ヘラベート攻略戦1
法都ヴァンガル。堅牢な城壁を持つその城塞都市に、およそ三万の兵がぞろぞろと入っていく。その様子を、ルルグンス人たちがやや不安げな様子で眺めている。百国連合軍であり、マドハヴァディティアにとっては待ちに待った援軍だった。
これでマドハヴァディティアの手元にある戦力はおよそ六万になった。ちなみに遊牧民の略奪隊はすでにそれぞれの部族のところへ帰している。遊牧民は強力である反面、扱いづらい戦力なのだ。そしてマドハヴァディティアはこの先、そういう戦力は必要ないと判断していた。
さて、援軍が到着したことで、マドハヴァディティアはいよいよ戦局を次の段階へ進めることにした。次の段階とはつまり、ルルグンス法国の完全な征服と併呑だ。そしてそのためには南に位置する貿易港、ヘラベートにいるイスパルタ軍を排除しなければならない。
そう、ルルグンス軍ではない。イスパルタ軍である。ルルグンス軍に関して言えば、この時点でほぼ壊滅状態で有り、それどころか教皇ミールワイスの指揮下にあってマドハヴァディティアの占領地統治に積極的に協力している状態だ。
つまりルルグンス軍は、ルルグンス法国という国家を守るためにはもはや機能していない。法国を守り、かろうじてその命脈を保たせているのは、同盟国であるイスパルタ朝だった。
取り繕わずに言えば、イスパルタ朝が「ルルグンス法国はまだ存在している」という立場を取っているので、法国は存在していると認識されている。法国の問題であるに、もう一方の当事者であるマドハヴァディティアを含め、誰もが法国ではなくイスパルタ朝の動向を気にしている。そういう状態だった。
まあそれはそれとして。何にせよマドハヴァディティアとしては、イスパルタ軍を排除しなければならない事に変わりはない。
ヘラベートを確保できれば、補給のために海路を使える。また海路が使えるようになれば、ヴェールール本国とルルグンス法国の間を直接行き来できるようになる。さらに東へ向かうための良い橋頭堡になるだろう。
マドハヴァディティアはヘラベートへ軍を差し向けた。その数、およそ四万。確認されている敵戦力はおよそ二万なので、その倍を繰り出した格好だ。ただし彼自身はヴァンガルに残った。ヴァンガルの掌握を優先するためであり、要するにミールワイスのことが信用できないからだ。
ヘラベート攻略のため、大将に指名されたのはナレインだった。マドハヴァディティアのお気に入りと噂される、十四歳の王子である。彼はこの戦が初陣になる。初陣でこれほどの大任を任せられ、彼は頬を紅潮させて意気込んだ。
ただ初陣を迎える十四歳の少年に、いきなり四万の大軍を指揮できるはずもない。マドハヴァディティアも息子にお飾り以上の役割は期待していなかった。実際に兵を指揮するのは、参謀長のラーヒズヤである。
「何としてもヘラベートを手に入れろ」
そう命じてマドハヴァディティアはナレインとラーヒズヤを送り出した。彼らが率いる四万の兵の内訳は、援軍として来た百国連合軍三万と先遣隊のヴェールール軍から一万である。主力は言うまでもなく前者だが、二人にとって信頼できるのは後者だった。
さて、ヘラベートにおいてイスパルタ軍を率いているのはウスマーン将軍である。ヴァンガルが陥落した今、次に狙われるのがヘラベートであることは火を見るよりも明らかだ。それで彼はヴァンガルの監視を強めていた。
幸いにして、ヴァンガルより南の範囲は、まだマドハヴァディティアの影響力がさほど強くない。住民はイスパルタ軍に協力的で、監視は難しくなかった。それでウスマーンはヴァンガルから敵軍が出撃したことを、その翌日には知ることができた。
「ついに来たか」
ウスマーンは全身に覇気を滾らせてそう呟いた。十分に予想されていたことだ。意外に思うことも臆することもない。彼は指揮下にある全軍に対し、出陣を命じる。イスパルタ軍は粛々と敵を迎え撃つための準備を始めた。
