教皇の最期5
「その異教徒を捕らえよ!」
ババールが聖堂を立ち去ろうとしたとき、ミールワイスのヒステリックな声が響いた。その命令に従い、信徒の幾人かがババールに飛びかかる。
「何をする!? ええい、放せっ!」
ババールは職業軍人であり、ダンジョンに潜って経験値を溜め込んでもいる。成長限界には達していないものの、ズブの素人に後れを取るような、柔な鍛え方はしていない。それで飛びかかってきた内の二、三人は殴りつけたりして振りほどいた。
しかし多勢に無勢。四方八方から飛びかかられ、その上で足を取られたババールは、石畳の上に押し倒された。さらに幾人かが彼の肩と両腕と背中と両足を押さえつけて身動きを封じる。ババールは完全に取り押さえられてしまった。
「良いザマだな、ババール」
嘲笑を含んだ声が頭の上から振ってくる。ババールは何とか首を動かしてそちらを見上げた。そこにいたのはミールワイスだ。彼の目は血走り、さらに妖面な光を放っている。ババールはこの時やっと、そのことに気付いた。
「お前が、お前が悪いのだ……。俺から、俺から奪おうとするから……!」
血走った目をギョロギョロさせながら、ミールワイスが戦慄くようにしながらそう呟く。そして彼は懐から短剣を取り出した。その刃がかがり火に照らされてヌルリと輝く。それを見てババールは焦ったようにこう叫んだ。
「ま、待て! ミールワイス!」
「教皇猊下と呼べっ!」
金切り声で叫び、ミールワイスは短剣をババールの首に突き刺した。一度ではなく、何度も何度も、執拗にそれを繰り返す。繰り返す度に血が噴き出し、彼の顔と法衣は血まみれになった。
ババールはすでに事切れている。それでもミールワイスは短剣を彼の首に、いや首だけではなく顔にも突き刺し続けた。やがて疲れたのか、彼の手が止る。彼は短剣を投げ捨てると、両手で顔を覆い身体を仰け反らせて狂ったように哄笑を上げた。そして感情のままにこう絶叫する。
「ふ、ふはは、ふあはははああ! 思い知ったか、異教徒め! 女神に楯突く者は、このようになるのだあ……!?」
突然、ミールワイスの哄笑が止む。彼の顔からは血の気が引き、口元からは赤い血が一筋流れ落ちる。ババールの血ではない。彼自身の血だ。そして彼が視線だけ動かして背後を窺うと、そこには男の信徒が一人。
その男はミールワイスの腰の辺りに体当たりするように身体を寄せている。彼はその手に短剣を握っていた。ミールワイスが投げ捨てた、ババールの血に濡れた短剣だ。その短剣が、今度はミールワイスの腎臓のあたりに突き立てられている。
「妻と、娘の……、アンヌとローシの仇だ……! 死ね、悪魔!!」
男は涙を流しながらそう叫んだ。彼の名前はどの歴史書にも記録されていない。ベルノルトはもちろん、ババールもミールワイスもまったく目をとめていなかったこの名もなき男は、この瞬間確かにその存在を歴史に刻みつけたのだった。
とはいえ、男にとってそんなことは全く重要ではない。男は突き刺した短剣をひねってミールワイスの内臓を抉る。彼は「ゴフッ」と血の塊を吐いた。それでも彼は力を振り絞って男を振り払う。いや、この場合は男の方が離れたと言うべか。同時にミールワイスの腰の辺りから短剣が引き抜かれた。
「教、皇に、アダなす、とは……。なん、じは、地獄に、落ち、るだろう……!」
「うるさいっ。地獄に落ちるのは貴様だ、悪魔め!」
男はそう絶叫すると短剣を両手で構え、ミールワイス目掛けて突っ込んだ。そして勢いそのまま、身体ごとぶつかって短剣を再び彼に突き刺す。ミールワイスにそれを回避する力は残っていなかった。
ミールワイスは男に突き倒されるようにして、背中から後ろに倒れた。そしてババールの遺体の上に倒れ込む。一緒に倒れた男は這いつくばりながらもミールワイスの上に馬乗りになり、短剣を逆手に引き抜いて何度も何度も彼に突き刺す。そして彼が動かなくなると、脱力して天井を見上げ大きな声で泣いた。
