ハシム2
ハシムから資金援助を引き出すと、ルドラは満足げな笑みを浮かべた。その隣ではアサーヴが呆気にとられたような顔をしている。山守衆が窮状を脱する目途がこのようにして立つとは、彼は思っても見なかったのだろう。
「……ところでハシム殿。我々は本国へ戻れそうか?」
「それについては、もうしばらくお待ちを」
腕組みをするアッバスに、ハシムがそう答える。それを聞き、アッバスは顔を険しくする。ハシムは苦笑を浮かべてさらにこう言った。
「西方諸国は混乱の最中にあります。移動は危険です」
ハシムの言葉の念頭にあったのは、言うまでもなくベルノルトの身の安全のことだ。混乱した状況を利用して突破を図るのも一つの手だが、ベルノルトたちはそういう訓練を受けているわけではない。かといって彼らを警護するために十分な数の隠密衆を動かせば、その一団は否応なく目立つだろう。それではかえって危険だ。
ハシムの、というより隠密衆の任務はベルノルトを本国へ帰還させることだが、しかしそのための期限が決まっているわけではない。まず優先するべきはベルノルトの身の安全であり、それを担保できない状況で動く必要はまだないのだ。
ベルノルトの居場所が判明した以上、ジノーファはこれから策を講じるだろう。あるいはクリシュナへ圧力をかけることもあるかもしれない。新たに兵を催して西へ送ることも可能だろう。いずれにしてもこれから状況は動く。今はそれを待つべきであろう。
「陛下が動かれるのを待たれませ。それまではご自重、ご自重」
ハシムが宥めるようにそう言うと、アッバスは眉間にシワを寄せて「ぬう」と唸った。「今はまだ待て」というのは、アッバスの望んだ回答ではない。だが強攻策に出るほど追い詰められているわけではないのも事実だ。
おりしも先ほど、山守衆への資金援助が決まった。ハシムがそれを即決したのは、山守衆のためと言うよりは、むしろベルノルトたちのためだ。山守衆の決起に彼らが巻き込まれないようにするため、彼らが食料を手に入れられるようにしたのだ。
そして資金援助は同時に、山守衆に対するベルノルトたちの発言力を強めるためでもある。金を出しているのはイスパルタ朝であり、そして彼らはイスパルタ朝の人間だ。山守衆も資金援助が半分以上ベルノルトらのためのものであることは分かっているはず。となれば今後、その意向は無視できなくなる。
このようにお膳立てをされたのだ。やはり今しばらくは、山守衆の里に留まった方が良い。アッバスは大きく息を吐いて気を鎮めてから、その結論を受け入れた。ただそうなると、今度はイスパルタ軍の今後の動向が気になる。そしてそれを左右するのは、西方における戦況の行方だ。彼はそれをハシムにこう訪ねた。
「ラーヒズヤがクリシュナと一戦して勝ったことはすでに聞いた。その後はどうなっている? やはりラーヒズヤが有利なのか?」
「有利なことは有利ですが、押し切れませぬ。クリシュナも粘っています」
ハシムがそう答えるのを聞いて、ベルノルトは少し意外に思った。こう言っては何だが、クリシュナの勢力というのは有象無象を取り込んで急速に大きくなった、泡のようなものだと彼は考えていたのだ。それで敗北という針の一刺しを受ければ、たちまち割れて瓦解してもおかしくはないと思っていた。
確かにさきの決戦の勝利により、ラーヒズヤ軍は勢いづいている。クリシュナの勢力圏となっていた地域を次々と奪還しており、今では西方諸国を二分するまでになった。その中にはヴェールールの旧領も一部含まれており、趨勢の天秤は間違いなくラーヒズヤの側に傾いている。
しかしクリシュナは粘っているという。今のところ彼の勢力は後退を続けているが、しかし脱落者は少ない。戦力の回収には成功しており、また彼を見限る動きはまったく見られないという。つまり敗北を経てなお、クリシュナは反マドハヴァディティア勢力の首魁として認められているのだ。
