西への逃避1
「アル。いや、アルアシャン。お前に六万の兵を与える」
「はっ!」
父王ジノーファの言葉に、アルアシャンは畏まる。いよいよ本格的に初陣を飾るのだ。そう思い、彼は目を輝かせた。そしてこう尋ねた。
「それで父上。どこを攻めれば良いのでしょうか?」
「アルアシャン。それは自分で定めなさい」
「えっと、父上。それは、どういう……?」
「西方六〇余州。お前の存念次第だ。思うとおりにやってみなさい」
アルアシャンは最初、何を言われたのか分からなかった。そして徐々に理解が追いつくにつれ、彼の顔はたちまち強張っていく。
「無理です!」
アルアシャンは思わずそう叫んだ。存念次第と言われても、一体何をやれば良いのか、それさえも分からない。だが悲壮な顔をする息子に、ジノーファは微笑みながらこう答えた。
「何も一人でやれとは言っていないさ。ハザエルとエクレムとフード、あとはユスフも付けよう。彼らと良く相談して決めなさい」
ハザエルは近衛軍元帥であり、全軍の指揮は彼に任せておけば心配ない。エクレムはジノーファの信頼も厚い将軍で、ハザエルの下で良く兵を指揮してくれるだろう。フードはもともと在ルルグンス大使であり、西方情勢にも明るい。そしてユスフは言わずと知れたジノーファの側近だ。
この四人と、さらにその部下たちも含めれば、アルアシャンが未熟であっても十分にサポートすることができるだろう。またアルアシャン自身も兵站計画部で補給の大切さをしっかりと学んだ。であれば、大軍を預けても滅多なことにはなるまい。ジノーファはそう考えていた。
また現在、西方は大きな混乱の最中にある。これまでクリシュナとラーヒズヤが覇権を争っていた中、突如としてマドハヴァディティアが帰還したのだ。しかも彼は約五万の大軍を率いている。戦力だけ見れば、三人の中で一番多い。他の二人は大いに慌てたに違いない。
クリシュナ、ラーヒズヤ、そしてマドハヴァディティア。この三者がどのような戦いを繰り広げるのか、それはまだ分からない。いずれにしても西方六〇余州は分裂している。イスパルタ軍からすれば、付け入る隙が幾らでもある状態だ。
ジノーファとしては、なるべくアルアシャンがやりやすい状況を整えたつもりである。だがアルアシャンの表情は優れない。
「ですが……」
「アルアシャン。お前は王太子だ。この父に何かあれば、お前は即座に王位を継がなければならない」
「父上!」
アルアシャンが悲鳴を上げる。しかしジノーファはそれを意に介さず、さらにこう言葉を続けた。
「国難と天災は時を選ばず、問題はお前の成長を待ってはくれない。……アル、万全な時など、いつまで待っても来ないんだ。ならばその時々で最善を尽くすしかない」
「はい……」
「アルアシャン、改めて命じる。西方六〇余州、王太子の存念次第。六万の兵を与えるゆえ、良いと思う通りにせよ」
「御意。最善を、尽くします」
アルアシャンは震える声でそう答えた。彼の内心は今、不安で一杯だろう。最初の興奮など、吹き飛んでしまったに違いない。ジノーファは一つ頷いた。息子を見る彼の目には、哀れみの色が浮かんでいる。
これからアルアシャンはたくさん苦労するだろう。彼のために万難を排してやりたいともジノーファは思う。それが親心だ。だがそれでは彼のためにならない。「鉄は熱いうちに打て」というが、今がその時なのだろう。そう思い、ジノーファは口元にぐっと力を込めた。
「それから、アースルガムの扱いについては、十分考慮するように。解放軍は良く働いてくれているからな」
「はっ。承知しております」
そう答えるアルアシャンの声はまだ弱い。ジノーファは少し困ったような顔をした。彼としては、「アースルガム解放軍を上手く使え」と助言したつもりだ。しかしアルアシャンのあの様子では、ちゃんと伝わったのか疑わしい。
ジノーファはチラリとユスフを見る。彼は小さく、だがしっかりと頷く。それを見て、ジノーファはようやく内心で安堵した。彼に任せておけば大丈夫だろう。そう思い、ジノーファはアルアシャンをユスフに任せて二人を下がらせた。
「……マリーに、手紙を書かないといけないな」
二人の背中を見送ってから、ジノーファは一人そう呟く。マリカーシェルはきっとびっくりするだろう。そしてアルアシャンのことをあれこれと心配するに違いない。フォローしてあげられるよう、シェリーにも手紙を書こう。ジノーファはそう思った。
○●○●○●○●
西へ向かうマドハヴァディティアは、屈辱を噛みしめていた。法都ヴァンガル。歴史あるルルグンス法国の首都。ヴェールールの王都ガーバードもそれなりの規模を誇るが、ヴァンガルはさらに大きい。さらに荘厳で煌びやかな文化を持つ。マドハヴァディティアが手にした中でも、まさに最上の至宝と言えた。
