空城の計(偽)2
クリシュナ軍がガーバードを放棄したその二日後、王都の正門前には軍を引き連れたマドハヴァディティアの姿があった。正門は大きく開け放たれている。王都ガーバードはすでにマドハヴァディティア軍によって押えられていた。
二日前、クリシュナ軍が王都ガーバードを放棄したことを聞くと、マドハヴァディティアは急ぎ騎兵のみ五〇〇〇を編成し、これを王都へ先発させた。自身が赴かなかったのは罠を警戒しての事である。
結果として、彼の懸念は当たったように思われた。まずガーバードの調査報告によると、王都及び王城内に敵兵の姿はないという。ただ城壁を調査したところ、崩れやすくなるよう細工された場所が幾つかあった。
さらに斥候を出して王都の周囲を探らせたところ、北へ徒歩一日ほどの場所にクリシュナ軍が陣を張っているという。騎兵が巡回していたので、遠目から確認しただけだというが、それでも小高い丘の木々に混じって確かに旗が幾つも見えたという。
これらの報告を意味するところはただ一つ。つまり空城の計だ。マドハヴァディティアがガーバードに入って油断したところを狙い、細工した箇所の城壁を崩して王都内へ侵入。一挙に彼の首を狙う魂胆に違いない。
「やはりな。小賢しいことを考える」
自らの予想が当たり、マドハヴァディティアは上機嫌にそう呟いた。北にある陣は囮だろう。別の場所に隠れているであろう、本命の潜入部隊から目を逸らそうとしているのだ。彼はクリシュナの作戦をそう看破した。
「さて、どうもてなしてやろうか」
マドハヴァディティアは嗜虐的な笑みを浮かべて思案を巡らせる。城壁を修理して易々と破れないようにしてしまうのは簡単だ。しかしそれでは敵を、クリシュナをおびき寄せることができない。
ここはやはり、敵の思惑に乗ってみるべきだろう。罠にはまったフリをして、逆に敵を罠にはめるのだ。潜入部隊が動けば、本隊も動くだろう。クリシュナがどちらにいるのかは分からないが、両方おびき寄せてしまえば問題はない。
この空城の計、クリシュナにとっては起死回生の一手に違いない。だがそれを逆手に取られ、自分が誘い出されたことを悟った時、彼はどれほど絶望するだろうか。マドハヴァディティアはそれを想像してほくそ笑んだ。
そして彼はガーバードに到着すると、何食わぬ顔をしてそのまま入城。王都に凱旋した。メインストリートの両脇には民衆が集まり、歓声を上げて彼を出迎える。半分以上仕込みであることは分かっているが、それでも彼は機嫌良く手を振ってその歓声に応えた。
さて、王城に入ると彼の機嫌を損ねる報告が待っていた。まずクリシュナと情を通じた後宮の女たちは全て逃げ出していた。宝物庫も空で、それどころか王城内が盗賊に荒らされたような有様だ。重要書類も大半が失われていて、今後の統治に大きな支障がでることが予想される……。
マドハヴァディティアはそれらの報告を受け、やや苛立った様子で「ふん」と鼻を鳴らした。気に食わぬ話ではある。だがその苛立ちを解消する算段はすでについている。後は敵が動くのを手ぐすね引いて待っていれば良い。彼はそう思っていた。
だが待てども待てども、クリシュナ軍は動かなかった。マドハヴァディティアが王都ガーバードに凱旋したその日から厳戒態勢が敷かれ、すでに五日が経った。しかしまだクリシュナ軍は動かない。マドハヴァディティアの内心にも苛立ちが募っていた。
(なぜだ。なぜ動かない……?)
