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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
外伝 誰がために鐘は鳴る

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アルアシャンの初陣1


 結局、ジノーファの「猶予」は数時間程度にしかならなかった。総督府からの報せについて、彼はその日の晩にシェリーに伝えることにしたからだ。息子が危険にさらされていることを母親に伝えるのだ。自分が父親であることを差し引いても、乗り気のする事案ではない。


 ただ黙っていたとして、ベルノルトがひょっこりと帰ってくるわけではない。それにシェリーは隠密衆に強い影響力を持っていて、さらには独自の情報網も持っている。ベルノルトのことも、遠からず知るだろう。それならやはり自分が知らせるべきだと、ジノーファは覚悟を決めたのである。


「そう、ですか……。あの子が……」


 ジノーファからベルノルトの置かれた状況について話を聞いても、さすがというか、シェリーは取り乱したりはしなかった。ただやはり、顔は強張っている。心配でないはずがないのだ。


 ジノーファも胸をつかれ、彼はシェリーをそっと抱き寄せた。彼女も逆らわずに夫に身体を預ける。ジノーファが背中をさすると、シェリーは甘えるように彼の胸に頬をよせた。


「……ベルの探索には、隠密衆を動かす。彼らの実力は、シェリーもよく知っているだろう? 必ず上手くやってくれる」


「はい」


「ダンジョンの下層を通るとは言っても、近衛軍の腕利きが二人も一緒なんだ。危なげなく通り抜けられるさ」


「はい」


「攻め込まれたとはいえ、法国は友好国だ。大使館の紹介状もある。現地の住民だって協力してくれるよ」


「はい」


「それにもしかしたら、今頃はもうイスパルタ領内に入っているかも知れない」


「そうだと、いいのですが……」


「大丈夫だ。ヴェールール軍に捕まったわけじゃない。だから大丈夫だ」


「それは、はい。不幸中の幸いでした」


 シェリーはやや湿っぽい声でそう応えた。総督府の報告から分かることとして、ベルノルトの置かれた状況は確かに芳しくない。だが最悪というわけでもない。行動の自由は確保しているし、本国への帰還も容易ではないだろうが、不可能というレベルでもない。その上、隠密衆を救出に向かわせるのだ。生還の可能性はさらに上がる。


 だがそれでも。心配なものは心配なのだ。それが人間の感情というモノだし、母親の情というモノだろう。細作であった頃には押し殺せていたはずの感情を、今の彼女は持て余し気味だった。


「きっと、そのうち何もなかったような顔をして帰ってくるさ」


「はい、そうですね。それに帰ってこなければ、困ります。あの子も、父親になるのですから……」


「父親?」


 思わずジノーファがそう聞き返す。彼はすぐに事情を察して、「ああ」と呟く。そしてこう言葉を続けた。


「エマが懐妊したのか」


「はい」


 シェリーは笑顔を浮かべて頷いた。帝都ガルガンドーにいた頃からジノーファに仕えている家臣で、カイブとリーサという夫婦がいる。この二人の長女がエマだ。ベルノルトとは乳兄弟であり、母親を別にすれば最も近しい女性と言っていい。そしてごく自然な流れとして、二人はそういう関係になった。


 ジノーファもシェリーも、そのことを特に問題視はしていなかった。あちこちで火遊びをして御落胤を量産しているなら話は別だが、ベルノルトがそういう関係になったのはエマだけで、しかもちゃんと彼女のことを大切にしていた。


 王子の女性関係ともなれば、それ自体がすでに政の世界だ。特にベルノルトにはまだ婚約者がいない。王位継承権がないとはいえ、彼はジノーファの長子であるし、母親のシェリーが寵愛されていることは周知の事実だ。臣籍に下るにしても相応の待遇が用意されるだろう。そう考える者は多い。それも男女問わずに。


 その点、エマならば身元がはっきりとしているし、背後にベルノルトを操ろうとする陰謀もない。ジノーファとシェリーにとっても、息子が厄介な女に入れ込むのを避けられる。そういうわけで二人の関係は黙認され、公然の秘密となっていた。


 そして同衾を繰り返した結果、これまた自然な流れとして、エマは懐妊したというわけである。いつかはそういうこともあるだろうと思っていたが、まさかこのタイミングだとは思ってもみず、ジノーファは素直に驚いていた。驚くと同時に喜んでもいて、彼は口元に穏やかな笑みを浮かべてこう呟いた。


「そうか。あの子が、なぁ……」


「はい。ただ、その、ベルノルトのことをエマに話すべきかどうか……」


 シェリーがやや表情を暗くする。ベルノルトのことをエマに伝えれば、彼女は大きな心労を抱えることになるだろう。妊婦にとっては大きな負担だ。ともすれば胎児にも悪影響が出かねない。ジノーファはそれを理解した上で、しかしこう答えた。


