アルアシャンと加速する時勢
時間は少し遡る。年が明けてからおよそ二ヶ月後。イスパルタ軍はついに西征を開始した。ただし、怒濤の如くに進軍したわけではなかった。
イスパルタ軍はまず、国境に近い城砦を調略で寝返らせ、そこを橋頭堡として西方諸国を窺った。寝返らせた城砦に兵糧を入れつつ、周囲に兵を出してまずは二州ほどを切り取る。ただ事前に調略が行われていたり、戦力差が圧倒的だったりしため、ほとんど戦闘は行われなかった。
ちなみにイスパルタ軍がまず攻め込んだのは、ラーヒズヤの支配領域とされている地域である。アースルガムから見るとほぼ真東だ。マドハヴァディティアはガーバードへ向かうために西方諸国の南側の地域を進んだが、イスパルタ軍は北側の地域を進むことになる。
さて西方域で一定の支配領域を確立して補給線を固めると、イスパルタ軍は周辺への働きかけを強めた。前述したようにこの辺りはラーヒズヤの支配領域とされている。ただニルギット会戦での敗北により、彼の統制は緩んでいた。それで頑強に抵抗する者はほとんどおらず、イスパルタ軍は順調に支配領域を増やしていった。
この頃同時に、イスパルタ軍はラーヒズヤにも接触していた。「戦う前に降伏するなら、それなりの立場を保証する」と持ちかけたわけだ。
ラーヒズヤ自身、自らが窮地にあることは自覚している。そもそもマドハヴァディティアと対立しているこの状況で、イスパルタ軍まで敵に回す余裕はない。そして降伏するのなら、やはり後者だ。それで彼も話それ自体には前向きだった。
ただ彼の降伏はすぐには決まらなかった。条件がなかなか折り合わなかったのだ。イスパルタ軍が要求したのは完全な臣従である。降伏後はイスパルタ貴族として遇することを約束した。この場合、与えられる領地は二州か三州程度になる。
一方でラーヒズヤは自立を望んだ。イブライン自治区の例を持ち出し、「宗主権を認め、外交権を委譲し、兵権の制限も受け入れるので、一国の王たることを認めて欲しい」と願ったのだ。そして七州強の版図を国土として主張した。
「王太子殿下、いかがなさいますか?」
「……領地が多すぎるし、何より危険な気がする」
軍議で所見を問われ、イスパルタ西征軍総司令官アルアシャンはそう答えた。彼の意見にハザエルやユスフも頷く。他の者の意見を聞いても、ラーヒズヤの要求に対しては否定的な意見が多かった。
ルルグンス法国を併合したことで、イスパルタ朝の版図は一四〇州を超えている。隣に七州強の小国があったとして、普通ならば脅威にはならない。だがこの西方域にはアースルガムが再興される予定なのだ。アースルガムにとっては脅威になる得るだろう。
ただイスパルタ軍首脳部が危惧しているのは、それよりも西方の気風とラーヒズヤの経歴だった。西方では自主自立の気風が強い。そしてラーヒズヤは実際にそれを行った人間だ。警戒するのは当然と言えた。
「交渉は続けますが、同時に兵を展開して圧力をかけましょう。こちらが譲歩する理由はありませんし、タイムリミットを早めてやれば、向こうが折れるでしょう」
参謀の一人がそう提案し、アルアシャンとハザエルが同意したことで、それがイスパルタ軍の方針となった。だがしかし、その方針はすぐに撤回されることになる。予想外の事態が起こったのだ。
なんとサラとベルノルトが名乗りを上げ、アースルガムの再興を宣言したのである。その報告を聞いたとき、アルアシャンは思わず脱力してしまった。「なんで?」。彼の頭にまず浮かんだのはそれだ。
ほぼ同時に届いた隠密衆のハシムからのより詳細な報告によると、サラとベルノルトが時勢に流され、名乗りを上げざるを得なかった様子が窺える。二人はアースルガム解放軍が勢いを得すぎたと思ったのだ。そしてその手綱を取るには、「アースルガム最後の王女」と「イスパルタ朝第一王子」の肩書きが必要と判断したのである。
「なあ、ユスフ。兄上はどこまで見通していたと思う?」
アルアシャンはユスフにそう尋ねた。アルアシャンは父王ジノーファから、ベルノルトが「権限」を求めていることを聞いていた。そしてその権限はアルアシャンが与えるように、とジノーファからは言われていた。
それは、ジノーファが権限を与えると、西征軍総司令官の頭を越えて権限を与えることとなり、現場に無用な混乱が生じることを危惧したからだ。アルアシャンも納得し、彼はアースルガムで合流した後、ベルノルトに一軍を預けるつもりだった。
だがイスパルタ軍と合流するより早く、ベルノルトは名乗りを上げた。アルアシャンにとってそれは、兄から「遅い!」と叱責されているようにも感じられた。そうであるならベルノルトはこの事態を見越して権限を求めたのだろうか。アルアシャンはそう思ったのだ。
「報告書を見る限り、完全に読み切っていたということはないでしょう。ただ現場の空気として、時勢が加速していくのを感じておられたのではないでしょうか」
「時勢、か……」
