籠城
マドハヴァディティアにとって、現在の状況はまったく不本意なものだった。彼としては、イスパルタ軍の本隊が来る前にルルグンス法国を征服しているはずだったのだ。しかしヘラベートの攻略に失敗したことで、その戦略は破綻した。
戦に勝ち負けはつきものであるから、マドハヴァディティアもこの敗北についてとやかく言うつもりはない。またこの敗北を契機にして百国連合域内で反乱が相次いだことも、彼にとっては想定の範囲内だ。
彼にとって最大の誤算だったのは、クリシュナの謀反である。反乱が起こった場合、クリシュナはそれを鎮圧して武勲を稼ぐだろう。彼はそれを期待していたし、またそれを煽るためにナレインを連れてきたという側面もある。だがクリシュナは反乱を鎮圧するのではなく、むしろ同調した。後継者の地位ではなく、直接玉座を狙ってきたのだ。
マドハヴァディティアは頭を抱えなければならなくなった。それでもこの時の彼にはまだ余裕があった。手元に五万を超える戦力があるからだ。これだけの戦力があれば、反乱勢力を一掃することは十分に可能である。
ただしそのためには、イスパルタ軍との間に和睦を成立させなければならない。マドハヴァディティアには自信があった。しかし実際には、彼の思うような結果にはならなかった。
『百国連合軍はルルグンス法国より完全に撤退すること。さらに百国連合より十州を割譲し、賠償金として金貨五万枚を支払うこと。また相互不可侵条約を破ったことの責任として、マドハヴァディティアの首を差し出すべし』
帰還した使者からイスパルタ側の出した和睦の条件を聞いた時、マドハヴァディティアはのし掛かられるような圧力を感じた。怒りはある。だが「ふざけるなっ!」と怒鳴ることはできなかった。頭のどこかで、納得してしまったのだ。
マドハヴァディティアは使者からさらに詳しい話を聞いた。要するにジノーファは彼のことを信用できないという。それで「交渉の条件は厳しくせざるを得ない」というのがイスパルタ側の主張である。使者はそう説明した。
「下がれ」
話を聞き終えると、マドハヴァディティアはそう言って部下たちを下がらせた。そして一人執務室に残り、思案を巡らせる。イスパルタ側の言い分を、彼は頭から信じてはいない。ジノーファが自分の事を信じられないのは勝手だが、それだけの理由でここまでふざけた条件を突きつけてくるとは思えなかった。
(要するに……)
要するに、ジノーファは現時点で交渉に応じる気などないのだ。彼が決戦を求めているとは思わない。恐らくだが、彼はすでに百国連合で相次ぐ反乱のことを知っている。クリシュナが報せたに違いない。海路を使えば、ヘラベートのイスパルタ軍に連絡をつけるのは容易だ。「足下を見られたか」と思い、マドハヴァディティアは自嘲した。
(疲弊を待つつもりか)
マドハヴァディティアはジノーファの狙いをそう推察した。彼がヴァンガルに足止めされたままでは、百国連合の反乱勢力はさらにその勢いを増すだろう。時間が経てば経つほど、彼は苦しい状況に追い込まれていく。
時間と共に状況が悪くなっていくのは、百国連合の情勢だけではない。マドハヴァディティアは味方の士気にも懸念を抱いていた。百国連合域内で反乱が相次いでいることは、すでに兵士たちの間でも噂になっている。そのせいで動揺が広まっていた。今後、時間経過と共に動揺が静まることは期待できない。
動揺しているのは末端の兵士だけではない。指揮官クラスの人間の間にも、動揺は広まっていた。彼らは主に増援として来た部隊の指揮官らで、要するにヴェールール以外の国の王族や貴族たちだった。
彼らが動揺するのも無理はない。反乱勢力が直接の標的としているのは、主に彼らの領地なのだ。自分たちの財産や利権、さらには家族までも害されていると聞いては、心穏やかでいられるはずもない。
