仕置き
百国連合軍がヴァンガルより退去した。新年をおよそ一ヶ月後に控えてのことである。マドハヴァディティアの東征は、およそ半年でその幕を閉じたことになる。もっとも、彼の戦いはまだ続く。これより彼はまずヴェールールの王都ガーバードを回復し、クリシュナを討つつもりだった。
西へ向かう百国連合軍の足取りは、決して軽いものではない。ただその一方で兵たちは安堵もしていただろう。これでともかく、ヴァンガルで討ち死にという未来だけは避けられたのだから。
食料もそれなりの量がある。戦力に至っては、クリシュナとラーヒズヤのいずれよりも多い。マドハヴァディティアが再び西方諸国を統一するのも、決して夢物語ではないように思えた。
さて退去した百国連合軍の代わりに、イスパルタ軍がヴァンガルへ入った。この瞬間、ジノーファはルルグンス法国を掌中に収めたと言っていい。彼は法国に入ってからただの一度も戦闘を行うことなく、これだけの結果を出したのだ。様々な要因が絡み合った結果とは言え、歴史的な大勝利と言って良いだろう。
ヴァンガルに入ったジノーファとイスパルタ軍を、ルルグンス人は歓呼して迎えた。マドハヴァディティアはことさらヴァンガルの民衆を痛めつけたわけではなかったが、法王を殺してその遺体を焼くような連中だ。ルルグンス人からすれば悪鬼羅刹と代わらない。そもそもマドハヴァディティアは軍を優先したから、その分のしわ寄せは全て民衆の負担となっていた。
その上、門は閉じられて市外へ出ることはできず、密告が奨励されて人々は疑心暗鬼になっていた。そういう占領下の生活は、先行きの暗いものだった。しかしそれは終わったのだ。そしてマドハヴァディティアの占領統治の終わりを象徴する出来事が、イスパルタ軍が入城したその日の夕方に起こった。
事の発端は、マドハヴァディティアの置き土産だった。彼はヴァンガルの有力者などから送られてきた書簡を、全て大聖堂に残していったのだ。それだけではない。イスパルタ大使館には、密告者の名前とその証言内容、さらに支払われた報酬の金額等のリストが保管されていたのである。
見方によっては、これはマドハヴァディティアと百国連合軍に協力した、その証拠と言える。いや、大半のルルグンス人からすれば、それは侵略者に媚を売って祖国を売り渡した、裏切りの証だ。
「陛下、いかがいたしますか?」
対応を尋ねられ、ジノーファは考え込んだ。例えば百国連合軍に協力した者たちを咎めて、見せしめ的に処罰すれば、大半のルルグンス人はそれを歓迎するだろう。またこれまで抑圧されてきた彼らは、その鬱憤をぶつける先を求めている。民衆の感情を満足させるのは、今後イスパルタ軍が統治を行う上で重要だ。
「大聖堂の正門前に、ヴァンガルの主立った者たちを集めてくれ」
ジノーファはそう指示を出した。そして夕刻、かがり火の焚かれた大聖堂正門前の広間に、ヴァンガルの主立った者たちが集められた。話を聞きつけたのか、野次馬もかなりの数が集まっている。一体何が始まるのか。期待と不安が入り混じる中で、ジノーファが現われた。
「皆、良く集まってくれた。まずはこれを見て欲しい」
ジノーファがそう言うと、彼の後ろから書類の山を運ぶ兵士たちが現われた。そして彼らはそれをジノーファの足下に積み上げる。全て運び終えると、彼らはジノーファに敬礼してから下がって後ろに控えた。それを見届けてから、ジノーファは群衆の方を向いてさらにこう言った。
「これはマドハヴァディティアが残していったもので、彼宛の書簡や密告者のリストなどだ。差出人などはまだ確認していない。だがここに集まった中にも、心当たりのある者はいるだろう」
ジノーファがそう言うと、群衆はざわめいた。その様子をアルアシャンは冷めた目で見ていた。マドハヴァディティアに媚を売った連中は、大義よりも保身を優先したのだ。致し方なかった面はあるだろう。だがそういう連中は信用できない。
父上はこれから、書簡の差出人を改め、密告者リストの名前を読み上げるだろう。アルアシャンはそう思っていたし、またそうするべきだと思っていた。そうして初めてヴァンガルの統治は安定する。彼はそう考えていた。だからこそ、ジノーファの次の行動はアルアシャンの度肝を抜いた。
