ニルギット会戦2
「ほう、やるではないか。思った以上だ」
マドハヴァディティアは馬上よりルルグンス人部隊の戦いぶりを眺め、上機嫌な様子でそう呟いた。正直彼らにはあまり期待していなかった。彼としては嫌がらせになれば御の字くらいに考えていたのだが、なかなかどうして奮戦している。志願してきたこともふまえれば、やはり士気は重要と言うことだろう。
ルルグンス人部隊が側面をしつこく突くので、ラーヒズヤ軍の勢いは徐々にそがれていく。マドハヴァディティアはタイミングを見計らい、命令を出してラッパを吹き鳴らさせた。それを合図にして、別働隊の兵士たちが一斉に叫ぶ。
「〈王の中の王〉マドハヴァディティア!
〈王の中の王〉マドハヴァディティア!
〈王の中の王〉マドハヴァディティア!」
その合唱を、マドハヴァディティアは機嫌良く聴いていた。ただし彼の視線は鋭く、反転攻勢に移る味方の兵士たちの戦いぶりを観察している。戦況は別働隊有利であり、彼ははさらに機嫌を良くした。
だがしばらくすると、ラーヒズヤ軍は勢いを取り戻した。そして前線から兵士が走ってきて、ラーヒズヤが出てきたことをマドハヴァディティアに報告する。それを聞いて彼はニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「来たか。ではこちらも出るぞ」
供回りにそう告げ、マドハヴァディティアは馬を駆って前線へ赴いた。そして彼はラーヒズヤの前に姿を現し、かつての部下にこう声をかけた。
「戦場の勘は衰えておらぬようだな、ラーヒズヤよ」
「な、なぜあなたがここに……!」
マドハヴァディティアの姿を見てラーヒズヤがわななく。この瞬間、彼の策略は完成した。
○●○●○●○●
マドハヴァディティアの策略は一体いつから始まっていたのか。それは彼がイスパルタ軍と停戦交渉を行ったときからである。
彼はイスパルタ軍よりも、むしろクリシュナとラーヒズヤを敵と定めた。特にクリシュナは必ずや殺してやらねば気が済まぬ。ただ同時に、彼はそれが困難であることもまた承知していた。
マドハヴァディティアが軍を引き連れて西方へ帰還すれば、クリシュナとラーヒズヤは必ずや手を結ぶだろう。この二人が協力した場合の動員戦力について、マドハヴァディティアはおよそ四万と見積もった。さらに彼は西方の基盤を失っているのだ。
一筋縄ではいかぬ、と彼自身も認めざるを得なかった。まずはこの両者の連携を崩す必要がある。調略で間を裂くことも考えたが、西方では権力構造が激変している。それを把握するには時間が足りなかった。
(それに……)
それに両者の間を裂いたとして、しかし両者にとってマドハヴァディティアが敵であることに変わりはない。彼がクリシュナ軍と戦っているときに、ラーヒズヤ軍が後方で蠢動するようなことがあっては面倒である。その上、遠からずイスパルタ軍も動くのだ。小うるさい敵は一叩きして黙らせておかねばなるまい。
ではまずラーヒズヤ軍を叩くのか。それも難しい。ラーヒズヤ軍とマドハヴァディティア軍の戦力差は二倍以上。戦おうとすればラーヒズヤは逃げるだろう。そしてその隙にクリシュナ軍が後方を荒らすに違いない。
クリシュナ軍に対応しようとすれば、今度はラーヒズヤ軍が反転してくるだろう。だが大軍は動きが遅い。こうしてマドハヴァディティア軍は振り回され、気付けば兵糧が尽きて自滅する、というわけだ。
常道でいけば、まずは確たる支配領域を確立することが先決だ。そうして初めて補給が安定し、継続的に戦うことができるようになる。だがうかうかしていればイスパルタ軍が動く。このスーパーパワーが動く前に、マドハヴァディティアは西方における主導権を握りたかった。
いたずらに時間をかけることはできない。であれば、両軍を戦場に引っ張り出し、逃がすことなく撃破する。これしかない。そのためには両軍に「勝ち目がある」と思わせなければならない。
