王たちの思案
マドハヴァディティアは苛立っていた。百国連合からの離脱を含めて反乱が相次ぎ、しかもその討伐が一向に進まないからだ。こうしている間にもイスパルタ軍の本隊は刻一刻とヴァンガルへ近づいて来ている。クリシュナのもとへ勅使を遣わしはしたものの、補給線の回復にも、改めて援軍を寄越すにも、相応の時間がかかるだろう。
「やむを得ん」
マドハヴァディティアは兵を動かした。ラーヒズヤに三〇〇〇の兵を与えて西へ向かわせたのである。
ラーヒズヤに反乱勢力を討伐させるため、ではない。この時点ではマドハヴァディティアはまだクリシュナが謀反を起こしたことを知らない。もしそうなら、もっと多くの兵を与えていただろう。
それでこれは、どちらかというと防御的な措置だった。ラーヒズヤを派遣することでこれ以上の造反を阻止し、さらに補給線を可能な限り再構築する。一言で言えば後方の足場固めであり、マドハヴァディティアがルルグンス法国で孤立しないための一手だった。
ラーヒズヤはその任務を粛々と拝命し、手早く部隊を編成して西へ向かった。そしてその少し後に、クリシュナの謀反が明らかになる。マドハヴァディティアは激昂した。しかし彼は動かなかった。ついにイスパルタ軍の本隊がルルグンス法国との国境付近までやって来たのである。
マドハヴァディティアは選択を迫られた。つまりヴァンガルを捨てて百国連合へ戻るのか、それともこのままヴァンガルに残るのか。この時点ならまだ、余裕を持って撤退できただろう。だが彼が選んだのは後者だった。
ヴァンガルの占領は輝かしい戦果である。マドハヴァディティアはそれを捨てられなかった。唯一の戦果を捨てて西へ戻れば、自らの権威が大きく揺らぐと思ったのだ。ヴェールール本国を失った上、権威までもが揺らいでは、今率いている百国連合軍の中からも裏切る者が出かねない。
特にヴェールール兵は故郷が敵になったのだ。士気への影響は大きいだろう。これらの兵を動揺させず、さらに必死になって戦わせるには、異国の地で強大な敵に立ち向かうという、差し迫った状況の方が都合が良かったのだ。
またヴァンガルは巨大な都市である。規模だけを比べるなら、クルシェヒルにも匹敵する。西方諸国のどこにも、これほどの都市はない。その主となったことは、マドハヴァディティアの自尊心を大いに満足させ、また肥大化させていた。結局のところ、その肥大化した自尊心こそが、撤退を拒んだのである。
ただその一方で、状況を好転させる材料が少ないのは、彼も認めなければならなかった。何しろ、籠城を選択したのに援軍のアテがないのだ。さらに言えば補給線は貧弱で、兵糧の備蓄も心許ない。そもそもヴァンガルの住民でさえ、潜在的には敵だ。そのような状況でイスパルタ軍と戦っても、最終的には圧殺されるだけだろう。
(ベルノルトを人質にできていれば……)
状況はかなり違っただろう。少なくとも、イスパルタ軍はヴァンガルへの攻撃を躊躇うはずだ。そう思うと、マドハヴァディティアは舌打ちを禁じ得ない。
ベルノルトはヴァンガルの陥落前にダンジョンを使って脱出している。以後、行方は掴めていない。ダンジョンの出口付近にはそれらしき痕跡が残されていたが、本人の姿は今日に至るまで報告されていない。
取り逃がした、という報告すらないのだ。よほど上手く潜伏しているか、もしくはすでにイスパルタ朝本国へ帰還しているか。いずれにしてもその身柄を確保する目途は立っていない。むしろ探索の打ち切りを考えているくらいだった。
何にしても、ここから先の事柄については、ベルノルトを人質にできないという前提で考えなければならない。つまりイスパルタ軍の動きを阻害するものは何もない、というわけだ。マドハヴァディティアはため息を吐いた。
「交渉だ」
