煙
ダンジョンの出口へたどり着いた、その翌日。ベルノルトたちがダンジョンの外へ出ると、すでに日は昇っていた。快晴と呼ぶには少し雲が多いが、日差しは十分に届いている。
ベルノルトらはまずダンジョンの出口で準備を整えた。ここから先、メフライルの収納魔法は使えない。必要な荷物は全て出しておく必要があった。逆に不要な装備は収納しておかなければならない。
さすがに持って行くべき荷物は多い。ダンジョンの中ではほとんど手ぶらだったこともあり、ベルノルトは余計にそう感じた。汲んでおいた水が、なかなかずっしりとくる。他にも、ダンジョンで手に入れた魔石も持っていく。宝石類よりは換金しても目立たないし、いざとなれば燃料としても使える。
「殿下、そろそろ参りましょう」
シェマルがそう声をかける。彼は荷物の他に、弓と矢筒も携えていた。彼の他にもう一人、メフライルも弓を持っている。ダンジョンの中では使わなかった武器だが、ここから先は出番もあるだろう。
「そうだな。それからシェマル。ここから先、特に人前では『殿下』は止めてくれよ」
シェマルにそう釘を刺してから、ベルノルトはメンバーを見渡して出発を指示した。昨日決めておいたように、まずは山頂へと向かう。ブルハーヌから聞いていたとおり出口があったのはそれほど高くない山の中腹あたりで、そのおかげでそれほど時間をかけずに彼らは山頂へ到着した。
幸いというか、山頂からの見晴らしは良好だった。ベルノルトたちは地図とコンパス、そして望遠鏡を取り出して周囲の様子を確認する。やがて東の方を見ていたメフライルが呻くように声を上げた。
「ああ、これはまずい……」
「どうした、メフライル?」
アッバスがそう尋ねると、メフライルは黙って自分が眺めていた方向を指さした。アッバスはその方角を望遠鏡で眺める。するとたちまち、彼の表情が強張った。そしてベルノルトの方を振り返ると、彼は自分の見たものを端的にこう報告した。
「……殿下、煙です」
「なんだって?」
ベルノルトは険しい顔をして望遠鏡を西へ向けた。少し探すと、すぐに立ち上る黒い煙が見つかった。それも一筋ではない。比較的密集した範囲で、見た限り四本以上の黒い煙が立ち上っている。
「……火事かもしれません」
アッバスはそう推測を述べたが、彼自身がそう思っていないのは顔を見れば明らかだった。そしてベルノルトもまた、あの黒煙が火事だとは思えない。彼は望遠鏡を下ろすと、険しい表情でこう呟いた。
「略奪隊か……」
遊牧民の略奪隊が辺境の村を襲って火をかけた。そう解釈するのが、恐らく最も正解に近いだろう。略奪隊の規模によっては、襲われた村が全滅していることもあり得る。凄惨な光景が頭に浮かび、ベルノルトは背筋を寒くした。
彼は東へ向かうことを決めるにあたり、略奪隊の脅威も考慮に入れていたつもりだ。だが実際にそれを目の当たりにして、本当に東へ向かって良いのか、彼は自分の判断に自信が持てなくなった。
立ち上る煙から分かることは、それほど多くない。確実に分かるのは、その下で何かが激しく燃えているということだけだ。だから本当に略奪隊の仕業なのかも、実際には分からない。アッバスの言ったように火事なのかもしれないし、あるいは大がかりなたき火をしている可能性もある。
ただこの状況下で楽観的に物事を考えるのは危険だろう。であればやはり、悪い方向へ考えておく必要がある。そしてあの煙が略奪隊によるものだとすると、少なくともこの周囲にはまだ略奪を続ける一団がいるということになる。
「煙の数はそれほど多くありません。略奪隊は比較的少数なのではないでしょうか?」
「だがアッバス、襲われた村の規模が小さいだけかもしれないぞ。積極的に火をかけなかったとも考えられる」