マドハヴァディティアはまず、「クリシュナを討つ」という姿勢を明確に示した。これは彼の感情とも合致した方針で、だからこそ誰にも違和感をもたれることはない。そしてその方針の下、彼はまずガーバードを奪還する計画を立てた。
そしてその計画の概要を、停戦交渉の中でイスパルタ軍に明かした。停戦に本気であることを示すと同時に、この情報がクリシュナに伝わることを見越してのことである。そうやってマドハヴァディティアはクリシュナ軍とラーヒズヤ軍の動きを誘導しようとしたのである。
そしてマドハヴァディティアが思ったとおり、両軍はニルギット平原に布陣した。両軍はそれぞれ小高い山の上で防御を固めている。これをどう攻略するのか。彼には最初から腹案があった。
『まず軍を二つに別ける。主力と別働隊だ。主力がクリシュナ軍を攻撃すれば、必ずやラーヒズヤ軍が動いて主力の側面を突こうとするだろう』
『それを、別働隊が防ぐのですな。そしてその間に主力がクリシュナ軍を撃破する。陛下が陣頭に立たれれば、クリシュナ軍ごとき鎧袖一触でありましょう』
幕僚の一人がそう言って、感心したように何度も頷く。だがマドハヴァディティアの考えていることは違った。
『違う。別働隊はラーヒズヤ軍を防ぐのではない。叩きのめすのだ。主力の役目は、その間クリシュナ軍をもう一方の山に釘付けにしておくことだ』
マドハヴァディティアの狙いは最初からラーヒズヤ軍だった。だがラーヒズヤはなかなかの戦巧者であり、彼の指揮する一軍が高地で守りを固めれば、これを撃破するのは一苦労であろう。
そこで彼はあえて主力をクリシュナ軍へ差し向けることで、防備を固めた陣地からラーヒズヤ軍を引っ張り出そうと考えたのだ。そして打って出て来さえすれば、ラーヒズヤ軍はクリシュナ軍より数が少ない。これを叩きのめすことは容易だ。少なくとも高地で守りを固めている場合よりは。
『ですが、相手はあのラーヒズヤ……。勝利を確実なものとするためには、最低でも別働隊に二万は必要でしょう』
参謀の一人が困惑げにそう発言する。別働隊の戦力を多くすれば、逆に主力の戦力は減ることになる。それではクリシュナに作戦を見破られかねない。そうでなくともラーヒズヤ軍が窮地に陥れば、クリシュナ軍は打って出てこれを助けようとするだろう。その時、主力の陣容が薄くては敵の攻勢に耐えられなくなる。
『別働隊は一万だ。その代わり、我が指揮を取る』
マドハヴァディティアがそう言うと、幕僚達の間に衝撃が走った。同時に彼らは主君の考えを理解する。彼が隠すことなく「クリシュナを討つ」と公言していたのは、全てこの時のためだったのだ。
マドハヴァディティアが「クリシュナを討つ」と公言し、実際に主力をクリシュナ軍へ差し向ければ、万人がその言葉は真実であると思うだろう。クリシュナは父王の猛攻に耐えるためにますます守りを固め、一方でラーヒズヤは自分が狙われることはないと思って前線に出てくる。そこを叩くのだ。
『我がラーヒズヤごときに遅れを取ることはない。必ずや叩き潰してくれる』
マドハヴァディティアがそう宣言すると、幕僚達は大きく頷いた。ラーヒズヤ軍を敗走させれば、クリシュナ軍も撤退するより他になくなる。それでニルギット会戦はマドハヴァディティア軍の勝利だ。
もちろんニルギット会戦に勝利を収めても、クリシュナはもちろんラーヒズヤの首を取れるかどうかさえ不透明だ。いやこの二人は難を逃れるだろう。マドハヴァディティアはそう思っている。
しかしそれで良いのだ。敗戦の将は惨めである。本人はもちろんだが、周囲もそのように見る。彼らの周囲からは人が離れるだろう。特にラーヒズヤは譜代の家臣を持たない。敗戦の後、ラーヒズヤは味方の離反と反逆に悩まされるに違いない。
つまりクリシュナとラーヒズヤの連携はそこで崩れる。その後はクリシュナ軍だけを相手にすれば良い。まずはヴェールール王都の奪還だが、ニルギット平原で勝利した勢いのままに進軍すれば、これは決して難しくあるまい。無論クリシュナは逃げるだろうが、本拠地を失い、さらにイスパルタ軍との連絡も絶たれるのだ。彼が今後勢力を回復させるのは極めて難しいだろう。