「妙な話ではありますが、敗北によってクリシュナ軍は一枚岩になった、と言えるでしょう」
ハシムはそう語った。敗北によってある勢力が分裂することは、歴史上よくある。このままでは先は暗いと考え、自分だけは生き残ろうとする者が現われるからだ。しかしクリシュナ軍の場合、敗北によってむしろ結束を強めたという。確かに妙な話だ。
「それは、危機感からですか? 自分たちがマドハヴァディティアに許されるはずがない、というような」
「それはもちろんあるでしょう。マドハヴァディティアが反逆者や謀反人に慈悲を垂れるはずのないことは、これまでの例からすれば明白ですから。ただ、どうもそれだけではないようです」
メフライルの問いに、ハシムがそう答える。そして彼はさらにこう言葉を続けた。
「つまり反マドハヴァディティアの立場を取った者たちは、クリシュナこそが自分たちの庇護者であると認めたのです」
そのきっかけとなったのが例の敗北である、とハシムは言う。あの戦いでクリシュナ軍は前後に分断され、前衛は包囲されたあげく袋だたきにされた。クリシュナがいたのは後衛なのだが、彼はこのとき多大な損害を出しつつも前衛を救出している。これが彼の下についた者たちの心を得ることに繋がったようだ、とハシムは言った。
「クリシュナは味方のために死地に飛び込み、自らを危険にさらしました。もちろん打算はあったでしょう。クリシュナの手元に残っていた戦力だけでは、その後戦い続けることはできなかったでしょうからな。ただ彼を盟主に担ぐ者たちにとって重要なのは、決してそこではないのです」
彼らにとって重要なのは、クリシュナが自分たちを見捨てて逃げ出さなかったことであり、危険を承知で助けに来たことなのだ。その姿を見て、彼らはクリシュナを信頼できると思った。だから劣勢に立たされても崩れないのだ。ハシムはそう説明した。
「なるほど……。クリシュナが武勇に優れるという話はあまり聞かないが、勝負所を見極める目はあるらしい」
ハシムの話を聞いて、アッバスは唸るようにそう呟いた。
「本人は必死だっただけでしょう。そもそも将として優れているなら、はじめから負けたりはしなかったはずです」
ハシムがそう言うと、会議室に小さな笑いが起こった。ただそうなると、クリシュナは直感的に正解を選び取ったことになる。敗北の中でも味方を救出したからこそ、西方諸国の半分を勢力圏にしているのだ。将としては平凡かも知れないが、為政者としてはやはり非凡であろう。ベルノルトはそう思った。
「……さて、話が少し逸れましたな。お話ししたとおり、ラーヒズヤの攻勢に遭いながらも、クリシュナは粘っております。遠からず両軍は膠着状態に陥るでしょう」
「つまり、ラーヒズヤは反乱勢力を一掃できない、と?」
アッバスがそう尋ねると、ハシムは大きく頷いた。もともとマドハヴァディティアがラーヒズヤを西へ送ったのは、反乱勢力を一掃して増援を組織し、ヴァンガルに籠城する本隊の後詰めをさせるためだった。
だがラーヒズヤはクリシュナを一気に押し切ることができなかった。戦線が膠着しても、戦線維持のために戦力は必要だ。大規模な援軍を送ることは難しいだろう。兵糧を送ることはできるかも知れないが、ヴァンガルの外にはイスパルタ軍が布陣している。送ったとして、届けるのは難しいだろう。
「……ということは、法国での戦況も膠着するな、これは」
太い指で顎先を撫でながら、アッバスはそう呟いた。敵の増援を叩いてヴァンガルに籠城する将兵の心を折る、というのがジノーファの基本戦略だ。しかし肝心の敵増援が来なければ、イスパルタ軍も動きようがない。マドハヴァディティアが打って出てくるとも考え辛く、城壁を挟んでの睨み合いは長期化すると思われた。