ガーバードから北へ徒歩一日ほどの場所に陣を構えるクリシュナ軍の本隊は、騎兵の動きを活発化させている。これはマドハヴァディティア軍の斥候を排除するのと同時に、潜入部隊と連絡を取り合っているものと思われた。
状況はいつ動いてもおかしくない。マドハヴァディティアはそう思っているのだが、彼の予想とは裏腹にただ時間だけが過ぎている。仕方がないとは言え、敵に主導権を握られているように感じ、彼は腹立たしげに舌打ちした。
「よかろう。動きたくなるようにしてやろうではないか」
マドハヴァディティアはナレインに三万の兵を与えると、北に陣を構えるクリシュナ軍を討つように命じた。敵の潜入部隊がどのタイミングを狙っているのかは分からない。だがここで動かなければ、本隊が危うくなる。さあ動け、とマドハヴァディティアは肉食獣の笑みを浮かべた。
その夜、マドハヴァディティアは甲冑を纏い、玉座に座って不埒な侵入者たちを待っていた。だが彼の予想に反し、王城が強襲されることはなかった。そして夜が明けた翌日、彼はナレインから思いもよらぬ報告を受けた。
曰く「敵の本陣は空。そもそも一万規模の兵がいた痕跡は見受けられない」。
敵陣に本隊の姿はなかった。多数の兵がいた痕跡も。そもそも陣も、ただ旗を立てただけの見せかけ。ひっきりなしに巡回していた騎兵も、三万の大軍が姿を現すと、さっさと北へ去って行ったという。
その報告を受けたとき、マドハヴァディティアは一瞬その言葉の意味を理解できなかった。そして徐々に理解が追いつくにつれ、彼の顔は怒りで赤黒く染まっていった。クリシュナは空城の計など仕掛けてはいなかった。そう見せかけてただ時間を稼ぐことだけが、彼の目的だったのである。
ガーバードではマドハヴァディティアと戦えないことを、クリシュナは分かっていたのだ。だがガーバードを放棄したとして、マドハヴァディティア軍がそれを無視してクリシュナ軍の後を追えば、結局撃滅されてしまうだろう。クリシュナ軍が確実に撤収するには、マドハヴァディティア軍をガーバードで足止めする工夫が必要だった。
その工夫が見せかけの空城の計だ。空城の計を仕掛けたように思わせ、それを逆手に取らせる。マドハヴァディティアは敵が来るのを待ち続け、その分だけクリシュナは時間を稼ぐことができる、というわけだ。
小高い丘に本隊が陣取っているように見せかけたのは、クリシュナがガーバードを諦めていないと思わせるためだ。そうすることで、空城の計の信憑性を高めようとしたのである。
だが斥候に探られては、偽の本陣が空であることをすぐに知られてしまう。それでクリシュナは騎兵のみ五〇〇をそこに残した。マドハヴァディティア軍の斥候狩りをさせるためだ。ちなみにこの騎兵隊の動きが活発であったことが、マドハヴァディティアに本陣が本物であると信じさせる一助になった。クリシュナにとっては幸運なことと言っていい。
つまりマドハヴァディティアはたった五〇〇の騎兵に振り回され騙されたのだ。そしてその騎兵隊も、三万の兵を前にしてさっさと撤収した。後に残ったのは空の敵陣と、浪費された時間のみ。要するにマドハヴァディティアは一杯食わされたのだった。
「くそっ!」
マドハヴァディティアは拳で執務机を叩いて苛立ちを現した。ただちに全軍で追撃することを考え、彼は大きくため息を吐く。それから彼は頭の中で地図を広げた。クリシュナ軍は北へ去った。そしてガーバードの北にはナルドルグ城がある。
ナルドルグ城はヴェールールの北の国境近くに位置する城砦だ。かつてはヴェールールの北上を妨げるための城だったが、マドハヴァディティアが下して北方の防衛を担う城になった。
クリシュナ軍がガーバードを放棄してから、すでに八日が経っている。今から追ったとして、追いつく前に彼らはナルドルグ城に入るだろう。つまり今からクリシュナ軍を叩こうとした場合、マドハヴァディティア軍はこのナルドルグ城を攻略しなければならない。