まあ、全てはニルギット会戦で勝利を収めてからの話だ。そしてそのためには別働隊はもちろんとして、主力の働きも重要である。主力がふがいなければ、ラーヒズヤ軍は動く必要がないのだ。またクリシュナ軍をしっかりと釘付けにできなければ、マドハヴァディティア率いる別働隊が挟み撃ちにされかねない。
『ナレイン。お前が主力を指揮しろ』
マドハヴァディティアはそう命じた。突然の大役にナレインは驚愕を隠せない。言葉も出ない様子の息子に、マドハヴァディティアはさらにこう言った。
『懸命に務めよ。勝利を収めたあかつきには、お前を王太子にしてやる』
もう一度ナレインは驚愕した。そんな彼をマドハヴァディティアがじっと見据える。それはまるで彼が王太子として相応しいのか試しているかのようだった。ナレインはゴクリと唾を飲み込み、そして覚悟を決めた。
『……了解しました。ところで父上、謀反人クリシュナは討ち取ってしまって構わないでしょうか?』
ナレインがそう尋ねると、マドハヴァディティアは破顔して大いに笑った。そして一言「励め!」と息子に答える。ナレインは胸に手を当てて「はっ」と応えた。
『陛下にお願いいたします。どうか我らも別働隊の戦列に加えていただけますよう』
そう懇願したのはミールワイスだった。彼はルルグンス人部隊三〇〇〇を指揮している。正直なところ、マドハヴァディティアはこの戦力に大きな期待はしていない。別働隊に彼らの力が必要になるとも思えなかった。
だが主力に混ぜてふがいない戦いをし、クリシュナ軍を勢いづかせるようなことがあっても面倒である。それよりは自分の指揮下においてコントロールしたほうが、まだ作戦への影響は少ないだろう。そう思い、マドハヴァディティアは彼の願いを聞き入れた。
『よかろう。では別働隊は一万三〇〇〇とする。ルルグンス人部隊は我の指揮下に入れ』
こうして作戦と陣容が決定された。会戦はおおよそマドハヴァディティアの作戦通りに推移し、彼は首尾良くラーヒズヤ軍を引っ張り出すことができた。唯一の誤算はルルグンス人部隊の奮戦で、いざという時にはこれを見捨てるつもりだったマドハヴァディティアとしては、内心で苦笑するより他になかった。
○●○●○●○●
「な、なぜあなたがここに……!」
戦場でマドハヴァディティアに出くわし、ラーヒズヤは大いに動揺した。マドハヴァディティアは主力を率いてクリシュナ軍を攻めているのではなかったのか。そんな疑問がラーヒズヤの頭をよぎる。同時に、彼は自分がマドハヴァディティアの思惑通りに動かされていたのだと理解した。
「ええい、刃の届く場所へ来たのであればむしろ僥倖! 奴を、マドハヴァディティアを殺せ! 奴を討ち取った者は一兵卒だろうと一国の王にしてやるぞっ。ヴァンガルより逃げ帰ってきた敗戦の将など、恐るるに足らず!」
ラーヒズヤはそう叫んで動揺を振り払った。周囲の兵士たちも彼にたき付けられて「おお!」と声を上げる。たちまち、激しい乱戦になった。
敵味方が入り乱れる戦場を、マドハヴァディティアは騎兵ばかりを引き連れ縦横無尽に駆け回った。彼が槍を振るう度に、敵兵が一人また一人と刈り取られていく。久方ぶりの戦場に、マドハヴァディティアは血が騒ぐのを抑えられなかった。
「陛下の驍勇、いささかも衰えておりませぬな!」
マドハヴァディティアに付き従う親衛隊の隊長が、馬上から嬉しそうにそう言って笑う。マドハヴァディティアは猛々しく笑うと、彼にこう応えた。
「雑兵をいくら討ち取ったところでたいした武功にはなるまい。狙うならばやはり、大物でなくてはな。ラーヒズヤを討つぞ。遅れずについてこい」
「ははっ!」
親衛隊の隊長は嬉しそうにそう応じた。彼はヴェールールがまだ小国だった頃からマドハヴァディティアに従ってきた者の一人だ。あの頃は主将たるマドハヴァディティアも戦場を駆けずり回って敵将を討っていた。彼もそれに従い、多くの手柄を立てたものである。
