王族の仕事
イスパルタ軍がヴァンガルに入城した後、王太子アルアシャンはジノーファより六万の兵を与えられた。「西方六〇余州、王太子の存念次第」。それがジノーファの言葉であり、要するに西方をいかがするかは全てアルアシャンに任された。
ただし、兵を与えられたアルアシャンはすぐに出陣したわけではなかった。そもそも兵が揃っていない。六万の内五万はジノーファが率いてきた、いわゆる本隊がそのままアルアシャンの指揮下に入る。残りの一万は予備戦力としてクルシェヒルに待機させていた戦力であり、これが合流してから出陣することになる。
この間、アルアシャンは無為に時間を過ごしていたわけではない。彼にはやらなければならない事があった。「何を目的として戦うのか」、それを定めることである。そのことを告げられた時、アルアシャンは困惑した様子でこう聞き返した。
「それは、わたしが決めるのか? 父上にお伺いした方が……」
「はい。ですが陛下は王太子殿下の存念次第と仰せになりました。ですからこれは、王太子殿下がお定めにならなければなりません」
ユスフはアルアシャンにはっきりとそう告げた。如何にして戦い、勝利を収めるのか。それを考えるのは、必ずしも王でなくとも良い。元帥、将軍、軍師、参謀。そういう者たちが考えても良いのだ。だが戦う目的、戦略方針だけは王が定めなければならない。そうでなければ、王は王権を他の誰かに預けることになる。
もちろん、アルアシャンはまだ王ではない。だがよほどのことがない限り、次代の王となることが決まっている。そしてジノーファは「王太子の存念次第」と言った。ならばやはり、これは彼が定めなければならない。
「イスパルタ朝として何をするべきか。そして西方がどのような形になればイスパルタ朝にとって望ましいのか。それを念頭に置いてお考え下さい。そうすればきっと、取るべき道は見えてまいります」
悩むアルアシャンに、ユスフはそうアドバイスした。アルアシャンは一つ頷いたが、彼の表情は難しいままだ。実際、彼は何をどうすれば良いのか、少しも分からなかった。
アルアシャンは色々な人に相談してみた。しかし誰も明確な答えを彼に教えてはくれない。中でもハザエルなどはこのように答えた。
「王太子殿下。ご命令とあらば、小官は近衛軍を率いて地の果てまでも征服いたしましょう。ですがいみじくも近衛軍元帥の職責を担うものとして、小官が戦略方針を定めるわけには参りません。近衛軍は国軍であり、国軍は王の意思の下に動かなければならないからです。小官がそれを定めることは、国軍を私物化することに他なりません。殿下はそれをお許しになられるのですか?」
このように言われてしまっては、アルアシャンも引き下がるより他にない。どうしても自分で考えなければならないのだが、しかし考えても考えても彼は答えを見つける事ができなかった。困り果てて、彼は最終的に父王ジノーファを頼った。ジノーファは苦笑を浮かべながら、息子にまずこう声を掛けた。
「苦労しているようだね」
「はい。本当にどうすれば良いのか……。その、父上のお望みは何でしょうか?」
「わたしの望みならもう伝えたはずだよ。西方はアルの存念次第、とね」
「ううっ……」
楽しげな笑顔でそう言われ、アルアシャンは情けなく呻いた。息子の困り果てた顔を見て、ジノーファはまた楽しげに笑う。とはいえ、ただ困らせるだけではアルアシャンのためにはならない。それでジノーファは息子にこう教え始めた。
「アル。まずは前提だけど、戦争とは外交の一つだ。つまり手段であって目的ではない。戦うことそれ自体を目的としてはいけないよ。箔付け、実績作り、私怨、そんなもののために兵を動かしてはならない。いいね?」
「はい、父上」
「うん。それで繰り返すけれど、戦争とは外交の一つだ。そして外交とは、簡単に言えば国家間の問題を解決する手段や方法のことだ。つまり戦争とは国家間の問題を武力で解決する方法と言える。
