名乗りを上げる1
アースルガム解放軍と睨み合い、動くに動けなくなってイシャンが頭を抱えていた頃。ガーバードにいるマドハヴァディティアも執務室で険しい顔をしていた。財政状況が思わしくないのだ。
マドハヴァディティアがガーバードに帰還してから、まだあまり日が経っていない。きちんとした税収が得られるのは半年から一年後だ。それは彼も分かっている。だがその税収がこのまま行くと以前の水準に遠く及ばないものになりそうなのだ。
その原因は交易の衰退である。そしてその理由は極めて政治的なものだった。一言で言えば、イスパルタ朝がヴェールールとの交易を打ち切ったのである。
クリシュナがガーバードから落ちのびる少し前、彼は使者を海路でヘラベートへ送っていた。その使者によって西方の情勢を知ったジノーファは、それ以降西方からの船がイスパルタ朝の港に入ることを禁じた。
これは主に、ヴェールールとマドハヴァディティアを念頭においた措置だった。彼はガーバードの南にある貿易港を使い、東方すなわちイスパルタ朝と交易を行っていた。だが現在、イスパルタ朝とヴェールールは戦争状態にある。仲良く交易を行えるはずもなく、ジノーファの措置はしごく当然のモノだった。
もちろんこの措置は、イスパルタ朝の経済に影響を与えている。西方の市場を丸ごと切り捨てたに等しいからだ。ただイスパルタ朝からみれば、西方諸国よりもロストク帝国やランヴィーア王国の方が市場としては大きい。何なら、さらに東へ船を出すこともできる。それで致命的な影響とはならなかった。
致命的な影響を被ったのは、むしろヴェールールのほうだった。そもそもヴェールールはイスパルタ朝と交易することで財を蓄え、力を付けて周辺諸国を圧倒したのだ。言ってみれば交易は、マドハヴァディティアの力の源泉だったのである。それを丸ごと断たれたのだから、影響が小さく済むはずがない。
(このままでは……)
このままでは、近い将来に金欠に陥るだろう。それはすなわち、軍備を維持できなくなることを意味している。西方諸国に限って言えば、マドハヴァディティアに比肩する勢力はない。クリシュナもラーヒズヤも、討伐は可能だろう。
だがイスパルタ軍はどうか。遠からずイスパルタ軍は西方へ乗り込んでくる。そして現在、西方は混乱している。イスパルタ軍は西方にやすやすと食い込み、そしてしっかりとした足場を作るに違いない。西方におけるイスパルタ朝の影響力はさらに大きくなる。
そして一度橋頭堡ができあがり補給線が繋がってしまえば、西方からイスパルタ軍を排除することは難しい。なにしろイスパルタ朝は巨大だ。大軍を長期間、それこそ年単位で養える。一方でマドハヴァディティアは、徐々に兵を維持できなくなる。
その隙をイスパルタ軍は見逃さないだろう。ヴェールールへ攻め込んで来るに違いない。その時、マドハヴァディティアは立ち向かえるだろうか。そしてその手をはね除けてヴェールールの独立を保てるだろうか。
(ぬう……)
マドハヴァディティアは渋い顔をしながら胸中で唸った。兵は徴兵でまかなえる。だが兵がいれば戦えるわけではない。武器がいるし、兵糧がいる。薬も必要だ。そしてそれらを揃えるためには金がいる。その金が、これから足りなくなるのだ。
「ぬう……」
今度は声に出して、マドハヴァディティアは唸った。ズンッと、両肩にイスパルタ朝の重みを感じる。おかしな話かも知れないが、彼はこの時かつてないほどイスパルタ朝の存在の重さを感じていた。
(大きい、な……)
マドハヴァディティアはイスパルタ朝の大きさを認めなければならなかった。単純に国土が広い、という話ではない。精強な常備軍による軍事力。それを支える経済力と生産力。内憂を鎮める内政力と外患を遠ざける外交力。そしてそれらを発揮させるための統治機構と王の指導力。その全てが高い水準で揃っている。
イスパルタ朝は紛れもない大国であり強国なのだ。まともに向かい合えば、ヴェールールは力負けする。マドハヴァディティアはそれを認めざるをえず、また何よりそのことが彼を打ちのめした。
「とんだ間抜けだな」
そう言ってマドハヴァディティアは自分を嗤った。彼はこれまで、時間は自分の味方だと思っていた。イスパルタ朝が西方に食い込んできたとしても、彼らは所詮よそ者だ。ヴェールールの国力を回復させればこれを追い払うことは可能。そう思っていたのだ。
だがそうではなかった。このままではヴェールールの国力を回復させるどころではない。それどころか徐々に痩せ細っていくことになる。大国の圧力というものを、彼はひしひしと感じた。
(負けられぬ……!)
