急報、クルシェヒルを騒がす
「ベル……」
総督府からの報告を読み、ジノーファは思わず息子の名前を呟いた。報告によれば、ヴェールール軍三万が法都ヴァンガルに迫っているという。現在はすでに肉薄しているだろう。ともすれば陥落していることさえ考えられた。
幸い、ベルノルトはすでにヴァンガルを脱出しているという。大聖堂に隠されていたダンジョンを使ったと言うから驚きだ。ただ、それで彼の安全が確保されたわけではない。ダンジョン攻略には危険が付きものだし、ダンジョンを抜けた後は本国までかなりの距離を移動しなければならない。しかも護衛は少数だ。
ただちに軍の派遣を、という想いがジノーファの頭をよぎる。しかし彼は頭を振ってその想いを振り払った。クルシェヒルからでは距離がありすぎる。すでに総督府でも動いているというし、まずは任せるべきだろう。隠密衆の手配を要請されたので、それについては早急に応じることにする。
(問題は……)
問題はやはり、マドハヴァディティアの動きだ。ベルノルトの件はひとまず脇に置き、ジノーファはそちらのほうへ頭を切り替えた。彼の手元には、現在ヴェールール軍三万の戦力があるという。遊牧民の略奪隊も含めれば、多く見積もって四万と言ったところか。これだけなら、総督府の戦力だけでも対処は可能だろう。
だがまず間違いなくこれは先遣隊だ。遠からず本隊が現われるだろう。すなわち百国連合軍だ。第一次西方戦争と同程度を想定するなら、全体としての規模は十万に迫るか、あるいは越えることになる。これと戦う為には、クルシェヒルからも戦力を動かす必要があるだろう。
「ハザエルを呼んでくれ」
「畏まりました」
侍従に命じて、近衛軍最高司令官のハザエルを呼びに行かせる。彼が来るまでの間に、ジノーファは隠密衆を総督府へ派遣するための命令書を作成した。彼らの任務は言うまでもなくベルノルトの探索と保護であり、総督府にはその支援を命じる。命令書の作成が終わって少しすると、ハザエルが執務室に現われた。
「陛下、失礼いたします。急報とお聞きしましたが……」
「ああ、良く来てくれた。まずはこれを見てくれ」
そう言ってジノーファは総督府からの報告をハザエルに見せる。それを読み進めていくと、徐々に彼の表情が険しくなっていく。やがて報告書を読み終えると、彼は苦虫をかみ潰したような顔でこう言った。
「マドハヴァディティアめ、条約を破ったか。……それで陛下。ベルノルト殿下のことですが……」
「そちらは隠密衆を動かす。歯がゆくはあるが、クルシェヒルからでは状況が見えづらい。権限だけ与えて、あとは総督府に支援させたほうがいいだろう」
ジノーファがそう答えると、ハザエルは何か言いたそうにしつつも、ひとまず頷いて同意を示した。それから二人はまず認識のすり合わせを行う。そして敵の増援に対処するべく、クルシェヒルからも戦力を出す必要がある、という認識で一致した。
「ただ問題は、数よりも間に合うかどうか、だな」
「御意」
難しい顔をするジノーファに、ハザエルも険しい顔をして同意する。総督府からの報告によれば、すでにウスマーン将軍が二万の兵を率いて出撃したという。この戦力でヴァンガルを救援できればそれで良し。万が一陥落していた場合には、「ヘラベートを確保する」と書かれていた。
ただ敵の先遣隊を退けたとして、やはり百国連合軍の本隊が現われれば、やはり二万の戦力では足りない。それでクルシェヒルから増援を送る必要があるのだが、敵本隊が来るよりも先に増援を送らなければ、イスパルタ軍はルルグンス法国国内における橋頭堡を全て失うことになるだろう。
「普通に陸路で送るとして、間に合うかな?」
「間に合うとは思えませぬ。その場合は、法国は敵の手に落ちるものと覚悟せねばならないでしょう」
