決戦にむけて3
ベルノルトは今、ラーカイド城より出陣し、アースルガム方面軍およそ一万四〇〇〇を率いて南下している。目指しているのはシンドルグ城。マドハヴァディティア軍の本隊と、マドハヴァディティアその人がそこにいる。
もちろん、アースルガム方面軍単独でシンドルグ城を攻略するつもりはない。そもそも本当にシンドルグ城を攻略する事になるのか、それさえも不透明だ。マドハヴァディティアはこの地域の支配権に拘っていない。ガーバードへ向かうべく、城を放棄して南下する可能性は十分にある。
だがもしもマドハヴァディティアが出陣する前にシンドルグ城へ肉薄することができたなら、その後の彼の動きをかなりの程度掣肘することができる。自由に動けなくなれば、マドハヴァディティア軍は補給にも事欠く。そこへイスパルタ西征軍本隊が合流すれば、あとは囲んでいるだけで決着がつくだろう。
ベルノルトはそのようなつもりでいたわけだが、彼の目論見は外れた。シンドルグ城へ向けて行軍中、本隊からの伝令が駆け込んできたのだ。そしてその伝令は「決戦の地はジャムシェド平原」とベルノルトに伝えた。
「殿下、いかがいたしますか?」
「斥候を出してシンドルグ城の様子を探らせろ」
ベルノルトはエクレムにそう命じた。ただちに斥候が数騎、シンドルグ城へ走る。彼らの持ち帰った情報は予想通りで、しかしそれでもベルノルトを驚かせた。
「シンドルグ城は完全に放棄されていました。マドハヴァディティアは火を放ったらしく、あちこちでまだ煙がくすぶっていました」
マドハヴァディティアがシンドルグ城にもういないのは予想通りだ。しかし完全に放棄して火を放つことまでするとは、ベルノルトも思っていなかった。多少は兵を残して北への、つまりアースルガム方面軍への抑えにするのではないかと思っていたのだ。しかしマドハヴァディティアはそうしなかった。
「思い切りましたね……。我々の動きを掴んでいないはずはないと思うのですが……」
難しい顔をしてメフライルがそう呟く。ベルノルトも同じく難しい顔をして一つ頷いた。北から一万を超える敵が来ているのだ。警戒して当然だろう。そして自軍は城を一つ確保しているのだ。ならばそこに兵を入れて抑えとする、というのは自然な発想ではないだろうか。
だがマドハヴァディティアはそうしなかった。全軍を率いて出陣し、城には火を放ったのだ。そこにはもちろん、「城を敵に使わせないため」という意図があったのだろう。来たるべき決戦のために、一兵でも多くの戦力を必要とした、とも考えられる。
だがそれ以上に、「帰る場所はもはやガーバードしかない」と兵たちに理解させるために、マドハヴァディティアは城を焼いたのではないか。それこそ、来たるべき決戦のために。ベルノルトにはそう思えた。
(もしそうなら……)
もしそうなら、マドハヴァディティア軍の兵士たちは必死になって戦うだろう。他でもない、自分たちが故郷に帰るために。彼らの士気は極めて高いに違いない。そして士気の高さは、時として練度や数の差を凌駕する。
「厄介なことになった」
「まことに」
「クリシュナ軍には、がんばってもらわないと」
「まことに」
そう言ってベルノルトとメフライルは笑い合った。とはいえ二人とも、クリシュナ軍に全て任せてしまうことは無理だと分かっている。クリシュナ軍単独ではマドハヴァディティア軍には勝てない。ならばどこかのタイミングで介入する必要がある。それまでクリシュナ軍には粘ってもらわねばならないのだが、敵軍の士気のことを考えると、あまり猶予はないのかも知れない。
「ともかく、ジャムシェド平原へ向かおう」
「はっ。ところで、シンドルグ城はどうなさいますか?」
「空なのだろう? 気にしなくて良いんじゃないのか?」