「諸君を安心させてやろう」
楽しげな口調でそう言うと、ジノーファはユスフからたいまつを受け取った。アルアシャンが「あっ」と声を上げる。同じように声を上げた者が他にもいただろう。彼らの目の前でジノーファはたいまつの炎を積み上げられた書類に近づけた。
たちまち、火が紙に燃え移る。薄暗がりの中、その炎は明々と輝いた。その光景を見てアルアシャンは訳の分からぬ感動に襲われた。身体が震える。心臓がうるさいぐらいに高鳴った。そしてそんな彼が見守る先で、ジノーファはたいまつを持ったまま、群衆にこう語りかけた。
「親愛なるヴァンガルの民よ、どうか聞いて欲しい。マドハヴァディティアは去った。諸悪の根源は去ったのだ」
悪いのは全てマドハヴァディティアだ、ジノーファは言った。もちろん最終的な責任がマドハヴァディティアにあるのは事実だ。ただ「諸悪の根源」とまで決めつけてしまうのは、さすがに正確さに欠ける。ジノーファはもちろんそれを分かっていたが、その上で彼は分かりやすさを優先した。
マドハヴァディティアが置き土産をしたその意図に、ジノーファは気付いていた。彼の目的はジノーファに粛清を行わせ、それによってヴァンガルに混乱を招くこと。そしてそれによって時間を稼ぐことだ。
イスパルタ軍が百国連合軍に協力した者たちの取り締まりを始めれば、鬱憤を溜め込んだルルグンス人はそれに同調するだろう。彼らが“売国奴狩り”を始めれば、その混乱は一月やそこらでは収まらぬ。
結果として、ジノーファはヴァンガルの混乱を収拾するまで、西方諸国へ手出しできなくなる。停戦期間は三ヶ月と定められているが、ともすればそれ以上の時間を稼げるだろう。クリシュナだけでなくラーヒズヤを下すことも、決して不可能ではない。
ヴァンガルの混乱は、ジノーファにとって決して望ましいものではない。むしろ西方諸国の情勢が不安定な今、足場は早急に固めなければならない。隙を見せれば、マドハヴァディティアとてどう動くか分からないのだ。
だからこそ、ジノーファはマドハヴァディティアの置き土産を焼いて見せたのである。そしてその上で、彼はさらにこう言葉を続けた。
「彼が再び、この地に舞い戻ることはない。わたしがそれを決して許さない。親愛なるヴァンガルの民よ、悪夢は終わったのだ。それなのにどうして今、悪夢の続きを求めるようなことがあって良いだろうか」
ジノーファの声は朗々と響いた。ジノーファは声を張り上げているわけではないが、彼の声は群衆の耳に良く届いた。そして彼らの心を落ち着かせていく。
「親愛なるヴァンガルの民よ。あなたたちは傷ついた。どうしてこれ以上、傷つく必要があるだろうか。あなたたちは苦しんだ。どうしてこれ以上、苦しむ必要があるだろうか。涙の代償を血で求めることは間違っている」
穏やかに、しかし確信のこもった話し方をするジノーファに、群衆は息をすることすら忘れて聞き入った。
「もうすぐ、夜のとばりが降りる。悪夢が終わってから初めての夜だ。どうか暖かな夢を見て欲しい。そして夜が明けたなら、ヴァンガルを、いやこの国を立て直すため、わたしに力を貸して欲しい。ルルグンス法国が再び栄光を得るとき、その時こそ我々はマドハヴァディティアに勝利を収めるのだ。そしてその時まで、わたしは決してあなたたちを見捨てない!」
歓声が上がった。後世の歴史家は言う。「この時、マドハヴァディティアの支配が終わり、ジノーファの支配が始まった」。
さて、ヴァンガルに入ったジノーファだが、それは新たな戦いの日々の始まりだった。なすべき仕事は膨大である。そしてそのどれもが、後回しにすることのできないものばかりだ。ジノーファはそれらの仕事を淡々と、しかし着実にこなしていった。
彼が目配りをするべきはヴァンガルだけではない。むしろヴァンガル以北の地域こそ、最も悲惨な状態だった。ジノーファはすぐさま食料を送り、彼らが飢えることのないようにした。
