ジャムシェド会戦1
(イスパルタ軍はまだか……!?)
焦燥を募らせながら、クリシュナは内心でそう呟いた。彼がジャムシェド平原でマドハヴァディティア軍と向き合って、すでに三日が過ぎている。その間、クリシュナ軍は必死で敵の攻勢をしのいでいた。
クリシュナ軍が築いた防衛陣地は確かにその役割を果たしている。これまで三日間、クリシュナ軍が敵を退けてこられたのは、間違いなくこの防衛陣地のおかげだ。ただ急造であることは否めない。その分の負担は間違いなくクリシュナ軍の兵士たちにのし掛かっていた。
(あと……)
後何日、持ちこたえられるのか。五日か、あるいは三日か。どんなに死力を尽くしても七日が限度だろう。十日となればはっきりと言える。不可能だ。しかもその日数さえ、マドハヴァディティア軍がこれまで通りに攻めてきたとして、という前提での話だ。だがクリシュナの目には敵軍がまだ余力を残しているように見える。
恐らくマドハヴァディティアは周囲に斥候を出していて、イスパルタ軍がまだ近づいて来ていないことを確かめているのだろう。その上でなるべく、損害を出さないでクリシュナ軍の防衛陣地を突破したいと考えている。言い方を変えれば、無理攻めはしたくないと思っているのだ。
逆を言えば、「無理攻めも致し方なし」とマドハヴァディティアが決断すれば、その日の内にクリシュナ軍の防衛陣地は突破されかねない。現在の状況は、そういう潜在的な危機をはらんでいるのだ。
無論、クリシュナとてそう簡単に敗れるつもりはない。彼にとって幸運だったのは、彼の配下にニルギット会戦を経験した兵士が多くいたことだ。現在の戦いはニルギット会戦と同じく防衛戦であり、また敵も同じマドハヴァディティア軍である。非常に似通った戦いと言え、その経験もあって彼らは粘り強く戦うことができていた。
ちなみに、クリシュナ-ラーヒズヤ連合軍はニルギット会戦で敗北したが、クリシュナ軍に限って言えば、会戦で敗北した、という意識はあまりない。もちろん勝敗のどちらかで言えば敗北で間違いないのだが、「ラーヒズヤ軍が敗走したせいで撤退せざるを得なかった」という意識がある。
つまり「自分たちは負けたわけじゃない」と思っているのだ。いや、むしろそういう方向へ意識を誘導したと言うべきか。ともかくそのおかげでクリシュナ兵たちの士気は高いし、また彼らはマドハヴァディティア軍を恐れていない。何とか戦えているのは、そういう要素も関係している。
まあそれはそれとして。時間さえあればクリシュナ軍を押し切れる、とマドハヴァディティアも見ているだろう。だから彼が無理攻めを決断するのは時間が無くなったとき、つまりイスパルタ軍が接近してきた時だ。
(むう……)
クリシュナは内心でうなり声を上げた。イスパルタ軍が来てくれるのはありがたい。彼自身、ずっとそれを待っている。だがイスパルタ軍が近づいてくれば、マドハヴァディティアは強引な突破を謀るだろう。クリシュナ軍は果たしてそれに耐えられるのか。
言い方を変えれば、クリシュナ軍にその攻勢を耐えるだけの余力がある内に、イスパルタ軍は来てくれるのか。つまりただ来てくれるだけではダメなのだ。タイムリミットはその前に設定されている。しかも悪いことに、マドハヴァディティアの胸一つで前後する。それが分かっているので、クリシュナはここ数日ずっと胃の痛い思いをしていた。
そしてさらにもう一つ、彼の胃痛の原因となっているものがある。使者が持ち帰ったイスパルタ軍の返答である。彼らはジャムシェド平原を決戦の舞台とすることや、クリシュナ軍の救援要請に対しては了解の意を伝えていたが、同時にこう言い添えることもしていたのだ。
『ただし間に合うかまでは保証できない。妨害があるかも知れないし、敵が予想より早く動くこともあり得る。そこは留意してもらいたい』
この言葉を使者に告げたのは、近衛軍元帥のハザエルだという。額面通りに受け取れば、全くその通りの言い分ではある。何が起こるか分からない以上、「絶対に間に合う」と安請け合いすることはできない。それはその通りだろう。
だがそれをあえて口に出したところに、クリシュナはほのかな悪意を感じざるを得ない。自明のことならあえて口にする必要は無く、それなのにわざわざそうしたということは、何か別の意図があるのではないか。
(アリバイ作りのつもり、か?)