睨み合いの長期化はイスパルタ軍に有利だ。イスパルタ軍の補給線はしっかりとしている。兵を食わせるのに困ることはない。だがアースルガム解放軍にとってはどうか。資金援助が再開された以上、立ちゆかなくなることはないだろう。だが故国の再興という悲願は後ろ倒しになる。決して面白くはあるまい。
折しも、クリシュナの側についた反マドハヴァディティア勢力の者たちの中には、旧領を回復して故国の再興を宣言した者たちがいる。グルグラム独立党などだ。ヴェールールの属国的な立場ではあるが、彼らは悲願を果たした。そのことをうらやましく思っている者たちは、アースルガム解放軍の中でも少なくない。
「睨み合いが続くというのなら、兵が浮くことになる。その一部でもこちらへ送ってもらうことはできないのか?」
アサーヴがそう言ったが、そう考えるのは彼だけではないだろう。山守衆と言わず、アースルガム解放軍の中でも多数の者が似たようなことを考えているに違いない。
「さて、私の一存ではなんとも……」
ハシムはそう言って言葉を濁した。イスパルタ軍の戦力を割いて別働隊を組織し、それを西に向かわせる。選択肢の一つとしてはあり得るだろう。だがジノーファがそれを選ぶのか。ハシムにそれは分からないし、またそうするように促すだけの権限もない。
「皆様の要望は、しかとお伝えいたしましょう」
せいぜいそう答えるのが精一杯だ。ルドラは思案げな顔をしているが、アサーヴは不満げである。自分たちは後回しにされている。そう感じているのだろう。あまりよくないな、とベルノルトは思った。
(父上の狙いは……)
ジノーファの狙いは、敵将兵の心を折ること。言い換えれば、マドハヴァディティアにこれ以上戦うことはできないと思わせることだ。だがマドハヴァディティアがそう簡単に諦めるとは思えない。だからこそジノーファは、彼の目の前で援軍を撃破するという方針を立てた。
逆を言えば、同様の効果が見込めるのなら、「敵増援の撃破」という当初の目的に拘る必要はない、ということだ。ではどのような事が起これば、マドハヴァディティアとその麾下の将兵らは心胆を寒からしめるだろうか。
籠城戦において将兵の拠り所となるのは幾つかある。それは有能な指揮官であったり、堅牢な城壁であったり、あるいは味方の増援だったりする。それらの要素の内、マデバト山から手出しできるものは少ない。一体何ができるのか、ベルノルトは忙しく頭を働かせた。
「……ベル。何か意見があるのか?」
ベルノルトが考え込む様子を見て、メフライルがそう尋ねる。ベルノルトはやや躊躇いながら口を開いてこう言った。
「……噂を、流せないでしょうか?」
「ふむ。どのような噂でしょうか?」
ハシムがそう聞き返す。彼の態度に変わったところはない。だが眼差しは真剣である。彼はいま、イスパルタ朝第一王子の意見を聞こうとしているのだ。意見を述べてしまえば、不必要に注目を集めてしまうかも知れない。そのことを承知した上で、ベルノルトはこう答えた。
「ラーヒズヤが独立した、と」
「……なるほど。ラーヒズヤとマドハヴァディティアの間を裂きますか」
ハシムが感心した様子でそう呟く。要するに反間の計の一種と言っていい。そしてラーヒズヤが独立すれば、マドハヴァディティアは孤立する。他の者たちもそれぞれ考え込む様子を見せた。
現在ラーヒズヤはマドハヴァディティアの臣下という立場ではあるものの、その指揮下を離れていて、その上かなり自由な裁量権を持っている。麾下の戦力のことも合わせて考えれば、実質的に彼はもう王たる立場にいると言っていい。独立までのハードルは、それを宣言するか否か、という部分だけだ。
もちろんそのハードルは決して低くない。独立の宣言は、マドハヴァディティアとの決別を意味するからだ。彼はラーヒズヤを許さないだろう。独立を宣言するには、彼と戦う覚悟が必要である。
ただそのマドハヴァディティアは現在、ヴァンガルでイスパルタ軍と睨み合っている最中だ。ただちに軍を引き返して来ることはできないだろう。ともすればそのまま死んでしまうかも知れない。何しろジノーファは彼の首を要求したのだから。