この時点ですでに、聖堂内にいた“信徒”たちは皆、逃げ出してしまっている。がらんとした聖堂には、男の泣き声だけが響いた。その後、彼の行方を知るものはいない。
○●○●○●○●
ラーカイド城の城門が内側から開かれると、ベルノルトは直ちに突撃を命じた。不思議と組織的な抵抗はない。どうやら敵兵の多くは逃げ出したようだった。散発的な抵抗を排除しながら、アースルガム方面軍は城の制圧を進めた。
城内には焼かれた村や街から連れてこられた捕虜が多数いることが分かっている。ベルノルトも非戦闘員を虐殺するのは本意ではない。それで「武器を持たない者は殺さないように」と命じ、さらに投降した者たちは制圧済みの区画に一時的に集めた。
意外だったのは、ルルグンス兵の投降が多かったことだ。彼らは城内にいた捕虜たちに混じり、武器を捨てて投降してきたのだ。戦いの後でメフライルが彼らから話を聞いたのだが、彼らは投降した理由についておおよそ次のように語った。
「ミールワイスが破門されているとは知らなかった。破門された者にこれ以上従うことはできない」
「ミールワイスがフサイン法王猊下を弑逆したとは知らなかった。大罪人にこれ以上従うことはできない」
「ミールワイスに従っていても、故郷にはもう帰れそうにない。異国で侵略者のために戦うのは、もう疲れた」
「今、ヴァンガルの大聖堂を守護しているのはイスパルタ王だ。ならイスパルタ軍に協力するのが、女神イーシスの御心にかなう」
ベルノルトが思っていた以上に小細工が効いていた、と言えるだろう。投降したルルグンス兵の数は、最終的に一〇〇〇人を超えた。その内の約半数は西方出身で、残りの半分はヴァンガルの出身だった。
まあそれはそれとして。アースルガム方面軍がラーカイド城の制圧を進める中で、ベルノルトはミールワイスとババールの死を知った。ちなみにババールについては、アーラムギールが捕虜に面通しして素性を調べていた。二人とも討ち取られたわけではなく、聖堂と呼ばれていた場所で折り重なって死んでいたという。
「内紛でもあったのか……?」
「かもしれません。殿下が煽りましたから」
「台本を書いたのはライルだろう」
「おや。では此度の戦果はわたしの手柄ということで」
メフライルがぬけぬけとそう言うと、ベルノルトは肩をすくめて苦笑した。ともかくこの二人が死んでいたことで、敵は組織的な抵抗ができなかったのだと思われた。そのおかげでこの二人も冗談を言い合うことができている。そして朝日が昇るより早く、アースルガム方面軍はラーカイド城を制圧した。
城内の制圧が完了すると、旧法国の宗教旗が降ろされ、代わりにイスパルタ朝の双翼図が掲げられた。それを一目見てから、ベルノルトはミールワイスが使っていた執務室へ向かった。そこで彼はエクレムからこう報告を受ける。
「城内にいた敵戦力の大部分は、逃走したものと思われます」
それを聞いて、ベルノルトは大きく頷いた。もともとラーカイド城にはおよそ六〇〇〇の兵がいたとされている。だが今回討ち取った敵兵の数は、三〇〇に満たない。投降してきた分を加えても一五〇〇に届かず、つまり四〇〇〇以上の兵がどさくさに紛れて逃げ出したものと思われた。
これらの敗残兵が武器を捨てて大人しくしてくれている、と考えるのはあまりにも楽観的だろう。放っておけば、彼らの少なくとも一部は盗賊化する。周囲の街や村を襲うだろうし、イスパルタ軍の補給線も狙われるかも知れない。今後さらに南下していく上で、リスクとなるだろう。それでベルノルトはこう命じた。
「シェマルとアッバスの別働隊に伝令を出せ。残党狩りをさせる」
「はっ。直ちに」
エクレムは真剣な顔でそう答え、すぐに参謀の一人に目配せする。彼は敬礼すると、伝令を手配するために部屋から出て行った。