「話すべきだろう。人づてに聞くよりは、わたし達から話すべきだ。その方が、エマもあれこれと考えずに済むと思う」


「はい。そうですわね」


「カイブとリーサにはわたしから話しておくよ。シェリーもエマを気にかけてあげて欲しい」


「はい。もちろんですわ」


 そう言ってシェリーが笑顔を見せる。それを見て自然とジノーファの頬にも笑みが浮かぶ。そして彼は楽しげな口調でこう言った。


「それにしても、孫か」


「はい。ジノーファ様も、これでお祖父様、ですわね」


「それを言うなら、シェリーはお祖母様、だね」


「まあ」


 そう言って二人は楽しげにクスクスと笑い合った。なお当たり前のことだが、この時点ではベルノルトはまだ何も知らない。



 ○●○●○●○●



 ジノーファがシェリーにベルノルトのことを話した、その次の日。王太子アルアシャンはジノーファの執務室に呼び出された。父王の執務室へ向かうアルアシャンの足取りは軽い。彼の機嫌が良いのは一目瞭然だった。


(きっと……)


 きっと初陣の話だ。アルアシャンはそう思っていた。ジノーファがハザエルを呼び出し、その直後から近衛軍の動員が始まったことは彼も知っている。つまり近々、戦があるのだ。そしてその相手は百国連合とマドハヴァディティアであると思われた。


 今からおよそ三年前、つまりアルアシャンがまだ十歳だった頃、マドハヴァディティアは百国連合軍を率いてルルグンス法国に宣戦を布告した。ジノーファはそれ以前から西方の不穏な動きを察知しており、事前に軍を動かしてこれに対処した。


 ジノーファはルルグンス法国との国境にあらかじめ兵を集めておき、マドハヴァディティアが宣戦布告するのとほぼ同時に法国へ入った。そしてそのまま西へ向かい、敵軍が集結するまえにこれを叩いたのである。


『まさに神速、鎧袖一触というべき戦いぶりです!』


 アルアシャンはこの戦について解説してくれた教師が、興奮気味にそう話したのを良く覚えている。それだけジノーファはすごい戦をしたのだ。アルアシャンはそれが誇らしく、同時にその戦争で初陣を飾れなかったことがとても残念だった。


 むしろその戦で初陣を飾ったのは、異母兄であるベルノルトだった。彼は一軍を率いて敵部隊を撃破したという。しかも「それが止めの一撃だった」とアルアシャンは聞いている。兄の輝かしい活躍が、アルアシャンはうらやましかった。


 それだけではない。ベルノルトはなんと、ジノーファとマドハヴァディティアの直接対決も間近で見ていた。もちろん、実際に刃を交えたわけではない。講和条約を締結したときのことだ。その時、マドハヴァディティアは無礼にもジノーファに「聖痕(スティグマ)を見せろ」と迫ったのである。


 ジノーファの対処は見事だった。聖痕(スティグマ)を発動させてマドハヴァディティアを威嚇しつつ、「代わりに心臓を見せろ」と切り返したのである。「お前の心臓には毛が生えていると聞く」と言って。結局、マドハヴァディティアは怖じ気づいて要求を取り下げた。


 その時の様子を、アルアシャンは兄にせがんで何度も聞かせてもらったものだ。そしてその度に、「次こそは自分も」と思っていた。その機会が今、目の前に開かれようとしている。アルアシャンは国王の執務室の前に来ると、一度呼吸を落ち着けてから、その扉をノックした。


「父上。アルアシャンです」


「入りなさい」


 許可を得てから、アルアシャンは父王の執務室に入った。ジノーファは机に向かって何かの書類に目を通していた。執務室の扉が閉じられると、ジノーファが視線をアルアシャンに向ける。そして柔らかい笑みを浮かべてこう言った。


「良く来た。アル、勉強ははかどっているかな?」


「はい、父上。頑張っています」


 アルアシャンがハキハキと答える。それから二人はしばらく親子の会話を楽しんだ。国王という職業柄、ジノーファは忙しく、いつも時間を取れるわけではない。アルアシャンも尊敬する父王に自分を認めて欲しくて、自分の頑張りを少々誇張しながら話す。ジノーファはそれを微笑ましげに聞いた。


「……さて、と。もう少しアルの話も聞きたいところだが、そろそろ本題に入ろう。もう知っているとは思うが、総督府から急報が来た。マドハヴァディティアがヴェールール軍を率いてヴァンガルを強襲したそうだ」


「マドハヴァディティアが……!」


 アルアシャンの声音に喜色が混じる。自分の予想が当たったと思ったのだ。しかもヴァンガルが強襲されたとなれば、イスパルタ軍は必ずや救援に動く。その戦がどの程度の規模になるのかを知りたくて、彼はさらにこう尋ねた。


「それで父上、敵の数は?」


「報告書には約三万と書いてあった。ただこれとは別に遊牧民の略奪隊が動いているというから、それを合わせれば四万くらいだろうと思っている」


 四万と聞いて、アルアシャンの顔に薄く落胆が浮かぶ。第一次西方戦争の際、マドハヴァディティアはおよそ十万の兵を動かし、ジノーファも八万の兵で応じた。だが四万ではその規模に遠く及ばない。


