占領下のヴァンガル
ルルグンス法国法都ヴァンガルは、マドハヴァディティア率いるヴェールール軍の前に陥落した。法王フサイン三世とその家族は、マドハヴァディティアに内応したミールワイス枢機卿によって殺害された。これは事実上、ルルグンス法国が滅亡したことを意味している。
マドハヴァディティアにとってフサイン三世と彼の家族が殺害されたことは、決して歓迎するべき事ではなかった。フサイン三世を、あるいは彼の後継者を屈服させた上で臣従させれば、法国の併合と支配はやりやすくなるに違いない。そういう計算があったからだ。
とはいえ、必要不可欠というわけでもない。それでマドハヴァディティアはフサイン三世と彼の家族が殺害されたことを知ると、少しだけ残念そうな顔をして、表向きそれ以上は反応を示さなかった。
(ミールワイスめ、先手を打ったつもりか)
マドハヴァディティアは嘲るように内心でそう呟いた。ミールワイスが凶行に走った理由を、彼をおおよそ正確に察していた。そしてその上で、何ら問題ないというのが彼の考えだった。
それは、マドハヴァディティアにはミールワイスを切り捨てるつもりがないから、という意味ではない。ミールワイスの代わりなど幾らでもいる。極端な話、適当な僧職者を祭り上げて民衆の支持を集めれば、それで十分対抗馬になる。そこにマドハヴァディティアの権力が加われば、教皇の首をすげ替えることなど造作もない。彼はそう思っていた。
(それに……)
それに、フサイン三世が死んだことには、それはそれで意味がある。元国主が主導する抵抗運動という厄介な活動を警戒しなくて済むからだ。ただ殺してしまったからには、その死を秘密にしておくことはできない。生死不明にしておくと、彼やその落胤を騙る者が大勢現われるだろう。
それを防ぐためにも、フサイン三世と彼の家族の死ははっきりと世に公表されなければならない。マドハヴァディティアはそれをミールワイスにやらせた。彼は「首でも曝すのだろう」と思っていたのだが、彼が思う以上にミールワイスは苛烈だった。
ミールワイスはフサイン三世と彼の家族の遺体を大聖堂前の広場に引き出し、そこで火刑に処すが如くに火で焼いたのである。故ヌルルハーク四世の遺体も聖櫃から引きずり出し、同じように火で焼いた。
「この者たちは女神イーシスの教えに背いた! 誰よりも率先してその教えを守らなければならない立場であるにも関わらず、その教えを軽んじた! 女神イーシスもどうか御照覧あれ! これはその報いである!」
そう言って、ミールワイスは己の凶行を正当化した。これを知ったときマドハヴァディティアは唖然としたが、同時に好都合だとも思った。上手くやれば、民衆の憎悪はミールワイスへ向かうだろう。これを利用しない手はない。
幸いにも、と言うべきか。マドハヴァディティアはヴァンガルでの略奪を禁じていた。今後、ここを拠点にイスパルタ軍と戦わねばならないのだ。街を焼き払うわけにはいかないし、また民衆の反感も最小限に抑えなければならない。それが彼に自重を促していた。
ただその一方で、彼は少々の“おいた”には目をつぶるつもりでいた。兵士たちの士気を維持するためだ。だがミールワイスの凶行を見て、彼はその方針を転換する。ミールワイスに民衆の憎悪を集中させるためにも、兵士たちはなるべくお行儀良くさせねばならない。それで彼は全軍に略奪・暴行の禁止を厳命した。
ただ禁止するだけでは不満が溜まる。それでマドハヴァディティアは大聖堂の宝物庫を開放した。そこには、ラーヒズヤ曰く「ヴェールールを三年養える」ほどの金銀財宝が蓄えられている。彼はこれを兵士たちに大盤振る舞いして与えた。その上で、禁を犯した者には厳罰を持って臨んだ。こうしてヴェールール軍の軍規は粛然とした。
その一方で、マドハヴァディティアはミールワイスを追い詰めるべく、少しずつ手を打ち始めた。まず約束しておいた通り、ミールワイスを枢密院の代表として〈教皇〉の地位に就けた。ただしブルハーヌともう一人の枢機卿は、やはりミールワイスによって始末されている。新たな枢機卿の選出は先送りにされ、教皇が枢密院の全権を握ることになった。