ハザエルはそう厳しい見通しを語った。ジノーファも同じように考えていたのだろう。彼は反論せずに一つ頷く。そして別の案を口にしてこう言った。
「では、騎兵だけなら?」
「……それも難しいかと」
少し考えてから、しかしハザエルは否定的な返答をした。騎兵だけなら、確かに移動速度は上がる。だが増援として送る以上、その規模は最低でも一万を越える。人馬合わせれば二万以上だ。これを養う食料をどうするのか。
騎兵の快足を生かすためには、余計な荷物を持っていかないことが前提になる。ただ各地に物資をあらかじめ用意しておこうにも、そのためにも準備が必要であり、つまり時間が足りない。かといって自分たちで持って行くとなれば、結局、足の遅い輜重部隊に速度を合わせなければならなくなる。
「陛下、いっそ損切りされてはいかがでしょうか?」
ハザエルは眼光を鋭くしてそう進言した。つまりクルシェヒルから命令を出して、ウスマーンの部隊を撤退させるのだ。ヘラベートに駐留している部隊と総領事館の職員らも退避させる。ルルグンス法国はマドハヴァディティアの手に落ちるだろう。だがイスパルタ朝へのダメージは最小限で済む。
その上で、イスパルタ軍本隊の到着を待って反撃に転ずるのだ。本国防衛のことだけを考えるなら、堅実な策と言っていい。ルルグンス法国を見捨てる形にはなるが、今後マドハヴァディティアと向き合う上で、「間に法国があると邪魔だ」という意見は近衛軍内部でも一定数ある。ならばこの機会に潰してしまうのもありだろう。
「まだ損切りするような状況ではないだろう」
だがジノーファはハザエルの進言を笑って退けた。ハザエル自身、損切りの進言が採用されるとは思っていない。だが損切りをせず、かといって素早く援軍を送る方策もないとなれば、ウスマーンら二万の将兵は死地に取り残されることになる。ハザエルの立場としては、受け入れ難いことだ。もっとも、それはジノーファとて同じである。それで彼は三つ目の案をこう示した。
「船を使ってはどうだろう? 歩兵のみ一万を、船でヘラベートへ送るんだ」
「それは……」
ジノーファの案を聞き、ハザエルは素早く思案を巡らせた。船での移動は徒歩での移動に比べて圧倒的に早い。時間的には恐らく間に合うだろう。問題は船を確保できるのかという点だが、別に海戦をするわけではないのだ。商船でもなんでもかき集めれば良い。
(それに……)
それにヘラベートに送るのなら、装備も食料も必要最低限でいい。物資はすでにヘラベートに備蓄してあるからだ。荷物が少なければ、それだけ一隻当りに乗ることのできる兵の数は増える。船は足りるだろう。
もちろん、一万で足りるのかという問題もある。ただウスマーンの下に二万がいて、総督府にはもう一万いる。全て合わせれば四万。さらに総督府で徴兵を行い、戦力を追加することも可能だ。
何なら、海路でさらにもう一万程度送っても良い。それだけの戦力があれば、勝てないまでも負けない戦い方はできるだろう。イスパルタ軍本隊の到着まで、十分に持ちこたえられるはずだ。
「良き方策かと存じまする。それならば増援を間に合わせることができるでしょう。すぐに手配いたします」
ハザエルは一つ頷いてそう言うと、すぐに同行した部下に船の手配を命じる。部下の騎士は胸に手をあてて敬礼してから、ジノーファの執務室を飛び出した。その後、ジノーファとハザエルはさらに話し合いを続けた。
クルシェヒルから出す戦力は、全部で六万。ただしこの内、歩兵一万は船でヘラベートへ送ることになる。さらに前述した通り、船でもう一万程度送るかも知れない。敵がヴァンガルを抑えれば長期戦も想定される。どのみち予備戦力は必要だろうと言うことで、近衛軍はまず七万が動員されることになった。