それでもまだ彼らが平静を保っているのは、マドハヴァディティアがイスパルタ軍に和平交渉を申し入れたからだ。交渉がまとまれば国へ、領地へ戻ることができる。そう思っていたからこそ、彼は今まで不満を口にしなかった。
だが交渉が事実上決裂したと知れば、彼らは撤退を主張するに違いない。ヴェールール軍の中からも同調する者が現われるだろう。となればマドハヴァディティアとしても、その声を無視することはできない。
「撤退、か……」
この時初めて、マドハヴァディティアはヴァンガルからの撤退を真剣に考慮した。その場合には、略奪し尽くしてから撤退することになる。街も大聖堂も焼き払い、イスパルタ軍に利用されないようにしていかねばなるまい。
ヴァンガルは歴史のある、大きな街だ。相応に富を溜め込んでおり、略奪のしがいがあるに違いない。財を得るという意味では、十分な成果が見込める。兵士たちは喜ぶだろう。不満も和らぐに違いない。
ただその一方で、これはやはり「撤退」である。悪意のある言い方をすれば、「尻尾巻いて逃げ出す」わけだ。しかもイスパルタ軍の本隊が到着し、交渉が“決裂”したので撤退するわけだから、なおのこと「その武威を恐れた」と受け取られるだろう。ヘラベートの攻略の失敗も合わせれば、マドハヴァディティアの武名は地に落ちると言っていい。
いや、「地に落とされる」と言うべきか。謀反を企てた叛徒どもはことさらこの件を言い立てるだろう。「マドハヴァディティアは法国から逃げ帰ってきた。恐れるに足らず!」と叫んで、各地で抵抗を続けるに違いない。
またさらに、イスパルタ軍も撤退する百国連合軍の後を追ってくるだろう。下手をすれば挟み撃ちに遭う。イスパルタ軍が背後にいるというだけで抑えの兵を割かなければならないし、反乱勢力も勢いづくだろう。
何より、百国連合軍がヴァンガルから撤退すれば、ルルグンス法国はイスパルタ朝に組み込まれるだろう。百国連合域内の反乱を鎮圧したとして、今度はイスパルタ朝と境を接することになるのだ。東進はさらに難易度を増すことになる。
それどころか逆に、今度はイスパルタ朝が西征を企てるかもしれない。反乱によって力を落とした小国の集まりなど、大国イスパルタ朝にとっては手頃な獲物でしかないだろう。西方諸国は丸ごと併呑されかねない。
(やはり……)
やはりヴァンガルは必要だ。マドハヴァディティアはそう思った。ヴァンガルは東進のための橋頭堡であると同時に、イスパルタ朝の西征を阻むための防壁なのだ。これを失うわけにはいかない。
(そうなると……)
そうなると、撤退を求めて騒ぐ連中を押さえつける必要がある。前述したとおり、彼らを無視することはできない。何か手を打つ必要があるだろう。彼らの不安や不満を和らげつつ、百国連合軍を一枚岩にして統制が取れる状態にしなければならない。
まずマドハヴァディティアは交渉を継続させた。まとまるとは彼も思っていない。だが交渉を続けることでイスパルタ軍の動きが少しでも鈍れば意味はある。
さらにラーヒズヤのところへ、さらに一万の兵を送った。最初に与えた分も合わせれば、一万三〇〇〇になる。マドハヴァディティアはこの戦力を使い、ラーヒズヤに反乱勢力を討伐させるつもりだった。
イスパルタ軍が迫ってくる現状において、一万三〇〇〇もの兵を割くのは、マドハヴァディティアとしてもかなり苦しい。だが十分な戦力がなければ、反乱を速やかに鎮圧することはできない。戦況を好転させるには、ともかく西を安定させなければならないのだ。そのために必要な戦力である、と彼は割り切った。
幸いというか、使者の話によればイスパルタ軍の本隊は数万程度であるという。ヘラベートの先遣隊と合流しても十万弱であろう。一方で兵を割いても、マドハヴァディティアのもとには四万を超える戦力が残る。ヴァンガルの城壁を頼りに戦えば、十分に持ちこたえられるはずだ。その上で、マドハヴァディティアは麾下の兵たちをこう鼓舞した。