さて今回、我がイスパルタ朝は軍を動かした。つまり武力で解決するべき国家間の問題、困りごとがあったわけだ。アル、ではどんな困りごとがあったかな?」
「マドハヴァディティアがルルグンス法国に侵攻しました」
アルアシャンはすぐにそう答えた。物事の大まかな経緯さえ把握していれば、これを答えるのは難しくない。ただジノーファはさらに一歩突っ込んでこう尋ねる。
「そうだね。では法国を侵攻されると、イスパルタ朝は具体的にどう困るのかな?」
「ええっと、まずマドハヴァディティアが法国だけで満足するはずがありません。奴は必ず、イスパルタ朝にも食指を伸ばします。そうなると、本国が戦禍にさらされてしまいます」
「うん。他にもまだあるかな?」
「……法国はイスパルタ朝の同盟国です。同盟国を見捨てたとあっては、イスパルタ朝は面目が立ちません。それからヴァンガルにはベルノルト兄上とサラ王女がいました。お二人はまだ帰還しておらず、イスパルタ朝としてこれを見過ごすわけにはいきません」
その場で色々と考えながら、アルアシャンは父王の質問に答える。彼が答えた事柄以外にも、例えばヘラベートに保持していた利権なども、イスパルタ朝が兵を動かす理由になる。ただそのことには触れず、ジノーファはこう言葉を続けた。
「そうだね。では今はどうだろう。アル、現在イスパルタ軍やルルグンス法国、それにマドハヴァディティアはどんな状態かな?」
「イスパルタ軍は現在、ヴァンガルにいます。ルルグンス法国はイスパルタ朝に併合されました。マドハヴァディティアは西方へ退却していて、今は停戦中です」
「兵を動かした当初とは、ずいぶん状況が変わったね。ではアル、イスパルタ朝が抱えていた問題は、全て解決したかな?」
「…………いいえ。解決していません」
少し考え込んでから、アルアシャンはそう答えた。確かにマドハヴァディティアと彼の軍勢は旧法国領から撤退した。だがイスパルタ朝は西方諸国と境を接するようになったのだ。今後、仮にマドハヴァディティアが西方を再び統一すれば、彼はまた東への野心を持つだろう。つまり戦禍が遠のいたとは必ずしも言えない。
また仕方の無い話ではあるが、イスパルタ朝は法王フサイン三世が殺されるのを看過した。その上、マドハヴァディティアの撤退は交渉によるものであり、つまり仇を討ったわけではない。旧法国領から敵をたたき出したのだから、面目を失ったわけではないが、一方で面目を施したとも言いがたい状況だ。
加えて、ベルノルトとサラのこともある。二人は未だマデバト山に潜伏しており、イスパルタ朝本国への帰還は叶っていない。このまま二人をマデバト山に放置しておくことは考えられず、帰還させるために何かしら手を打つ必要がある。
「アルが何をするべきか、少しは見えてきたかな?」
ジノーファがそう尋ねると、アルアシャンはぎこちなく頷いた。そんな息子に、ジノーファは微笑みながらさらにこう言葉を掛けた。
「もちろん、武力で全ての問題が解決するわけではない。そしていつまでも軍を動かし続けるわけにもいかない。そのこともふまえて、現実的な方針を設定しなさい」
「はい」
そう応えてから、アルアシャンはジノーファの執務室を辞した。幾分問題点が整理されてすっきりした気がする。ただジノーファに相談しても、アルアシャンはすぐに戦略目標を定めることはできなかった。
西方諸国とイスパルタ朝の間に存在する問題を、六万の戦力を用いて解決する。父王に相談したことで、その点についてははっきりした。またどのような問題があるのかも。だがどうすればそれを解決したことになるのか。アルアシャンはまたそこで悩むことになった。
マドハヴァディティアを討てば全ての問題が解決する、とは流石にアルアシャンも思わない。彼を討っても、クリシュナがおり、ラーヒズヤがいるのだ。イスパルタ朝に敵対的な勢力が西方の覇権を握っては、元も子もないだろう。
(なら、クリシュナを支援すればいい、のか……?)