相互不可侵の約定を破り、故ヌルルハーク四世の喪中の隙を突いて、一度は手にしたその至宝。しかしマドハヴァディティアはそれを保持することができなかった。しかもその原因となったのは、敗北ではなく味方の裏切りである。戦うことすらできず、彼はヴァンガルを、法国一国を失ったのだ。
そして今、ほとんどなんの成果もなく、マドハヴァディティアは西へ戻ろうとしている。ただし今の西方諸国に彼の居場所はない。百国連合という彼の権力基盤はすでに崩壊しており、そういう意味では出征前よりも状況は悪くなっている。そしてその認識は百国連合軍、いやマドハヴァディティア軍の中で広まっていた。
「陛下も、何をしにヴァンガルまで足を伸ばされたのか。まさか物見遊山ではあるまい」
「今のありさまを見よ。法国よりも本国がざわついておる」
「帰る国を失った遠征軍など、盗賊と代わらんぞ」
「盗賊であればまだ良い。周囲の者どもは恐れるだろう。だが今の我々を誰が恐れるというのか。むしろ我々の方がイスパルタ軍の矛先を恐れている。これでは難民だ」
実のところ、これでもまだ自重している方で、末端の兵士になればなるほど、口を極めて罵るようになっていく。数が多く、また責任もないだけに、一度口を開けば歯止めが利かないのだ。
「ウチの家族と畑は無事だろうか。なんでも謀反人が方々を荒らし回っていると聞くが……」
「従軍すればたんまりと恩賞がいただけるという話であったのに……! これでは何もかも失ってしまう!」
「負けて逃げ帰ってきたとなれば、笑いものにされる! これでは結婚もできない……」
「こんなことなら、戦になど行くのではなかった。王様も、もっと勝てる戦をしてくれれば良いのに」
「そう言えば何年か前にも、やっぱりイスパルタの王様に負けたじゃないか。そして今回も負けた」
「いや、負けたのか、これは。戦ってすらいないじゃないか」
「見逃してもらったのか……。まあ、ワシらにとっては、負け戦で死なずにすんで何よりだ」
「ヴェールールの王様はやられっぱなしじゃないか。イスパルタの王様には勝てないんだから、戦などしなければ良かったのだ」
「王様も今回のことで懲りただろう。イスパルタの王様を怒らせるようなことは、もうしないんじゃないのか」
「何でも良いから、静かに暮らしたいよ。でもこのまま王様について行ったとして、家に帰れるかどうか……」
「本当に大丈夫なのか? ヴェールールの王様は……」
「王子様と将軍様が叛いたんだろう? 今までそんなことなかったのに……」
「……なあ、いっそのこと……」
「しっ! さすがにそれ以上はまずいぞ!」
と、まあこんな具合である。マドハヴァディティアに対する兵士たちの忠誠心は、大いに揺らいでいた。それでも兵士たちが四散してしまわないのは、ここがまだ異国であり、またともかく食料が残っているからだ。
余談になるが、マドハヴァディティアが停戦の条件として兵糧を求めたのはこのためだった。彼は兵士の士気の低下に気付いており、彼らをつなぎ止めるにはともかく目先のエサが必要であると考えたのだ。
ジノーファもそういう意図があろうことは分かっていた。それでも兵糧を売ったのは、ルルグンス法国国内で兵が四散し、そのまま盗賊になることを懸念したからだ。言い方を変えれば、治安維持のための必要経費と考えたわけである。
まあそれはともかくとして。今のところマドハヴァディティア軍は、ともかく落伍者を出さずにすんでいる。だが兵士たちの士気や忠誠心は低調なままだ。彼らの歯に衣着せぬ物言いは、当然ながらマドハヴァディティアらの耳にも入った。
「無礼な! 父上は負けておらぬ!」
怒りを露わにしたのは、マドハヴァディティアではなく息子のナレインだった。顔を真っ赤にして肩を怒らせる彼を、しかしマドハヴァディティアは宥めた。
「止せ、ナレイン」
「ですが、父上!」
「成果なくおめおめと逃げ帰り、その上足下を荒らされて帰る家もないのは事実よ。我が子と臣下に叛かれたこともな」
「……っ」
淡々と語るマドハヴァディティアに、ナレインは気圧されて言葉を呑み込んだ。少し考えれば分かるではないか。マドハヴァディティアが怒っていないはずがない。父王が内に秘めた怒りは、彼が思っている以上に大きくそして激しいのだ。
「今何を言ったところで、兵どもは俺を畏れもせぬし敬いもせぬ。負け犬が何を吼えるのかとバカにするだけだ。だから放っておけ。結果さえ出せば、奴らも口を閉じるだろう」
もちろん、マドハヴァディティアとて自分が嘲笑されて面白いはずもない。だが彼は耐えた。遠征の結果が情けないものであることを客観視していたからだ。そしてなにより、彼の怒りの矛先は身内よりもクリシュナとラーヒズヤに向いていた。内に秘めた激情を糧にして、彼は屈辱の道を西へ向かっていた。
さてマドハヴァディティア軍にはもう一人、鬱憤と屈辱を溜め込んでいる者がいた。教皇ミールワイスである。彼と彼の三〇〇〇人の部下たちはルルグンス人であるから、本来ならヴァンガルに残っても良かった。しかしそれはできなかった。彼らはマドハヴァディティアに積極的に協力し、そのために多くの恨みを買っていたからである。