マドハヴァディティアは強くそう思った。敗北はすなわち併呑を意味する。彼自身もジノーファに膝を屈するか、命を失うことになるだろう。ヴェールールが弱いまま長期戦に突入すれば、その未来は避けがたい。
外交努力によって国を存続させることは、事ここに至ってほぼ不可能である。よって大国に押しつぶされる未来を避けるためには、最低限対抗できるだけの力を身につけなければならない。そしてその最低限のラインとは、すなわち西方六〇余州の統一である。イスパルタ朝と向かい合うには、それくらいの地力が必要であろう。
ただしそれは相当な難事だ。前述した通り、クリシュナとラーヒズヤだけなら、マドハヴァディティアはこれを打ち倒す自信がある。問題はイスパルタ軍だ。西方六〇余州を統一するためには、西進してくるイスパルタ軍を撃退しなければならない。そして時間が経てばそれが難しくなることは、前述した通りである。
「今ならば、まだ……」
今ならまだ、軍資金には余裕がある。ヴァンガルの大聖堂の宝物庫から持ち出した、金銀財宝があるからだ。すでに半分弱を使ってしまったが、それでもまだ半分強が残っている。今ならまだ、動こうと思えば動ける。
ただマドハヴァディティアは配下の将兵に領地を与えたばかりだ。しかもそれらの内のほとんどの者が、縁もゆかりもない領地を与えられている。「領内を落ち着かせるために今は時間が欲しい」というのが彼らの本音のはずで、そんな中で大がかりな軍事行動を起こそうとすれば、反発する者は多いだろう。
マドハヴァディティア自身も、今は足場を固めるため、内政に力を注ぎたいと思っている。言い方を変えれば「次の戦争の準備」だ。つまり彼自身、今動くのは準備不足であると認めざるを得ない。だが時間をかけた結果、身動きが取れなくなってしまったのでは、本末転倒だ。
生き残りたいのなら、動ける内に動くべきだろう。例え準備不足であったとしても、動けなくなるよりはマシだ。イスパルタ朝相手に主導権を失ってはならない。むしろ振り回してこそ勝機がある。
「やるしかあるまい」
マドハヴァディティアは腹を決めた。そしてそうと決めたからには、迅速に動かなければならない。西方六〇余州をイスパルタ軍の草刈場にしてはならない。マドハヴァディティアは早速動き始めた。
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アースルガムの王族として名乗りを上げる。サラからその決意を告げられると、メフライルとアッバスの二人は当然ながら反対した。「せめてイスパルタ軍との合流を待つべき」というのが二人の主張だった。しかしそこでサラの味方をする者がいた。ベルノルトである。
「メヘンガル城を取ってしまった以上、もう後戻りはできない。解放軍は弱小勢力なんだ。早急に兵を集めないと、喰われて終わりだ。まずはアースルガムを掌握する。そのためには旗頭が必要だ」
「しかし名乗りを上げてしまえば不必要に注目を集めます。クリシュナやラーヒズヤ、なによりマドハヴァディティアがどう反応するか……」
「左様ですぞ。取るに足りぬ弱小勢力なれば見逃してもらえるかも知れませぬが、サラ王女がここにいると分かれば、それを危険視するやも知れませぬ」
二人は口々にそう言ってベルノルトに詰め寄った。だがベルノルトも譲らない。二人をしっかりと見返してこう言った。
「これから解放軍は人が増える。だがアーラムギール殿がいるわけでも、父上が寄越した将軍がいるわけでもないんだ。下手をしたら派閥争いが起こる。いや、今だってその予兆はもう出ている。二人だって気付いているだろう?」
「それは、まあ、承知していますが……」
そう答えてアッバスが渋い顔をした。山守衆のルドラが指揮を取ることに、特にオムなどは内心で不満をくすぶらせている。本人はその感情を表に出さないようにしているが、ベルノルトたちはそれに気付いていた。
今後、アースルガム解放軍がさらにその数を増やせば、似たような不満を持つ者はさらに増えるだろう。それを抑えるためには、誰もが納得する旗頭が必要だ。本来なら解放軍司令官のアーラムギールが適任なのだが、彼はまだヴァンガルだ。であれば旗頭たり得るのはサラしかいない。
「しかし、身の証をどう立てますか?」
そう尋ねたのはメフライルだった。今までユラと名乗っていた少年が、突然「自分はアースルガムの王女サラだ」と言い出すのである。何の証拠もなければ、誰もそんなことは信じないだろう。
もちろんサラは王女としての身の証を持っている。ただしそれは今、クルシェヒルの王宮にある。アーラムギールとは顔見知りだったし、弔問団に紛れ込んだときにはこんなことになるとは思っていなかったので、証の品を持ち出すことはしなかったのだ。
その品がなければ、ユラをサラと証明することはできない。メフライルはそう指摘したのだが、ベルノルトは一つ頷いてからこう答えた。
「サラの身分については、わたしがこれを保証する」
「それは……!」
「ああ。わたしも一緒に名乗りを上げる」
ベルノルトははっきりとそう言った。彼は自分の印章を持っている。つまり自分の身分を証明できるのだ。