つまりここで手打ちにすると、マドハヴァディティアは方針を定めた。ルルグンス法国全てを征服するという、当初の目標にはほど遠い。だが今ならまだ「勝った」と言える状態だ。勝利をえること。彼はまずそれを優先した。
ジノーファがイスパルタ軍本隊を率いていることを、マドハヴァディティアはすでに掴んでいた。ジノーファが大概甘い人間であることは、ルルグンス法国をこれまでそのままにしておいた事からも明白である。
そもそもイスパルタ朝本国には、直接の被害はまだ出ていないのだ。つまりジノーファは他国のために多大な戦費を使っていることになる。それに意味がないとは言わない。だができる事ならさっさと引き上げたいと思っているはずだ。同じく商業に熱心な王として、マドハヴァディティアのジノーファの内心をそう推察した。
だから交渉を申し込めば、それに乗ってくるだろう。マドハヴァディティアはそう考えている。条件は「ヴァンガルより北はマドハヴァディティアに、南はジノーファにそれぞれ分割」だ。
面積的には北の方が広いが、戦火の影響が少なく商業的にも栄えているのは南側である。それが戦いもせずに手に入るのだから、ジノーファも満足するだろう。マドハヴァディティアは交渉の妥結に自信を持っていた。
だが交渉は決裂した。「百国連合軍はルルグンス法国より完全に撤退すること。さらに百国連合より十州を割譲し、賠償金として金貨五万枚を支払うこと。また相互不可侵条約を破ったことの責任として、マドハヴァディティアの首を差し出すべし」。それがイスパルタ側の出した条件だ。折り合う気のないことは明らかだった。
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イスパルタ軍本隊の出陣は、当初の予定よりも少し遅れていた。歩兵一万を船でヘラベートへ送ることを優先したからだ。そのため本隊の準備が後回しに成り、その分だけ出陣が遅れたのである。
その間、ジノーファは普通に執務を行っていた。彼のもとには方々から報告や情報が入る。今、イスパルタ朝の周辺で最も騒がしいのは言うまでもなく西だが、西にしか国がないわけではない。
むしろ経済的な規模は東方の方が圧倒的に大きいのだ。それでクルシェヒルにいる者たちの視線は自然と東へ向きがちだった。これがマルマリズなどだとその傾向はさらに強くなるのだが、今はそれはいい。
さてこの日、ジノーファはある報告を見て「ふむ」と呟いた。ランヴィーア王国に関する報告だ。ジノーファは少し考え込むと、侍従に命じてユスフを呼びに行かせる。彼が来るまでの間、ジノーファはあれこれと考えを巡らせた。
「陛下。ユスフです」
「入ってくれ」
ユスフが来ると、ジノーファは早速、例の報告書を見せた。「ランヴィーア王エリアス二世の親卒する東征軍が大敗を喫した」という内容の報告だ。幸い、エリアス二世は無事だし、ランヴィーア王国が大きく揺らぐことはあるまい。ユスフはそう思いつつ、ジノーファにこう尋ねる。
「陛下。それでこれがどうされましたか?」
「エリアス陛下から、アルの婚姻の話があるかもしれない。そう思ってね」
ジノーファがそう答えると、ユスフはスッと表情を真剣なものにした。彼の言わんとしていることを察したのだ。
イスパルタ朝とロストク帝国そしてランヴィーア王国の三カ国は、ここ十数年ほどは同盟を結んで友好な関係を築いている。その関係の基盤となっているのは婚姻による結びつきだ。
ジノーファのもとにはジェラルド三世の妹マリカーシェルが嫁いでいるし、エリアス二世の妹シルフィエラのところにはジェラルド三世の弟フレイミースが婿入りしている。ただイスパルタ朝とランヴィーア王国の間には婚姻による結びつきがない。現在はロストク帝国を介した、間接的な繋がりに留まっている。