クリシュナはイスパルタ朝との連携を打診している。ジノーファはまだ正式な回答をしておらず、よって兵の派遣などはしていないが、情報のやり取りはしていた。三者のなかでは最もイスパルタ朝寄りの姿勢と言えるだろう。
またクリシュナは西方にしっかりとした基盤を持っている。補給などのことも考えれば、これをアテにできるのは大きい。現地での調達が難しいとしても、例えばヴェールールの港を使うことができれば、海路で補給線をつなげることができる。
(でも、なぁ……)
クリシュナの支援という方針には、アルアシャン自身もあまり乗り気ではなかった。彼は父王マドハヴァディティアに叛いたのだ。ならばジノーファに、またアルアシャンに叛かないとどうして言えるだろう。アルアシャンは彼に感情的な反発を覚える。要するに信用できないのだ。
またマドハヴァディティアはクリシュナを討つ姿勢を明確にしている。下手をすると、イスパルタ軍が動いた矢先にクリシュナ軍は壊滅してしまうかもしれない。その瞬間、アルアシャンの描いた戦略は破綻してしまう。そう考えると、あまりアテにするべきではないとも思うのだ。
だがそうなると、アルアシャンは途端にイスパルタ軍を動かす目的を失う。具体的な戦略を描けないのだ。国境近くの土地を切り取れるだけ切り取れば良いのかとも考えたが、ジノーファが望んでいるのはそういうことではないだろう。アルアシャンも何となくそれは分かっていた。
結局一週間、アルアシャンは悩み続けた。ちなみにこの間も例えば兵糧の準備など西征の準備を行っており、彼は決して時間を無駄に費やしたわけではない。ただし時間切れを目前に慌てて回答を提出した感はある。まあそれはともかく、アルアシャンの示した方針は次のようなものだった。
「ベルノルト兄上とサラ王女を救出し、アースルガムを再興させる」
西征軍の主立った者たちを集めた会議で、アルアシャンはそのように戦略方針を定めた。彼の言葉を聞き、ハザエル元帥以下出席者たちは皆一様に立ち上がり、胸に拳を当てて一礼する。彼の定めた方針を受領し、それに従うと答えたわけである。
ただその一方で、ユスフなどは内心で小さな不満を覚えていた。アルアシャンは物事を少し難しく考えすぎている。いや、小さな部分や不確実な部分を大げさに考えすぎているというべきか。
(ただ一言「西方六〇余州をあまねく征服する」と言っていただければ、それで良かったのだが……)
ユスフはそう思う。そうすれば、あとはハザエル以下の専門家達がそれを実現するための方策を考えただろう。誰と手を結び、誰を調略し、誰を討つのかは、そのなかで決まってくる。もちろんベルノルトとサラの救出も戦略の中に含まれてくるだろう。アースルガムの再興も、その範疇で考えれば良い。
本当に西方六〇余州を全て征服できるのか。実際のところ、それはあまり重要ではない。難しそうなら、その時点で遠征を切り上げれば良いのだ。確かな戦果さえ上げていれば、当初の方針が貫徹されていなくても、それで遠征が失敗したなどと言うことにはならない。
視点の高さが足りなかったな、とユスフは思う。そしてそう思っているのは彼だけではないだろう。だが彼はそれを口には出さなかったし、他の者も同様である。それにアルアシャンの定めた方針も、決して悪いものではない。
さて、戦略方針が定められた。次はそれをどう実現するかを考えなければならない。西征軍としては、まずはベルノルトとサラの救出を目的として動くことになる。そしてそのためにはマデバト山まで兵を進める必要がある。
だがマデバト山は西方の版図の中でも、北西の端に位置している。つまりヴァンガルから見てかなり距離がある。そして現在はラーヒズヤの支配領域に入っている。ちなみにアースルガムの旧領も現在はラーヒズヤの支配領域内にあった。
つまり兵を引き連れてマデバト山へ行くには、ラーヒズヤの支配領域を通る必要がある。だがラーヒズヤがそれを認めることはないだろう。少なくとも無条件で認めることはない。それは要するに無条件降伏するのと同義だからだ。
「では討ちますか?」