そしてイスパルタ朝の第一王子がサラの身分を保証すれば、彼女がアースルガムの王女であることに疑問を差し挟む者はいなくなる。疑えばそれは、イスパルタ朝の後ろ盾に疑義を呈することになるからだ。解放軍の中にそのような愚を犯す者はまずいない。
「なりませぬぞ!」
思わず、アッバスは大声を上げた。なるほど確かに、ベルノルトが保証すればサラの身の証は何とかなる。だが同時にそれは巨大なリスク要素でもある。ベルノルトの身柄には、西方情勢を一変させるだけの価値があるのだ。
クリシュナにラーヒズヤ、そしてマドハヴァディティア。注意するべきはこの三人だ。彼らは仮にサラを無視したとして、果たしてベルノルトまで無視するだろうか。アッバスには大変危険なように思えた。
「落ち着け。すぐに敵対すると考えるのは早計だろう。何しろわたしとの敵対はイスパルタ軍との敵対だ。軽々に決断はできないさ。むしろ味方にできるかもしれない」
そう言われ、アッバスは唸った。特にクリシュナとラーヒズヤはマドハヴァディティアに対して劣勢にある。二人は生き残るため、イスパルタ軍との連携を模索しているだろう。そうであれば二人とも、安易にベルノルトと敵対することはできない。
むしろ自分を介してイスパルタ軍と結びつくことを考えるのではないか。ベルノルトはそう思っていた。いや、名乗りを上げると同時に書状を送り、そういう方向へ情勢を持って行くのだ。
つまりアースルガム国内はサラを旗頭にして掌握しまとめ上げる。そして国外に対してはベルノルトとイスパルタ朝の看板を全面に押し出して立場を固める。それがベルノルトの策であるわけだ。
「……イスパルタ軍の、陛下の戦略方針と食い違うことになるかも知れませぬぞ」
アッバスは唸るようにそう懸念を口にした。アースルガムが、ベルノルトたちが好き勝手やったためにイスパルタ軍の戦略に影響が出れば、そのことを不愉快に思う人間は必ず出る。
ともすればジノーファその人が顔をしかめるかも知れない。その時アースルガムはどうなるのか。下手をすればこのために再興が潰えるかも知れない。だがベルノルトはすでに覚悟を決めていた。
「全ての責任はわたしが負う」
彼ははっきりとそう言った。行動には責任が伴う。イスパルタ朝第一王子の権力を行使しようと思えばなおさらだ。そして彼はその責任から逃げるつもりはなかった。例え王家を追放されて臣籍に下ることになるとしても、彼は後悔しない。むしろここで何もしなければ、彼はそのことを後悔するだろう。
彼のその覚悟を目の当たりにして、メフライルもアッバスも、次の言葉が出てこない。言葉を探して視線をさまよわせ、しかしベルノルトの視線に捕まって息を呑む。視線を逸らすことができなくなり、それでも言葉は見つからず、アッバスは大げさにため息を吐いた。
「……責任を取るなどと、そんなに簡単に言わんでください」
「そうですよ。殿下に責任を取らせておいて、それで我々が無傷で済むはずがないじゃないですか」
アッバスに続き、メフライルも愚痴るようにそうぼやく。それを聞き、ベルノルトは小さく笑ってこう言った。
「それはすまなかった。だが運が悪かったと諦めてくれ。二人のことは、わたしがなるべく守る」
「本当に、殿下は素直に守られてくださらない。困ったものです。……とはいえ、申し上げるべきは申し上げました。そして聞くべき事も聞きました。あとは御意のままに」
そう言ってアッバスはベルノルトの前で片膝をついた。その横でメフライルも同じように片膝をつく。そしてこう言った。
「私は殿下の護衛です。お付き合いいたしますよ、力の及ぶ限り。ただしお覚悟下さい。陛下とシェリー殿下のお説教は、きっと長くなりますよ」
「うっ……、父上もか?」
腰の引けたベルノルトがそう尋ねると、メフライルは「当然です」と答えた。その横ではアッバスも深く頷いている。ベルノルトは「はやまったかなぁ」と内心で頭を抱えたが、一度啖呵を切ったからには後へは引けない。やけくそ気味に威勢をただす。その様子を見て、サラがくすくすと笑った。
「ユラ、いやサラ。何か言いたいことはあるか?」
最後にベルノルトはサラにこう声をかけた。「メフライルとアッバスの説得は自分がする」とベルノルトが事前に言っていたので、彼女はここまで沈黙を守っていた。だが本来、これは彼女の事情なのだ。それで彼女はこう語った。
「二人とも、そしてベルも、巻き込んでしまってごめんなさい。だけどやっぱり、立つなら今だと思うの。今立たなければ、わたしは血筋だけの傍観者になってしまう。わたしは女王になるわ。だからお願い、力を貸して」
その言葉にメフライルとアッバスは、そしてベルノルトも頷いて答える。それを見てサラは安心したように小さく笑った。そしてこう付け加える。
「まあわたしも、責任は取れる分だけ取るわ」
「ではサラ殿下もお説教ですね」
「うっ……、わたしも?」
満面の笑顔を浮かべるメフライルに、やや怯んだ様子でサラがそう聞き返す。アッバスが「当然だ」と言わんばかりにまた大きく頷いた。
メフライル(まあ、陛下はむしろ褒めそうな気もするけど)




