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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
外伝 誰がために鐘は鳴る

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ジャムシェド会戦3


「陛下! あれをっ!」


「ああ! ついに来たか!」


 クリシュナ軍の副将ハルバシャンが歓声を上げると、クリシュナも喜色を露わにしてそれに答えた。そしてハルバシャンが指さす先を、クリシュナが望遠鏡でのぞき込む。そこには確かに双翼図が、イスパルタ朝の旗が掲げられていた。


 旗が掲げられているのは、ジャムシェド平原の北西部にある丘の上。つまり現われたイスパルタ軍は北から南下してきたことになる。その進路を取るのはアースルガム方面軍に他ならない。つまりベルノルト第一王子が来たのだ。ただ現われたその位置は、クリシュナの予想よりもずっと西寄りだった。


「そうか、迂回したのか……!」


 奇しくもマドハヴァディティアと同じ台詞を、しかし彼とは異なる熱っぽい口調で、クリシュナは口にした。恐らくベルノルトはマドハヴァディティアの思惑を外すために、あえて迂回進路を取ったのだろう。到着が遅れたのはそのためだ。


 その分だけ、確かにクリシュナ軍の負担は増えた。しかしアースルガム方面軍が現われた位置はまことに効果的で、その分を補ってあまりある。あの位置ならマドハヴァディティア軍の後方部隊を一蹴できる。兵糧を失った敵軍は、もはや降伏する以外に道はないだろう。クリシュナはそう思った。


 だが彼はすぐに自分の考えが甘いことを思い知らされた。マドハヴァディティア軍は背後の敵を全く無視して猛然と前方へ、つまりクリシュナ軍の防衛陣地へ突撃を開始したのである。


 その圧力たるやこれまでの比ではない。マドハヴァディティア軍は完全に損害を度外視していた。誰も彼も目に異様な光を輝かせ、まるで味方の血と死体で道を開くかのように、彼らはただひたすら前進し続ける。その光景を前に、クリシュナの歓喜は吹き飛んだ。


「……っ、怯むなっ、押し返せ! 勝利の女神はすぐそこで微笑んでいるぞ!」


 背中に薄ら寒いモノを感じながら、クリシュナはそう叫んで味方を鼓舞した。アースルガム方面軍はすでに動き始めている。勝利は目前なのだ。いや、戦略的にはすでに勝利していると言って良い。それをこんな戦術も何も無いような突撃でひっくり返されてなるものか。クリシュナは顔を歪めて奥歯を噛みしめた。


 繰り広げられる戦いは、これまでにもまして血なまぐさい。胸に剣を突き刺したまま槍を振るう敵兵がいる。頭をかち割られたマドハヴァディティア兵は、しかしそれでも死なず、奇声を上げて飛びかかった。


 マドハヴァディティア軍はまさに追い詰められた獣だった。彼らはただ生き残るためだけに足掻いている。狂乱とも言うべき彼らの戦い振りは、戦場の空気を猛烈な勢いで塗り替えていく。クリシュナ軍は押し込められる一方だ。それは狂気という名の勢いが戦術を凌駕した瞬間だった。


「ふざけるなよ……! こんな、こんなことが……!」


 衰えることないマドハヴァディティア軍の勢いを前に、クリシュナは戦慄いた。押し寄せる敵軍の姿が、全てを流し去る濁流のように見える。いっそ本当に濁流であったなら、クリシュナはもっと冷静に対応できただろう。だがこの勢いはマドハヴァディティアが、人の力が生み出したものだ。そのことがクリシュナに恐怖と怒りを覚えさせた。


「防げっ、何としても防げ!」


 クリシュナは唾を飛ばしながらそう命じる。すでに予備戦力は投入済みだ。それどころか負傷兵までもかり出している。そして新たに負傷した兵を治療してやる余裕はない。後はもう、兵士たちの士気だけが頼りだった。


「イスパルタ軍は、イスパルタ軍は何をしている!?」


 そう叫ぶクリシュナの声には、隠しようのない焦燥が滲んでいる。実はこの時すでに、エクレム率いるアースルガム方面軍の主力一万が、マドハヴァディティア軍の最後尾の部隊と接触していた。