アッバスの意見に、シェマルがそう反論する。略奪隊が少数なら、襲われたとしても逆に返り討ちにできるだろう。その際に馬を奪うことができれば、本国への帰還は一気に容易になる。
だが煙の数をそのまま略奪隊の規模に結びつけるのは、少々無理がある。略奪隊が少数であるという保証はない。むしろ多数で、戦力差が圧倒的だったので、激しい戦闘にはならなかったという事も考えられる。そして仮に一〇〇騎近い略奪隊に襲われた場合、ベルノルトたちは何もできずになぶり殺しにされるだろう。
それに、あの煙の原因となった略奪隊が少数であったとして、ヴァンガル以北の地域を荒らしている略奪隊がその一つだけであるとも限らない。むしろ多数の略奪隊が方々を荒らしていると思った方が良いだろう。その全てがベルノルトたちでも対処可能な規模であると考えるのは、あまりにも楽観的だ。
「どう思う? このまま東へ向かっても大丈夫だと思うか?」
ベルノルトが他のメンバーにそう尋ねる。彼の視線を受けて、特にアッバスとシェマルの二人は険しい表情で黙り込む。誰も何も答えない。空気だけが重苦しくなった。
正解などあってないようなものだし、何より情報が少なすぎる。だから確かな事は何も言えない。ベルノルトもそれは分かっている。だがそれでも彼は何か意見が欲しかった。
「……西へ向かおう」
ベルノルトは昨晩自分で決めた方針を転換した。上に立つ者が自分の決定を簡単に変えるものではない、ということは分かっている。だが今回は実際に動き始める前であるし、なによりも昨晩の段階では分からなかったリスク要素がこうして明らかになったのだ。臨機応変に対処する柔軟さも大切だろう。
「殿下!」
思わずといった様子でアッバスが声を上げる。だがベルノルトに視線を向けられると、彼は険しい表情のまま口をつぐんだ。アッバス個人としては、東へ向かった方が良いと思っている。だがそうするべき特別な判断材料がない以上、それは願望の域を出ない。ましてリスク要素が出てきたのは事実なのだ。
ベルノルトの判断が場当たり的であるのは否めない。だがどちらを選んでも大差ない状況だったのが変わってしまった以上、判断が変わるのは当然と言える。一貫性がないのは困るが、今回はそういうわけではない。西へ向かうことは、もともと選択肢の一つだったからだ。
「ですが殿下。西へ向かった場合、本国への報告との間に齟齬が生じます」
アッバスの代わりにそう発言したのはシェマルだった。総督府には、ベルノルトらがダンジョンを使ってヴァンガルを脱出したことが、マルセルの部下を通して伝わっているだろう。そうなると総督府の戦力は、その情報を前提にして動くことになる。
「総督府では、我々が西へ向かうことなど想定していないでしょう。両殿下の所在が把握できないために、イスパルタ軍の作戦行動に支障が出るかも知れません」
シェマルにそう指摘され、ベルノルトは思わず顔をしかめた。彼らが危険を冒してまでヴァンガルから脱出したのは、突き詰めて言えばイスパルタ軍の作戦行動の妨げにならないためである。そこが覆るようなまねをすれば、本末転倒だ。
しかしだからといって、やはり東へ向かうのは躊躇われた。遊牧民の略奪隊は、はっきり言ってヴェールール軍よりもタチが悪い。後者ならば、ベルノルトたちを捕まえようとするだろう。だが前者の場合、有無を言わさず殺して持ち物を奪っていく可能性が高い。そんな連中が跋扈しているところへ、のこのこ出て行くべきではないだろう。
「……では、シェマルはどうするべきだと言うんだ?」
「西へ向かうのであれば、そのことを総督府へ伝えるべきでしょう」
「誰を向かわせるんだ?」
「ご命令とあらば、小官が」