あのままヴァンガルに残っていたら、彼らはヴァンガルの民衆の私刑に遭っていただろう。そうでなくとも、イスパルタ軍が彼らを見逃すはずがない。マドハヴァディティアに従って西へ向かう以外、彼らに選択肢はなかったのである。
(どうして、どうしてこうなった……)
夜、狭いテントの中で、ミールワイスは酒を呷りながらそんなことを延々と考え続けていた。こんなはずではない、こんなはずではなかったのだ。彼は教皇となって枢密院を代表し、法王に代わってあまねく宗教的権威を体現する、はずだった。
しかし現状はどうか。石を投げられるようにしてヴァンガルから逃げ出し、こうして異国の王に縋り付いて西へ落ちのびようとしている。もはやルルグンス法国国内に彼のための居場所はなかった。
教皇の称号も、今となっては売国奴の代名詞である。それを後生大事に抱えているのは、もはやミールワイスただ一人だった。いっそ枢機卿を名乗った方が、まだ権威を維持できたかもしれない。だが彼は自分の失敗を直視することができなかった。
「まだ、だ……。まだ私には、コレがある……」
ややろれつの怪しい口調で、ミールワイスがそう呟く。彼の視線の先、狭いテントの真ん中には、巨大な魔道具が鎮座していた。聖櫃である。停戦条約の中で、大聖堂からの物品の持ち出しは容認されていた。それで彼はヴァンガルから落ちのびる際、聖櫃を持ち出して運ばせてきたのである。
聖櫃とはつまり、死体を冷やして腐らないように保管しておくための魔道具だ。しかもそのためには大量の魔石が必要になる。歴史的価値はともかくとしても、聖櫃とはつまり棺である。そんなものを今更持ち出してどうするのか。ミールワイスの行動にマドハヴァディティアも呆れ気味だった。ワインを冷やしておくのに良いかもしれないが、今まで死体が入っていたことを考えれば、そんな気も失せる。
しかしミールワイスは大真面目だった。聖櫃とはただの魔道具ではない。女神イーシスの恩寵を象徴する聖遺物なのだ。信徒たちにそう広く受け入れられており、つまり聖櫃それ自体が権威を持っている。
ミールワイスが聖櫃を持っていて、しかも力を失っていなければ、それは彼が女神イーシスの恩寵を与えられている証拠である、と言うわけだ。それで聖櫃こそが、彼が宗教的権威を保つための、最後の拠り所だった。
実際のところ、聖櫃は魔道具であるから、壊れていなければ誰が使っても機能を発揮する。売国奴の教皇であってもそれは変わらない。言ってみればペテンである。そのペテンを拠り所にしなければならないことそのものが、ミールワイスの置かれた苦境を端的に現していると言っていい。
ミールワイスがこの有様であるから、彼に従う三〇〇〇人のルルグンス人も、士気は大変に低調である。西方出身の兵士たちはまだ良い。彼らは故郷へ戻れる、少なくともその可能性があるのだから。しかしルルグンス人らは違う。彼らは国を追われるのだ。表情は暗く、それこそ本当に難民のようだった。
「もうヴァンガルには帰れない。我々はこれからどうなるのだ……」
「ミールワイス猊下に言われた通りにしただけだというのに……」
「女神イーシスよ、これも試練なのですか……?」
上も下もこのような具合であるから、この三〇〇〇については戦力になるのかかなり怪しい。少なくとも現時点では。それはマドハヴァディティアも承知していた。
そのようなわけで、マドハヴァディティア軍はおよそその全軍が、敗北と撤退の倦怠感にまみれていると言って良い。仮に背後をイスパルタ軍に突かれれば、たちまち瓦解するだろう。停戦条約にはそれを避けるという意味合いもあった。
あと三日ほどで、マドハヴァディティア軍はルルグンス法国の西の国境を越えるだろう。そこから先は全てが敵だ。果たして戦えるのか。そして勝てるのか。全てはマドハヴァディティアただ一人の手腕にかかっている。
「ふ、ふふ……。おかしなものだ。この状況で血がたぎるとは……」
テントの中、ランプの小さな炎に照らされながら、マドハヴァディティアは獰猛な笑みを浮かべた。彼はすっと視線を動かす。その先にあるのは一つの木箱だ。中にはワインが一本、入っている。ヴァンガルを退去する際、ジノーファが彼に贈ってきたもので、なんでもランヴィーア王国産の赤ワインだという。
マドハヴァディティアも酒は好きだ。しかし彼はヴァンガルを退去して以来、酒は一滴も飲んでいない。当然ながら、貰った赤ワインも未開封だ。そしてこのワインを飲むタイミングを、彼はすでに決めていた。
(国境を越えたら……)
国境を越えたら、まずは西方における足場を作る。マドハヴァディティアは、〈王の中の王〉は健在であることを世に示すのだ。そうすれば、今は縮こまっている兵たちも戦えるようになるだろう。
ナレイン「臥薪嘗胆!」
マドハヴァディティア「ワシはやらんぞ」




