戦場から遁走した兵の大部分は、そのまま行方をくらまして彼の指揮下には戻らなかったのである。戦力のほとんど全てを失ったという意味で、あの戦いは言い逃れのできない大敗北だった。
『どこだ、マドハヴァディティアッ! 出てこい!』
『…………っ』
マドハヴァディティアを最も厳しく追撃したのはラーヒズヤだった。彼の首を求めるラーヒズヤの声は、実のところ彼の耳に届いていた。彼が惨めさを最も強く噛みしめたのは、あるいはこの時であったかも知れない。彼はその声に応じることも、まして叩き潰して思い知らせることもできなかったのだから。
ニルギット会戦において、マドハヴァディティアはラーヒズヤを大いに破った。逃げるラーヒズヤ軍を、彼は厳しく追撃したものだ。だが今、両者の立場は逆転した。いや兵の統率を保てていないという点においては、彼の方が状況は酷かった。彼は息をひそめて馬を走らせた。このとき彼がどんな顔をしていたのかは、どの歴史書にも書かれていない。
さて、からくもイスパルタ軍の攻撃を振り切ったとき、マドハヴァディティアと一緒に居るのは数十騎ほどにまで減っていた。マドハヴァディティア軍は消滅したのである。だが彼にそのことを嘆く余裕は与えられていなかった。
彼はひとまず小さな集落を襲って食料を調達した。幸いというか、剣で脅せば住民たちはすぐに食料を差し出した。マドハヴァディティアらもそこに長居するつもりはなく、そのおかげで流血沙汰には繋がらなかった。
イスパルタ西征軍本隊はどうやらアースルガム方面軍との合流を優先したらしい。そのおかげでマドハヴァディティアはひとまずの安全を得た。腹も満たせば、不思議なもので力がわいてくる。しかし彼の置かれた状況は厳しいままで、しかもさらに厳しくなっていった。
ナルドルグ城の兵がマドハヴァディティアの捜索を始めたのである。周辺の地理に詳しいのは言うまでもなく彼らの側。加えて方々を荒らし回ったために、恨みを買っている自覚もある。住民たちは狩り立てる側に回るだろう。そのため彼らは人目を避けながら南下しなければならなくなった。
とはいえ、本当に道なき道だけを進もうとすれば、十分な装備も経験もない彼らはたちまち遭難してしまう。またこそこそと逃げ回ったところで、状況が改善するわけでもない。むしろ時間と共に状況は悪くなるだろう。
『強行突破する。各自奮起しろ』
マドハヴァディティアは獰猛な笑みを浮かべてそう決断した。そして雲が月を隠すある日の夜、彼はナルドルグ城の兵士たちが封鎖する検問を強行突破した。彼はそのまま夜を徹して馬を走らせ、何とか警戒網の外へ出たのだった。ただしその代償として、彼に従う兵の数は僅か数騎にまで減っていた。
出陣の際、マドハヴァディティアはおよそ四万の兵を率いてガーバードの正門から堂々と出撃した。しかし戻ってきたときには、率いていたのは僅か数騎で、しかも人目をはばかるように裏門から王城へと入った。だがそれでも。彼の立ち振る舞いは惨めさとは無縁だった。
「父上……!」
「おお、ナレインか。喜べ、クリシュナを討ち取ってやったぞ! 首は持って帰ってこれなかったがな!」
出迎えに来たナレインに、マドハヴァディティアはまるで自慢するようにそう語った。ナレインは悲壮な顔をしていたのだが、そんなことはお構いなしとばかりに彼は快活な笑い声を上げる。その晴れやかな様子に、ナレインは訳も分からず嬉しくなって、彼は叫ぶようにこう答えた。
「はい! おめでとうございます!」
「うむ!」
マドハヴァディティアは大きく頷いて応える。その姿はナレインの目にとても頼もしく見えた。四万の兵を丸ごと失ったのだから、客観的に見れば致命的な大敗北である。だがマドハヴァディティアはこうして生き残り、そしてガーバードへ帰還した。ならばここからまた巻き返すこともできるはず。この時のナレインは無邪気にそう信じていた。
さてガーバードに帰還した後、マドハヴァディティアは精力的に働いた。大敗を喫した彼に陰口をたたく者もいたが、そういう者たちも彼の采配の確かさを認めないわけにはいかない。ガーバードは急速に落ち着きを取り戻し、そして次の段階へ向けて動き出そうとしていた。
