ジャムシェド会戦2
ジャムシェド平原の北西部には、平原全体を見渡すことのできる小高い丘がある。ベルノルトはその頂上から、平原とそこで行われている戦いを眺めた。マドハヴァディティア軍の攻撃をクリシュナ軍は良くしのいでいる。ただ、彼の顔色は優れない。
(本隊は、アルアシャンはまだ来ていない、か……!)
ベルノルト率いるアースルガム方面軍は、当初もっと東寄りの場所からジャムシェド平原へ突入するつもりだった。だが実際にはこうして西寄りの位置から平原を見渡している。そのためにアースルガム方面軍は日数を費やして迂回進路を取ったわけだが、そのようにした理由は敵の不意を突くことだけではなかった。
むしろ真っ先にベルノルトの頭に浮かんでいたのは、ジャムシェド平原への到着が本隊に先んじることがないようにしたい、という考えである。「決戦に間に合わなかった」という汚点をアルアシャンの経歴に残さないためであり、またそれによってイスパルタ朝国内に政情不安の種が撒かれるのを避けるためだった。
だがしかし。ジャムシェド平原にイスパルタ西征軍本隊の姿はなかった。ベルノルトはアルアシャンに先んじてしまったのである。その事実を前に、ベルノルトは顔を歪めずにはいられなかった。
「殿下、いかがいたしますか?」
メフライルがベルノルトにそう尋ねた。ただメフライルは尋ねるふりをして「早く仕掛けろ」とベルノルトを急かしている。付き合いの長いベルノルトはすぐにそれを察した。だが彼は顔を歪めたまま一つ頷いただけで、何かを命じることはなかった。
(どうする……!?)
マドハヴァディティア軍はまだアースルガム方面軍に気付いていない。ならばこのまま攻撃を仕掛けることなく、本隊が到着するのを待つのはどうか。そんな考えがベルノルトの脳裏をかすめる。しかし彼はすぐに首を横に振った。
(ここまで来ておいて……)
ここまで来ておいて躊躇うのは、もはや害悪でしかない。そもそもマドハヴァディティア軍に気付かれていない現状は、またとない好機なのだ。だが敵もそのうちアースルガム方面軍の存在に気付くだろう。何もせずにこの好機を捨てるというのは、まことに愚かしい。
仕掛けるべきだ。ベルノルトは覚悟を決めた。そして素早く戦場を見渡す。どう兵をうごかせば良いのか、それを見極めるためだ。無論、事前に斥候を出して情報を収集し、ある程度の方針は定めてある。だが最後はやはり、こうして自分の目で確認したほうが良いだろう。実際にそうできるのだから、なおさらだ。
現在、マドハヴァディティア軍の主力はクリシュナ軍の防衛陣地にかかりきりになっている。全軍で攻め立てているわけではない。一部の兵は待機させている。ただこれは兵を休ませているのだろう。つまり全体としては、主力の全戦力をつぎ込んでいることになる。
そして主力の後方にも、マドハヴァディティア軍は兵を残している。こちらはいわゆる後方部隊だろう。見たところ、数は少ない。彼らは物資のお守りをしているようだった。ただその置かれた位置が少し妙だった。
(これは……?)