 それが自分の初陣になるのかと思うと、アルアシャンは少々拍子抜けというか、不満を感じないわけではなかった。ただ、その不満もジノーファの次の言葉を聞いて霧散する。彼はこう言ったのだ。


「まあ、これは先遣隊だろう。後詰めというか、本隊は別に用意されていだろうね。最終的な規模は、十万程度と見込んでいるよ」


「はい!」


 アルアシャンの機嫌はすぐに上向いた。それなら異母兄であるベルノルトの初陣に勝るとも劣らない。いやベルノルトの初陣は十五歳だったが、彼は十三歳だ。そのことも合わせて考えれば、自分の方が上かも知れない。そう考えると彼は気分が良かった。ただ、ここからジノーファの話は彼の思いがけない方向へ進んだ。


「それで、知っての通り、今ヴァンガルにはベルと弔問団がいる。こちらの状況ははっきり言って良くない」


 真剣な顔つきをして、ジノーファはそう言った。そして彼は総督府からの報告の内容を、詳しくアルアシャンに説明していく。アルアシャンはその話を少々困惑気味に聞いていた。


「……不幸中の幸いというべきかな。状況は最悪、というわけではない。ベルとサラ王女はヴァンガルから脱出しているし、マルセルが敵の警戒網を破ったおかげで、こうして報告も来ている」


「はい」


「アル、覚えておきなさい。何をするとしても、大切なのは正確な情報だ。正確な情報があればこそ、我々は適切な対応ができる」


「はい。覚えておきます」


「うん。それで今回の事だけれどね。情報の精度という点で言えば、連合軍への対処はむしろ簡単なんだ。結局のところ、こちらからも兵を出して対処するより他にないわけだからね」


 もちろん、「兵を出して対処する」と一言で言っても、考えるべき事は多岐に及ぶ。ただ敵の目標や戦力の最大動員可能数などは大まかに分かっている。状況の推移を見つつ舵取りは必要だが、それでも全く予想外の結果が出る可能性は少ない。それは勝つにしろ負けるにしろ、だ。


「問題はベルたちの方だ。彼らが何事もなく帰ってきてくれれば、それに越したことはない。だが今のところ、そうなるだろうと判断するだけの情報がない。そもそも彼らが本国を目指せる状況なのか、それすらも不明だ」


 ベルノルトたちに関して分かっていることは、「ヴァンガルを脱出するべく、五人のパーティーで大聖堂のダンジョンに潜った」という、ただそれだけである。出口の大まかな位置は分かっているが、その周囲の状況までは分からない。そもそも無事にダンジョンを抜けることができたのか、その段階で情報不足だ。


「さて、アル。どうするべきだと思う?」


 軍を動かす、とアルアシャンとしては答えたかった。だが話の流れとして、父王が求めている回答はそれではない、と彼は察する。それで彼はこう答えた。


「え、ええっと……。情報収集、でしょうか?」


「そうだね。情報が不足している。だから情報を集める。それは正しい対処方法だ。では具体的にどうするべきかな?」


 何だか話が妙な方向へ行きはじめた。アルアシャンはそう感じた。彼は初陣の話で呼び出されたのだと思っている。それで思わずこう聞いてしまった。


「あの、父上。わたしの初陣の話ではないのでしょうか?」


 アルアシャンがそう言った瞬間、ジノーファはスッと視線を鋭くした。睨み付ける程ではない。だが一瞬にして空気が緊張する。アルアシャンは心底「しまった」と思ったが、迂闊に何かを言えるような雰囲気ではなかった。


 コツコツコツ、とジノーファが爪で机を叩く。怒鳴られたわけではない。だがアルアシャンは俗に言う「蛇に睨まれたカエル」の状態だった。お腹がキュッと締め付けられる。いたたまれない空気の中、彼は逃げ出すこともできず、ジノーファの前に立ち続けた。アルアシャンには十分すぎるほど長い沈黙の後、ようやくジノーファは口を開いてこう言った。


「……お前は、兄よりも自分の初陣の方が大切なのかい?」


「ち、父上! わたしは……!」


「下がりなさい」


 下がれと言われ、アルアシャンは「はい」と答えるしかなかった。彼は父王の執務室を退室し、廊下を重い足取りで歩く。呼び出されてきた時とは、真逆の様子だ。


 ――――父上を怒らせてしまった。


 アルアシャンは絶望的にうなだれた。


エマ「どうかご無事で……。この子のためにも」

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― 新着の感想 ―
[気になる点] ジノーファはアルに厳しいですね。あらかじめ傅役にでもお題を伝えておけばいいものを、いきなり質問して正解出せる歳でもあるまいに。 ベル、やることはやってますな。 [一言] いつも楽しく読…
[一言] 流石に兄達の安否よりも初陣を気にするのはダメでしょう。 まだジノーファだったからいいけど、家臣達の前でこの態度をとったら色々面倒になる。
[一言] ベルノルトはサラ王女と良い雰囲気かと思っていたらヤることヤってたわ!笑 アルアシャンはやらかしたな……まずは、兄と派遣された使節団や大使館の安否を気にしなければならなかった。 まだ子供とは…
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