さらに彼は東へ伝令の兵を走らせる。国境際に展開している一万ほどの部隊を、後詰めとして呼び寄せるためだ。この部隊は言うまでもなく総督府の戦力であり、もともとウスマーンの指揮下にいた部隊だ。
この部隊を今まで呼び寄せなかったのは、国境の守りを空にするわけには行かなかったからである。だが敵がヘラベートに狙いを定めた以上は、国境に配置していてもその戦力は無駄になるだけだ。またこの部隊が上手く動いてくれれば、敵の側面を突けるだろう。
さてウスマーンが向かったのは、ヘラベートから北へ半日ほどの場所だった。彼はそこに野戦のための防衛陣地を築いていた。
ヘラベートは守りに適した都市ではない。接近されれば容易く敵に侵入を許し、撃退したとしても大きな被害を出すだろう。そうなっては今後、補給の拠点として使うことは難しい。
となれば離れた場所で戦うより他になし。だが単純な戦力は敵の方が多いだろう。ならば勝つためには一工夫いる。そう考えての事だった。
十分な時間があったわけではない。ただ人手は多かった。ヘラベートはもちろん、周辺からも人足が集まったからだ。ここでイスパルタ軍が負けては大変なことになる。ルルグンス人たちもそれは分かっていた。
そのおかげで、野戦用の防衛陣地はなんとか見られる程度にはなっていた。壕と塁を合わせれば、人の背丈ほどになっている。柵は幾重にも並べられており、また物見櫓も多数建てられている。
出来る限りの準備はしたと言っていい。ウスマーンもそのことを疑っていない。例え二倍の敵が相手でも十分に戦えるだろう。彼は戦局がよく見えるよう用意された指揮台の上に立つと、まだ見ぬ敵を思い北の方角を睨み付けた。
その三日後、ナレイン率いる百国連合軍四万がイスパルタ軍の野戦用防衛陣地に肉薄した。ナレインとラーヒズヤはイスパルタ軍が大がかりな野戦陣地を築いていたのを見て驚く。
二人とも、敵が何かしらの対策をしているだろうとは思っていたし、実際に土木工事を行っているとの報告も受けていた。だが目の前の敵陣は二人の考えていた規模を大きく上回っていた。
「どうやらイスパルタ人は土木工事が得意なようでございますな、殿下」
「冗談を言っている場合ではないぞ、ラーヒズヤ。勝てるのか?」
「まあ、やり方次第でございましょう」
自信を滲ませながら、ラーヒズヤはそう答えた。それを見てナレインはひとまず納得した様子を見せる。彼はこれが初陣なのだ。万が一負けでもすれば、一生の汚点になる。だが大軍を率いて難敵を撃破したとなれば、その評価は輝かしいものになるだろう。そしてナレインはそれを疑っていなかった。
「頼んだぞ、ラーヒズヤ」
「お任せ下さい、殿下」
少年に気付かれない程度に苦笑しながら、ラーヒズヤはそう答えた。ナレインの態度は彼の将器ゆえなのか、それとも単に人任せなのか。ラーヒズヤの評価は後者に偏っている。
とはいえ任せてもらえるならその方が都合は良い。それでラーヒズヤは余計なことを口にしなかった。ナレインはまだ王太子ではないのだ。その彼を積極的に教育してやるつもりなど、ラーヒズヤには少しもなかった。
さて、ラーヒズヤはイスパルタ軍の野戦用防衛陣地に対し、まずは小細工をせずに攻撃を仕掛けた。一当たりして感触を確かめるためだ。するとイスパルタ軍は堅実な戦い振りでそれを防いだ。
ラーヒズヤはさらに、軍の一部を分けて敵陣を迂回させようとしたのだが、イスパルタ軍はその動きにもきっちりと対応する。それを見てラーヒズヤは一度兵を引いた。それを見て、戦闘中はずっと黙っていたナレインがこう尋ねる。
「どうだ、ラーヒズヤ?」
「兵は精強。将は有能。野戦用の陣も、なかなか堅固です。いやはや、難敵でござる」
そう言ってラーヒズヤは笑った。一方のナレインは、今の話のどこに笑える要素があるのか分からない。引きつった顔をラーヒズヤに向けた。そんなナレインに、ラーヒズヤは笑いを治めて真剣な顔をすると、さらにこう告げる。
「殿下。もう一つお伝えしなければならないことがあります」