ヴェールールが大きくなるにつれ、マドハヴァディティアが前線で武威を振るう機会は減った。それに伴い、彼もまた前線から遠ざかった。大身になった証とはいえ、それを寂しく思った事がないわけではない。
だが今、またこうして主君と共に戦場をかけることができている。もちろんこれはマドハヴァディティアがそれだけ追い詰められているという意味でもある。だが不謹慎と思いつつ、彼は心身の充実を覚えずにはいられなかった。
さてマドハヴァディティアに率いられた一団は、戦場を切り裂くようにして駆け抜けてラーヒズヤへと迫った。無論、ラーヒズヤの周囲は護衛の兵で固められている。しかしその兵たちごと彼を踏み潰す勢いでマドハヴァディティアは突撃した。
「ぜやぁぁぁぁああああ!!」
雄叫びを上げて、マドハヴァディティアが槍を振るう。その槍は必要最小限の動きできらめき、鋭い穂先が敵騎兵の首を刎ね飛ばした。彼はいささかも勢いを衰えさせず、一気にラーヒズヤへと肉薄した。
「ラァァヒズヤ! 不遜であるぞ! 誰に刃向かっているっ!? 貴様の兵権は我が与えたモノ。貴様の兵は我の兵であるぞ!」
「戯れ言を! 全ては貴様の狭量さが招いたこと! 貴様は私の忠義に価しなかった、それだけの事だ!」
敵意を込めて罵り合い、マドハヴァディティアとラーヒズヤは槍をぶつけ合った。二人は互いを睨み付け、致命的な一撃を加えんと技量の限りを尽くす。二人とも優れた武人であり、彼らが戦うその場所は、局地的な大嵐に見舞われているかのようだった。
「貴様では人がついてくるまい。今ならば名誉の戦死をくれてやるぞ。そこへなおれ!」
「息子に叛かれた暗君が何を言う! 貴様こそ、これ以上恥をさらす前に、過去の栄光でも抱いて死ね!」
マドハヴァディティアとラーヒズヤ。二人の舌鋒と武技の鋭さはほぼ互角だった。だが二人が互角の戦いを繰り広げているからこそ、その戦いは全体の趨勢には影響を与えなかった。
ぶつかり合う両軍のうち、優勢なのはマドハヴァディティア軍の別働隊だった。ルルグンス人部隊がラーヒズヤ軍の側面を脅かしているからである。
ラーヒズヤは側面を突かれた当初、それを引きずってでも正面の別働隊を突破できると考えていた。マドハヴァディティアは主力を指揮しているはずで、彼を除けば警戒するべき相手はいないと考えていたからだ。
だが別働隊を指揮しているのはマドハヴァディティアだった。ラーヒズヤ軍は別働隊を突破できず、かえって側面を突かれたことで不利な形勢に追い込まれた。そしてラーヒズヤ自身が前線に立っても、その趨勢をひっくり返すことはできなかった。
「っち、撤退する!」
ラーヒズヤは撤退を決めた。当然、マドハヴァディティアはその背中を襲う。できる限りの損害を与え、ラーヒズヤ軍を当面動けなくするためだ。ただ同時に、マドハヴァディティアは追撃を適当なところで切り上げ、クリシュナ軍の方も攻めたいと思っていた。感情的に言えば、やはりクリシュナの方が憎いのだ。
もっとも結果から言えば、このニルギット会戦においてマドハヴァディティアが別働隊を率いてクリシュナ軍を攻めることはなかった。ミールワイス率いるルルグンス人部隊が執拗にラーヒズヤ軍の後を追ったからである。マドハヴァディティアはその手綱を取らなければならなくなったのだ。
放っておこうかとも思ったが、しかし彼は首を横に振った。ルルグンス人部隊だけが残れば、ラーヒズヤはこれに逆撃を加えるだろう。ルルグンス人部隊が壊滅するのは別に構わない。だがラーヒズヤが最後に武威を示して終わるのは、今後のことを考えると面白くない。彼は「惨めな敗戦の将」とならなければならないのだ。
別働隊が追撃を切り上げて戻ってきたとき、クリシュナ軍はすでに撤退を完了していた。ニルギット平原に残ったのはマドハヴァディティア軍である。ニルギット会戦はマドハヴァディティア軍の勝利で終わった。
マドハヴァディティア「我もなかなかの策略家であろう?」