クリシュナが真っ先に思いついたのはそれだ。つまりわざとクリシュナ軍を見殺しにして、あとでそれを追求された場合、「遅れる可能性はクリシュナ軍も了解していた」と主張して責任を逃れる、というわけだ。
とはいえその可能性が低いことはクリシュナも承知している。クリシュナ軍が壊滅したことについて、その責任をイスパルタ軍に問える者など、そもそもいないからだ。イスパルタ軍自身がそのことを理解しているだろう。ならばこんな小細工は弄する必要がない。むしろ感づかれる可能性があるのだから、余計なことは何も言わず、堂々と見殺しにすれば良い。
そもそも、ここでマドハヴァディティア軍と一戦して最低限優位に立っておかないと、イスパルタ軍としても面目が立たないだろう。「何しにこんな西の果てまで来たのか」と言うことになりかねない。
そしてマドハヴァディティア軍と戦うなら、クリシュナ軍は健在の方が良い。イスパルタ軍がすでに戦後のことを考えているのだとしても、彼らの立場が圧倒的に強くなることは明白なのだから、「この機会にクリシュナ軍も潰しておけ」と考えるのはいささか欲張りというか極端に思える。
(となると……)
となるとハザエル元帥の意図としては、クリシュナに釘を刺した、と言うところだろう。「イスパルタ軍をアテにしすぎて手を抜くな」というわけだ。とはいえわざわざ釘を刺してくるところに、互いの信頼関係の無さが窺える。そしてクリシュナもそれを否定しようとは思わなかった。
(アルアシャン王太子、か……)
彼に自分の気持ちは理解できないだろうな、とクリシュナは胸中で呟いた。尊敬できる父王の下、血筋にも恵まれた、生まれながらの王太子。それがアルアシャンだ。
一方でクリシュナは違う。マドハヴァディティアは、能力はともかく、決して尊敬できる父ではなかった。母は側妃の一人で、家柄も含めて強力な後ろ盾とは言いがたい。何より王子らの中で最年長でありながら、クリシュナは王太子に冊立されていたわけではなかった。
アルアシャンの目から見れば、クリシュナのやっている事は唾棄するべき簒奪に見えるだろう。その権利がないのに王座へと手を伸ばす。彼の王太子という立場からすれば、それは決して容認できない所業だ。
だからこそ、アルアシャンはクリシュナの気持ちを理解することができない。あの絶望にも似た虚無感を。怒りにも似た憎しみを。そして実際に王座に座ったときの、あの身体が蕩けそうになる充足感を。アルアシャンは決して理解することができないだろう。
理解できるとすれば、それはベルノルト第一王子の方だろう。王位継承権を持たないという彼が、生まれながらの王太子たる弟をどう見ているのか。クリシュナとしてもなかなか気になるところだ。
(ベルノルト第一王子と言えば……)
確か、別働隊を率いて本隊とは別行動をしていたはずだ。クリシュナはそのことを思い出す。つまりアルアシャンが間に合わなかったとしても、ベルノルトが間に合う可能性はある。
間に合ってほしいものだ、とクリシュナは思う。彼が生き残るため、というだけではない。もしもベルノルトがマドハヴァディティアを討ち取ったら、イスパルタ朝国内における彼の影響力は飛躍的に高まるだろう。
さらにベルノルトにはアースルガムという地盤がある。その彼とクリシュナが組めば、この西方において一大勢力を築くことも夢ではない。独立は難しいかも知れないが、しかし将来的にはそれさえも……。
そこまで考え、クリシュナは頭を左右に振った。さすがに話が飛躍しすぎだと思ったのだ。それに、この妄想がその通りになったとして、主導するのはベルノルトでありクリシュナは従属的な立場だ。以前、彼がベルノルトに覚えた嫉妬は、今も胸の奥にくすぶっている。
ただそれでも。この戦場に現われるのがアルアシャンかベルノルトのどちらか一方だったとして、それはベルノルトであって欲しい。それがクリシュナの偽らざる本心だった。
「ま、両方来てもらうのが、一番良いのだがな」
クリシュナはそう呟いて肩をすくめた。結局話はそこへ戻る。ごまかしていた焦燥と共に。そんな彼のもとへ、一人の部下が駆け寄ってくる。彼は緊迫した顔をしていた。
「陛下」
「動いたか」
「はっ」
クリシュナは視線を北に向ける。そこにはマドハヴァディティア軍がいて、ちょうどその一隊が動き出そうとしているところだった。そしてそれに呼応するかのように、クリシュナ軍の防衛陣地からラッパが吹き鳴らされる。それを聞きながら、クリシュナは身を翻した。
今日もまた、戦争の時間が始まる。
○●○●○●○●
クリシュナ軍とマドハヴァディティア軍が相対して五日目。この日もマドハヴァディティア軍の攻勢を、クリシュナ軍は必死になってしのいでいた。そしてイスパルタ軍はまだこのジャムシェド平原に姿を現していない。
「左翼! 敵の動きに惑わされるな、そっちは囮だ!」
「右翼! 深追いするな、すぐに正面から来るぞ! 一旦退いて見せて、突出してくる敵を側面から牽制しろ!」
「正面! 来たぞ! 弓、放てぇぇ!」
「っち、予備戦力を投入しろ! 左翼側から迂回して、正面の敵の脇腹をえぐれ!」
目まぐるしく変わる戦況に対し、クリシュナも矢継ぎ早に指示を出して対応する。一度に攻めかかってくる敵の数は、五日前からあまり変わらない。マドハヴァディティアは無理をせず、兵を入れ替えながら断続的に攻撃を仕掛けている。
ただその戦術は、徐々に技巧を凝らしているように思われた。つまりマドハヴァディティアは戦いながらクリシュナ軍のことを調べているのだ。突いてみてどう反応するかを観察し、防衛陣地の弱点を探り、果てには指揮官のクセまで暴く。おかげでクリシュナは徐々に丸裸にされる危機感を味わっていた。
しかしながらだからといって。手札を隠しながらしのげるほど、マドハヴァディティア軍の攻勢はぬるくない。クリシュナは全身全霊を尽くし、つまり手持ちのあらゆるカードを切ることで、ようやく現在の均衡を維持しているのだ。
それなのに敵軍の動きが、つまりマドハヴァディティアの指揮が的確さを増しているというのは、クリシュナ軍にとって明白な脅威である。このままでは当初考えていた日数を前に限界に達しかねない。
それでクリシュナも参謀部を総動員して、マドハヴァディティア軍についての分析を行わせている。まだ情報量が少ないために報告の大半は予想や憶測だが、それでも敵の動きからその狙いを洞察する助けにはなっていた。
なによりクリシュナ自身、少しずつだがマドハヴァディティアの指し口が予測できるようになってきた。そのおかげで戦況を維持できている側面は確実にある。ただし前述したとおり、同じ事がマドハヴァディティアにも言える。そしてこの綱引きの均衡は、徐々にマドハヴァディティアの側へと傾いているように、クリシュナには思えた。
(腹立たしいことだ!)