攻略できるだろうかと考え、マドハヴァディティアは顔をしかめた。かつてナルドルグ城を下した際、しかし彼はこの城を攻め落としたわけではなかった。攻め落とそうとして失敗し、最終的には調略によって開城させたのだ。
その堅牢な城に、クリシュナ軍が立て籠もるのだ。彼らには調略など通用するまい。となれば力攻めしかないわけだが、それが困難を極めることは、マドハヴァディティア自身がよく知っていた。
(いや時間さえあれば、攻め落とすこと自体はできる。だが……)
マドハヴァディティアは顔をしかめた。実は麾下の将兵から不満の声が上がり始めているのだ。そして彼はその声を無視できなくなってきていた。
マドハヴァディティアの麾下には、彼に従ったために国や故郷、家族や親族さえも失った者が多数いる。彼らはその喪失に見合うだけの恩賞を求めている。そしてその声はマドハヴァディティアがガーバードを奪還したことでさらに大きくなっていた。
それでも、空城の計を警戒している間はその声を抑えることができていた。敵が攻めてくるのであれば戦うより他になく、またクリシュナを討ち取ることができればさらなる恩賞を期待できるからだ。だが空城の計は偽装であり、クリシュナは北へ逃げ去ってしまった。
この状況を、マドハヴァディティア軍麾下の将兵はどう見るか。当面の危機は去り、戦線は安定したと見るだろう。加えてマドハヴァディティアは本拠地たる王都ガーバードを奪還している。次は自分たちの番だ、と考えてもおかしくはない。
(もしも……)
もしもマドハヴァディティアが恩賞を与えるのを後回しにして、強引にナルドルグ城を攻めようとしたら、麾下の将兵はどう思うだろうか。「マドハヴァディティアは私怨を優先した」と思うだろう。士気の低下は免れないし、最悪暴動が起きかねない。
それではどのみち、ナルドルグ城の攻略などできるはずもない。マドハヴァディティアは諦めたようにため息を吐いた。また別の事情もある。イスパルタ軍と合意した三ヶ月間の停戦。その期限が迫っているのだ。
イスパルタ軍がいつ、どのように動くのかは分からない。だがこのまま西方情勢を静観するはずもなし。そもそも基本的に敵対関係であることは少しも変わっていないのだ。ならばイスパルタ軍の西進にたいして備えをしなければならない。
備えが必要なのは、イスパルタ軍だけではない。ラーヒズヤ軍に対しても備えは必要だ。ラーヒズヤ軍に対しては大損害を与えたとは言え、壊滅させたわけではない。そして戦力が三〇〇〇もあれば、街を一つや二つ襲うには十分すぎる。
もちろんそれだけなら、対処は幾らでも可能だ。だがマドハヴァディティアはクリシュナ軍とイスパルタ軍にも目配せして対応しなければならない。要するに今の彼は、周囲が敵だらけなのだ。これに対応するための態勢を、早急に整える必要があった。
だが「態勢を整える」と言っても簡単ではない。かつてのヴェールールと現在マドハヴァディティアが掌握している版図とでは、重なっている部分も多々あれど、まったく新規の領地も多い。これを治めるのは生半可なことではなく、しかも彼の周りでは信頼できる者が限られている。
(こうなると……)
こうなると恩賞として領地を与え、その者に外敵への警戒を担わせるというのは、態勢を整える上で良い選択と言えるのではないか。マドハヴァディティアはそう思った。
幸いにして、彼は現在西方において圧倒的優位を築いている。クリシュナ軍もラーヒズヤ軍も立て直しに必死で、進んでマドハヴァディティア軍と事を構えようとはしないだろう。ならばその時間的猶予を使い、優位なまま足場を固めてしまうのだ。
今後、西方情勢がどう移ろうのか、それはマドハヴァディティアにも分からない。だが今後数年、ともすれば十年以上は戦乱の時代が続くだろう。その時代を戦い抜くには、しっかりとした足場が必要だ。ヴァンガルで補給に悩まされた経験が、彼にそのことを強く意識させていた。