 接触してしまえば戦わないわけにはいかず、こちらでも戦闘は開始していた。言ってみればマドハヴァディティア軍は前後を挟み撃ちにされている格好である。しかもマドハヴァディティアは背後の敵に対してまともな指示を出していなかったから、後方に関してはアースルガム方面軍が有利だった。


 しかしそれでも。マドハヴァディティア軍の勢いは止まらない。むしろ背後の敵に押されるかのようにして、さらに勢いを増していた。その圧力を受け止めるのは、言うまでもなくクリシュナ軍である。戦えば戦うほど勝利が遠ざかっていくような感覚に陥りながら、クリシュナは必死に兵たちを鼓舞して戦わせた。



 ○●○●○●○●



 ベルノルトは今、二〇〇〇の兵を率いて前線へ向かっている。彼の視線の先では、すでにエクレム率いる主力が戦闘を開始している。それを認めつつ、しかし彼はそこへ加勢するつもりはなかった。


 今エクレムが戦っているのは、殿軍と呼べるほど大した敵ではない。彼ならばすぐに突破できるだろう。ただ問題は、そこにマドハヴァディティアはいないということだ。彼を討ち取らなければ、あの狂気じみた前進は止らない。


「エクレムが引きつけている敵の脇をすり抜けるぞ」


「はっ」


 ベルノルトの言葉に、アッバスは反対することなくそう答える。シェマルからも反対の声は上がらない。それを確認してからベルノルトは進路を調整する。すると視界が開けて敵の動きがさらに良く見えるようになった。


 しばらくすると、ベルノルトの動きに気付いたのだろう、エクレムの部隊が彼の部隊を援護するように動きを変える。それを見てベルノルトは「流石だ」と小さく笑みを浮かべた。


 とはいえ、突撃を仕掛けるにはまだ距離がある。抑え気味に馬を駆けさせながら、ベルノルトは視線を最前線へ向けた。もちろん多数の兵士や掲げられた旗に遮られて、最前線の様子をはっきりと見ることはできない。だがそこで激しい戦いが行われていることはしっかりと伝わってきた。


(クリシュナは……)


 クリシュナは、この戦いのことをどう思っているのだろうか。ベルノルトはふとそんなことを考えた。今この場で行われている戦いのことだけではない。彼が王位簒奪を企ててからの、一連の戦いについてである。


 ベルノルト自身、噂を流すなどしてそれを煽った。だからまったくの無関係ではないし、責任が少しもないとは言えないだろう。だが最終的に決断したのはクリシュナだ。その決断を、彼はいま悔いているのだろうか。


(もしも……)


 もしもクリシュナが事を起こさなければ、少なくとも西方はヴェールールの名の下に統一されていただろう。その勢力は六十余州。十分に強大といえる勢力だ。そしてクリシュナは父王マドハヴァディティアの最年長の王子として、相応の権限と権力を与えられていただろう。彼はそれを惜しいとは思わなかったのだろうか。


(仮定の話だ。意味は無いな)


 声には出さず、ベルノルトはそう呟いた。それにあのタイミングでクリシュナが事を起こさなかったとしても、ヴェールールではいずれ内乱が起こっていただろう。


 それが王太子の地位を争う戦いなのか、それとも王座を争う戦いなのか、それは分からない。だがマドハヴァディティアはあまりにも強権的過ぎた。その反動が出るのは時間の問題であったに違いない。


 そういう意味では、あのタイミングはクリシュナにとってはベストだったのだろう。マドハヴァディティアは遠くヴァンガルにおり、しかも特に兵糧に不安を抱えていた。一方で彼の手元には権限と戦力があった。好機であったことは間違いない。唯一の誤算はイスパルタ軍に、いやジノーファにはしごを外されたことだろう。


 ただ逆を言えば、クリシュナの王位簒奪の計画はジノーファの胸一つで狂う程度のものだった、ということだ。彼はそれを分かっていなかったのだろうか。だとすれば拙速で見通しの甘い計画だったと言わざるを得ない。


 イスパルタ軍をアテにするのなら、最低限その協力関係を確たるものとしてから動くべきだった。ただあの時のクリシュナにそれだけの猶予があったのか、それはまた別の問題である。そしてジノーファがそれに応じたかどうかもまた。