第一次西方戦争の際、クルシェヒルから動員したのは五万だった。今回はそれを上回っている。これはマドハヴァディティア率いる百国連合軍の脅威をより重く見たことと、ウスマーン率いる二万の部隊は消耗しているであろうと想定してのことだ。
動員数が多くなる分、兵站への負担は増すのだが、そこはあらかじめヘラベートに備蓄しておいた分で賄うことになる。それでも足りなければ補給線を伸ばすことになるのだが、その際重要になるのは、やはり海路だ。
「こうなると、ヘラベートの重要性はさらに増すな」
「はっ。何としても、マドハヴァディティアに渡すわけには参りませぬ」
そう話してジノーファとハザエルは頷き合った。もっとも、ロスタムから報告を読む限り、ヴェールール軍の矛先はヴァンガルに向いているようだし、ヘラベートは確保できるだろう。ただ確保し続けられるかは別問題だ。やはり早急に一万の兵を送る必要がある。ハザエルはもう一度それを強く認識した。
それにしてもヘラベートはあくまでもルルグンス法国の貿易港なのだが。ジノーファもハザエルも、まるでイスパルタ朝の領地であるかのように話している。まあ兵を駐留させる許可は取ってあるし、フサイン三世もヘラベートまでは手が回らないであろうから、今更の話ではあるが。それにヘラベートにおけるイスパルタ朝の影響力が極めて強いのは事実だ。
さて、イスパルタ朝は大国であるが、それでも七万というのは大軍である。しかも魔の森に対する防衛線を維持するために、イスパルタ朝は常に一定以上の戦力を必要としている。つまりただ七万の兵を動かすだけでは済まない。すでに動員されている兵がいて、その上でさらに七万の兵を動かそうと言うのだ。
幸いにして、新たに徴兵を行う必要はない。さらなる戦力が必要になった場合はその限りではないが、少なくとも今すぐに徴兵を行う状況ではない、とジノーファもハザエルも認識している。ただ、部隊の配置転換などは必要だ。二人はそういったことも話し合った。
「……ところで指揮権についてですが、どうされますか?」
「本隊が合流するまでは、ウスマーンが総大将だ」
ジノーファは端的にそう答えた。つまり船で送る一万の歩兵も、総督府から出陣するであろう後詰めも、基本的にはウスマーンの指揮下に入ることになる。実際、それが最も自然な形なので、ハザエルにも異論はない。そもそも彼が指揮権の話題を出したのは、この次の本題へつなげるためだ。
「はっ。先遣隊はそれでよろしいかと。本隊はいかがなさいますか?」
ハザエルが本当に尋ねたかったのはこちらだ。本隊の指揮官はそのまま全軍の指揮を執ることになる。つまり「此度の戦、誰を総司令官にするのか?」と彼は尋ねているのだ。それに対しジノーファはこう答えた。
「わたしが出向くつもりだが、ハザエルは反対かな?」
「いえ。陛下が御自らご出陣なさるとあらば、近衛軍の将兵どもは喜んで死地へと赴くでしょう」
少しからかうように意見を尋ねたジノーファに、ハザエルが真面目くさった顔でそう答える。その顔を見てジノーファが苦笑していると、ハザエルは少し表情を崩して懸念をこう口にした。
「ですが、本隊到着前にヴァンガルが陥落していた場合、戦は長引く可能性があります」
その間ずっとクルシェヒルを開けておくのはいかがなものか。ハザエルはそう指摘した。確かに此度の戦は十万規模の軍勢がぶつかる大規模なものになるだろう。ただイスパルタ朝の、特に経済分野に関しては、西方よりも東方の方が重要度は高い。そしてジノーファが西方にかかりきりになると、相対的に東方への目配せは疎かになるだろう。その場合、経済と税収に悪影響が出るかも知れない。