「ですが、放置すれば良からぬ者たちに利用される恐れがあります」
メフライルがそう言うのを聞き、ベルノルトは顔をしかめた。良からぬ者たち、つまり盗賊などが根城にする可能性がある、ということだ。そして現在、この地域には流民が大勢いる。そのことを考え合わせれば、この懸念は無視できない。
「流民が盗賊化して補給線が狙われる、か……」
「御意」
ベルノルトはますます顔をしかめた。くすぶる火種を後方に残していては、行軍はおぼつかない。もしかしたらこれさえもマドハヴァディティアの策略なのではないか。彼はそんなことまで考えた。
「仕方がない。兵を入れよう。五〇〇だ。それからラーカイド城に命じて、シンドルグ城に兵糧を入れさせろ。このあたりの流民は、シンドルグ城で保護させる」
ベルノルトはそう命じた。これでまた、イスパルタ軍は多数の流民を抱えることになる。頭の痛い問題だ。だが見過ごすことはできない。彼らが暴徒化、あるいは盗賊化して困るのは、結局のところイスパルタ軍だからだ。
加えてベルノルトの心情としても、流民たちのことを見て見ぬ振りをするのは辛かった。ラーカイド城からここまで南下してきた間にも、大小幾つもの流民の集団がアースルガム方面軍に保護を求めてきた。だがベルノルトはそれを拒否しなければならなかった。これから決戦へ赴こうというのに、足手まといをぞろぞろと引き連れていくわけには行かないのだ。
『ラーカイド城へ行け。そこで保護してもらえる』
『ではせめて食料を、ほんの少しでもお恵み下さいませ』
流民たちはそう求めるのが常だった。彼らが腹を空かせているのは一目瞭然だった。中にはラーカイド城にたどり着く前に飢え死にしてしまう者もいるだろう。ベルノルトは容易にそれを想像できた。しかしその上で、彼はこう答えなければならなかった。
『ダメだ。お前たちに食料を分ければ、敵と戦う前に我々が飢えてしまう』
『そんな……』
縋り付く視線を振り払う。そのたびに彼は苦い思いを噛みしめてきた。自分がマドハヴァディティアの蛮行の片棒を担いでいるような気さえしていた。彼の葛藤を知る者たちは、彼のことを「優しいお方だ」と言う。だがそれよりも「人でなし!」と罵倒された方が、彼は気が楽だったろう。
ベルノルトは流民を助けることはでなく、マドハヴァディティアを討つことを優先したのだ。それこそがこの地域の治安を回復することに繋がる、とそう考えて。そしてそれは正しい。ただしベルノルトの、イスパルタ軍の視点から見ての正しさだ。
だからその正しさは、多くの流民には理解できない。今にも飢えて死にそうな流民の子供や、赤子に乳を飲ませてやることもできない母親にその正しさを説いたとして、一体何になるのか。それより一片のパンか、一杯の麦粥を恵んでやった方がよほど正しい。ただしその正しさは、流民側の正しさだ。
ベルノルトの正しさと、流民たちの正しさ。この二つを両立させることはできなかった。だからベルノルトは自分の正しさを優先させてきた。だからこそ、と言うべきか。大義名分ができたからには、なるべく多くを救いたかった。
(偽善だな)
ベルノルトはそう思った。だが神ならざる身には、できる事とできない事があるのだ。ならば優先順位を付け、できることをやるしかない。そのことに苦しさはあっても、後ろめたさはなかった。
ちなみに、シンドルグ城へ送った五〇〇は、アーラムギールの部隊から割いた。彼らの大多数は元流民で、流民たちの事情や心情がよく分かるだろうと思ったのだ。加えて、これから臨む決戦のために、精兵たるイスパルタ兵を減らしたくなかった、という理由もある。どちらの比重が大きかったのかは、わざわざ書く必要の無いことだ。
