ニルギット会戦3
迫り来るマドハヴァディティア軍主力。その最後尾に位置していた部隊が反転するのを見たとき、クリシュナは背中に嫌なモノを感じた。そしてその予感は的中する。反転した敵部隊は、突出してきたラーヒズヤ軍の側面に襲いかかったのだ。それを見てクリシュナは盛大に顔をしかめた。
「ハルバシャン。打って出て、敵を押し返すことは可能か?」
クリシュナは副将のハルバシャンを呼んでそう尋ねた。彼は難しい顔をして「否」と答える。
「敵の勢いが強く、これを防ぐので精一杯でございます。打って出るなど、とても……」
「では一隊を回して、ラーヒズヤ軍を援護することは可能か?」
「援護の必要などありますまい。主力の相手をしているのは我々です。むしろ我々の方が援護を必要としております。ラーヒズヤ王の方が負担は軽いのですから、敵別働隊の突破程度のことは、せめて自力でやって貰わねば……」
ハルバシャンはそう答えた。言っていることは正論に聞こえるが、しかし口調にはトゲがある。この男はもともとラーヒズヤの同僚であり、しかも同年代だ。同じ世代で出世頭とも言うべきラーヒズヤを意識することは多々あっただろう。彼がクリシュナに与した理由の中に、その対抗意識がなかったとは言えない。
だがラーヒズヤは独立を宣言して王となった。当初クリシュナは彼と争っていたが、マドハヴァディティアが西方へ戻ってきたのを機に、二人は手を結んだ。つまりクリシュナはラーヒズヤを同格の王と認めたのだ。
ハルバシャンにとっては、同僚だった男が「陛下」と尊称される立場になったわけである。直接仕える立場ではなかっただけ自尊心を宥めるのは簡単だったが、それでもやはりザラリと感情を逆撫でされたような気分は拭いきれない。それでつい、突き放した対応になりがちだった。
とはいえハルバシャンもラーヒズヤ憎しでモノを言っているわけではない。側面を突かれたとは言え、見たところ敵部隊はラーヒズヤ軍に対して明らかに多いわけではない。むしろほぼ同数であろう。まさかマドハヴァディティアが別働隊を指揮しているわけでもなし。彼の知るラーヒズヤならば、多少形成が不利になっても別働隊を退けることは可能だろう。
「突破してもらわねば、こちらが困る」
「反転した部隊の分だけ、こちらの圧力は減ります。ラーヒズヤ軍が別働隊を突破できずとも、我々がここを守り抜けば、敵は撤退するしかありませぬ。一度睨み合いに持ち込めば、有利なのは我々です」
ハルバシャンはそう語る。だがクリシュナは首を横に振ってこう言った。
「我々に必要なのは勝利だ。勝利してはじめて、我々はこの西方からマドハヴァディティアの影を払拭できるのだ。ハルバシャン、三〇〇〇の兵を用意しろ。ラーヒズヤ軍を援護させる。ラーヒズヤが敵を突破できるならそれでいい。他の使い道もあるだろう」
「……御意」
ハルバシャンは心底納得したようではなかった。だが彼がそれ以上の問答を避けた。ここは戦場であり、主将はクリシュナなのだ。明確な方針が示されたからには、副将たる自分はそれに従うべきだろう。ハルバシャンはそう自分を納得させた。
しかしながら、ハルバシャンがより分けた三〇〇〇の兵が出撃することはなかった。マドハヴァディティア軍主力の攻勢がさらに強まり、クリシュナ軍の防衛陣地を半包囲するような格好になったのである。
マドハヴァディティア軍主力が攻勢を強めたのはナレインの命令だった。彼は父王が前線に出たことを知り、そのことに触発されて、あるいは功を焦って、さらなる攻勢を命じたのだ。だが結果的にそのことがクリシュナの講じていた起死回生の一手を封じ込めることになった。
「陛、下……。ラーヒズヤ軍が……」
撤退していくラーヒズヤ軍を見て、ハルバシャンは呻いた。「良い気味だ」などとほくそ笑む余裕はない。ラーヒズヤ軍が去ってしまったら、クリシュナ軍単独でマドハヴァディティア軍と戦わなければならないのだ。
しかもそれはこの戦場に限っての話ではない。マドハヴァディティアは自分の臥所を暴いたクリシュナを、ことさら敵視しているという。であればこれから先ずっと、二人のうちのどちらかが死ぬまで、その戦いは続くのである。そして現在の戦力比から言えば、それはクリシュナ軍にとって絶望的な戦いになるだろう。
「ハルバシャン。こちらも撤退するぞ」
「……御意」
クリシュナはただちに撤退の方針を定めた。敵の別働隊が追撃を切り上げて戻ってきたら、半包囲が全包囲になりかねない。そうなればなぶり殺しにされるだろう。その前に戦場を離脱するのだ。
撤退に際しては、より分けておいた例の三〇〇〇の兵が役に立った。マドハヴァディティア軍主力の攻勢限界を見極め、波が退くそのタイミングを見極めてこの兵をぶつけたのだ。マドハヴァディティア軍は大きく後退することを余儀なくされ、その間にクリシュナ軍はニルギット平原より撤退したのである。
