波紋、ゆるやかに1
ベルノルトら四人が山守衆の里で暮らすようになってから、およそ一ヶ月が過ぎた。この間にも、ルルグンス法国における戦況はまた一つ節目を迎えていた。百国連合軍がヘラベートの攻略に失敗したのだ。
ヘラベートにはアースルガム解放軍の拠点の一つである、ファラフ商会がある。ファラフ商会はイスパルタ軍の勝利をすぐに掴み、その情報を解放軍のネットワークに流した。そのおかげで百国連合軍の敗北は、たちまち連合域内に広まったのである。
その報せは山守衆の里にも届いた。とはいえ、山守衆の興奮は薄い。マデバト山で暮らす彼らにとって、遠くヘラベートでの戦はほぼ別世界の出来事なのだ。その傾向は、アースルガム解放軍の活動に携わっていない者ほど強い。
逆に解放軍の活動に携わっている者や、外と接触する機会の多い者は、それなりの関心を持っている。それでヘラベートにおける百国連合軍の敗北が伝わると、頭領と三人の組頭が集まって意見を交わした。そしてそこに、ベルノルトら四人も呼ばれた。彼らの意見も聞きたい、ということだ。
「おお、呼び立てしてすまんな。さあ、座ってくれ」
ベルノルトたちが部屋の中に入ると、上座に座る山守衆の頭領が笑みを浮かべてそう言った。頭領の名前はユブラジ。山守衆の頭領は代々、マデバト山のダンジョンの攻略を主導した、アースルガム一族の当主の異母弟の子孫が務めている。つまり彼はサラの遠い親戚でもあるのだ。
部屋の中には組頭の一人であるルドラの姿もあるが、ユブラジは彼と比べると一世代上になる。それも当然で、ユブラジはルドラの義父だった。つまりルドラは彼の娘と結婚したのだ。だからリリィは彼の孫に当たる。彼女が「お嬢」呼ばわりされていたのも、ある意味では当然だろう。
ちなみにユブラジには跡を継ぐ息子もいるのだが、彼は現在アースルガム族の居留地へ出向いていて、今日この場にはいない。名前はアサーヴ。ルドラにとっては少し歳の離れた義弟になる。
まあそれはそれとして。ユブラジはベルノルトたちをイスに座らせると、ファラフ商会から回ってきた報せについて説明する。イスパルタ軍が勝ったことを聞くと、四人はそれぞれ顔を輝かせた。
「それで、どう思う?」
喜ぶ四人に、ユブラジは短くそう尋ねた。意見を聞きたいのだろうが、それではいかにも含蓄が広い。メフライルは困ったように笑ってからこう答えた。
「良い報せだと思いますが……、まさか違うのですか?」
「いやいや、マドハヴァディティアに土をつけたのだ。良い報せには違いない。ただそれが解放軍に、ひいては山守衆にどう影響してくるのか、よく見えなくてな。お前さん方は少し前までヴァンガルにいたということだし、儂らよりも情勢に明るい。意見を聞きたいと思ったわけじゃ」
「なるほど。そうでしたか」
メフライルはそう言って一つ頷き、それからアッバスの方へ視線を向ける。アッバスは一つ頷いてからこう語った。
「今回の勝利は喜ばしいことですが、全体の趨勢にはあまり影響しないと思われます。むしろ趨勢が傾くのを食い止めたと考えるべきでしょう」
「どういうことじゃ?」
ユブラジがそう尋ね、アッバスはさらに説明を続けた。ヘラベートが陥落していたら、イスパルタ軍はルルグンス法国における橋頭堡を失ったことになる。法国における百国連合軍の優勢は確たるものになっただろう。だが今回の勝利でそれは避けられた。趨勢の天秤が百国連合軍の側へ傾くのを食い止めたわけだ。
ただ、今回戦ったのはイスパルタ軍の先遣隊だ。先遣隊を率いるウスマーン将軍は、独断でヴァンガルを攻めるようなまねはしないだろう。一方で百国連合軍も、全軍が出撃したわけではない。敗走した部隊も、すでにヴァンガルへ戻っているはず。この状況でマドハヴァディティアがヴァンガルを放棄するとは考えづらい。
「今後どちらかに増援が来るまでは、睨み合いが続くものと思われます。あるいはもう一度、マドハヴァディティアがヘラベートを攻めるかもしれませんが、その可能性は恐らく低いでしょう」
つまりそれまでの間、ルルグンス法国における戦闘は小康状態になる。情勢が大きく変化するとは考えにくい。アッバスがそう説明すると、ユブラジや組頭たちが難しい顔をした。
彼らは恐らく、今回の勝利で情勢が大きく好転することを望んでいたのだ。風向きが代わり、一挙にアースルガムの再興まで叶うのではないか。そんな希望を持っていたとしてもおかしくはない。だがそこまではまだならないと言われてしまった。それが現実だとしても、面白くはないだろう。
「では、イスパルタ軍はいつになったらこちらへ来てくれるのだ?」
ルドラとは別の組頭がアッバスにそう尋ねる。彼の声音には、やや責めるかのような響きがあった。
「さて。はっきりしたことは分かりかねますが、恐らくはイスパルタ軍の本隊が到着し、法国から百国連合軍を追い払った後になるでしょう。そうでなければ補給線を維持できませんから」