報告はさらに続く。昨夜の戦いで逃走したのは敵兵だけではなかった。ラーカイド城に集められていた捕虜たちの多くが、混乱に乗じて城外へ逃れ、アースルガム方面軍に保護されることなくいずこかへ去っていた。
彼らについて、ベルノルトは特に何も命じなかった。連れ戻す意味はないし、まして探して殺す必要性など皆無だ。ただ保護した分については、一定の責任がある。
「ラーカイド城は今後、物資輸送のための重要な拠点になります。そこに多数の難民を置いておくというのは、あまり好ましくありません」
エクレムがそう言うと、ベルノルトも大きく頷く。幸い、彼らは敵ではない。ラーカイド城の周囲には焼かれずに済んだ街や村があるので、そこへ送り届けてやればいいだろう。ベルノルトはそう思っていたのだが、ここから話は妙な方向へ転がった。
「イスパルタ軍で雇ってもらいたい」
捕虜とされていた者たちの中に、そう希望する者が多数いたのである。どうやらアーラムギールの部隊の兵士から、ペシュガルモでアースルガム方面軍が人足を募集した話を聞いたらしい。
「故郷を焼かれ、手持ちのお金もありません。他の街や村に頼れるような親類もいないので、ここで放り出されたら乞食になるしかありません。死んでしまいます。ですがここで糧を得ることができれば、生きていくことができます。どうか助けて下さい!」
異口同音にそう懇願され、ベルノルトは困惑した。しかも懇願の声が響く度に、それを聞いた別の者が我も我もと手を上げていく。結局、保護した捕虜たちのうち三分の二以上の者が、イスパルタ軍に雇用されることを希望した。
悩んだ末、ベルノルトは彼らの希望を容れることにした。「乞食になるしかない。それでは死んでしまう」と彼らは言っていたが、実際にはその前に盗みを働いたりする者が多数出るだろう。集団で盗賊化した挙句、イスパルタ軍の補給線が襲われでもしたら大惨事だ。それを避けるための、予防的な措置だった。
幸い、資金には余裕がある。ミールワイスが集めていた“寄付”が手つかずで残っていたのだ。これを使い、ベルノルトは捕虜たちを雇用することにした。実際、仕事は多々ある。人手があって困ることはないのだ。
ただ問題もあった。一つはラーカイド城の収容人数である。保護した捕虜たちが解散しないとなると、アースルガム方面軍の兵士たちを城に入れることができない。そこでベルノルトは開き直り、全軍を城の外で寝起きさせた。不満を覚える者はいただろう。だが彼自身がテントで寝起きしたので、その不満が問題に繋がることはなかった。
もう一つの問題は、投降した敵兵の扱いだ。彼らと保護された捕虜たちの間には、当然ながら深い溝がある。一緒にしておけば何かと問題が起こるだろう。であれば彼らをラーカイド城に置いておくことはできない。
それでベルノルトは彼らをペシュガルモのオムのところへ送った。他に送るところがなかったとも言える。ただこの選択はそう悪いものではなかった。ペシュガルモの領主は焼かれた街や村の再建を考えており、捕虜たちはそのための良い労働力となった。
これは戦後の話になる。終戦から一年ほど後、これらの元敵兵らは全員解放された。西方出身の者たちはそれぞれの故郷に帰ったが、その一方で帰る場所のない者たちもいた。ヴァンガル出身のルルグンス兵らである。その数はおよそ五〇〇人であったと記録されている。
ヴァンガル自体は健在だ。しかし彼らは売国奴ミールワイスに与して同胞を虐待した経験を持つ。彼ら自身にそのつもりがなくとも、ヴァンガルの民衆はそう考えている。そして彼らもそのことを知っていた。それでヴァンガルへ帰っても、肩身が狭いどころか石を投げられかねない。
彼らはそう訴え、最終的に彼らは工作兵として近衛軍に組み込まれることになった。街や村の再建のため、土木工事に従事していた経験を買われてのことだ。彼らが最初に送り込まれたのは魔の森に対する防衛線で、彼らは前線・後方を問わず土木作業に従事した。
