バラットの暴発1
アースルガムの再興宣言は、西方諸国の情勢に大きな一石を投じた。波紋が広がる中にあって、最初に兵を動かしたのはマドハヴァディティアだった。宣言からおよそ半月後、彼は四万の兵を率いてガーバードより出陣したのである。
もっとも彼のこの動きは、必ずしも再興宣言に反応してのものではなかった。その前から彼は兵を動かす事を決めていたからだ。ただし宣言は彼の戦略に影響を与えた。彼はアースルガムを狙う素振りを見せたのだ。そしてここから、第二次西方戦争はいよいよクライマックスへ向けて動き始めるのである。
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アースルガムとラーヒズヤの支配領域のちょうど境目に、バルフル城という城砦がある。城主の名前をバラットと言い、彼はラーヒズヤ方の武将だった。サラとベルノルトが名乗りを上げた後、彼のもとにマドハヴァディティアからの使者が訪れた。
『マドハヴァディティアに味方し、アースルガムを攻め取れ』
使者の要件は、要するにそう言うことだった。アースルガムを攻め取れば、その地を治める王にしてくれるという。加えて、サラとベルノルトを捕らえることができればさらに広い領地を与える、と使者は約束した。
「それは使者殿の御一存か?」
「まさか。マドハヴァディティア陛下のお言葉でござる」
口約束を心配するバラットに、使者はマドハヴァディティアからの書簡を渡した。彼が書簡を広げると、そこには確かにマドハヴァディティアの名前で報酬が約束されている。だがそれを見ても、バラットはすぐに返事をすることはしなかった。
マドハヴァディティアがわざわざ「アースルガムを攻めろ」と言ってきたのは、間違いなくそこにサラとベルノルトがいるからだ。二人の身柄を確保し、イスパルタ軍に対して優位に立つ。それが彼の狙いだろう。
だがサラとベルノルトがいることを承知でアースルガムへ攻め込めば、それはイスパルタ軍との敵対を意味する。首尾良く二人の身柄を確保できれば良いが、万が一にも逃せば、状況は一気に悪くなる。
バラット単独でイスパルタ軍と戦うことはできない。またマドハヴァディティアの支配地域から見て、アースルガムは飛び地である。援軍を請うてもすぐには来られないだろう。そして援軍が遅れれば、バラットは死ぬしかない。それではアースルガムの王になったとして、何の意味もない。
そもそもマドハヴァディティアとて、二人を確実に確保できるとは思っていないだろう。本当に確保できればそれで良し。できなくとも、誰かにそういう動きをさせることでイスパルタ軍の目をそらす。その辺りが彼の真の思惑だろう。
成算は低い。バラットはそう判断せざるを得なかった。しかしながらその一方で、心が揺れたのも事実だった。その根っこにあるのは、あれよあれよという間に成り上がり、そして大敗を喫しても王を名乗る、ラーヒズヤへの反発である。
とはいえバラットも、ラーヒズヤへの反発だけで事を起こそうとは思わない。そもそも、遠からずラーヒズヤはイスパルタ軍に降伏するだろう。そしてイスパルタ軍がわざわざラーヒズヤに自立を認めるとは思えないから、彼はイスパルタ貴族として叙されることになる。
(まあ、戦って滅ぶ可能性もあるが……)
暗い笑みを浮かべながら、バラットは胸中でそう呟いた。とはいえラーヒズヤもそこまで愚かではあるまい。勝ち目などないに等しいのだから、やはり彼はさっさと降伏するに違いない。
ラーヒズヤが降伏すれば、このバルフル城にも開城を求める使者が来るだろう。バラットはそれに従うつもりだった。その上で、例えば近衛軍の士官としてそれなりの地位を得られれば、形式の上では同じくイスパルタ王に仕える臣下となる。言ってみれば同格になるわけで、ラーヒズヤに対してもある程度溜飲は下がるだろう。彼はそう思っていた。
だが話は思わぬ方向へ転がる。なんとイスパルタ軍がラーヒズヤに譲歩したのだ。バルフル城はラーヒズヤの支配領域として認められ、バラットは配下の武将として彼に仕え続けなければならなくなってしまった。
「冗談ではない!」
バラットは思わずそう吐き捨てた。ラーヒズヤの配下から抜け出せると思ったので、これまでは大人しくしていたのだ。だがそうはならなかった。バラットの中で彼への反発はますます強くなった。
そこへ、マドハヴァディティアが兵を率いてアースルガム方面へ進軍を始めたという報せが舞い込む。他でもない、マドハヴァディティアがそれを伝えてきた。バラットはそれを最終通告だと受け取った。「旗幟をはっきりさせよ」。マドハヴァディティアはそう迫っているのだ。
「これが最後のチャンス、か……」
伝えるべき事だけ伝えて使者が城を去ると、バラットは一人でそう呟いた。このままラーヒズヤ配下の一武将として終わるのが嫌なら、イスパルタ軍との敵対は避けられない。その道へ進むなら味方が必要だ。そしてその場合、味方として頼れそうなのはマドハヴァディティアだけである。
