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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
外伝 誰がために鐘は鳴る

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カリカットから見た情勢


 サラがアースルガム王家の系図を燃やした、その三日後。ハシムがカリカットの街に訪れた。代官所でベルノルトたちと面会した彼は、苦笑を浮かべてこう言った。


「何とも、妙なことになりましたなぁ」


「いや、本当に。正確な情報の重要性を痛感させられました」


 メフライルもまた、苦笑を浮かべてそう答える。「代官はマデバト山を攻めようとしている」というマハヴィラの嘘に踊らされ、山守衆は先手を取る形でカリカットの街を攻め落としたのだ。もしも嘘であると見破れていたら、彼らはあえて街を攻略しようとは思わなかっただろう。


 もしも街を攻め取っていなければ、ベルノルトたちもまだマデバト山にいたはずだ。山守衆やアースルガム族の食糧事情は改善されなかっただろうが、しかし西方の動乱とは無関係でいられただろう。そして誰も見向きもしないマデバト山で、つまり安全な場所でイスパルタ軍が来るのを待つことができたはずだ。


 だがこうして街を攻め取ったからには、これまでのように西方情勢を一歩退いた場所から眺めていることは許されない。これからは山守衆もプレイヤーの一人となるのだ。そしてベルノルトたちも無関係ではいられない。そうである以上、重要なのは情報だ。メフライルはこう尋ねた。


「それでハシム殿。イスパルタ軍の様子はどうなっていますか?」


「イスパルタ軍はヴァンガルに入りました。ただマドハヴァディティアと結んだ停戦条約のこともあります。すぐに西へ動くことはないでしょう」


 ハシムの話を聞いて、ベルノルトたちは頷いた。イスパルタ軍がすぐに動いてくれないという情報は、彼らにとって喜ばしいことではない。だがその理由もまた容易に想像できるのだ。


 これまで西方の覇権を争っていたのはクリシュナとラーヒズヤだった。そこへ突如としてマドハヴァディティアが割り込んでくるわけである。西方は大混乱に陥るだろう。そして遠からず大きな決戦が行われるに違いない。


 決戦が行われればクリシュナもラーヒズヤも、そしてマドハヴァディティアも戦力を消耗するだろう。また決戦が行われた後は、西方の権力構造は大きく変化しているに違いない。不安定な情勢は調略を仕掛けるのに好都合である。イスパルタ軍はそれを見極めてから動くことになるだろう。


 ちなみにこの時点で王太子アルアシャンがイスパルタ西征軍の総司令官を務めることは決まっていたのだが、ハシムはそれを彼らには伝えなかった。情報の漏洩を恐れての事である。アルアシャンにはまだ、轟くような武名はないのだ。


「なるほど。では、マドハヴァディティアはどう動いていますか?」


「マドハヴァディティアは現在、七州強を勢力下に治めています。ただ、このまま勢力を拡大させていくわけではないでしょう。ある程度のところで、一挙にガーバードを目指すものと思われます」


 ハシムはそう答え、さらに停戦交渉の中で提示されたマドハヴァディティア軍の行軍予定の概要についても説明する。それによると、マドハヴァディティアはほぼ当初の予定通りに軍を動かしているように思われた。


「このままいけば、ニルギット平原にて決戦ということになるでしょう。実際、クリシュナ軍やラーヒズヤ軍のほうからも、それらしい話が漏れ聞こえてきています。その戦いが一つの山場になるでしょうな」


 ハシムはそう語り、ベルノルトたちは大きく頷いた。クリシュナもラーヒズヤも、来たるべき決戦には全力を注ぐだろう。つまり二人とも今は辺境のカリカットに手出しをする余裕はない。


「近々に攻められる心配はない、か……」


 アッバスが安堵の息を吐きながらそう呟く。実際、クリシュナにせよラーヒズヤにせよ、討伐の兵を繰り出されていたら山守衆はカリカットを放棄せざるを得なかっただろう。それを避けることができたのだから、まずは重畳である。