○●○●○●○●
ニルギット会戦に勝利したその日の夜。マドハヴァディティア軍はニルギット平原に留まっていた。マドハヴァディティアが本陣を置いたのは、ラーヒズヤ軍が陣取っていた小高い山である。
ここでは直接の戦闘は行われなかったので、死体が転がっていることはないし、陣が焼き払われていたりということもない。それどころか多量の物資が残されていて、それらは全て戦利品になった。ちなみにクリシュナ軍の陣の方は、撤退時に火がかけられていて、めぼしいモノは何も残っていなかった。
「ナレイン、良くやった。約束通り王太子にしてやる。今この時より、お前がこの父の後継者だ」
「ありがとうございます、父上!」
幕僚たちが居並ぶ前で、マドハヴァディティアはナレインを王太子に冊立した。その様子を見守っていた兵士たちが武器をならしながら歓声を上げる。荘厳な音楽も煌びやかな正装もないが、猛々しい戦場流のやり方で、彼らは新王太子を祝福した。
厳しいことを言えば、ナレインは決して大きな戦果を上げたわけではない。三万以上の兵を与えられておきながら、結局クリシュナ軍を打ち破ることはできず、さらには悠々と撤退するのを許してしまった。
だがそれは大きな問題ではない。今会戦の目的は「ラーヒズヤ軍を撃退し、連合軍を空中分解させること」である。そしてそれは達成された。その視点で言えば、ナレインはクリシュナ軍をしっかりと足止めすることで自分の役割を果たしたのだ。
また今回ナレインが王太子となったことで、クリシュナは完全にその座から遠ざかることになった。謀反を起こし、その時点で親子の縁を否定されているから今更な気もするが、ともかくこれでクリシュナはヴェールール王家に何の権利も持たなくなった。
王都を占拠しているクリシュナは無法な盗賊と同じであり、国王たるマドハヴァディティアがこれを討伐することは全く自然で正しいことである。要するにそういう理論武装のための、間接的な環境整備だ。
まあそちらは蛇足としても、マドハヴァディティアが王太子を定める気になったのは、やはりヴェールールの王都ガーバードの奪還が目前に迫ってきたからだろう。ニルギット平原から王都までは、ゆっくりと行軍して三日ほどの距離がある。ほとんど目と鼻の先と言って良く、当然ながら次の作戦は王都の奪還だ。
そして王都を奪還すれば、次は国の立て直しをしなければならない。王太子を定めたのはその一環である。今回、ヴェールールは謀反という大きな混乱に陥った。そして混乱を治めたからと言ってダメージがなかったことになるわけではない。
世の人々の目にはヴェールールが落ち目にあるように見せるだろう。見切りを付けて離れる者が続出したとしてもおかしくはない。それを避けるためにも、「ヴェールールには未来がある」と思わせなければならないのだ。
(まあ、何にしても……)
何にしても、まずは王都ガーバードの奪還である。マドハヴァディティアは先走る思考を一旦そこで止めた。
ガーバードはマドハヴァディティアの本拠地だ。絵図を見るまでもなく、どこをどう攻めれば良いかは、全て彼の頭の中に入っている。また戦力も三倍弱の差があり、その上味方は勝利の後で勢いに乗っている。例えクリシュナが城壁を頼りに防戦するとしても、これを打ち破るのはは決して難しくない。マドハヴァディティアはそう考えていた。
(クリシュナよ、立ちはだかって見せろよ)
好戦的な笑みを浮かべながら、マドハヴァディティアは胸中でそう呟いた。前述した通り、ガーバードを奪還した後は、国内の立て直しをしなければならない。万が一クリシュナが逃亡した場合、これを追撃している余裕はないだろう。少なく見積もっても今後数年は、クリシュナを討つ機会が遠のいてしまう。
いや、それどころかその機会を逸してしまう可能性すらある。忘れてはならない。遠からずイスパルタ軍が西方へ進軍してくるのだ。マドハヴァディティアが身動き取れない間に、イスパルタ軍がクリシュナを討ってしまうかも知れない。
そうなる前に、具体的には次の王都奪還作戦で、マドハヴァディティアはクリシュナを討ってしまいたかった。さっさと雑事を片付ける、というような話ではない。自らの手でクリシュナを討たねば、マドハヴァディティアは面目が立たないのだ。他の誰かにクリシュナの首をかっ攫われては、彼は一生の後悔を抱えることになるだろう。
そういう個人的な心情もあり、マドハヴァディティアは一刻も早く王都ガーバードへ向けて進軍したかった。これはクリシュナに態勢を立て直す、時間的な猶予を与えないためでもある。だがそれはできなかった。
特にナレインが指揮していた主力についてだが、思った以上に死傷者が多かったのだ。無理攻めをした反動であり、またそれだけクリシュナ軍が手強く戦ったということでもある。それでマドハヴァディティア軍は数日、このままニルギット平原に留まることになっていた。