「だが、しかし、な……」
バラットは踏ん切りが付かなかった。マドハヴァディティアは本当に頼れるのか、確信が持てなかったからだ。前述した通り、彼はバルフル城とバラットを囮として使うつもりなのではないか。囮にされ、使い捨てられては目も当てられぬ。その疑念が消えなかったのだ。
そうこうしている内に、ラーヒズヤから命令書が届いた。「断じてアースルガムに手出しするべからず」。そういう内容である。自立の条件として念押しされたな、とバラットは直感した。
そしてその瞬間、バラットの脳裏にあるアイディアが閃いた。ラーヒズヤの足を引っ張るためのアイディアだ。ここで自分が“暴発”してアースルガムに攻め込めば、配下をまとめられなかったラーヒズヤに対し、イスパルタ軍は必ずやその責任を問うだろう。自立の話は立ち消えになるに違いない。ともすれば処刑もあり得る。
それを想像して、バラットは暗い笑みを浮かべた。ただしこの策には欠点もある。“暴発”したバラット自身の命も危ない、ということだ。言ってみれば、これは自爆と変わらない。
ラーヒズヤの自立を潰し、その配下から抜け出して、なおかつある程度の地位を保って生き残る。そのためにはどうすれば良いのか。バラットはそれを考え続けた。
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イスパルタ軍が、アルアシャンがラーヒズヤに譲歩したという情報は、隠密衆によってシークリーのベルノルトらにも伝えられた。その中には「エクレム将軍が一万二〇〇〇の兵を率いて、合流のためにシークリーへ向かっている」という報せもあり、それを聞いてサラたちは歓声を上げた。
「助かった!」
「これでもう何の心配もないぞ」
「アースルガムは本当に復活したんだ!」
人々が口々に歓声を上げる中、ベルノルトはただ一人苦笑を浮かべていた。それを見て、メフライルが彼にこう声をかける。
「殿下、いかがなさいましたか?」
「いや、アルの足を引っ張ってしまったかと思って、な」
アルアシャンが譲歩したのは、サラとベルノルトが名乗りを上げたからだ。それがなければ彼はもっと強い姿勢でラーヒズヤに臨めただろう。せっかくの初陣だというのに、悪いことしたな、とベルノルトは弟に申し訳なく思った。
とはいえその一方で、彼は「やっぱり仕方のないことだった」とも思っている。だから後悔はしていない。それでもし責任を問われるならば、その時はその時だ。ベルノルトはそう割り切っていた。
さて喜びに沸き立つシークリーであったが、その歓喜に冷や水を浴びせる報せがもたらされた。マドハヴァディティアが四万の兵を率いて北上しているという。しかもその進路からして、彼の狙いはアースルガムであると思われた。
ただしこの時点ではまだ楽観が勝っていた。ガーバードからシークリーまではかなり距離があるのだ。しかもクリシュナの支配領域を迂回しなければならない。それはつまりクリシュナとラーヒズヤの支配領域の境を通ると言うことだ。
下手をすれば両軍に側面を狙われる危険がある。それを避けるためには行軍速度を落としてして警戒しながら進むより他になく、それだけ時間を稼げればエクレム将軍の先遣隊だけでなく、本隊との合流も間に合うだろう。ベルノルトたちはそう考えていた。
「むしろ、あえて隙を見せることで、クリシュナやラーヒズヤをおびき出すことが目的なのかも知れませんな」
アッバスは太い指で顎先を撫でながらそう語った。特に、クリシュナが籠もるナルドルグ城は堅城であるという。これを攻めている内にイスパルタ軍が来るようでは、マドハヴァディティアの勝利はおぼつかない。彼が敵を引っ張り出すことを考えるのは、むしろ当然であるように思えた。
油断は禁物だが、慌てふためくような状況ではない。ベルノルトらはそう考えていた。しかしその数日後、彼らはいよいよ顔を険しくすることになる。ラーヒズヤ方の武将である、バルフル城の城主バラットが兵を率いてアースルガムへ攻め込んできたのだ。その数、およそ一五〇〇。
「これは、まさかマドハヴァディティアと連携してのことなのか……?」
顔を強張らせながら、オムがそう呟く。アッバスやルドラ、それにベルノルトも揃って頷く。このタイミングでこの動き。マドハヴァディティアが関わっていないと考えるのは無理がある。
「マドハヴァディティアが来るまでにアースルガムを平定して補給地を整えておくこと。そして両殿下を捕らえること。その辺りが目的か?」
アッバスがそう語ると、また皆が揃って頷いた。それ以外にバラットの目的はないだろう。ただ一番厄介なのは、これでマドハヴァディティアの狙いが本当にアースルガムである可能性が高くなったことだ。そしてバラットが事を起こした以上、マドハヴァディティアは悠長に兵を進めるようなことはするまい。
「時間的な猶予を潰された、な」