さらに毛布とテントも送り、家を失った者たちが冬を越せるように手筈を整える。そのためにジノーファは軍需物資を少なからず開放した。兵站計画部を中心に物資の不足を危惧する声が上がったが、それでも彼は民の慰撫を優先した。何事も初めが肝心であることを、彼は弁えていた。
「我々は解放者なのだ。解放者らしく振る舞わなければ、な」
ジノーファはそう訓示したという。その訓示のかいもあってか、ルルグンス法国は急速に落ち着きを取り戻していった。そして新年を迎える。
ジノーファとイスパルタ軍は、ヴァンガルで新年を迎えた。フサイン三世の喪中であることを理由に、派手な行事は自粛された。もっともだからといって仕事の量が減ったわけではなく、ジノーファは相変わらず忙しく執務をこなしていた。
そして年明けから十日が経った頃、ジノーファはルルグンス法国全土へ向けて、重大な布告を発した。ルルグンス法国をイスパルタ朝の一部とする、つまり併合するという布告だ。
「残念ながら法王家は法国を治める力を失った。歴史的友好国が無法地帯となることを、イスパルタ朝は看過できない。また国が乱れれば三度西方の蛮族が牙をむくであろう。それを防ぐためにもこの地をイスパルタ朝の一部とする必要がある」
併合の大義名分として、ジノーファはおおよそこのような理由を述べた。人々がそれをまったく信じたかは分からない。ただ、併合に反発する勢力は現われなかった。誰がどう見てもルルグンス法国を支配しているのはジノーファであり、人々はすでに彼の統治を受け入れている。併合は現状の追認でしかなかったのだ。
また併合に反対したらどうなるのか。その時にはイスパルタ軍と、ジノーファを支持する民衆を敵に回す覚悟が必要だ。仮に、幸運にもイスパルタ軍が大人しく引き上げたとして、マドハヴァディティアが再び襲来したら元の木阿弥である。いや、その時にはもっと悪いことになるだろう。
結局、受け入れるより他に選択肢などないのだ。またヴァンガルを半包囲していた期間も含め、ジノーファの政は評判が良い。加えて、いわゆる新領土の例もある。イスパルタ朝に併合されることを、人々は不安に思わなかった。
併合の布告を出すと、ジノーファはさらに旧法国へ向けて布告を出した。内容は税の免除である。ヴァンガル以南の地域は一年、以北の地域は三年、租税を免除するとした。北部のほうが期間が長いのは、その地域がそれだけ荒らされてしまっていたからだ。
ただしこの年数の中に、昨年分は含まれていない。そして昨年分の税については、その権利はルルグンス法国にあるというのがジノーファの見解だ。それでイスパルタ朝としては、その税について権利を主張しないことにした。まあ、早い話がこの分も免除した、ということだ。
さらにジノーファは税率の引き下げも行った。イスパルタ朝本国の税率に合わせたのである。前述した税の免除も含め、これらが旧法国民の人心を得るための施策であることは言うまでもない。ただしそれだけが狙いではなかった。ジノーファはこの機会に、貨幣経済を浸透させることも念頭に置いていたのである。
ルルグンス法国ではこれまで、商売は卑しいものと見なされていた。だがジノーファは商業も重視している。イスパルタ朝の一部となったことで、法国は今後、否応なくその巨大市場に組み込まれることになるのだ。
ただルルグンス法国の民衆には金がない。高い税率と要求される法外な寄付が原因だ。金がなければ貨幣経済は浸透しようがない。それでジノーファは租税を免除し税率を下げることで、この地域の経済力を高めようとしたのだ。ヴァンガルを半包囲中に兵糧を確保するべく金を使ったのは、この地域に金を落とすという目的もあったのだ。
「法国を完全にイスパルタ朝の一部とするには時間がかかる。豊かになれば、昔を懐かしむ者も減るだろう。ゆっくりやろう」
ジノーファはそう言った。今後、刑法や通商関係の法令なども、順次本国の基準に合わせて改定されていくことになる。
これは少し先の話になる。ルルグンス法国はもともと宗教国家だった。法王が世俗的権威と宗教的権威の両方を握っていたわけである。ただ法王は飾りとなる場合が多く、実質的な権力は(世俗的なものも宗教的なものも)枢密院が握っていた。