つまりエリアス三世からアルアシャンの婚姻の話が出るとすれば、そこにはイスパルタ朝とランヴィーア王国の同盟を強化する意図が絡む。それ自体は特におかしいことではない。政略結婚とはそういうものだ。
だがそこに地政学的な条件や今回のランヴィーア軍の大敗を含めて考えると、同盟強化の思惑はきな臭さを増す。まず前提条件として、イスパルタ朝とランヴィーア王国は直接国境を接していない。両国の間にはロストク帝国が存在する。そして帝国には現在のところこれ以上版図を広げる余地がない。
つまりロストク帝国がさらなる国土を得ようと思えば、イスパルタ朝かランヴィーア王国か、そのどちらかに攻め込むしかない。そして攻め込むなら弱い方が良い。つまり大敗を喫したランヴィーア王国だ。
もちろん、ロストク帝国が近々に動くことはないだろう。だがエリアス二世は東へ進みたがっている。そのためには西の国境が安定していなければならない。それが今回の大敗で揺らいでしまった。今後、対外戦争で敗北が続いたり、国内で混乱が起こったりすれば、それが帝国を同盟破棄へと動かすかも知れない。
それを防ぐためにも、ロストク帝国を牽制する存在が必要だ。ランヴィーア王国がそう考えてもおかしくはない。そしてそのために最も都合が良いのは、他でもないイスパルタ朝である。
前述したとおり、イスパルタ朝とランヴィーア王国は直接国境を接していない。つまり両国が互いに安全保障上の脅威になる可能性は低い。むしろイスパルタ朝はロストク帝国の背中を突ける位置にある。また近年、両国は交易による経済的な結びつきを深めている。同盟の強化は両国のさらなる発展にも資するだろう。
もちろん、イスパルタ朝がランヴィーア王国との同盟を強化したとして、それでロストク帝国との関係が蔑ろになるわけではない。むしろイスパルタ朝としてはこれまで通り帝国を優先することになるだろう。というより、イスパルタ朝としてはロストク帝国相手に戦争などしたくないのだ。
だから、いざロストク帝国がランヴィーア王国に対して事を起こしたとき、イスパルタ朝がランヴィーア王国の側に立つというのは少々考えにくい。とはいえ両国の争いを仲裁することは出来るだろう。またランヴィーア王国が東に進む上で、イスパルタ朝との交易で戦費を調達する、という思惑も考えられる。
またアルアシャンと自分の娘を結婚させれば、ある意味でエリアス二世はイスパルタ朝を後ろ盾とすることになる。それは今回の大敗で傷ついた彼の権威を回復させるものとなるだろう。国内での支持は高まるだろうし、逆に彼に対抗する者は少なくなるに違いない。
いずれにしても、ランヴィーア王国にとってイスパルタ朝との同盟強化は、まこと国益に資するものと言っていい。アルアシャンも十三歳になった。そういう話がきてもおかしくはない。ならばこのタイミングで、というのはあり得る話だろう。
「仮にランヴィーア王からお話があったとして、受けられますか?」
「イスパルタ朝にとっても利のある話だ。それは間違いない」
「ですが、ロストク帝国がどう思うか……」
ユスフがそう言って表情を曇らせる。イスパルタ朝とランヴィーア王国の同盟強化は、両国に挟まれるロストク帝国にとって必ずしも気持ちの良いものではないだろう。だがジノーファは小さく笑ってこう言った。
「三国の同盟強化は、ロストク帝国にとっても悪い話ではないはずだ。周辺国が安定し、戦乱が遠のくわけだしね。それに、義兄上のところからアルアシャンの嫁をもらうわけにもいかないだろう。血が濃すぎる」
「そうですね」
ユスフは苦笑しつつも肯定の返事を返した。確かに、ロストク帝国も表だっての反対はするまい。だが腹の内ではどうか。何かしらの配慮は必要だろう。イスパルタ朝はロストク帝国との関係悪化を望んではいないのだから。