 こうなると、次にするべきは早急な戦力の増強だ。幸い山守衆が、つまりアースルガム解放軍がカリカットを“解放”したという話はすでに近隣に広がっている。それを聞きつけた解放軍の同志や新規の志願兵が、街に集まってきていた。


 これをまとめ上げて防衛戦力を整えるのが、まずは一つ大きな目標になるだろう。具体的な数字として、アッバスは「合計八〇〇、できれば一〇〇〇」と述べた。カリカットの街の規模からすると、かなりの数と言っていい。そのため、先立つものが必要だった。


「ハシム殿」


「資金と物資ですな。よろしい。何とかいたしましょう」


 メフライルに水を向けられ、ハシムは阿吽の呼吸でそう答えた。イスパルタ軍がヴァンガルを押えたおかげで、ハシムら隠密衆もアースルガム解放軍も動きやすくなっている。資金や物資の調達は難しくないだろう。


「後は情報ですね。これもハシム殿に頼むしかないのですが……」


「お任せください。専門です」


 ハシムはそう言って請け負った。もちろん彼個人が西方情勢を調べ回ってそれをベルノルトたちに伝えるわけではない。すでにイスパルタ軍は西方での諜報活動を本格化させており、そのなかで得られた情報を彼らにも回す格好になる。


 その後、さらに何点か話し合って会談は終わった。ルドラは会談には参加していなかったので、後で要点をまとめて彼に報告することになる。そして翌日、ベルノルトらの手紙を預かって、ハシムはカリカットから出立した。


 その後しばらくは平穏な時間が続いた。どこかの勢力がカリカットを攻めてくることもない。人々の注目はマドハヴァディティアの動向に集まっていて、その陰でカリカットの街は力を蓄えていった。そして次にハシムが街に来たとき、彼は重大な情報を携えていた。


「マドハヴァディティアが勝ちましたぞ」


 代官所に主立った者を集めると、ハシムは開口一番にそう告げた。その一言でベルノルトたちの間に緊張が走る。そしてマドハヴァディティアがニルギット会戦でどのように戦ったのかを説明されると、彼らは揃ってうなり声を上げた。


「マドハヴァディティアの武略、侮りがたし、ですな……」


 アッバスがそう呟くと、ベルノルトは大きく頷いた。この勝利でマドハヴァディティアは、クリシュナとラーヒズヤに対して圧倒的な優位を確立した。単に「一つ戦に勝った」という程度の話ではないのだ。彼はこの勝利で、再び西方情勢の主導権を握ったのである。


 逆を言えば、マドハヴァディティアは最初からそのつもりでニルギット会戦に臨んだのだろう。彼はクリシュナを狙うと周囲に思わせておき、しかし本当の狙いはラーヒズヤだった。言葉にすればたったそれだけのことだが、そのために入念な準備をしていたことが窺える。ベルノルトは彼の、感情に流されない冷徹な策略家の一面を見た気がした。


 今後、クリシュナもラーヒズヤも、自分のことで手一杯になるだろう。両軍の協力関係は事実上空中分解したと言っていい。この先、二人はマドハヴァディティアに圧迫され、徐々に追い詰められて行くだろう。


「……それで決戦の後、マドハヴァディティアはどこへ?」


「恐らく、いえ十中八九、ガーバードでしょうな」


 険しい顔で尋ねたルドラに、ハシムはそう答える。隠密衆はクリシュナ軍の撤退を見届けてニルギット平原を離れたので、会戦後にマドハヴァディティア軍がどこへ向かったのかは確認していない。だがこれまでの事を考えれば、マドハヴァディティアの次の標的がガーバードであることはほぼ間違いない。


 ガーバードはヴェールールの王都である。つまりマドハヴァディティアの本拠地だ。そしてそこにはクリシュナと、彼と情を通じた女たちがいる。マドハヴァディティアにとっては決して許せない相手だ。マドハヴァディティアは彼の面子にかけてこれを叩き潰そうとするだろう。