「……なんだ?」
「敵の数ですが、我々はこれまで二万と見積もっていました。ですが一当たりしてみた感触として、恐らくはそれより多いでしょう。二万五〇〇〇程度はいるかと」
「なんだって……! まさかもう、敵には援軍が来ているのか……!?」
「恐らくは、もともとヘラベートに駐留していた部隊でしょう。その部隊がこちらの想定より多かったものと思われます。あるいは、ベルノルト第一王子の弔問に合わせて、ヘラベートの部隊も増強していたのかも知れません」
いずれにしても、敵の増援が到着するにはまだ早い。ラーヒズヤはそう語り、ナレインも納得して頷いた。
だが実のところ、二人のその推測は間違っていた。ウスマーンはすでに援軍を得ていたのである。その数、およそ一万。海路を使ってヘラベートへ送られてきた増援である。ジノーファとハザエルが先行させた援軍は、しっかりと戦に間に合ったのだ。
何にしても、イスパルタ軍が当初想定していた以上の戦力を持つことを、ラーヒズヤは見抜いた。敵の野戦用防衛陣地もなかなかしっかりした造りである。そういったことを諸々勘案すれば、なかなか厳しい戦いになることを覚悟しなければなるまい。
「力押しは避けた方が無難でしょうなぁ……」
誰にともなく、ラーヒズヤはそう呟いた。ナレインはその言葉の意味をよく理解していなかったが、ラーヒズヤの凄みのある笑みに気圧されて、その真意を尋ねることはできなかった。明日になれば分かる。ナレインはそう自分を納得させた。
そして次の日、太陽が十分に高くなった頃。ラーヒズヤは再び百国連合軍を動かした。ただ兵の動かし方が昨日とは少し異なる。昨日はイスパルタ軍の反応を探る意図もあって、極めてスタンダードな攻め方をした。
しかし今日は違う。ラーヒズヤは敵を陣地から引きずり出すことを狙っていた。そのため遮二無二に攻めかかることはせず、むしろ隙を見せて誘うような兵の動かし方をしている。場合によっては露骨な挑発もした。ただ成果は芳しくない。
「出てこないぞ」
ナレインはやや不機嫌そうにそう言った。イスパルタ軍は百国連合軍の誘いには乗らず、防衛陣地にこもって出てこない。かといって防衛陣地を無視するような動きを見せれば、素早く対応してくる。端的に言って、ラーヒズヤは攻めあぐねていた。
「そうですなぁ」
ラーヒズヤはのんびりとした口調でそう答えた。攻めあぐねているのは事実だが、彼は焦ってはいなかった。実際、戦果がとぼしい代わりに味方の損害も軽微である。つまり今はまだ探り合いの段階なのだ。
ラーヒズヤが撤退の指示を出す。百国連合軍を波が引いていくようにイスパルタ軍の防衛陣地から離れた。誘いでは無く本当の撤退だったのだが、イスパルタ軍は追撃してこない。徹底しているな、と思い彼は内心で舌打ちした。
(追ってくるなら逆撃を加えてやるつもりだったのだが……、まあいい)
手強い相手だ。ラーヒズヤはその認識を新たにした。だが勝てない相手だとは思わない。彼は兵を休ませながら、勝つための算段を思案した。
その後も、ラーヒズヤは硬軟織り交ぜてイスパルタ軍の防衛陣地を攻めた。ある時には夜陰に紛れ、ある時には夜明け前に仕掛ける。誘うと見せかけてそのまま仕掛け、幾つかの柵や塁を突破したりもした。
ただ六日経った時点でもまだ、百国連合軍はイスパルタ軍の防衛陣地を突破できずにいた。無論、イスパルタ軍も無傷ではない。防衛陣地もこれまでの戦い相応に被害を受けている。しかし彼らは未だに健在であり、百国連合軍の前に花崗岩の如く立ち塞がっていた。
激しさを増していく戦いの中、徐々に追い詰められているのは百国連合軍だった。今のところ、攻略を諦めて撤退するほどの損害は出していない。だが戦えばその分だけ物資を消耗する。そもそも一ヶ月も二ヶ月も戦い続けるつもりで準備してきたわけではないのだ。そのせいで物資がそろそろ心許なくなってきていた。
(まだ、まだ落ちないのか……!?)