アッバスが僅かに顔を険しくすると、彼の代わりにメフライルがそう答えた。それを聞いて、組頭たちの口からまた難しげなうめき声が漏れる。ベルノルトがルドラの方を見ると、彼もまた少し困ったかのように苦笑を浮かべていた。そして彼は場を宥めるようにこう言った。
「誤解しないで欲しいのですが、私たちは今回の勝利を本当に喜んでいます。これで間違いなく、マドハヴァディティアの勢いは弱まりますから」
「ルドラの言うとおりじゃ。だが目の前の問題として、儂らも苦しい。マドハヴァディティアの勢いが弱まったとして、それがアースルガムの再興に結びつくのか。また再興できたとして、その時まで山守衆が持ちこたえられるのか、皆不安なのじゃ」
顔にやや苦いものを滲ませながら、ユブラジがそうルドラの言葉を引き継いだ。結局、話はそこへ行き着く。自分たちの生活が楽になるのか否か。山守衆にとってはそれが一番の関心事であり問題なのだ。
曲がりなりにも、ベルノルトらはクルシェヒルでイスパルタ朝の中枢を見てきた者たちだ。彼らの目から見ると、山守衆は視野が狭いように思える。もっと大局を見ろ、と言ってやりたくなる。
だが山守衆を責めることはできない。アースルガムが滅亡してすでに四年近い。カリカットの代官が行う経済封鎖は、じわじわと山守衆を締め上げている。彼らの懐事情は厳しい。ヴァンガルが陥落してからはさらに厳しくなった。ユーヴェル商会を頂点とした金の流れが途切れたからだ。
マデバト山では食料を自給自足することはできない。どうしても外から買う必要がある。だが金が尽きれば食料を買えなくなる。ユブラジは「不安」と言ったが、その感情は恐怖にも近いものなのだろう。
だからこそ、彼らはその不安が和らぐような話を聞きたかったのだ。とはいえベルノルトたちも、法螺を吹くわけにはいかない。メフライルは曖昧に笑った。いつイスパルタ軍が来るのか、確かなことを言えるはずもない。まして、山守衆が持ちこたえられるのかなど。
「……まあ、客人方のおかげで、一時期よりはマシになった」
今まで黙っていた三人目の組頭が口を開いてそう話した。彼が冗談混じり時に「肉も食えるようになった」というと、笑い声が起こる。
彼の言う「肉」とは、ダンジョンで手に入るドロップ肉のことだ。山守衆はダンジョン攻略を積極的に行っているから、当然ドロップ肉を目にする機会は多い。だがその一方で口に入る機会はあまり多くなかった。
ドロップ肉を手に入れたのが出入り口付近なら、そのまま外へ持ち帰ることもできる。だがある程度進んでしまうと、途端に扱いにくくなる。結果としてその場で食べるのでもない限り、捨てていく場合がほとんどだった。
だがベルノルトらが来たことで状況は変わった。彼らは山守衆の食料事情が厳しいことを聞き、大量のドロップ肉を提供したのだ。言うまでもなくその出所はメフライルの収納魔法であり、このとき山守衆はこの画期的な魔法のことを知ったのである。
『この魔法を使えるようになれば、腹一杯ドロップ肉を食える!』
そういう理解の仕方だったのは、大体においてベルノルトらのせいであろう。いくら有効とはいえ、初手で胃袋を掴みにいく連中が悪いのだ。これではまるで収納魔法が食欲を満たすための魔法のようではないか、という冗談はさておき。
収納魔法を知った山守衆は、ベルノルトたちの説明もあって、すぐにその有用性を理解した。この魔法を使えばより身軽にダンジョン攻略を行うことができ、それは安全性の向上に資する。
また収納魔法が使えれば、より多くの戦利品を持ち帰ることが出来るようになる。戦利品の量は収入に直結する。収入が増えれば、山守衆の財政赤字も解消されるに違いない。少なくとも赤字幅は圧縮されるのだから、破産までの時間稼ぎには間違いなくなる。
加えて、ドロップ肉などの形でダンジョンからも食料を得られるようになったのだ。山守衆に与えた衝撃という意味では、やはりこれが一番大きかった。
次の日と言わず、その日の晩から収納魔法の習得に挑む者たちが現われ、今では二人がその魔法をつかえるようになった。今後はさらに増えることが予想され、その分だけ山守衆の状況は好転していくだろう。
もっとも経済封鎖が続いている状況で楽観は禁物だ。彼らの生活が本当の意味で良くなるには、経済封鎖の解除が最低条件である。そして現状、その見通しは立っていない。ただその一方で、収納魔法が明るいニュースだったことは確かだ。食料自給率が上向いたことには、大きな意味がある。
「今はまだ、耐えられる。焦っても、仕方あるまい」
「だが、いつまで耐えれば良い?」
「もともと、五年間は相互不可侵という約束だった。それ以上の時間はかかるものと、覚悟していたではないか」
「それは、そうだが……」