クリシュナ軍の防衛陣地を攻め立てているマドハヴァディティア軍主力。後方部隊はその真後ろに置かれているわけではなかったのだ。そこから西寄りの位置に置かれている。その理由をベルノルトはすぐに察した。
「我々を警戒したのか」
「恐らくはそうでしょう。迂回したかいがありましたね」
ベルノルトの呟きにメフライルがそう応じる。恐らくマドハヴァディティアはアースルガム方面軍がもっと東寄りの位置から、つまり彼らが当初想定していた位置からジャムシェド平原に入ってくると予測していたのだろう。だからそこから物資を遠ざけておいたのだ。
だがマドハヴァディティアの予想は外れた。アースルガム方面軍は迂回進路を取り、西寄りの位置からジャムシェド平原へ入ったのだ。それでアースルガム方面軍は思いがけず敵後方部隊の背後を窺う位置につけていた。ちなみにこれもベルノルトが現状を好機と判断した理由の一つだ。
「……敵後方部隊を叩いて兵糧を奪取する。奪取できない場合は焼き払う。これはアーラムギールにやらせよう。残りはエクレムの指揮で敵主力の背後を突く」
ベルノルトはそう方針を定めた。メフライルが畏まる。それから二人は一旦丘を降りてエクレムらと合流した。そして彼らに方針を伝える。そのしばらく後、アースルガム方面軍は静かに、しかし戦意をたぎらせて動き始めた。
その様子を、ベルノルトは先ほどの丘の上から眺めている。彼の両脇にはシェマルとアッバスがいて、少し後ろにはメフライルが控えていた。さらに丘の裏側には二〇〇〇の兵が控えていて、これは言うまでもなくベルノルトの護衛である。
「まったく、エクレムもずるいとは思わないか?」
「何をおっしゃいますか、殿下。当然の判断です」
ベルノルトがぼやくように愚痴をこぼすと、アッバスがぴしゃりとそう言い返す。するとベルノルトはますます不満げな顔になった。しかしアッバスは素知らぬ顔だ。そんな二人の様子を見て、シェマルとメフライルは揃って忍び笑いをこぼした。
もともとベルノルトはアースルガム方面軍主力の先頭に立って、敵陣へ突撃するつもりだった。主将たる自分が先頭に立つことが、兵たちの士気を上げる最も効果的な方法だからである。しかしそれに「待った」をかけたのがエクレムだった。
『最初から全軍を動かしてしまうと、戦術の柔軟性が失われます。アッバスとシェマルにそれぞれ一〇〇〇ずつ預けますので、殿下は二人と一緒に後方で待機願います』
『いや、わたしが先頭に立って……』
『丘の上からなら、戦況を俯瞰できるでしょう。効果的な一撃を期待しています、殿下』
『…………』
エクレムにそう言われ、ベルノルトは押し黙った。エクレムの作戦のほうが、戦術としてよりスマートだと思ったのだ。
『まあそれが必要ないくらいに私の方で叩くつもりですが。私も久々に戦働きができそうです。いや、腕がなります』
エクレムが悪戯っぽくそう話すのを聞いて、ベルノルトは自分が彼に謀られたことを悟った。慌てて抗弁しようとするが、エクレムは「話は決まった」とばかりにさっさと方々へ指示を出していく。ベルノルトはその様子を唖然として見守るしかなかった。
そして現在、エクレムの思惑通り、ベルノルトは後方で待機している。彼自身は不満げな様子を隠そうともしないが、アッバスなどは彼がようやく「守られる位置」に落ち着いたとかえって満足げだ。そしてシェマルは二人の様子を見ながらひたすら苦笑をかみ殺していた。
「殿下。敵がこちらの動きに気付きました」
そのシェマルが視線を鋭くしてそう報告する。ベルノルトも不満げな表情を消し、真剣な顔をして一つ頷く。アースルガム方面軍の接近に最初に気付いたのは、マドハヴァディティア軍の後方部隊だった。彼らの慌てる様子が、丘の上からはよく見える。ベルノルトはこう命令を下した。
「ラッパを吹き鳴らせ。そして旗を掲げろ!」
その命令は直ちに実行された。突撃を命じるラッパが吹き鳴らされ、アーラムギール隊が敵の後方部隊へ襲いかかる。そしてエクレム率いる主力一万がその脇をすり抜けるようにしてマドハヴァディティア軍主力の後背へ怒濤の如くに迫った。