「……何にしても、全てはそういう話が来てから、ですね」
「まあ、そうだな。ただ今のうちから、もろもろ検討しておく必要はある」
ジノーファは真剣な眼差しでそう言った。それを見てユスフは安心する。ジノーファは利益を認めつつ、その一方で良い影響ばかりではないことも無視してはいない。検討とはつまりそういうことだ。
「分かりました。政務官らに命じておきます」
「うん、頼む。……ところで、ランヴィーア王にはアルと年齢の釣り合う姫がいたかな?」
「今更それですか? ……確か、十四歳と十一歳の王女がいたはずです。ああ、でも、年上の方は母親が側妃だったかもしれません」
ユスフが記憶をたどりながらそう答えた。この時代、母親の身分は子供が持つ価値や格に直結する。それでジノーファは一つ頷いてからこう応えた。
「なら、話が来るのは年下の方かもしれないな」
「そうかもしれませんね。ところで陛下。このお話、王太子殿下やマリカーシェル殿下にもされるのですか?」
「……いや、今は止めておこう。二人に話すのは、実際にそういう話が来てからでいい」
ジノーファがそう答えると、ユスフも小さく頷いた。アルアシャンはこれから初陣だ。彼の頭はそのことで一杯だろう。結婚の話などされても気はそぞろだろうし、気が散ってはかえって危険だ。
またマリカーシェルに話せば、彼女はそれを兄であるジェラルド三世に伝えるだろう。彼のほうでもその可能性くらいは考慮しているはずで、知られたからといってどうと言うことはない。だが正式な話はまだないのに、情報が錯綜しても良いことはないだろう。
「……それにしても、ランヴィーア軍が大敗ですか。あちらはまだ徴兵による兵が主力のはずですが、それでも弱くはないはず。我々も気を引き締めなければなりませんね」
「まったくだな」
ユスフの言葉に、ジノーファは大きく頷いた。もう少しすれば、ジノーファは兵を率いて出陣することになる。今回はユスフも従軍する予定だ。
敵はマドハヴァディティアと百国連合軍。しかもすでにヴァンガルを押えている。まともに戦えば骨が折れるだろう。
またベルノルトのことも気がかりだ。シェマルという騎士が総督府に駆け込んだおかげで、彼がさらに西へ逃げたことは分かっている。だが今のところ、そこから先の足取りは掴めていない。
(ベル……)
ジノーファもシェリーも、ベルノルトのことを心配している。彼の弟妹たちも同じだ。また彼の子を身ごもったエマは、日々彼が無事に帰ってくることを祈っている。
ベルノルトの行方は、隠密衆が追っている。ヘラベートの総領事館もアースルガム解放軍の情報網を使って彼の行方を捜している。遠からず足取りは分かるだろう。だが分かったとして、その先はどうするのか。
百国連合まで兵を差し向けるのは、現状では不可能と言っていい。秘密裏に救出するのか、それともしばらく潜伏していた方が良いのか。今のところ、まだ何も分からない。
いずれにしても、西方へ向かえば状況はもっとよく見えるようになるだろう。ジノーファはそう思っている。
シェリーなどは「自分も従軍して隠密衆に直接指示を出す」と言っていたのだが、それはさすがに思いとどまらせた。その能力がないとは言わない。むしろ能力的には十分すぎる。だが立場というものがある。
(それに……)
それにシェリーの場合、自ら実働隊に混じってベルノルトの救出へ向かいかねない。母親が助けに来るのだ。しかもその口から、エマの懐妊を告げられる。それではベルノルトがいたたまれまい。
シェリーにお留守番を言い渡したのは、ジノーファのいわば父親の情けだった。
シェリー「ベルちゃん、今お母さんが助けに行くからね!」
ジノーファ「どうどう」