ルドラ以外の二人の組頭がそう言葉を交わす。結局、しばらくはこのまま様子見を続けるしかない。その結論が出るまでに、それほどの時間はかからなかった。
「まあ、状況が悪化するわけではないじゃろう。今はそれで良しとしよう」
ユブラジがそう言うと、三人の組頭たちも揃って頷いた。むしろ収納魔法のことがあるだけ、多少なりとも状況の改善には期待が持てる。楽観はできないが、悲観するほどでもない。ひとまずその意識は共有された。
「……ところで、今回のことで解放軍はなにかアクションを起こすのでしょうか?」
そう尋ねたのはベルノルトだった。ルルグンス法国における戦況は、しばらくは睨み合いが続くだろう。それでもしも動きがあるとすれば、百国連合域内でのことになる。その動きに山守衆が関わるとなれば、その時にはアースルガム解放軍という枠組みのなかで動くことになるだろう。
ただ先ほどまでの話を聞く限り、アースルガム解放軍が何か具体的な行動を起こすという話は出てこなかった。勝利を喜ぶ気持ちは分かるが、勝利は利用して初めて価値がある。どこかに噂を流すとか、調略をして敵の勢力を切り崩すとか、そのためにはどのくらいの資金が必要だとか、そういう話はないのだろうか。
「そういう話は回ってきておらんなぁ」
ユブラジは苦笑を浮かべながらそう答えた。解放軍のネットワークを通じて回ってきたのは、ヘラベート攻略戦におけるイスパルタ軍の勝利に関する情報だけ。その上で何かをするというような話は来ていないという。
「まあ、儂らはここから動けん。アースルガム族につなぎをつけたいのならともかく、それ以外のことを教えても仕方がないと思ったのではないかの?」
ユブラジはあっけらかんとそう話した。それを口惜しいと思っているようには見えない。ベルノルトにはそれが少しもどかしく感じた。
(それにしても……)
それにしても、本当に山守衆にその手の情報が回ってこないだけなのだろうか。ベルノルトは少し疑問に思った。
アースルガム解放軍に命令を下していたのは、その首魁であるアーラムギールだ。彼がヴァンガルのイスパルタ大使館と協議しつつ、解放軍にどんな仕事をさせるのかを決めていた。
しかしヴァンガルが陥落したことで、アースルガム解放軍はその命令系統の頂点を潰された格好になった。アーラムギールの生死も不明であるし、仮に生きていたとしても指示を出せる状態ではないだろう。下手なまねをすれば、諸々マドハヴァディティアに露見しかねない。今は息をひそめているだろう。
このような場合、アーラムギールの代わりに指揮を取るべきはファラフ商会の会頭であるランジットの役目であったはず。実際にイスパルタ軍勝利の報せは、ファラフ商会から流れてきた。
ランジットがしっかりと指揮を取っているならそれでいい。だがもしも指揮を執れていないなら、アースルガム解放軍は機能不全を起こしていることになる。それは結局のところ、マドハヴァディティアを利することになるだろう。
(まあ、仕方のない面もある、か……)
ベルノルトはそう思い、内心でため息を吐いた。いきなりユーヴェル商会が身動き取れなくなることなど、アースルガム解放軍は想定していなかったに違いない。まず標的になるとしたら、ファラフ商会の方であると思っていたはずだ。それが崩れたのだ。用意が出来ていなくて、混乱したとしても仕方がない。
そして混乱は時間と共に収まるだろう。ファラフ商会のあるヘラベートには、イスパルタ朝の総領事館も置かれている。敵軍を退けたことで余裕も生まれたはず。今後は両者がアースルガム解放軍の舵取りをしていくことになるだろう。資金の流れも復活するに違いない。
何より、もう少しすればイスパルタ軍の本隊がやって来る。本格的に百国連合軍と相対する場合、その足下を崩すために連合域内で反マドハヴァディティア勢力の動きを活発化させるのは当然の戦略だ。その手足となるアースルガム解放軍を、イスパルタ軍が放っておくはずがない。必ず何かしらの要請を行うだろう。
アースルガム解放軍はまた必ず活発に動き出す。ベルノルトはそのことを確信していた。だが山守衆がその動きに加わるかは分からない。そもそもその報せがここへ来るのかも。ベルノルトはそのことがもどかしい。
潜伏することだけを考えるなら、山守衆の動きは少ないほうが良い。その方がカリカットの代官に睨まれずに済むだろう。だがポツンと取り残されてしまうと、全体の動きが分からなくなってしまう。それではベルノルトは本当に助けを待つだけだ。
(本国へ帰ることだけを考えるなら、それが正しいのかもしれないけど……)
父上ならどうするだろうか。ベルノルトはふとそう考えた。
ユブラジ「ルドラよ、最近リリィが『おじいちゃん』と呼んでくれないんじゃが……」
ルドラ「思春期です。生暖かく見守りましょう」
リリィ「ちがう!」