曰く「イスパルタ王ジノーファは交渉を妥結させるつもりがない。彼は我々をこの地でことごとく討ち果たすことを望んでいる。故国を奪還するための手は打った。我々は目の前の敵に対して一致団結して立ち向かわなければならない。我々は必ず勝利を得る。そのために諸君の奮闘と献身を求める」
要するにジノーファとイスパルタ軍を悪者にして、分かりやすい危機を演出したのだ。またラーヒズヤに与えた一万三〇〇〇の兵は主に増援としてやって来た兵であり、マドハヴァディティアの手元に残った兵の半分以上はヴェールール兵である。その関係もあり、彼の言葉に兵たちは奮い立った。その場の興奮に流された者もいただろう。だがそれでも、彼はともかく兵士たちの士気を維持することに成功したのだった。
とはいえ懸念も残る。ヴァンガルで生活するルルグンス人らのことだ。当然ながら、彼らは侵略者のことを快く思っていない。それでも彼らが今まで比較的大人しかったのは、イスパルタ軍のことを待っていたからに他ならない。
そのイスパルタ軍が、遠からずヴァンガルに肉薄する。住民たちにとってイスパルタ軍は解放者なのだ。彼らの期待は高まるだろう。自発的に内応する者が現われてもおかしくはない。
そしてヴァンガルの城門が内側から開けられてしまえば、城壁が無傷であっても意味はない。たちまちイスパルタ兵が街の中へなだれ込んでくるだろう。それに合わせて住民たちも蜂起するに違いない。マドハヴァディティアも百国連合軍も、ヴァンガルから追い立てられることになる。
(地の利は向こうにある、か……)
マドハヴァディティアは内心で苦々しげにそう呟いた。これを「地の利」と言っていいのかは別として、イスパルタ軍に有利な条件であることは間違いない。だがそれでもマドハヴァディティアは戦わねばならないのだ。
彼はこれまでミールワイスに任せていた城門の警備を、子飼いの兵を使って自ら行うことにした。外側に対しての警備ではない。内側に対しての警備だ。出入りはこれまで以上に厳しく制限された。
さらにマドハヴァディティアはミールワイスに治安維持活動を強化するよう命じた。ヴァンガルのルルグンス人がイスパルタ軍に内応するのを防ぐためだ。ミールワイスもヴァンガルが陥落しては自分の地位どころか命まで危ういと理解している。むしろ彼の方が積極的だった。
ミールワイスを使うことには、マドハヴァディティアも少し躊躇いがある。彼はルルグンス人の恨みを買っているからだ。彼への反発はそのままマドハヴァディティアへの反発となり、そしてイスパルタ軍の待望論へと集束する。要するに反発が大規模な暴動へと繋がり、そのまま城門が開かれかねない、ということだ。
だがいずれにしても、治安維持活動は強化せざるを得ないのだ。ならばミールワイスを使うべきだろう。マドハヴァディティアはそう考えていた。彼がイスパルタ軍に内応することはあり得ない。そういう意味では信用できる。
交渉の方は、相変わらず進展がない。マドハヴァディティアはヴァンガルを含めた国土の割譲を要求し、ジノーファは彼の首を求めている。歩み寄りは見られず、交渉が続いているのが唯一の成果と言っていい。
ただ副産物はあった。使者が頻繁に行き来しているので、ヴァンガルからでもイスパルタ軍の位置がよく見えるのだ。そのおかげでイスパルタ軍がいつ来るのかは予想しやすかった。
もう一つ、百国連合軍には良いことがあった。秋の実りである。少し前に収穫の季節を迎えたのだが、ラーヒズヤが兵糧を送ってきたのだ。