またマドハヴァディティアと決別すれば、クリシュナとは和睦する道が開ける。クリシュナとの間に和平が成立すれば、西方諸国の半分がラーヒズヤのものになる。その版図はかつてのヴェールールをしのぐ。彼にとっては十分すぎるほどの大領だ。
ラーヒズヤの独立は十分にあり得る。噂はそれを後押ししてやるだけだ。そして彼がマドハヴァディティアから独立すれば、ヴァンガルへ援軍が送られることはほぼなくなる。それは援軍を撃退するのと同じくらいの衝撃をヴァンガルの将兵に与えるだろう。
「しかし、そう上手く行きますかな?」
ハシムがそう尋ねる。彼は特別、懐疑的というわけではない。というより、噂一つで戦局を大きく変えようというのだから、上手く行くのか疑って当然だ。ベルノルトもそれは承知していて、彼は肩をすくめてからこう答えた。
「さあ、どうでしょう。ですが似たような例は、西方では珍しくないはずです」
ベルノルトが指摘したのは歴史的背景だった。本国から出陣して周囲を切り従えた将軍が、しかしその途端に独立を志すという例は、特に西方諸国において歴史上枚挙に暇がないのだ。そのことはラーヒズヤも知っているだろう。
先例が、それも多くあるのだから、心理的なハードルは下がる。また噂を耳にしたマドハヴァディティアがどう考えるのか。ラーヒズヤにその気がなくとも、マドハヴァディティアが彼を疑えば、もはや独立するより他に道はない。
「それに噂を払拭しようと思えば、ラーヒズヤは早期に援軍を出すしかありません。ですが現状では十分な数にはならないでしょう。イスパルタ軍がこれを撃退するのは容易なはずです。
加えて、援軍を送ればラーヒズヤが動かせる戦力は減ります。クリシュナはそれを見逃さないでしょう。失地回復に動くはずです。マドハヴァディティアを支持する勢力は力を失います」
「代わりにクリシュナが西方を席巻するのではありませんかな? そして第二の百国連合軍とマドハヴァディティアが誕生する」
「かもしれません。ですがこれだけ戦いが続けば、内情はボロボロのはず。イスパルタ軍の脅威にはなりません。なにより、マドハヴァディティアよりはクリシュナの方が、相手にするのは容易でしょう」
ベルノルトがそう述べると、ハシムは「なるほど」と言って苦笑を浮かべた。マドハヴァディティアとクリシュナでは、警戒するべきはやはり前者である。そこに異論のある者はいなかった。
「とはいえ、私の一存では決められませぬ。そういう案が出たことは、ご報告いたしましょう」
「……その時には山守衆も賛成だと付け加えてくれ」
それまで黙っていたアサーヴが、そう言葉を挟む。彼の表情と眼差しは真剣である。その隣でルドラは難しい顔をしていたが、反対はしない。それを見てハシムは、「分かりました。ではそのように」と応えた。
それからベルノルトたちはハシムからまたさらに色々な話を聞いた。彼らはフードとデニスが無事に解放されたことを知って喜び、またシェマルの活躍を聞いてその武勇を讃えた。
話し込んでしまい、時間が少し遅くなったので、ハシムは一晩泊まっていくことになった。その際、彼はベルノルトらにこう提案する。
「皆様、ご家族などに手紙を書かれてはいかがですかな。小官がお預かりしますが」
「ぜひお願いします」
そう答えたのはメフライルだった。彼自身は家族に手紙を書くつもりはない。だがベルノルトは書きたいだろう。それを慮ってのことだった。
そしてその夜、ベルノルトは夕食をさっさと食べ終えると、部屋に籠もって手紙を書いた。父と母とエマに宛てて、それぞれ手紙を書く。言葉がなかなかまとまらず、結局手紙を書き終えたのは夜半過ぎのことだった。
サラ「手紙、誰に書けば良いのかしら……」
ベルノルト「メイドたちに書いたらどうだ。偽装工作で四苦八苦しているだろうからな」
サラ「そうね……」