「クリシュナは、防げるかな……」


 そう呟いたのはアニルだ。ハシムは苦笑を浮かべつつ、「さて……」とだけ答える。彼が難しいと考えているのは一目瞭然だった。そしてそのことにあえて異を唱える者はいない。


「……マドハヴァディティア軍の動向とは直接関係ありませぬが、解放軍のネットワークも利用しつつ、何とか西方に諜報網を築くことができました。私もしばらくはこちらに在駐いたします。何か動きがあれば、おっつけ報せが来るでしょう」


 ハシムの言葉に一同は揃って頷いた。次に来る報せは、「ガーバードが落ちた」という報せか、それとも「クリシュナが死んだ」という報せか。ベルノルトはそう予想したのだが、事態は思いがけない方向へ転がった。


 クリシュナがガーバードを捨てたのだ。そして北へ向かったと言う。恐らく、ヴェールールの北の国境を守っていた、ナルドルグ城を目指しているものと思われる。彼のこの動きにうなり声を上げたのは、主にベルノルトらイスパルタ朝の人間だった。


「クリシュナめ。思い切ったな」


 アッバスが感心した様子でそう呟く。ハシムによれば、ガーバードは堅牢な城壁に守られた豊かな都市だという。またクリシュナにとっては生まれ育った都市でもある。これを捨てるという選択は、そう簡単にできるものではない。


 それだけではない。クリシュナはこれまで海路を使ってイスパルタ軍と連絡を取り合っていた。だが港があるのはガーバードの南だ。つまり北へ逃げてガーバードにマドハヴァディティアが入れば、イスパルタ軍との連絡を遮断されることになる。クリシュナにとってはかなりのプレッシャーだろう。


「それでもガーバードでは戦えないと、そう判断したわけですか……」


 メフライルが感心した様子でそう呟く。クリシュナにとっても難しい決断であったに違いない。だがこの決断で、彼は血路を開いたのではないか。ベルノルトはそう思いつつ、こう尋ねた。


「それで、マドハヴァディティアの動きは?」


 クリシュナが本当に血路を開いたのか否か。それはマドハヴァディティアの動きにも左右される。またクリシュナ-ラーヒズヤ連合軍を破ったマドハヴァディティア軍は、今後イスパルタ軍にならぶスーパーパワーになるだろう。その動きは注視していく必要がある。


「ガーバードに入ったようです」


 ハシムはそう答えた。一度北へ兵を差し向けたが、しかしそれもすぐに引き返させたという。どうやらクリシュナの策略に引っ掛かったようだ、と彼は話した。


「クリシュナが何か仕掛けたとすれば、時間稼ぎでしょう」


「マドハヴァディティアが兵を引き返したということは、それは成功した、と?」


「恐らくは」


 アッバスがメフライルにそう答える。何にせよ、マドハヴァディティア軍はクリシュナ軍を追撃しなかった。クリシュナはナルドルグ城に入って抵抗を続けるだろう。すると次に気になるのは、そのナルドルグ城という城砦だ。


「そのナルドルグ城というのは、どんな城なのですか?」


「詳しくはわかりませぬが、堅牢な城だとか。かつてはマドハヴァディティアも攻めあぐねたと聞いています。最終的には調略して城門を開かせたという話です。まあ、戦力比がどれほどだったのかは分かりませぬが……」


 ベルノルトの問いに、ハシムがそう答える。とは言えマドハヴァディティアも遊びで仕掛けたわけではあるまい。それなりに勝算があったはずだ。それでも跳ね返したのだから、確かに堅固と言っていいだろう。そしてクリシュナ相手に調略は通じるまい。


 またナルドルグ城はいわゆる反マドハヴァディティア勢力と地理的に近い。この辺りは豊かとは言いがたいが、しかし最低限の補給は受けられるだろう。後詰めの兵も期待できる。