ラーヒズヤのもとに、一万の兵が到着するより前の事である。彼は三〇〇〇の兵を率いて反乱軍の勢力圏となった、ある穀倉地帯を強襲。秋の収穫物を奪い、それを主君マドハヴァディティアのもとへ送ったのだ。
「流石はラーヒズヤ! 忠義に厚いことこの上なく、用兵の巧みなこと比類なし! まこと当代きっての名将よ!」
マドハヴァディティアはそう言ってラーヒズヤのことを称賛した。大げさに褒めた部分はあるだろう。だが称賛そのものは、マドハヴァディティアの素直な気持ちであったに違いない。そのくらい、この補給の意味は大きかった。
ラーヒズヤが送ってきてくれた兵糧のおかげで、百国連合軍は食料の不安が和らいだ。またヘラベートの攻略失敗以来、久々の明るいニュースである。兵士たちの顔にも笑顔が戻った。
何より、将来に希望を持てるようになった。今までは、来るかも分からない援軍を頼りにイスパルタ軍と戦わねばならないという、なかなか絶望的な状況だった。だがラーヒズヤが兵糧を送ってきたことで、援軍は現実味を増した。
ラーヒズヤの軍事的手腕は疑いない。彼ならば百国連合の混乱を鎮め、援軍を率いて救援に来てくれるだろう。もしかしたら本当に、イスパルタ軍に勝てるかもしれない。百国連合軍の将兵の士気は、また一段と高まった。
また物資を見せつけるようにヴァンガルへ運び入れたことで、住民たちはマドハヴァディティアの力が未だ侮りがたいものであることを理解したはずだ。不満や反発がなくなったわけではない。だが慎重にはなっただろう。これでひとまず、足下は静かになるはずだった。
「何とか……」
何とか、戦える状態が整った。マドハヴァディティアはそう思い、胸をなで下ろした。いくら「城砦を攻略するには敵に対して三倍の戦力が必要」と言われているとはいえ、実際の戦いはそう単純なものではない。
城壁の内側で問題が山積みになっていては、どれだけ大軍を擁していようとも勝てるものではない。ラーヒズヤが送ってきた補給物資は、マドハヴァディティアの手が回らなかった問題を解決してくれたのだ。
とはいえ厳しい見方をすれば、これもその場凌ぎでしかない。兵糧は消耗品だ。食べればなくなる。援軍も、必ず来ると確約を得られたわけではない。仮に来たとしても、どの程度の規模になるのかは不透明だ。
籠城してただ耐えるだけでは、いずれまた状況は悪くなる。マドハヴァディティアはそのことを理解していた。長期戦に分があるのはイスパルタ軍だ。兵の数は多いが、補給線がしっかりとしているし、ヴァンガル以南の地域でも秋の収穫は行われた。金を出せば幾らでも兵糧は手に入るだろう。
(そもそも……)
そもそもイスパルタ軍が大軍だとしても、しかしヴァンガルの人口の方が多い。マドハヴァディティアはある意味、ヴァンガルの住民たちも養わなければならないのだ。食料は幾らあっても足りない。
ヴァンガルは巨大消費地だ。外からの補給なしでは、到底維持できない。だが城門を開けて人の行き来を自由にするわけにはいかない。もちろん、備蓄はある。だが籠城戦がどれだけ長引くのか、現状では分からないのだ。
そして備蓄が尽きたとき、住民たちの食料はマドハヴァディティアが用意しなければならない。飢えていよいよとなれば、住民たちは暴動を起こすだろう。その時、戦況がどうなっていようとも、彼は敗北することになる。
(北で兵糧を集められるか……?)
マドハヴァディティアはそう考えた。ヴァンガル以北の地域は、遊牧民の略奪隊によって荒らされた。ただその期間は収穫よりも前の時期だ。今ならば徴発できる収穫物があるかもしれない。
(まあ、イスパルタ軍の布陣を見てから、だな)
マドハヴァディティアは今すぐに動くことを避けた。幸い、送られてきた補給物資のおかげで時間的な余裕はある。マドハヴァディティアはひとまず、敵の出方を窺うことにした。
マドハヴァディティア「亀のように立て籠もれ!」