もちろんデメリットもある。第一に戦力を分散するわけだから、マドハヴァディティア自身の手元に残る戦力は目減りする。当然ながら堅牢なナルドルグ城の攻略は、彼自身の復讐と一緒に先延ばしせざるを得ない。
また配下の将たちに領地を与えるとして、その際の肩書きはどうするのか。代官にしろ総督にしろ、基本的に役人の立場では、彼らは納得するまい。彼らは「領地の主」としての名目を欲するだろう。
つまり「王にしてくれ」ということだ。西方においてはごく自然な要求と言って良い。だがその要求を叶えることに、マドハヴァディティアは躊躇いがあった。苦い経験が彼を躊躇わせたのだ。
なるほど、王を任命すれば、「王の中の王」たるマドハヴァディティアの権威は増すだろう。だがこれまでの西方の歴史から言って、「王の名乗りを認める」ということは、すなわち「独立を認める」ことに等しい。
つまり一度王を任命すれば、マドハヴァディティアとその者との関係は、「主と臣下」ではなくなるのだ。比肩する程ではないにせよ、後者の格が高くなる。いわば「主国の王と属国の王」のような、そういう関係になるのだ。
それで果たして統制が利くのか。忠誠と臣従を誓わせることは可能だろう。だがマドハヴァディティアがヴァンガルで辛酸を嘗めることになったのは、突き詰めて言えば西方に王が乱立しているがためではなかったのか。
(王の数は、もっと少なくて良い)
ここのところ、マドハヴァディティアは常々そう思っている。西方六〇余州をヴェールールの名の下に統一すること。それが彼の当面の目標だ。幾つかの小国は認めなければならなくなるだろうが、それでもその数は少ない方が良い。
それに今王位を与えてしまうと、この先戦い続ける中で、与えるべき恩賞が過大なものになってしまいかねない。王位とは最上級の恩賞であるべきなのだ。それを今与えてしまうのは、果たしていかがなものか。
諸々考え合わせた結果、マドハヴァディティアは配下の将たちに領地を分配することにした。ただし彼らを「王」ではなく「候」にした。つまり「独立した主権者」ではなく、より従属的な「領主」の地位に留め置いたのだ。
「俺も個人的な復讐はひとまず我慢する。だからお前たちも〈王〉ではなく〈候〉で納得しろ」
直接そういう発言があったわけではない。だがマドハヴァディティアがそのように考えていたことはほぼ間違いない。王ではなく候に列せられた者たちも分かっていたのだろう。彼らは王になれなかったことに不満を漏らさず、粛々と印璽を授かった。
「このままナルドルグ城を攻めるなど、冗談ではない。信賞必罰。貰うべきものを貰わねば、どうして忠誠に価しようか」
彼らは総じてそのように思っていたのだ。もちろんクリシュナもラーヒズヤもいずれは討たねばなるまい。彼らもそれは分かっている。だがマドハヴァディティアの私怨に付き合わされ、すり潰されたのでは堪らない。そんなことのために、今日この日まで彼に従ってきたわけではないのだ。
言ってみれば、双方が妥協した格好である。マドハヴァディティアにとっても諸侯にとっても、最上の結果でなかったことは事実だ。だがそれでも、落し処を見つける事はできた。
印璽を授けられた諸侯は、それぞれ与えられた領地へ向かった。当然、彼らは配下の兵を引き連れていく。その結果、マドハヴァディティアの手元に残った戦力はおよそ二万だった。
そしてたった二万では、ナルドルグ城を攻め落とすことなど到底叶わない。その攻略を後回しにせざるを得ないことを改めて突きつけられ、マドハヴァディティアは忌々しげに舌打ちした。
(まあ、良い)
この先、ヴェールールの国力を回復させれば、兵はいかようにも揃えられる。気がかりなのはイスパルタ軍がどう動くのかだが、各勢力の配置からしても、まず狙うのはラーヒズヤだろう。クリシュナを討つ機会はまだある。そう考えて、マドハヴァディティアは自分を納得させた。
マドハヴァディティア「待ち人来ず。……フラれたみたいではないか」