さて、五〇〇の兵が別れてシンドルグ城へ向かうと、アースルガム方面軍の戦力はおよそ一万三五〇〇となった。ベルノルトはこれを率いてジャムシェド平原へ向かう。本隊も向かっているだろう。どちらが先につくかな、とベルノルトは馬上でぼんやり考えた。
(仮に……)
仮にアースルガム方面軍の方が先に着いたとする。この場合、決着がつく前にイスパルタ西征軍本隊が間に合えば、何も問題はない。問題があるのは、本隊が決戦に間に合わなかった場合だ。
この遠征には、いずれ王位を継ぐアルアシャンに功績を積ませる、という意図がある。もちろんそれだけを意図しているわけではない。だがそういう意図があるのは事実で、アルアシャン本人を別とすれば、上層部ほどその認識が強い。そして当然ながら、ベルノルトもそういう認識を持っている。
それなのにアルアシャンが決戦に間に合わなかったら、彼は「間抜け」のレッテルを貼られるだろう。その上でベルノルトが大きな功績を挙げたりしたら、「第一王子こそ次の王に相応しい」などという声まで上がりかねない。
もちろんそれだけで現在の王位継承順位が揺らぐことはないだろう。だがイスパルタ朝にとっては隙になるし、アルアシャンにとっては傷になる。ベルノルトの周囲も面倒な事になるだろう。誰にとっても良いことはない。
(コッチが遅れる分には、問題はないんだけどなぁ)
ベルノルトは内心でそう苦笑する。それどころかアルアシャンの箔付けのことを考えるならば、アースルガム方面軍はもうこれ以上活躍しない方が良い。そうすればマドハヴァディティア軍撃退の功績は、全て本隊の、アルアシャンのものになる。
しかしだからと言って。わざと歩みを遅らせるわけにはいかない。万が一、アースルガム方面軍が遅れたために決戦に負けるようなことがあれば、それこそアルアシャンの経歴に傷がつく。戦況も一気に暗転し、イスパルタ軍は主導権を失うだろう。再興したばかりのアースルガムもどうなるか分からない。
となればやはり、無駄に歩みを遅らせることなくジャムシェド平原へ向かうしかない。決戦はまず勝つことが第一だからだ。しかしそこから逸れないならば、あるいは一つ策を講じても良いかも知れない。そう思い、ベルノルトはエクレムを呼んだ。
「お呼びでしょうか、殿下」
しばらくすると、エクレムが現われてベルノルトと馬を並べる。ベルノルトは一つ頷くと、彼にこう尋ねた。
「進路を変更しようと思うのだが、どうだろう?」
「どのようにですか?」
ベルノルトが答えたのは、現在の進路よりも西寄りに迂回するコースだった。エクレムは思案げに一つ頷くと、さらにこう尋ねる。
「なぜわざわざそのコースを? 『兵は拙速を尊ぶ』と言います。いたずらに時間を費やすよりは、このまま直進するべきと考えますが」
「シンドルグ城を放棄した以上、マドハヴァディティアは我々が追撃してくることを想定しているだろう。なら何か仕掛けているかもしれない。それを回避するためだ」
「…………」
「仮に何もなかったとすれば、なおさらマドハヴァディティアは現在のコースを想定して布陣しているはずだ。なら迂回すれば、敵の思惑を外すことができる。上手くやれば、奇襲が成功するかも知れない」
「なるほど。それで、他に何かありますか?」
「……本隊より先に到着してしまうのは、まずいかと思ってな」
エクレムに「さっさと吐け」と無言で脅され、ベルノルトは観念してその理由を口にした。それを聞き、エクレムはこれ見よがしにため息を吐く。戦場に政治判断を持ち込むな、と言いたくなるのを彼はぐっと堪えた。
「本隊にはハザエル元帥もおられます。我々がそのような心配をする必要はないのではありませんか?」
エクレムのその言葉に、ベルノルトも頷いて同意する。彼自身、考えすぎではないかと思っている。何しろ本隊にはハザエルがいてユスフがいて、他にも多くの有能な幕僚たちがいるのだ。彼らが何としてでも間に合わせるだろう。それでも彼はこう答えた。