次々に指示を出しながら、クリシュナは内心でそう吐き捨てる。技巧を増すマドハヴァディティアの戦術にクリシュナが対応できなくなるということは、それはつまり父王のほうが彼よりも上手であることを示している。
もちろん、単純な才能の差ではないだろう。むしろ経験の差の部分のほうが大きいはずだ。だがそれでも格の差を見せつけられているとでも言うのか、クリシュナはマドハヴァディティアの手のひらの上で踊らされているような気がしてならなかった。そう、彼にとってはとても屈辱的なことに。
さらに屈辱的なことに、それが分かった上でも、クリシュナは力の限り足掻かざるを得ないのだ。そうしなければ、あっという間に防衛陣地を突破されるだろう。その有様は「踊らされている」というよりは、「なぶられている」と言った方が正しいかも知れない。
しかもマドハヴァディティアはその意図を隠そうともしていないように思える。それどころかまるでこれまでの鬱憤を晴らすかのような、そんな雰囲気が漂っている。その原因にもちろんクリシュナは心当たりがあり、そのせいでなんだかネチネチと意趣返しをされているようにさえ感じる。
だがそれでも。やはり力の限り抗うより他に、クリシュナには為す術がない。マドハヴァディティアにはそこまで見透かされているような気がして、そのことがまたクリシュナにとっては腹立たしかった。
「正面の部隊を入れ替えるぞ! 両翼は前に出て援護しろ!」
敵兵が退いていくのに合わせて、クリシュナはそう命じた。個々の兵の体力には限界がある。どんなに精強な兵も、一日中戦い続けることはできない。そして無理をさせれば、その分だけ討ち死にしやすくなる。消耗率を下げるためには、定期的に兵を交代させて軍全体としての体力を維持しなければならない。
だがどれだけ最適なタイミングで交代を行ったとしても、疲労は確実に蓄積していく。そしてその速度はマドハヴァディティア軍に比べてクリシュナ軍の方が早い。兵の数が違うからだ。
加えて「最適なタイミング」での交代など、実際には不可能だ。どうしても敵の攻勢をしのぐことを優先せざるを得ない。場合によっては予備戦力、つまり休ませているはずの兵たちさえ投入しなければならないのだ。そんな状況での休息など、まさに「焼け石に水」だった。
「敵がまた出てくるぞ! 両翼は戻れ! 引きつけて叩け!」
クリシュナ軍の兵士たちは、良く戦っている。士気は高く、彼らの心はまだ折れていない。司令官たるクリシュナにとっても頼もしい限りだ。しかしその一方で、彼らの顔に浮かぶ疲労の色は隠しようがない。そしてそれがまた、クリシュナを焦らせる。
(疲労が一線を越えたら……)
疲労が一線を越えたら、戦線は一挙に崩壊するのではないか。そんな懸念がある。現状その一線へ徐々に近づいているわけだが、それが分かっていてもクリシュナに打つ手はない。追い詰められるとは、つまりこういうことなのだ。
つまり端的に言うならば。クリシュナ軍とマドハヴァディティア軍の戦いだけを見れば、戦況はすでに詰んでいる。しかしながらクリシュナに投了は許されず、決定的に敗北するその瞬間まで戦い続けるしかない。この絶望的な戦いを。
ただクリシュナ軍にも希望がある。イスパルタ軍の救援だ。ただしいつ来るかは分からない。昔の賢者は「実現しない期待は心を悩ませる」と書いたが、クリシュナはその言葉の正しさをここ数日間実感し続けている。
とはいえ幸いなことに、クリシュナが心を悩ませてそのまま病んでしまうことはなかった。この日の正午前、ついにイスパルタ軍がジャムシェド平原に姿を現したのである。それは北の方からやって来た、アースルガム方面軍だった。
クリシュナ「来たぁ!」