 一つ確実なことがあるとすれば、クリシュナにとって王座はそれだけの価値のあるものだったのだろう。甘美と感じていたのか、それは分からない。だが彼は手を伸ばさずにはいられなかったのだ。王座を諦めることは、彼にとってそれまでの人生を否定することと同じだったのではないか。ベルノルトはそう思う。


(わたしとはまるで逆だな……)


 王位を望んではなりません。ベルノルトはそう言い聞かせられて育った。玉座は自分のものにはならないと弁えている。だがもしそうではなかったのなら。自分はアルアシャンと喰い合いいがみ合っていたのだろうか。そしてその果てにあったはずのものは、きっとこの戦場である。


 クリシュナはもう一人の自分である、などと言うつもりはない。だが今の彼の姿は、あり得たかも知れない可能性の一つだ。なればこそベルノルトは、いま彼がなにを思っているのか、聞いてみたかった。


「殿下」


「ああ」


 メフライルに呼ばれ、ベルノルトは雑念を頭から追い出す。彼は視線を鋭くして前方を睨み付けた。その先にあるのはヴェールールの王旗。マドハヴァディティアはそこにいる。彼は神経を研ぎ澄まして突撃のタイミングを計った。そして……。


「……全軍、突撃っ!」


 ついにベルノルトは突撃を命じた。その瞬間、二〇〇〇の兵は解き放たれた矢のように一挙に加速する。その鋭い切っ先は、ヴェールールの王旗目掛けて真っ直ぐに放たれたのだ。


「首を、獲れ!」


 槍を真っ直ぐに差し伸べながら、ベルノルトはそう叫んで命じる。蹄が鳴らす地鳴りにかき消されないよう、兵たちが上げる鬨の声に負けないよう、彼は空気をいっぱいに吸い込んで大声を張り上げた。


「マドハヴァディティアの、首を、獲れ!」


「首を獲れ!」「マドハヴァディティアの!」「首だ!」「首を狙え!」


「「「「首を、獲れ!」」」」


 ベルノルトの命令は瞬く間に広まった。「マドハヴァディティアの首を獲る」。彼の命令は末端の一兵卒に至るまで徹底された。そして彼が率いる二〇〇〇の兵は、その命令を果たすべくいよいよ敵部隊と激突した。


 マドハヴァディティアの周囲を固めているのは彼の親衛隊で、彼の兵の中でも最精鋭とも言うべき彼らは間違いなく手強かった。しかも親衛隊の隊長は、接近してくるベルノルトらのことをしっかりと把握していて、つまり迎撃の準備を整えていた。


 とはいえ基本的にマドハヴァディティア軍は全体として猛然と前進しており、ベルノルトらはそれを後方から襲ったわけだから、有利なのはやはり後者である。そもそも前進しつつ後方からの攻撃に備えるというのは難しい。それをなしただけでも、親衛隊の隊長の手腕は非凡であると言っていい。


 ただ隊長にとっては不運なことに、突撃した来たのは大陸に冠たるイスパルタ軍だった。練度においては親衛隊と比肩するかもしくは上回る存在であり、幾多の戦場において無敗を誇る。しかも王族たるベルノルト第一王子が率いることで、その精兵たちは非常に高い士気を保っていた。


 最初の一撃で、ベルノルト率いるイスパルタ軍二〇〇〇は、マドハヴァディティア軍本陣に深く突き刺さった。その一撃で突き崩されなかったのは、親衛隊の練度と粘り強さの成果であると言っていい。


 だが親衛隊は決壊しなかったのであって、イスパルタ軍二〇〇〇を受け止めたのでも、まして弾き返したのでもない。それどころかベルノルトらはさらに前へ前へと進んだ。親衛隊はそれを阻むことができない。


「マドハヴァディティアッ! どこだ!」


 ベルノルトはそう叫びながら槍を振るって、敵騎兵を馬上からたたき落とす。さらに群がるように押し寄せる敵の歩兵を、馬に蹴らせて払いのけ、それでも向かってくる敵には喉へ槍の穂先を突き込んでやる。彼は忙しく戦いながら、しかし視線を鋭くしてマドハヴァディティアの姿を求めた。