これでマドハヴァディティア軍もクリシュナ軍も、この戦場の全ての者たちが、アースルガム方面軍の存在に気付いただろう。その衝撃はこの戦場を変容させていくことになる。それを見極めなければならない。ベルノルトは視線を鋭くして戦況を見守った。
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聞き慣れぬラッパが鳴り響き、後方でイスパルタ軍の旗が掲げられたことを知ると、マドハヴァディティアは自軍の喉元に致命的な刃が突きつけられたことを悟った。慌てて彼は自分の目でその旗を探す。双翼図と呼ばれるその旗は、ジャムシェド平原の北西部に位置する丘の上に掲げられていた。
「そうか、迂回したのか……」
まるでつまらない報告書を読むときのように平坦な声で、マドハヴァディティアはそう呟いた。北から南下してくるイスパルタ軍の分隊、つまりアースルガム方面軍の動きに彼はちゃんと注意払っていた。進路を予測して物資等を遠ざけ、さらに斥候を放ってその動向を探らせていたのだ。そして斥候からの報告によれば、彼らはまだ姿を見せていないはずだった。
『シンドルグ城に食い付いたか』
アースルガム方面軍が姿を見せない理由について、マドハヴァディティアはそう考えていた。接収したシンドルグ城を彼らの拠点として使うために手間取っているのだろう、とそう考えていたのだ。
つまりアースルガム方面軍が南下してくるにはまだ時間がかかる。イスパルタ軍本隊の方も、進路妨害が成功したから到着にはまだまだ日数がかかる見込みだ。ならばクリシュナ軍の防衛陣地の強引な突破を図るのは、南下してくる敵の姿を斥候が確認してからでも良いだろう。
もちろん突破が思うようにいかず、アースルガム方面軍の足止めが必要になることも考えられる。その場合には幾らか兵を割かねばなるまい。だがまだ姿を見せていない敵のために兵を割くのは無駄だ。
マドハヴァディティアはそう考え、後方部隊を除く全軍でクリシュナ軍の防衛陣地を攻めていたのだ。無論、損害を最小限にするよう手を尽くしながら。そうやって全体としての負担を減らしていたのだ。
その甲斐もあり、マドハヴァディティア軍は戦況を優位に進めていた。しかしその優位は今この瞬間に瓦解した。アースルガム方面軍があの位置に現われてしまった以上、ほんの数百しかいない後方部隊は全滅必至だろう。それはつまり物資が、兵糧が敵の手に落ちることを意味している。
(時間をかけすぎたか……)
マドハヴァディティアは内心で自嘲した。クリシュナをいたぶるのが楽しくて、ついつい時間を浪費してしまった。いやそれ以上に彼は今後のことを考えすぎたのだ。戦力の損耗を防ぐという名目で、勝利を先延ばしにしてしまった。だがこのまま終わるつもりはない。
「へ、陛下……!」
「狼狽えるな!」
絶望的な顔をする参謀を、マドハヴァディティアは叱り飛ばす。そして皆の視線を集める中、彼は次のように演説をかました。
「もはや退路はない! かくなる上は、前方の敵陣突破のみが唯一の脱出口である! 全軍に突撃を命じる! 兵どもに死力を尽くさせろっ、死にたくなければ前へ進め! 前進せよ! 前進せよ! ただひたすら前進せよ! 前進のみが、明日の日の出を見るためのただ一つの方法であるっ!」
マドハヴァディティアの、〈王の中の王〉が語るその言葉は、聞く者たちに覚悟を決めさせた。彼らは顔色を失ったままで、背後に敵が現われたその衝撃から完全に立ち直ったわけではない。だがそれでも、彼らは戦う覚悟を決めた。それを見てマドハヴァディティアはニヤリと笑みを浮かべる。そしてこう命じた。
「前進せよ! 踏み潰せっ!」
「前進せよ!」「前進せよ!」「前進!」「踏み潰せ!」「踏み潰せぇえ!」
マドハヴァディティアの命令が次々と復唱され、そして全軍に浸透していく。そしてマドハヴァディティア軍はこれまでにない圧力を伴ってクリシュナ軍の防衛陣地へ攻めかかった。
「陛下。背後の敵はいかがいたしますか?」
「捨て置け」