マドハヴァディティアにとっては足止めを食らった格好である。だが王都は逃げたりはしない。そしてクリシュナも、もはや王都の城壁以外に寄る辺はないだろう。彼はそう考えていた。しかしそうはならなかった。
○●○●○●○●
ニルギット平原から撤退したクリシュナ軍は王都ガーバードへ向かっていた。予想された追撃はない。本来ならば喜ばしい事だが、しかしそれがクリシュナとハルバシャンの顔を険しくしていた。
「主力を指揮していたのは、どうやらマドハヴァディティアではないようだな。あの男がいたのなら、背中を見せた我々を追ってこないはずがない」
「御意。奴めは別働隊の指揮を取っていたのでしょう。そうであれば、ラーヒズヤ軍を鮮やかに退けたあの手並みも得心がいきます」
クリシュナとハルバシャンはそう話し、苦い顔で頷き合った。ラーヒズヤ軍をおびき出し、これを叩くことで連合軍を空中分解させる。マドハヴァディティアのその狙いに、二人は今になってようやく気付いたのである。
気付くのが遅すぎた。ただそれが、二人に苦い顔をさせている理由ではない。マドハヴァディティアの狙いはあくまでクリシュナ軍であり、連合軍が空中分解したからには、今後彼らは単独で戦わなければならない。その現実が、二人に重くのし掛かっているのだ。
「……ともかく、ガーバードへ急ごう。平原で襲われては、ひとたまりもない」
「御意」
クリシュナ軍は王都ガーバードへ急いだ。兵士たちもマドハヴァディティア軍の追撃を恐れている。隊列は乱れがちだったが、その分彼らは足早に歩き続け、敗戦より一日と少しで王都へ帰還した。
城壁の内側に入ったからと言って、クリシュナに安息は許されなかった。遠からず、マドハヴァディティア軍がここへ攻めてくるだろう。それを迎え撃つための準備をしなければならない。
はっきり言って、勝てる見込みはほぼない。王都ガーバードはマドハヴァディティアの本拠地だ。彼はこの都市のことを熟知している。ひとまずは臣従を誓った連中も、どこまで信用して良いものか。その上、敵の数は三倍近い。
また都市の民衆は支配者としてのマドハヴァディティアに抵抗を持っていない。籠城戦が辛くなれば、敵方に通じる可能性は十分にあるだろう。不利な要素ばかりで、クリシュナは頭が痛くなった。
しかしそれでも、彼としては戦うしかない。降伏したところで許されるはずがないからだ。そうである以上、戦う以外に道はないのだ。そして戦う以上は勝利への道筋を見つけなければならない。それがどんなに細いとしても、だ。
「問題は援軍だ。援軍が来なければ、我々は最終的にすり潰される。どこかに良い援軍はいないか?」
「すぐに思いつくのは、やはりイスパルタ軍ですな。船を使えば、救援を請うことは可能です」
ハルバシャンがそう答える。マドハヴァディティア軍に勝てるとすれば、それはイスパルタ軍だけであろう。クリシュナ軍がイスパルタ軍をアテにするのは当然と言える。ただし一つ問題があった。
「間に合うのか?」
クリシュナが懐疑的にそう尋ねる。彼らが知る限り、イスパルタ軍はまだヴァンガルから動いていない。今から救援を請うたとして、果たして彼らが来るまでクリシュナ軍は持ちこたえられるのか。頭の中で地図を広げてみれば、どうも難しいと言わざるを得ない。
「であれば、反マドハヴァディティア勢力の尻を叩くより他にありますまい」
そう発言したのは、留守居役として王都に残っていたドゥルーヴだった。クリシュナには多数の反マドハヴァディティア勢力が味方している。クリシュナ軍が敗れれば、次は彼らの番だ。彼らが生き残るためには、クリシュナに援軍を送るしかない。ドゥルーヴはそうやって彼らをたき付けろと言った。
「では手紙を書かせるか」
クリシュナもドゥルーヴの策に異論はない。それで後宮に囲っている女たちに手紙を書かせようと言った。クリシュナ自身も手紙を書くつもりだが、彼女たちにも書いてもらったほうが効果があるだろう。
「陛下。いっそ王妃王女方を解放して差し上げてはいかがですかな」
かつてマドハヴァディティアによって祖国を滅ぼされ、そして彼の後宮に囲われた王妃や王女たち。彼女たちをそれぞれの勢力のところへ返してやってはどうか。ドゥルーヴはそう提案した。だがクリシュナはこう懸念を示す。
「大丈夫なのか? 彼女たちをここに止めているのは、人質という側面もあるのだぞ」
「陛下。事ここに至れば人質など取っておいても無駄にございます。援軍は近々に必要なのです。早急に兵を集めるためには、旗頭が必要でありましょう。むしろ後宮に残して置いて、一体どれほどの役に立つというのですか!」
ドゥルーヴはそうクリシュナに迫った。かつての恩師に説得され、クリシュナはゆっくり、そして大きく頷く。会議が終わると、彼はさっそく後宮へと足を向けた。
クリシュナ「まだだ。まだやられはせんよ」