ナレインは焦りを募らせている。初陣が上手く行っているとは言いがたいからだ。彼は自分が父王のお気に入りであるという噂をあまり信じていない。信じられるだけの理由も下地もないからだ。だがここで結果を出せば、噂を真実に出来るのではないかという期待は持っている。
だからこそ焦っているわけだが、しかし彼はそのことでラーヒズヤに八つ当たりしたりはしていなかった。どう考えても、自分より彼の方が父王マドハヴァディティアに重んじられているからだ。
それに「じゃあ自分で指揮してみろ」と言われたら、ナレインは困り果てるしかない。四万もの大軍を指揮する能力など、ナレインにはまだないのだ。彼はそのことを自覚していた。それで彼はやや遠慮がちにラーヒズヤにこう言った。
「将軍。様子見はもう、良いのではないか?」
「ふむ。そうですなぁ……」
ナレインにそう言われ、ラーヒズヤは少し考え込んだ。この六日間、色々な攻め方を試したおかげで、敵の反応はおおよそ予測できるようになってきた。加えて味方の各部隊の連携も、一緒に戦う中で精度を増している。
(敵将は防御に徹して、こちらの息切れを待つ腹だな……)
ラーヒズヤはそう確信していた。すぐ後ろにヘラベートがあるのだ。備蓄も相当量があると聞く。敵は物資を潤沢に使えるのだ。防衛陣地と合わせてまだまだ余力があり、一発逆転を狙って賭けに出る必要がない。だから誘いにも乗らないのだ。彼はそう考えていた。
敵が誘いに乗らず、防衛陣地から出てこないのであれば、少々強引であっても力尽くでこれを落とすしかない。マドハヴァディティアの命令は「ヘラベートを手に入れろ」であり、目の前のイスパルタ軍を排除しない限りそれは不可能なのだから。
(力攻めは避けたかったのだが……)
ラーヒズヤは内心で渋面を作った。力攻めを行えば、当然ながら百国連合軍も相応の被害を受ける。ヘラベートの確保は重要だが、このあとにはまだイスパルタ軍本隊との決戦が控えているのだ。加えて敵本隊はかのジノーファが率いている可能性が高い。自軍の損耗はなるべく抑える必要がある。
彼はそう考えていたのだが、物資に不安が出るにつれ、そうも言っていられなくなった。彼は腹を決めた。
「……なればそろそろ、本腰を入れるといたしますかな」
「頼んだぞ、将軍」
お任せあれ、とラーヒズヤはナレインに答えた。ナレインは少しホッとしたような表情を浮かべる。それを見てラーヒズヤは小さく苦笑した。
(それにしても、様子見、とは……)
ラーヒズヤは内心で少々機嫌良く笑った。これまでの彼の戦い振りは、敵陣を攻めあぐねていると受け取られても仕方のないものだ。しかしナレインがそれを「様子見」と表現したことで、彼の面子は守られた。あとは首尾良く敵陣を落とせれば、全てはラーヒズヤの計算づくだったことになり、彼の評価と名声はさらに高まるだろう。
ナレインがどういうつもりでその言葉を選んだのかは分からない。ラーヒズヤの気分を損ねたくなかったのか、それともたまたまなのか。いずれにしても、ラーヒズヤはナレインの評価を少しだけ上方修正した。
――――そして、七日目がやってくる。
ナレイン「初陣だ!」