近衛軍は常備軍だ。つまり税収によって賄われている軍隊だ。税収が落ち込めば、その影響は少なからず出る。ハザエルの立場としては、そこを無視するわけにはいかない。マドハヴァディティアと戦っている最中に、戦力や物資が不足するようでは困るのだ。それでは勝てるものも勝てなくなる。
ハザエルの懸念はジノーファにもよく理解できた。何しろ、近衛軍を純粋な常備軍に変えたのは彼だ。ただ今のところ、懸念は懸念でしかない。イスパルタ朝の財政は健全であり、国庫には予備費がすでに用意されている。突然に近衛軍の予算が足りなくなることは考えづらく、ジノーファは肩をすくめてこう応えた。
「その辺りの事は、長期化の兆しが見え始めてから考えよう。ともかくここからでは、実際の戦況は分かりづらいわけだしね」
「御意」
「それと、今回はアルを連れていこうかと思うのだが、どうだろう?」
ジノーファがそう言ったのを、ハザエルは意外には思わなかった。王太子アルアシャンは今年で十三歳になる。初陣を迎えるのに早すぎるということはない。いささか唐突な気もするが、そもそも戦とはそういうものであろう。
それに第一王子のベルノルトは十五歳で初陣を向かえ、その際イスパルタ軍は八万を動かした。アルアシャンの初陣をこれよりも明らかに劣る規模にしてしまうと、彼の王太子としての沽券に関わりかねない。叔父であるロストク皇帝ジェラルド四世もあまり良い気分はしないだろう。
「よろしいかと存じます。王太子殿下には、すでにお話をされたのですか?」
「いや、まだだ。あの子にはこれから話す。まあ、嫌がりはしないだろう」
ジノーファは苦笑を浮かべてそう言った。三年前の第一次西方戦争の際にも、アルアシャンは初陣をせがんだ。今回も派兵の話を知れば、自分のほうから「初陣を」と言ってくるに違いない。
ただその一方で、アルアシャンは戦争を遠足か何かと勘違いしているように、ジノーファには思えてしまう。本人は「そんなことはない」と言うだろう。だがジノーファの目から見ると、どうにも危機感が足りない。
まあ、アルアシャンは実際に戦場に立ったことはないし、戦火を身近に感じたこともないのだ。さらにイスパルタ軍が負けたという話も聞いたことがない。ベルノルトもそうだったが、伝聞での、しかも勝ち戦しか知らないのだ。危機感を持てないのは、ある意味仕方がない。
それでも少し何とかならないものか。ジノーファのそういう内心の想いを察し、ハザエルはこう提案した。
「ベルノルト殿下のことも、お伝えするべきかと存じます」
「アルに、か?」
「御意」
ジノーファは「ふむ」と呟き、ハザエルの提案を検討する。どのみち、ベルノルトのことはアルアシャンにも伝わるだろう。彼にとっては兄のことであるし、それならば人づての伝聞より、父親であるジノーファから話した方が良い。
なにより、腹違いの兄がマドハヴァディティアのせいで好ましからざる状況に追い込まれていることを知れば、アルアシャンも少なからず危機感を持つだろう。何しろ初陣では、そのマドハヴァディティアと戦うことになるのだから。手強い相手、抜け目のない相手であると認識を持ってくれるだけでもかなり違う。
「そうだな。話しておこう。そうなると、初陣のことを伝える前に、話しておいたほうが良いかな」
「その方がよろしいかと。……ところで陛下」
「なんだ、ハザエル」
「ベルノルト殿下のことですが、その、シェリー殿下には……」
「ハザエル」
「はっ」
「わたしにも、多少の猶予は必要だと思わないか?」
「……はっ」
ハザエルは短くそう答えて腰を折る。そのおかげで、彼はジノーファが少しバツの悪そうな顔をしているのを見ずに済んだ。
ハザエル(先延ばしにして良いことはないと思うのだが……)