ベルノルトが苦々しく呟く。マドハヴァディティアが来るまでにイスパルタ軍本隊と合流できるのか。難しいな、と彼は思った。バラットがこうして攻め込んできたと言うことは、ラーヒズヤもまたマドハヴァディティアに下った可能性がある。その場合、本隊は足止めを食らうだろう。
「ともかく今は、攻め込んできた敵をどうするのか、です」
ルドラがそう発言すると、各々は真剣な表情で議論を始めた。最も賛同者を得た案は、メヘンガル城での籠城である。敵が一五〇〇程度ならば十分に耐えられるであろう。そしてエクレムの先遣隊と合流できれば、マドハヴァディティア軍ともある程度は戦えるはずだ。
だがそれは、「先遣隊がマドハヴァディティア軍よりも早く来る」という前提での話である。万が一にもマドハヴァディティア軍の方が早ければ、アースルガム解放軍は一挙に絶望的な状況へ追い込まれる。
マドハヴァディティア軍四万が全て押しかけてくる必要はない。足の速い兵のみを一万、いや五〇〇〇も送れば十分だろう。それで敵は十分にアースルガム解放軍を圧倒できる。
「我々が真に警戒するべきはバラットではない。マドハヴァディティアだ。籠城では、相手に主導権を渡すことになる」
ベルノルトは表情を険しくしてそう呟く。そんな彼にメフライルがこう尋ねた。
「殿下。ではどうなさいますか?」
「全軍で出撃することを提案する。マドハヴァディティア軍が来る前にバラット軍を撃破し、そのままエクレムの先遣隊と合流する」
ベルノルトがそう発言すると、軍議の出席者たちはざわめいた。マドハヴァディティア軍の動きは、実のところまだ定かではない。それなのに籠城せず全軍で出撃するというのは、賭けとは言わないが、いささか性急過ぎるのではないか。
「出撃の主たる目的は敵を撃破することではない。味方と合流することだ」
ベルノルトはそう、出撃の意図を説明した。味方をただ待つのではなく、自分たちの方からも動くのだ。そうすれば、マドハヴァディティア軍が来るより早く先遣隊と合流できる。戦況如何によっては、そのまま本隊と合流することもあり得るだろう。
「ですがそれではシークリーが手薄になります。王女殿下をお守りするのに差し障りが……」
「サラ殿下にも同行してもらえば良い。つまり親征だな」
参謀の一人が指摘した懸念に、ベルノルトはさらりとそう答えた。それにどのみちマドハヴァディティア軍が迫れば、今の解放軍の戦力でシークリーを守り抜くことは不可能だ。サラの身の安全のためにも、ここは味方との合流を急ぐべきだろう。
ベルノルトはそう説明したのだが、軍議の出席者たち、特にアースルガム人は納得しがたい様子だ。彼らにとってシークリーはただの都市ではない。やっとの想いで取り戻したアースルガムの中心地であり、再興の象徴ともいうべき場所なのだ。
サラが全軍を率いて親征すれば、当然ながらシークリーは空になる。もしもマドハヴァディティア軍が襲来すれば、たやすくこれを奪われるだろう。それ自体は仕方がない。だがそれを見越しての親征だとすれば、それはシークリーを捨てて逃げ出すのと変わらないではないか。彼らはそこが納得できないのだ。
「今はアースルガム再興のために特に大切な時期です。シークリーの住民達が『サラ殿下は逃げ出した』と思えば、彼らの心はアースルガムから離れます。それでは再興はおぼつかないでしょう」
参謀の一人がそう発言すると、半分以上の者が頷く。その中にはオムの姿もあった。どうにもかたくなな雰囲気が漂う。それをほぐすかのように、ルドラがこう発言した。
「ではシークリーには、わたしが残りましょう」
「おや……、父上!」
リリィが悲鳴を上げる。シークリーに留守居役を残せば、それはいずれ帰って来るという意思表示であり、逃げ出したことにはならない。だがもしも本当にマドハヴァディティア軍が襲来すれば、留守居役は大きな危険にさらされることになる。
「……ルドラ。本当に良いのですか?」
「はい。王女殿下はぜひイスパルタ軍との合流を急がれて下さい」
「分かりました。どのみち留守居役は必要です。ルドラに後の事を頼み、わたしは全軍を率いて出陣することにします。……異議のある者はいますか?」
そう言ってサラは各々を見渡す。反対意見は出ない。こうして全軍を率いての親征が決まった。
(ルドラ、叔父上……!)
机の下に隠した手を、サラは白くなるほど強く握りしめる。そうしなければ叫んでしまいそうだった。
マドハヴァディティア軍が本当に襲来するのか、それはまだ分からない。だがルドラに危険な役回りを担わせてしまったのは確かだ。例えそれが本人の志願だとしても、最終的に決めたのはサラなのだ。
いや、これがルドラ以外の誰かであれば、サラはこんなにも苦しい想いはしなかっただろう。だが彼はサラの親族なのだ。もう誰一人生き残ってはいないと思っていた親族なのだ。その彼を死なせてしまうかも知れないと思うと、サラはもう気が狂いそうだった。
(絶対に、死なせない。絶対に……!)
サラはそう心に決めた。そのためにも重要なのは、一刻も早いイスパルタ軍との合流である。サラは出陣の準備を急がせた。
サラ「醜いわね、男の嫉妬って」