そう呟いて、アルアシャンはひとまず納得した。いや、ここで悩んでもはっきりとした答えは得られないと思ったのか。いずれにしても、いま彼が悩むべきはベルノルトの胸の内についてではない。イスパルタ西征軍の舵取りについてである。
アルアシャンは主立った者を集めて軍議を開いた。彼はその冒頭でまず、アースルガムの再興宣言についてユスフに説明させる。彼の話を聞くと、あちこちからうなり声が上がった。アーラムギールなどは特に険しい顔をしている。
「ハザエル、どう思う?」
「はっ。ベルノルト殿下が必要と判断されたのであれば、それは必要なことであったのでしょう。その是非についてこの場で論じることは不要と存じます。むしろ今考えるべきは、今後の情勢の変化でしょう」
アルアシャンの問い掛けにそう答え、ハザエルは議論の方向性を定めた。実際、説明を聞いた限りでは、致し方ない面もあったように思える。もちろんハザエルも言いたいことはあるが、それはベルノルトも同じだろう。そもそも当事者がいないところであれこれ論じても時間の無駄である。
ただイスパルタ西征軍はベルノルトとサラの保護を第一の戦略目標としている。そして二人が名乗りを上げてアースルガムの再興宣言をしたことは、必ずや西方諸国の情勢に影響を与える。イスパルタ軍としては、その辺りの事を見極めながら動かなければならない。
「注意するべきはやはり、マドハヴァディティア、クリシュナ、ラーヒズヤの三名でしょう」
「クリシュナとラーヒズヤは、ニルギット会戦での敗北以来、マドハヴァディティアに圧迫されています。アースルガムとの敵対はイスパルタ軍との敵対です。好きこのんで我々とまで敵対しようとは思わないでしょう」
「であれば、やはり注意するべきはマドハヴァディティア……」
「いえ。我々がまず注意するべきはラーヒズヤでしょう」
はっきりとした口調でそう言ったのはユスフだった。思いがけない発言に、皆の視線が彼に集まる。アルアシャンがこう尋ねた。
「ユスフ、どうしてそう思うのだ?」
「王太子殿下。現在我々はラーヒズヤと交渉を行っています。我々は降伏と臣従を要求し、彼は降伏を良しとしつつも自立を求めています。一度王を名乗ったからには、彼はその地位を降りたくないのです。
そんな中でベルノルト殿下が名乗りを上げられました。しかもアースルガムは弱小勢力です。またイスパルタ軍が合流するまでにも時間がかかります。ではラーヒズヤは何を考えるでしょうか?」
「まさか、兄上をダシに使う……?」
アルアシャンが困惑気味にそう答えると、ユスフは重々しく頷いた。アースルガムを攻撃し、ベルノルトの身柄を抑える事で、イスパルタ軍との交渉を優位に運ぶ。ラーヒズヤの立場であれば、十分に考えられることだ。
「だがユスフ卿。そのようなこと、本当に可能か? アースルガムを攻めればイスパルタ軍を敵に回すこと、ラーヒズヤも承知していよう。ましてベルノルト殿下を確実に捕らえられるのかは分からぬのだ。普通であれば躊躇すると思うが」
「左様。王太子殿下、ここはむしろ圧力を強めるべきと考えまする。臣従しないのであれば攻め潰すと脅せばよろしいのです。アースルガムのことを勘案すれば、我々が本気であるとラーヒズヤも理解するでしょう」
「だがクリシュナはどうする? 我々がラーヒズヤを下すのに手間取っている間に、奴がアースルガムを攻めるかも知れない」
アルアシャンは顔を険しくしてそう懸念を述べた。ベルノルトの存在は、クリシュナにとっても起死回生の切り札になり得る。彼がその確保を考えてもおかしくはない。イスパルタ軍がラーヒズヤに手こずれば、クリシュナはそれをますます好機と見るだろう。
「王太子殿下。ここはラーヒズヤに譲歩するのもやむなしと考えます」
「ハザエル。その理由は?」
「王太子殿下。クリシュナもラーヒズヤも、追い詰められているのです。追い詰められた者は何をしでかすか分かりません。博打もするでしょうし、ただ嫌がらせのために動くことさえあり得ます。この二人の行動を制御下に置くためには、一定の譲歩はやむを得ません」
譲歩してラーヒズヤを引き寄せれば、それがそのままクリシュナへの牽制になる。一歩間違えば、クリシュナは西方で孤立することになるからだ。それを避けるためには、より積極的にイスパルタ軍に近づくしかない。そしてクリシュナをしっかりと引き寄せることができれば、残る敵はマドハヴァディティアだけだ。
「しかし元帥閣下。クリシュナはもともと、使者を出してイスパルタに救援を請うた側ですぞ」
「そうだな。今では遅いと文句を言っているかもしれん」
つまりクリシュナも内心ではイスパルタ軍に不満を持っているかも知れない、とハザエルは指摘した。実際、イスパルタ軍はクリシュナのために動いたわけではない。イスパルタ軍はあくまでもイスパルタ朝のために動いている。そして不満があるなら、情勢次第では牙をむくかも知れない。その場合、危ないのはアースルガムだ。