「到着順うんぬんは、まあエクレムの言うとおりだと思う。だがマドハヴァディティアが我々に対して何の手も打たず、呑気に背後を襲わせるなんてことは、やっぱり無いと思うんだ」
「……ふむ。それは、まあ、確かに」
「なら、迂回コースにはそれなりに意味があるんじゃないか?」
「……これを殿下の成長と思い喜ぶべきなのか、少々迷いますな」
エクレムはため息を吐きながらそう答えて了承の意を伝えた。ベルノルトは笑顔を浮かべると、早速新たな進路を確認させるべく斥候を放つ。その後、アースルガム方面軍は西寄りに進路を変更した。
だがしかしそれでも。イスパルタ西征軍本隊はジャムシェド平原の決戦には間に合わなかった。
○●○●○●○●
「なんだ、これは……」
その光景を見て、アルアシャンは唖然としてそう呟いた。大地が広くぬかるんでいる。土地が低いのだろうか、水が溜まり水没している箇所が点々とある。そのような状態が見渡す限り、一面に広がっているのだ。
その報告を持ってきたのは、イスパルタ西征軍本隊の行軍に先立ち、先行させて前方の様子を確認させていた斥候らだった。彼らは大地が広く、そして酷くぬかるんでいるのを発見し、それを報告したのである。アルアシャンは自分の目でそれを確認し、そして冒頭の言葉を呟いたのだった。
「通れると、思うか?」
「確認させましたが、難しいかと。足を取られるでしょうし、何より荷車を進ませるのが困難と思われます」
ユスフが険しい顔をしながらそう答える。それを聞き、アルアシャンは奥歯を噛みしめて顔を歪めた。人間や馬は何とかなるかも知れない。だが荷車が進まなければ、組織としての軍隊は前進できない。
「調べさせろ」
「御意」
具体的に何を調べるのかアルアシャンは何も言わなかったが、ユスフは即座にそう答えた。そしてすぐに指示を出す。それから彼はアルアシャンを宥めて本陣へ連れ帰った。
調査報告がでたのはそれからおよそ半日後、すでに日が暮れてからの事だった。その間当然ながら本隊は足止めを喰らっている。そのせいか、アルアシャンは言葉少なめだった。
「どうやら、川の堤防が切られたようです」
大地が広くぬかるんでいる原因について、斥候はそう話した。決壊したのではない。切られたのだ。つまり人為的なものであり、その目的は十中八九イスパルタ西征軍本隊の足止めであると思われた。
「マドハヴァディティアの仕業か……!」
アルアシャンが苦々しげにそう呟く。異を唱えるものは誰もいない。皆が彼の仕業だと思ったのだ。
さらに報告は続く。堤防が切られた影響は、やはり広範囲に広がっていた。これを突っ切って進むことは現実的ではない。となれば、大きく迂回するしかない。そしてそれはその分だけ時間が余計にかかることを意味していた。
「間に合う、のか……?」
アルアシャンがやや不安げにそう問い掛ける。それに答えたのはハザエルだった。
「幸い、兵糧には余裕があります。そしてジャムシェド平原を決戦の舞台に定めたのは、あくまでクリシュナの都合です。仮に突破されたとして、マドハヴァディティア軍の後方ないしは側面を突くことができれば、勝利を得ることは十分に可能です。ですから王太子殿下、あまり心配なされますな」
ハザエルが確信の籠もった話し方をしたので、アルアシャンはぎこちなくも一つ頷き納得することができた。ただいずれにしても、まずはジャムシェド平原の決戦に間に合わせることが第一だ。それで参謀たちは具体的なルートについて夜遅くまで話し合う。強行軍になることは避けられそうになかった。
ベルノルト「クリシュナー、がんばれー」
メフライル「なんと気の抜けた応援」