その上で、マドハヴァディティアは投降したルルグンス軍の内、三〇〇〇の兵を選んで教皇の指揮下に置いた。「ヴァンガルの治安を維持させるため」というのがその名目だった。ミールワイスは表向き粛々と、内心ではほくそ笑みながらその命令を受諾した。
事前の約束では、教皇は宗教的権威を持つ代わりに、世俗的権力は持たないはずだった。しかし三〇〇〇の兵を指揮下に置けば、それだけで世俗的権力を得ることになる。ミールワイスの側からすると、まだ何も要求していないのにマドハヴァディティアが勝手に譲歩したように思えたのだ。
「マドハヴァディティアといえど、どうやら私の力を当てにせざるを得ないようだな」
そう考えて、ミールワイスは気分を良くした。そして命じられた通り、「ヴァンガルの治安維持」に邁進した。そこには当然、反ヴェールール的活動を取り締まることも含まれている。
ミールワイスは密告を奨励し、強権をふるってルルグンス人を取り締まった。「マドハヴァディティアに付け入る隙を与えてはならぬ」。その想いが治安維持を徹底的なものにした。
その振る舞いをヴァンガルの民衆の側から見れば、強権的な恐怖政治そのものである。法王一家を殺して火で焼いたことも含め、教皇ミールワイスへの不満は日に日に高まっていった。反マドハヴァディティア、反ヴェールールの感情が、反ミールワイスの感情に変化していくのに、さほどの時間はかからなかった。
自分が嫌われていると知れば良い気分はしない。ミールワイスの治安維持活動はさらに苛烈になった。あやふやな噂や嘘の密告による逮捕者が急増した。治安維持に関わる兵士の職権乱用は日常茶飯事。賄賂が横行し、見せしめのための公開処刑が相次いだ。するとそれに比例して民衆の反感も高まっていく。悪循環だった。
ところでミールワイスは教皇であり、法王に代わる宗主であったわけだが、実のところ彼の宗教的権威は脆弱だった。ヴァンガルの民衆は彼を、法王を弑逆した大罪人と見なしたのだ。彼らはそっぽを向いて、ミールワイスを宗教的宗主とは認めなかった。
大罪人云々に関心がなくとも、教皇が強権を振るう現在と、法王が治めていた過去では、後者の方が明らかに生活は楽だった。生活が苦しくなったのはミールワイスだけのせいではないのだが、民衆は分かりやすい原因を求めた。そしてやり玉に挙げられたのがミールワイスだったのだ。
こうなると、ミールワイスの敵はルルグンス人だった。彼はマドハヴァディティアに尻尾を振り、同胞を弾圧した。彼は自分の地位を守るために、不穏分子と反乱分子の取り締まりに邁進するほかになかった。
この時点で、マドハヴァディティアはいつでもミールワイスを排除できるようになった、と言っていい。ただマドハヴァディティアはすぐに彼を排除することはしなかった。彼を排除すれば、代わりの教皇を定めなければならない。その候補者がまだいなかったというのが理由の一つだ。
もう一つの理由は、治安維持の責任者としてミールワイスは有能だったからだ。マドハヴァディティアとしては、ヴァンガルの民衆が苦しもうとも何ら痛痒を感じない。税収が入り、さらにヴェールール軍の作戦行動が妨げられなければそれで良く、またわざわざミールワイスを助けてやろうとも思わなかった。
マドハヴァディティアの意識はむしろ、来たるべきイスパルタ軍との決戦に向けられていた。ヴァンガルを陥落させたその夜、彼は当然ながらイスパルタ大使館も占拠していた。ちなみにイスパルタ大使館は現在、ヴェールール軍の重要施設として使われている。
イスパルタ大使館はまったくの無抵抗だった。主要人物として残っていたのは、大使のフードと弔問団の副代表のデニス。制圧を担当したラーヒズヤはひとまずこの二人を拘束させ、大使館の中を捜索させた。その結果、第一王子のベルノルトは発見できず、また重要書類は全て処分されていることが分かった。