背後を気にする参謀に、マドハヴァディティアはチラリと背後を見てから、短くそう答えた。あまりにも予想外の返答で尋ねた参謀は思わず「はっ?」と聞き返す。マドハヴァディティアはニヤニヤとした笑みを浮かべると、大音声を張り上げてこう叫んだ。
「そら者ども! 後ろから“死”が迫ってくるぞ! 生き残りたければ戦え! 前進せよ! 者ども、踏み潰せぇえええ!」
マドハヴァディティア軍の兵士たちは狂乱した。狂乱してクリシュナ軍に襲いかかった。腹を貫かれたマドハヴァディティア兵が腸をこぼしながらクリシュナ兵に組み付く。頭に矢が刺さった兵が、死ぬまでの僅かな時間に敵を一人殺す。腕と武器を失った兵が敵の首筋に噛みつき、味方がその兵ごと敵を仕留めた。
あまりにも血なまぐさい仕方で、しかしその分だけ恐ろしい速度で、マドハヴァディティア軍は前進していく。その様子をベルノルトは丘の上から、ある種の戦慄と共に眺めていた。
「まずいかも知れないな」
「殿下?」
ベルノルトの呟きにシェマルが反応する。ベルノルトは視線を戦場に向けたまま、表情を険しくしてこう言葉を続けた。
「後ろから迫る我が軍に対して、マドハヴァディティアは抑えの兵を割いていない。むしろクリシュナ軍の防衛陣地に全軍をぶつけている。しかもあの勢いだ。下手をしたら、エクレムが追いつく前に突破してしまうぞ」
「まさか……」
シェマルは否定的にそう答えたが、内心では「あり得るかも」と考えてもいた。それくらい、マドハヴァディティア軍の勢いは尋常ではない。エクレムも移動速度を上げてはいるが、まさか全力疾走させるわけにもいかない。兵が疲れ果てていては戦えないからだ。彼が有能な将軍だからこそ、追撃の速度にはどうしても限界があった。
(予定が狂ったな……)
ベルノルトは内心で歯がみする。彼は「背後から迫るアースルガム方面軍主力に対し、マドハヴァディティアは抑えの兵を置くに違いない」と考えていた。それらの兵に対してベルノルトの部隊が効果的な一撃を加えることで速やかに敵を排除し、クリシュナ軍との間でマドハヴァディティアを挟み撃ちにする。それがベルノルトの考えていた作戦の大筋だった。
だがその予定は狂った。マドハヴァディティアは背後の敵を無視したのだ。しかも前進の速度が速い。マドハヴァディティア軍がクリシュナ軍の防衛陣地を突破するのも時間の問題だろう。エクレムの方は間に合わせるだろうが、このままではベルノルト麾下の二〇〇〇は遊兵と化してしまう。
(どうする……!?)
ベルノルトが表情を険しくする。そこへ、敵後方部隊の制圧に向かったアーラムギール隊より伝令兵が来た。
「報告します! アーラムギール隊、敵物資の奪取に成功しました!」
「良くやった! そのまま確保に努めよ!」
ベルノルトがそう命じると、伝令兵は「はっ」と答えて畏まってから、また丘を駆け下りて行く。その背中を見送りながら、ベルノルトはまたさらに考え込む。
(このままだと……)
このままだと、クリシュナ軍の防衛陣地は突破され、マドハヴァディティアも逃がすことになるだろう。イスパルタ軍の視点から見ると勝利には間違いない。だが上手く敵には逃げられたと言わねばなるまい。当然ながら敵軍の士気を折ることはできないだろう。
幸いにも、アーラムギールは物資の奪取に成功した。つまりこちらに援軍を送る必要はない。ベルノルトが動けるだけの条件は整っている。欲を言えば、戦況の推移を見てから動きたかったが、どうやらその時間はなさそうだ。
「動くぞ」
「殿下、まだ早いのでは……?」
「いや、もう遅いくらいだ。今動かなければ、我々には武功をあげる機会すら与えられないぞ」
「殿下のお立場からすれば、わざわざ武功をあげる必要はないと思いますが……」
ベルノルトの話を聞いて、アッバスが渋い顔をする。とはいえ武功うんぬんが本題ではないことはアッバスも分かっている。要するに、二〇〇〇の兵を遊兵化させる余裕はない、ということだ。
それでいよいよベルノルトは動き始めた。彼は二〇〇〇の兵の先頭に立ち、鋭く戦況を見極めながら進路を定める。狙うはマドハヴァディティアの首一つ。
マドハヴァディティア「Ahead,Ahead,Go ahead!」