その矢先である。「イスパルタ軍、見ゆ」の報が飛び込んできたのは。マドハヴァディティアが帰還してから四日後のことであり、あと二日もすればイスパルタ軍はガーバードへ肉薄するものと思われた。
「時間切れ、だな」
やや疲れた様子を見せながら、マドハヴァディティアはそう呟いた。時間が足りない。彼の胸中はただその一点に尽きる。せめてあと一ヶ月時間があれば、と思う。自分が求める時間と現実の乖離が大きくて、彼は思わず笑った。そして彼はポツリとこう呟いた。
「負けた、な」
「父上は負けてなどいませんっ! 父上は負けませぬ!」
ナレインは叫ぶようにして父王の言葉を否定した。父王マドハヴァディティアが負けることなど、彼には考えられなかった。そして彼はさらにこう言い募る。
「ガーバードにはまだ一万の兵がいます。聞けば、敵は四万そこそことか。ガーバードの城壁は堅牢で、兵糧も十分にあります。我々は戦えます。そして我々がここで持ちこたえていれば、各地で呼応する者たちも現われるでしょう。イスパルタ軍はよそ者です。侵略者です。故郷をよそ者に委ねることを、西方の人々が許すはずがありません!」
「いいや、我々の負けだ。我々は負けたのだ、ナレイン」
口元に穏やかな苦笑を浮かべながら、マドハヴァディティアは息子にそう言い聞かせた。なるほど確かに一万の兵とガーバードの城壁を持ってすれば、四万のイスパルタ軍相手に数ヶ月は戦えるかも知れない。そのくらいならば兵糧も足りるだろう。だができるのはそこまでだ。
なぜなら、マドハヴァディティア軍はガーバードから打って出ることができないのだ。仮にイスパルタ軍をガーバードの周辺から追い払うことができたとして、そこが今のマドハヴァディティア軍の限界である。そしてイスパルタ軍は態勢を立て直して再び襲来するだろう。
そもそもイスパルタ軍はガーバードを攻め落とす必要などないのだ。肉薄し、マドハヴァディティア軍の動きを封じるだけで良い。後は方々を調略で切り崩せば、あっという間にガーバードは孤立する。
そして調略された者たちが兵を率いてイスパルタ軍に加われば、敵の戦力はたちまち十万に迫るだろう。いかにガーバードの城壁が堅牢であろうとも、十倍近い敵を相手に戦えるものではない。
仮にこの段階でイスパルタ軍がガーバードを攻めなかったとしても、南の貿易港はすでに敵の手に落ちているはず。となれば敵は海路を使って補給を受けられる。イスパルタ朝は超大国だ。十万の兵を年単位で養える。一方でガーバードの兵糧はもたない。つまりどうあっても陥落は免れない。
「分かるか、ナレイン。お前は後詰めが来ると思っている。だが後詰めは来ない。後詰めの来ない籠城戦など、勝てるはずもない」
「ヴェールールにはまだ父上の臣下がいるではありませんか!?」
「以前のヴェールールであれば、臣下の忠義を期待できたかもしれん。だが今はもう無理だな」
マドハヴァディティアは人ごとのようにそう答えた。ヴァンガルに攻め込む前と、ヴァンガルから帰還した後では、ヴェールールは全く別の国になってしまった。臣下の地位にいる者たちも、マドハヴァディティアに心服などしていないのだ。
旗色が悪くなったと思えば、さっさと調略に応じるだろう。彼らが考えるのは、まず自分が生き残ることだ。そのためにはむしろ自分の方から売り込むかも知れない。それが今のヴェールールだ。
「そんな……。では、ではどうするのですか……?」
「降伏する。……なに、この首差し出せば、奴らも納得するだろう」
何でもないことのように、マドハヴァディティアはそう答えた。それを聞き、ナレインは悲鳴を上げる。
「父上!」
「騒ぐな、馬鹿者。ナレイン、お前は王太子だ。父が死ねば、お前が跡を継がねばならぬのだぞ」
「……っ!」
「まあ、余計な欲は持たないことだ。今後の処遇など、どうせ向こうが決める。唯々諾々と受け入れろ。ごねて譲歩を引きだそうなどとは考えるな」
「しかし、それでは!」
「潔さを演出しろと言っているのだ。その方が相手に与える心証は良い」