それから三年ほど後、ジノーファは北マルマリズの建設に着手する。東方の要衝として手狭になったマルマリズを拡張するためである。元ルルグンス兵らは今度はこちらの工事に従事することになった。
北マルマリズの完成には、およそ十年を要した。その十年間、彼らは懸命に働いた。その後、彼らの多くは近衛軍を退役し、そのまま北マルマリズに定住した。その際、彼らは金を出し合って小さな聖堂を建て、定期的に集まってはそこで静かに女神イーシスへ祈りを捧げたという。
閑話休題。話をラーカイド城が制圧された日に戻そう。ベルノルトとエクレムら参謀たちの会議はまだ続いている。確かにラーカイド城は制圧したが、だからこそすぐには動くことができない。本隊に報告して今後の指示を仰ぐ必要があるし、何よりこの城を後方の補給基地として使えるようにしなければならないからだ。
「何よりもまず、城に兵糧を入れなければ」
参謀の一人がそう発言する。他の者たちは皆、大きく頷いた。問題はその兵糧をどこから調達するのか、だ。基本的にはペシュガルモから送ってもらうか、それとは別ルートで本隊から補給線を延ばしてもらうことになる。
ただ城内に残っていた兵糧が思いのほか少ない。アースルガム方面軍の手持ちの兵糧もあるが、保護した捕虜たちのことも考えれば、次の補給が間に合うかは怪しい。何か手を打つ必要があった。
「周辺の街から調達するしかありませんな」
エクレムがそう言う。反対の声は上がらなかった。幸いというか、ミールワイスが要求していた“寄付”が、それぞれの街や村には準備されている。このうちの食料を買い取れば、当座の分は賄えるだろう。ベルノルトはすぐにそうするよう指示を出した。
さらに幾つかの点についてベルノルトらは話し合う。会議が終わると、エクレムらは慌ただしく退席した。彼らと入れ替わるようにメフライルが部屋に入ってくる。ミールワイスとババールは戦う前に死んでいたと言うが、この二人がまとめて死んでしまうなど、尋常なことではない。それでベルノルトは彼にこの件を調べるよう命じていたのだ。
「ライル、どうだった?」
「捕虜たちのなかに、ちょうどその場に居合わせた者たちがいました。おかげで詳しい話を聞くことができましたよ」
そう言って、メフライルはミールワイスとババールが如何にして死んだのかを、ベルノルトに語って報告した。黙ってそれを聞き終えると、ベルノルトは沈痛な面持ちで深いため息を吐く。そしてこう呟いた。
「……因果応報、ということなのかな」
「それはミールワイスのことですか、それともババールのことですか?」
「両方だ」
ミールワイスがこれまで何をしてきたのか、それは今更語る必要もない。そしてババールもまたこの地で略奪を働き、そして捕虜の虐待に加担していた。女神イーシスはそんな二人を咎めて神罰を下したのだろうか。ベルノルトにはそんなふうにも思えた。
「では、死体でもさらしますか?」
メフライルにそう提案され、ベルノルトは少し考え込んだ。神罰うんぬんは抜きにしても、この二人が保護した捕虜たちからたいそう憎まれているのは間違いない。死体を城壁から吊すなりしてさらせば、彼らの感情を宥める効果はあるだろう。
「……いや、他の者たちと一緒に葬ってやれ。死体が吊されていても、気分が滅入るだけだ」
ベルノルトは小さく首を横に振ってそう答えた。二人のしてきたことを思えば、手厚く葬ってやろうという気にはならない。だが彼はわざわざ死者をむち打つ気にもなれなかった。そもそも吊された死体を眺めて喜ぶような趣味は、彼にはないのだ。
「御意。ではそのように手配いたします」
恭しく一礼するメフライルに、ベルノルトは一つ頷いて応える。そして頭を切り替える。やるべき事は多い。気まぐれな神の御業をアテにしていても、目の前の仕事は減らないのだ。少なくとも人の世では。
メフライル「因縁が一つ片付きましたね」
ベルノルト「え、ミールワイスと何か因縁合ったっけ?」