「分かった。ラーヒズヤには譲歩しよう。その代わり、決してアースルガムには手を出させるな」
アルアシャンがそう言うと、ハザエル以下幕僚達が畏まった。ただラーヒズヤの自立を認めることは決まったが、それですぐに話がまとまるわけではない。それで交渉と平行して一隊をアースルガムへ送ることになった。
兵の数は一万二〇〇〇。ユスフの兄のエクレムが指揮官となる。ただアースルガムへ行くにはラーヒズヤの支配地域を通らなければならない。それでこの先遣隊を通過させることも、自立の条件として加えることになった。
さて軍議の後、アルアシャンはふと気になってユスフにこう尋ねた。
「今さらだけど、ユスフは最初からラーヒズヤに譲歩するべきだと考えて、彼の名前を出したのか?」
「王太子殿下。我々が最も注意するべき敵とは、一体誰でしょうか?」
ユスフは逆にそう問い返す。アルアシャンは少し考えてからこう答えた。
「ええっと、やっぱりマドハヴァディティアだろう」
「はい。奴が最も手強く、狡猾で油断のならない相手です。ではそのマドハヴァディティアにとって、クリシュナとラーヒズヤはどちらがより許せない相手でしょうか?」
「それはクリシュナだな」
アルアシャンははっきりとそう答えた。何しろクリシュナはマドハヴァディティアの臥所を暴き、父王の面子を大いに潰したのだ。またマドハヴァディティアの窮地は、そもそもクリシュナの謀反が原因である。それを考えれば、二人の間に和解はあり得ない。どちらかが死ぬまで、二人の対立は続くだろう。
「はい。マドハヴァディティアはクリシュナを決して許しません。ですがラーヒズヤならどうでしょう?」
ラーヒズヤもまたマドハヴァディティアに叛いた。マドハヴァディティアにとっては許しがたい相手だろう。だが現在、彼の最大の敵はイスパルタ軍だ。イスパルタ軍と戦うためには、ラーヒズヤを敵のままにしておくより味方にした方が利がある。
折しも、マドハヴァディティアはニルギット会戦においてラーヒズヤ軍を大いに破った。ある意味で思い知らせたわけだ。裏切りは許しがたいが、落とし前は付けたとも言える。その上でラーヒズヤの方から膝を折るなら、マドハヴァディティアも度量の広いところを見せられる。
「ラーヒズヤがマドハヴァディティアの下へ戻れば、それこそアースルガムが危険になります。ならば多少譲歩してでも、先にラーヒズヤを取り込んでおいた方が良いでしょう」
ユスフはそう説明した。だがアルアシャンは納得できない様子で首をかしげる。そうしてこう尋ねた。
「だけど、ラーヒズヤは自立を求めているのだろう? マドハヴァディティアがそれを認めるのか?」
「殿下。マドハヴァディティアが名乗っている称号は〈王の中の王〉です。つまりラーヒズヤが王を名乗りながら自分に従っても、それは彼の中で矛盾しません」
ユスフの説明を聞き、アルアシャンはハッとしたように目を見開いた。確かにマドハヴァディティアはこれまで、多数の王を従えることで自らの権威を高めようとしてきた。彼にとってはむしろ、「王が自分に従う」という形式の方が好ましいのかも知れない。
そしてラーヒズヤはそういうマドハヴァディティアの姿を見てきた。彼にとって自立が何よりも大切なら、自立を許さないイスパルタ朝より、自立を認めるマドハヴァディティアを選ぶことは十分にあり得る。
「もしもラーヒズヤがマドハヴァディティアに与したら……」
「我が軍は足止めを余儀なくされますね。アースルガムに援軍を送るのもままならないでしょう」
ユスフの言葉に、アルアシャンは険しい顔をして頷く。もちろん、全て平らげて進軍することは可能だ。だがそれには時間がかかる。そして時間をかければ、その分だけアースルガムが危険になる。
「それで譲歩はやむなし、か。ユスフ、ラーヒズヤは納得するかな?」
「ラーヒズヤは、納得するでしょうし喜ぶでしょう」
ユスフの含みのある言い方にアルアシャンが眉をひそめる。彼は怪訝な顔をしてユスフにこう尋ねた。
「ユスフ、何かあるのか?」
「ラーヒズヤの統率力はかなり落ちていると聞いています。彼の自立を認めることになれば、彼の臣下となる者たちが当然いるわけですが、彼らがそれをどう思うか……」
「いや、さすがに抑えるだろう」
「殿下。抑えられていないから、統率力が落ちていると言われるのですよ」
ラーヒズヤの自立を認めたがために、彼の部下の暴発を招く可能性がある。ユスフにそう指摘され、アルアシャンはますます顔を険しくした。
「どうしたらいい?」
「兄上、エクレム将軍を急がせましょう。抑止力になるはずです」
ユスフの言葉にアルアシャンは大きく頷く。いずれにしても時勢は大きく動き出した。アルアシャンはイスパルタ西征軍総司令官としてそれに対応していかなければならない。彼はその重責をひしひしと感じていた。
アルアシャン「つまり大体全部兄上のせい」