マドハヴァディティアはただちにベルノルトを追わせた。フードとデニスは「ベルノルトは決死隊に混じってすでに本国へ帰還した」と証言したが、ミールワイスからの情報でそれが嘘であることはすでに分かっていた。それでダンジョンの出口の辺りへ部隊を派遣し、彼らを捕らえさせることにしたのである。
ただし、「成功するかは微妙だな」とマドハヴァディティアは思っていた。ベルノルトらがダンジョンに潜ってから、すでに五日以上が経過している。部隊が到着する前にダンジョンを通り抜け、そこから離れてしまっているかもしれない。
その場合ももちろん探索を行うが、ヴェールール軍はルルグンス法国に土地勘がない。主要な街道を避けて移動されたら、捕捉は難しいだろう。
(逃がした、と考えるべきかな、これは……)
やや苦々しく、マドハヴァディティアは胸中でそう呟いた。ヴァガンル攻略の目的の一つは、ベルノルトの身柄の確保だった。彼を人質にできれば、来たるべきイスパルタ軍との決戦において、優位な立場を得られるからだ。だが残念なことに、確実に彼を人質にできるのかは不透明になってきた。
(まあ、仕方あるまい)
マドハヴァディティアはため息を一つ吐き、内心の腹立ちを鎮めた。もちろん、諦めたわけではない。だがそれを前提に戦略を立てるのは現実的ではないだろう。彼はそれを認めなければならなかった。
ただ最低限、ヴァンガルは落としたのだ。今後はこの堅牢な都市を拠点にしてイスパルタ軍と戦うことができる。しかも指揮下にあるのは、子飼いとも言うべきヴェールール軍だ。仮に打って出るのが難しくなったとしても、そう簡単に負けることはない。東方進出の足がかりとしては、まずまずの成果どころか大成功と言っていいだろう。そのおかげで、腹立ちを鎮めるのも難しくはなかった。
(さて、次は戦力だな)
ヴァンガルの攻略は、ほぼ奇襲のような形で成功させた。だがマドハヴァディティアにこれで戦争を終わらせるつもりはない。彼の東征はむしろこれからだ。そのためには十分な戦力が必要である。つまり百国連合軍だ。
彼はすでに、特に連合の東側の地域で、兵を集めて兵糧を準備するようにと命令を出してある。遅くともあと半月もすれば、増援の第一陣がヴァンガルに到着するだろう。それが合流すれば、彼の戦力は六万強まで増強される。この戦力をもってルルグンス法国を完全に征服するのが、マドハヴァディティアの当面の目標だった。
(欲を言えば……)
欲を言えば、増援が来る前に南方の貿易港ヘラベートも制圧しておきたかった。それがマドハヴァディティアの偽らざる本音である。ただ過去形であることから分かるように、それはもう無理であると彼は認識していた。
イスパルタ軍五〇〇の決死隊がヴァンガルを出陣したのは、ヴェールール軍がヴァンガルの攻略を始める二日前のことだ。この決死隊がマドハヴァディティアの敷いた警戒網を突破したことは、すでに彼も報告を受けている。
この決死隊が総督府に駆け込んだのだろう。イスパルタ軍が動いたことをマドハヴァディティアは掴んでいた。その数、およそ二万。もともとはヴァンガルを目指していたようだが、途中で陥落を知ったのだろう。進路変更してヘラベートへ向かい、現在もそこに駐留している。
ヘラベートは決して守りに適した都市ではない。マドハヴァディティア率いるヴェールール軍三万なら、敵を蹴散らすことは十分に可能だろう。だが彼はそうしなかった。ヴァンガルの掌握を優先したのである。
ヴァンガルにミールワイスがおり、投降したルルグンス兵が数千人おり、ルルグンス人なら十万人近くいる。マドハヴァディティアはこれを重く考えなければならなかった。全軍を率いて出撃した途端、ヴァンガルが再び城門を閉ざして敵に回れば、これまでの苦労は全て徒労に変わる。
それを避けるために幾らか兵を残していくことも考えた。だが戦力を割けば、それは勝率に影響を及ぼす。前述した通りすでに増援の手配を済ませていたこともあり、マドハヴァディティアは戦力の増強を待つことにしたのだ。
(時間との勝負、だな)
マドハヴァディティアは内心でそう呟いた。総督府の戦力が動いたと言うことは、すでにクルシェヒルにも急報が伝えられているはず。となれば、遠からずイスパルタ軍本隊も動くだろう。