マドハヴァディティアはナレインにそう言い聞かせた。彼は息子に大きな期待はしていない。もはやヴェールールが歴史に峻烈な足跡を残すことはないだろう。だが生き残ることだけを考えるなら、かえってそのくらいの方が良いかも知れない。彼はナレインを見ながらそう考えていた。
「〈王の中の王〉の称号は俺が墓場まで持って行く。今後、誰かが名乗ることは許さん。まあ、俺のような者は二度と現われはしないだろうがな」
マドハヴァディティアが死んでガーバードが降伏すれば、西方諸国はことごとくイスパルタ朝に併呑されるだろう。将来、イスパルタ朝が分裂したとして、それはつまり「大イスパルタ朝」内部での内輪揉めと言える。
誰がその当事者となるのかは分からない。だが彼らは「王」を名乗りはするまい。よしんば名乗ったとして、いや名乗ったのであればなおのこと、彼らは他の「王」を容認しないだろう。
なぜなら、彼らが目指すのは大イスパルタ朝の復興であり、その広大な国土を支配するただ一人の〈大王〉の地位だからだ。彼らは前例を求め、それを踏襲しようとする。それが今後の歴史の流れになるだろう。
多数の王と王国を従え、その上に君臨する者、〈王の中の王〉はもう二度と現われない。〈王の中の王〉を名乗るのは、マドハヴァディティアが最初で、そして最後だ。歴史の潮流を変え損ねたな、と彼は胸中で呟いた。
「俺は生きたいように生きた。だがお前は俺のようには生きられまい。そのことだけは、すまないと思っている」
最後にそう言って、マドハヴァディティアはナレインを下がらせた。彼が自分の首をイスパルタ軍に差し出そうとしているという話は、たちまち王城中に広まった。そしてそのことがかえって王城を落ち着けた。皆が「これで戦争が終わる」と理解したのだ。
そしてその二日後、ついにイスパルタ軍がガーバードに肉薄した。イスパルタ軍はまず、ガーバードに対して攻囲陣形を敷く。その報せを受けると、彼は人払いをして一人執務室に籠もった。
「ふう」
大きく息を吐き、彼は身体をソファーに預けて天井を見上げる。思えばこの部屋で多くの時間を過ごした。寝室より馴染みがあるくらいだ。この部屋でありとあらゆることを考え、そして実行してきた。だから人生の最後はこの部屋で迎えたかった。
「そうだ、アレがあったな」
そう呟き、彼は一本の赤ワインを取り出した。ヴァンガルから退去する際、ジノーファが贈ってきた、ランヴィーア王国産の赤ワインだ。その赤ワインを開けてグラスに注ぐ。豊潤な香りを楽しんでから一口含むと、少し渋みのある深い味わいが口の中に広がった。
「美味い、な」
マドハヴァディティアはそう呟いた。つまみを用意すれば良かったと考え、死ぬ間際に考える事がそれかと思うと、彼は少しおかしかった。
ジノーファがこの赤ワインを寄越したのは、第一次西方戦争の講和条約締結の際、マドハヴァディティアが「異国の酒を飲んでみたい」と話したのを覚えていたからだろう。彼のことだから他意はあるまい。だがマドハヴァディティアとしては、さらりと経済力の差を見せつけられたようにも感じたものだった。
(本当なら……)
本当ならこのワインは、もう一度ヴァンガルを取り戻した時に開けるはずだった。その時のために開けずにおいたのだ。そしてその時には、異国の酒も珍しいものではなくなっていただろう。
だがその時はもう来ない。マドハヴァディティアにとってこのワインの味は、敗北の味であり未練の味だった。しかしそれでも。後悔はない。そこに偽りはない。彼はもう一口ワインを呷った。
ボトルを一本空けると、しかしいささかも酔った様子はなく、マドハヴァディティアはしっかりとした足取りで立ち上がった。そして執務机に立てかけてあった、愛用の剣を手に取ってすらりと抜く。
この剣で彼は人生を切り開いてきた。その剣で彼は人生を終わらせた。
父王マドハヴァディティアが自刎したことを知らされると、ナレインは涙を流して瞑目した。そして父の首に死に化粧を施させる。それから大鐘楼の鐘を鳴らさせた。マドハヴァディティアのために鳴らされた鐘の音は、彼の死をガーバード中に伝えたのだった。
ナレイン「父上っ、お疲れ、さまでしたっ……」