「ふむ……。本当にマドハヴァディティア軍を防げるかも知れませんな」


「そう思いますか、アッバス殿」


「まあ、その城を直接見知っているわけではないので、何とも言えませんが……」


 言葉を濁しつつも、アッバスはルドラに頷いて答える。少なくともガーバードよりは可能性があるように思えた。とはいえ、クリシュナがいわゆる国力を大幅に減らしたことは事実だ。


 一度マドハヴァディティア軍を跳ね返したとして、その後も戦い続けることができるのか。さらに耐えるだけでなく打って出て、マドハヴァディティアに対して勝利を収めることができるのか。それは別問題である。


 クリシュナが今後、将来の展望を描くには、やはり頼りになる味方が必要だろう。ラーヒズヤと連携するのだろうが、しかし彼も自分のことで手一杯のはず。となれば最も期待しているのは、やはりイスパルタ軍であろう。それでベルノルトはこう尋ねた。


「ハシム殿。今後ナルドルグ城のクリシュナと、隠密衆として連絡を取ることはしないのですか?」


 今後、海路を使ってクリシュナとイスパルタ朝が使者のやり取りをすることはできなくなる。だがハシムはこうしてカリカットに来ているし、彼の他にも西方で活動している隠密衆はいるだろう。連絡を取り合うだけなら、それほど難しくはないはずだ。ただハシムは苦笑気味にこう答えた。


「さて、そういう命令はまだ受けていませんなぁ」


 それを聞いてベルノルトも一つ頷く。確かに隠密衆の勝手な判断でクリシュナと接触することはできない。いつ、どのような目的でクリシュナと接触するのか、それはジノーファが決めるべき事だ。


(ただ、なぁ……)


 ベルノルトは胸中で嘆息する。クリシュナにしろラーヒズヤにしろ、今後カリカットに対して、ひいてはアースルガム解放軍に対して、どのような態度で臨んでくるのか。二人ともマドハヴァディティアへの対処を優先するだろうとは思う。だが仮に目障りに思えば潰しに来るかも知れない。


 いや、警戒するべきはこの二人だけとは限らない。現在、西方の情勢は不安定になっているのだ。二人の下から独立を目論む者が現われるかもしれない。それがどれほどの勢力になるかは分からないが、仮に五〇〇の兵を持っているとすれば、カリカットのアースルガム解放軍にとってはそれだけで十分に脅威だ。


 忘れてはならない。いくらイスパルタ朝の後ろ盾があるとはいえ、西方において解放軍は弱小勢力なのだ。一度どこかに狙われたら、それが致命傷になりかねない。それを避けるため、解放軍の側から動く必要がある場合もあるだろう。だがその時に、イスパルタ軍の方針と食い違うのはまずい。


 かといってヴァンガルにいるジノーファが、カリカットの解放軍にあれこれと指示を出すというのは、はっきり言って不可能だ。そんなことをしていては臨機応変に動けない。となると今必要なのは、一定の裁量を認めるイスパルタ王の許可だ。それがあればカリカットの解放軍は「イスパルタ軍を気にして動けない」という事態を避けることができる。


(手紙を書いてみるか……)


 ベルノルトは心の中でそう呟いた。彼が裁量権を求めれば、ジノーファも嫌とは言うまい。生き残るために必要なことだと理解してくれるだろう。制限はつくだろうが、それは当然のこと。まずは権限を貰わなければ、現場としては動くに動けない。


(でもなぁ、相手はあの父上だ)


 権限はくれるだろう。だが代わりに何かとんでもない条件を課されるのではないか。ベルノルトは一抹の不安を拭えなかった。



ルドラ「カリカットにいながらこれほどの情報が手に入る。イスパルタ軍、恐るべし」

ベルノルト「…………」←これが普通だと思っていた人。

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[一言] 堅城に籠ってる間に周囲を攻略されたら無意味だよね。 クリシュナに展望なんてあるんかな?
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