参謀の一人がそう発言する。ラーヒズヤを討つというのは、当然選択肢の一つとしてあり得る。彼を討てば、西方における厄介な敵が一人減ることになる。マデバト山まで西征軍の行く手を阻む者はいなくなるに違いない。
だがラーヒズヤを討てばそれで万事上手く行くのかといえば、必ずしもそうではない。西方にはまだクリシュナがいて、何よりマドハヴァディティアがいるからだ。西征軍がラーヒズヤを討ったことでこの二人が漁夫の利を得るようでは面白くない。ラーヒズヤを討つなら、その後のことも考える必要がある。
「調略して味方に付ける、という選択肢もあります」
今度は別の参謀がそう発言した。マドハヴァディティアから独立したとはいえ、ラーヒズヤの足下はまだまだ脆弱である。彼自身それを感じているだろう。そこでイスパルタ朝が後ろ盾となることで、彼の権力基盤を強化してやるのだ。その代償としてアースルガムの再興を認めさせる。
一方で懸念もある。最大の懸念はラーヒズヤが役に立つのかという懸念だ。支援ばかり要請してくるようでは、何のために彼を味方に引き込んだのか分からなくなる。また彼が裏切った場合、西征軍は敵地で孤立してしまう。またベルノルトやサラが人質に取られる可能性もある。
「王太子殿下、どうなさいますか?」
「う、うぅん……。そ、そうだな……」
ハザエルに判断を求められ、アルアシャンは視線を彷徨わせた。どうやら判断はつかないらしい。それも無理はないと思いつつ、ユスフは助け船を出した。
「西方の情勢がよく分からないでは、殿下も判断が難しいでしょう。特に今は、マドハヴァディティアが西へ戻ったことで、情勢が大きく動いているはず。アーラムギール殿、何か情報は入っていませんか?」
ユスフがそう尋ねると、アーラムギールは立ち上がって一礼した。彼はユーヴェル商会の会頭とアースルガム解放軍の司令官という、二つの顔を持っている。そしてこの会議には後者の立場で参加していた。
もっともアースルガム解放軍の活動の、少なくとも諜報に関する分野は、すでに彼の手を離れてしまっている。その原因となったのは言うまでもなく、マドハヴァディティアによるヴァンガル占領だ。
マドハヴァディティアがヴァンガルに居座っている最中、アーラムギールはユーヴェル商会の解放軍に関わる活動を一切休止させていた。マドハヴァディティアに勘付かれるのを避けるためである。
それ自体は仕方のないことだ。だがそのせいでアースルガム解放軍全体が機能不全に陥ってしまった。そんな解放軍の活動を再開させたのがジノーファで、現在解放軍はファラフ商会と総領事館が主導してその活動を組織している。
ヴァンガルが開放されたことで、ユーヴェル商会とアーラムギールも再び動くことができるようになった。だがせっかく再構築された指揮系統をまた元に戻そうとすれば、混乱が起こるのは必至だ。
それで解放軍の諜報に関わる指揮系統は元に戻さないことになったのだが、そのせいでユーヴェル商会とアーラムギールはいわば役目を失うような形になってしまっていた。この件について、彼は少なからず不満を覚えていただろう。
そんな彼に西征軍への協力を要請したのがユスフだった。西征するにあたり、現地で協力者を得ることは重要だ。アースルガム解放軍にはその役割が期待される。
『つまり私は西征軍と解放軍のつなぎ役ですか』
『それから解放軍の実戦部隊の指揮もお願いしたい』
当初、アーラムギールはあまり乗り気ではない様子だったが、ユスフの言葉を聞いて彼は身を乗り出した。アースルガム解放軍実戦部隊指揮官。それに相応しいのは、確かにアーラムギールしかいない。
『願ってもないことです。ぜひ我々も西征軍の一翼に加えていただきたい』
こうしてアーラムギールは西征軍の幕僚の一人となった。その彼が口を開いて、まずはこう言った。
「面白い情報が入っています。どうやらクリシュナとラーヒズヤは手を結んだようです」
「では、両者は協力してマドハヴァディティアと戦う、というわけか」
「はい。どうやらそのようで」
アーラムギールがそう答えると、誰かが「ほう」と呟いた。
ユスフ「模範解答が欲しい……」