 ベルノルトは彼の顔を知っている。忘れもしない。第一次西方戦争の時のことだ。オリッサ平原において、マドハヴァディティアとジノーファの間で和平条約の調印が行われたとき、ベルノルトはそこに護衛の一人として混じっていたのだ。


 ジノーファがなぜその場にベルノルトを連れていったのか、彼ははっきりとした理由を父王から聞いたことはない。しかし彼はその時、確かにマドハヴァディティアの顔を見たのだ。普通ならばあり得ないような至近距離で、はっきりと。


 あれからすでに四年近い時間が経っている。さらにここ一年ほどは、互いに密度の濃い時間を過ごした。マドハヴァディティアの容貌は多少なりとも変わっているだろう。だがそれでも、彼を見間違えることは決してない。ベルノルトはそう確信していた。


 掲げられたヴェールールの王旗。この逆境にあって微塵も乱れぬその旗は、まるでマドハヴァディティアの不敵な心そのものにも見える。その旗目掛けて、ベルノルトは敢然と馬を駆った。


「そこかぁあああ! マドハヴァディティアァァァアアア!」


 雑兵をかき分け、ベルノルトはついにマドハヴァディティアの姿を捉えた。呼び捨てにされたマドハヴァディティアが振り返る。彼はベルノルトの姿を認めると、一瞬驚いたような顔をして、それから楽しげに破顔した。


「小僧、お前か!」


 ベルノルトが振るう槍を、マドハヴァディティアもまた槍で受け止める。二人は馬をぶつけ合い、そして唾がかかるほどの至近距離で叫び合う。


「男らしくなったではないか! 褒めてやるぞ、小僧!」


「貴様なんぞに褒められて嬉しいものか!」


「〈王の中の王〉が褒め称えてやったのだ! 感涙してむせび泣くが良いぞ! ふは、ふははははは!」


 大声を上げて、マドハヴァディティアは笑った。腹の底から、楽しげに。ベルノルトは顔を大いにしかめたが、しかし槍を押し込むことができない。逆にマドハヴァディティアが力任せに振るった槍に払いのけられて距離を取った。


 両者の間合いが開いたそこへ、一人の騎士が割り込んでくる。騎士は名乗らなかったが、身につけたその装備から高位の武官であることが窺えた。実際、この騎士は親衛隊の隊長だった。隊長は主君に劣らず楽しげな口調で彼にこう告げた。


「陛下、お楽しみのようですな! ですがまだメインディッシュが残っておりますぞ! ここは小官に任せて、どうぞ前へ!」


「大義! では任せた!」


 そう言ってマドハヴァディティアはあっさりと馬首を翻す。ベルノルトは咄嗟にその背中へ制止の声をかけた。


「待て!」


「小僧! 生き延びたならばな、せいぜい精進するが良いぞ! ふはははははははは!」


 捨て台詞と笑い声を残し、マドハヴァディティアは馬を駆けさせる。その姿は人垣に紛れてあっという間に見えなくなった。遠ざかる王旗だけが、彼の位置を伝えている。


「くそっ!」


 ベルノルトは悔しげにそう吐き捨てた。今すぐにもマドハヴァディティアを追いたいが、それは難しい。割り込んできた騎士が、彼の部下と思しき兵たちと一緒に、油断なく立ち塞がっているからだ。


「殿下!」


 メフライルが合流する。味方の兵たちも一緒だ。ベルノルトは彼に一つ頷いて昂ぶりを抑えると、前方の敵に今一度突撃を命じた。


ベルノルト「偉そうに!」

マドハヴァディティア「偉いからな!」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一国の王と他国の王子の対決。ありゃーあしらわれてしまいましたね。 [気になる点] 思い出したのですが、以前ジノーファとガーレルラーンの直接対決の際にスティグマ持ちと一般人の戦いについてコメ…
[良い点] ベルノルト殿下、あまり気にしない方が良いですよ 相手は所詮戦争しまくって色んなところから恨まれてる奴ですから 王の中の王って、自分で言ってるだけだし お父様の方がよほど王の中の王です
[一言] マドハヴァディティアが法国に攻め込まないで内政にシフトして上手くやっていたら他の大国に並ぶ国家に成長したかもしれないのにね。 まぁ各国王家の生き残りや民衆からの怨恨が酷すぎて滅亡していた可能…
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