イスパルタ朝に併合されたことで、法王が持っていた世俗的権威は今後、イスパルタ王のものになる。では宗教的権威はどうなるのか。それを、一部でも良いので得たいと考える僧職者は多かった。
折しも、枢密院は壊滅状態にある。枢機卿の椅子は、全て空いているのだ。その椅子に座ることができれば、旧ルルグンス法国領四二州に、あまねく宗教的権威を振るうことができるだろう。
それどころか、旧アンタルヤ王国領にも影響力を広めることができるかも知れない。何しろ同じ国の一部となったのだ。今後は布教もしやすくなるだろう。そうなると枢密院の持つ力はかつての法王さえしのぐことになるかも知れない。
「陛下もご存じの通り、旧ルルグンス法国領四二州には数多くの寺院僧院がございます。これを統括するためにはやはり、枢密院が必要でありましょう。どうか枢機卿を選抜なさり、枢密院を再び開かれますように」
ヴァンガルとその周辺の僧院から集まった者たちは、恭しく頭を下げてジノーファにそう奏上した。そして「必要ならば幾人か推薦いたします」とも言い添える。準備の良いことに、彼らは推薦者名簿を持参していた。
ジノーファは僧院関係の世界には詳しくない。そこにつけ込み、自分たちが主導権を握ろうとしたのだ。しかし彼は推薦者名簿を受け取らず、奏上した僧職者たちにはこう答えた。
「卿らの献策には、確かに聞くべきところがある。だがわたしとしては当面、枢密院は閉じておくつもりだ」
「……それは、いかなるお考えがあってのことでしょう? 恐れながら、僧院寺院はこの法国において深く根付いております。これを軽視することは、決して得策では……」
「軽視しているつもりはない。むしろ重視している。だからこそ、枢密院は当面閉じるのだ。わたしは第二のミールワイスを生むつもりはない」
ミールワイスの名前を出され、奏上に訪れた僧職者たちは一様に言葉を失った。ミールワイスは枢密院の一員たる枢機卿であったが、国家と法王をマドハヴァディティアに売り渡し、今は教皇を名乗っている。彼はルルグンス法国における最大の裏切り者と言って良い。その名前を口にすることすら、僧職者たちの間ではタブーになっているほどだ。
その裏切り者を跋扈させた枢密院を、ジノーファが警戒するのは当然と言える。またこのタイミングで枢密院の再開を強く求めれば、それは「ミールワイスの先例に倣うため」と受け取られかねない。
そうなれば枢機卿には「裏切り者」のレッテルが貼られるだろう。「国を売り飛ばす算段でもしているのか」と疑われては、宗教的権威の掌握どころか、逆に全てを失いかねない。僧職者たちは引き下がらざるを得なかった。
(これで……)
これでしばらく時間が稼げる。僧職者たちの背中を見送りながら、ジノーファは胸中でそう呟いた。旧法国領において、僧院寺院の影響力は強く、そして根深い。総本山たるヴァンガルとその周辺においては、それがより顕著だ。
イスパルタ朝としては、あまり面白いことではない。宗教を否定するつもりはないが、それが政治に口出ししてくるようでは困るのだ。だがルルグンス法国ではこれまでそれが普通であり、枢密院はそのための機関であったと言ってもいい。
だからこそ、ジノーファは枢密院の再開を認めるわけにはいかなかった。「第二のミールワイスを生まないため」というのは、ウソでないが方便の度合いが強い。彼は宗教勢力の力を殺ぎたいのだ。そのために扇の要となる存在を塩漬けにした。まったく否定しなかったのは、反発を少なくするためと、将来的に介入する余地を残すためだ。
(少しずつだ……)
少しずつ、宗教勢力を法の支配の下に組み込んでいく。ジノーファはそう考えていた。それができて初めて、ルルグンス法国を併合したと言えるのだ。先は長いな、とジノーファは内心で苦笑した。
さて、時間を戻そう。併合に関わる一連の布告を出し終えると、ジノーファはアルアシャンを執務室に呼んだ。第二次西方戦争は、まだ終わっていない。
ユスフ「汚物は消毒だ!」
アルアシャン「なんかいろいろ台無しだなぁ!」