どの程度の兵がいつ頃現われるのか。マドハヴァディティアは神経をとがらせていた。味方の増援が先に来れば、ヘラベートを取るのは容易い。だが敵の増援が先に来れば、長期戦を覚悟しなければならないだろう。最悪、ルルグンス法国の南半分は当面諦めなければならなくなる。
ただしこの勝負はマドハヴァディティアに有利だ。少なくとも彼はそう認識していた。彼はすでに動員の命令を出している。しかも兵は百国連合域内の東側で集まるから、ヴァンガルまでの距離は比較的短い。
一方でクルシェヒルのイスパルタ軍はこれから動員をかけることになる。イスパルタ軍は総員が職業兵だから、動員は速やかに行われるだろう。だがクルシェヒルからヴァンガルまではかなりの距離がある。さらに道中で兵たちに食わせる大量の食料も必要だ。となれば、足の遅い輜重部隊に合わせての行軍になる。
諸々の事情を勘案すれば、イスパルタ軍本隊が来るまで最短でもあと一ヶ月はかかるはずだ、とマドハヴァディティアは見込んでいる。つまり味方の増援が来てから敵の本隊が来るまで、半月程度は猶予がある計算だ。
(それだけの時間があれば……)
それだけの時間があれば、ヘラベートの制圧は可能だろう。そしてヘラベートからイスパルタ軍をたたき出してしまえば、ルルグンス法国はほぼマドハヴァディティアのものになる。さらに海路が使えるようになるので、補給や戦力の増強もよりやりやすくなるだろう。
「……父上、少しよろしいでしょうか?」
マドハヴァディティアが思案にふけっていると、部屋の外からノックの音と少年の少し甲高い声が響いた。彼が「入れ」というと、一人の少年が入ってくる。彼の息子の一人である、ナレインだ。
コイツは俺に似ていない、とマドハヴァディティアは思っている。人格ではなく、顔の話だ。母親似なのだろう。もっとも、彼は自分の顔などどうとも思っていないので、息子が自分に似ていないからどうこうということはなかった。母親の方は、彼が抱きたいと思うくらいには美形であったので、むしろそちらに似てナレインは幸運であったかも知れない。
まあそれはそれとして。父王の執務室を訪ねて来たナレインは、少々緊張しているように見受けられた。そんな息子にマドハヴァディティアは「どうした?」と尋ねる。ナレインは意気込んだ様子でこう答えた。
「父上、初陣を飾らせて下さい。ヴァンガルの攻略戦では、後ろで見ているだけでした」
「今はならん。あと半月もすれば増援が来る。お前の初陣はそれからだ」
息子のお願いを、マドハヴァディティアはそう言ってすげなく却下した。ナレインは食い下がろうとするが、彼が少しだけ視線を鋭くすると慌てて引き下がる。そして「下がれ」と言われて退室した。
肩を落とすナレインの背中を見送り、マドハヴァディティアは小さく苦笑を浮かべた。彼は息子が初陣に、手柄にこだわる理由を正確に察している。彼はこの戦争で後継者の地位を確たるものにしたいのだ。
マドハヴァディティアが今回の遠征にナレインを伴うことを公表したとき、ヴェールールの王城では少なからず騒ぎになった。彼の後継者として、ナレインが一躍有力候補になったと人々は思ったのだ。
クリシュナの他にも、ナレインより年長の王子はあと数名いる。それらの王子たちと彼らの母親たる側室たちは、マドハヴァディティアのもとに押しかけては「自分も共に」と直談判した。だが彼はそれを全て却下した。そのためナレインは彼のお気に入りということになった。
ナレインにとっては、降ってわいたチャンスである。彼が父王の後を継ぐには、このチャンスをモノにするしかない。母親にも言い含められているのだろう。何とかして手柄を立てたいと思っているのが、言動の随所に現われていた。
内にも外にも思惑を抱え、ヴェールール軍は戦っている。さて誰が一番思い通りに事を進めるのかな、とマドハヴァディティアは他人事のように考えた。もちろん譲るつもりは毛頭なかった。
ミールワイス「猊下と呼べっ!」