そう言ってシェマルは恭しく一礼した。それを見てベルノルトはますます表情を険しくする。ヴァンガル以北の地域は危険だと思ったので、東ではなくそこを避けて西へ向かおうと考えたのだ。だがそのことを総督府へ伝えるためには、よりにもよってその危険地帯を横断しなければならない。しかもシェマルはその危険な任務を一人でやると言っているのだ。
「……シェマル一人を向かわせるくらいなら、最初から全員で行った方が良いんじゃないのか?」
「小官が危険を冒すのと、両殿下が危険を冒すのとでは、まるで意味合いが違います」
どうぞご自愛ください、とシェマルは言った。彼の言っていることは分かる。だがベルノルトは面白くなかった。少し突き放されたように感じたのだ。シェマルはそれに気付き、ふっと表情を緩めると冗談めかした口調でさらにこう言った。
「それに、こう見えて私は逃げ足には自信があります。両殿下のことを気にしなくて良いのなら、総督府へ駆け込む自信はありますよ」
「シェマル。いみじくもイスパルタ朝近衛軍の百人隊長ともあろう者が、『逃げ足には自信がある』などと、自慢にもならんぞ」
ベルノルトらが苦笑を浮かべる中で、アッバスだけにが虫をかみ潰したような顔をして同僚に苦言を呈する。ただその一方で、成否そのものについては、アッバスも異論を差し挟まない。
逃げ足うんぬんは別にするとして、略奪隊の跋扈する危険地帯を横断するとしても、ベルノルトとサラを守りながらなのか、それとも自分一人のことだけ気にしていれば良いのかでは、ずいぶん事情は異なる。その条件ならば、志願したシェマルは言うまでもなく、アッバスもまた成算はあると思っているのだ。ただ彼は別の懸念をこう指摘する。
「我々の任務は、まず第一に両殿下の護衛だ。総督府へ向かうことを、任務の放棄だと言うつもりはない。だがお前が抜ければ、その分だけこちらの戦力は低下する。十分な戦力があるわけではない以上、優先順位を定めるべきだ」
「アッバスの言いたいことは分かる。だが現実問題として、西へ向かうならそのことを総督府へ伝える必要がある。いくら我が軍の参謀部が優秀でも、正確な情報がなければ正しい戦略は描けない」
シェマルがそう反論すると、アッバスは腕を組んで「むう」と唸った。そして視線をベルノルトの方へ向ける。そして再度彼にこう尋ねた。
「殿下。本当に西へ向かうのですか?」
「……ああ、西へ向かう。まずは略奪隊とマドハヴァディティアの手から逃れよう。シェマル、総督府へ行ってくれ」
「御意」
「……御意に従いまする」
シェマルに続き、アッバスも西へ向かうことを了解する。そしてこの二人が反対しないのに、メフライルとサラに異論があるはずもない。こうして急ではあるものの、東へ向かうはずだった方針は転換され、西へ向かうことになった。
ただ彼らはすぐに動き始めたわけではなかった。まず総督府へ事情を説明するための手紙をベルノルトが書く。その間に、他の四人の間で持って行く荷物の見直しが行われた。シェマルが単独行動することになるので、そのための調整である。
特に金貨のチェックは大切だ。使えない金貨を持って行っても意味がないし、また不必要に衆目を集めることにもなりかねない。イスパルタ金貨はシェマルに、ルルグンス金貨は他の三人が持つように再分配された。
また装備の見直しもされていた。メフライルの収納魔法の中には、まだ使われていない装備が幾つも収められている。シェマルは単独行動することを踏まえ、アッバスは彼が抜けることを踏まえて装備を見直していた。
「弓がもう一張いるな。メフライル、確かまだあったはずだな?」
「はい。ですが、誰が使いますか?」
「できれば、サラ殿下かベルノルト殿下に使ってもらいたい。まあ、いざとなれば私が使う」
「了解です」
「ああ、メフライル。矢をもう少し多めに持って行きたい。それも頼む」
アッバスとシェマルの要望を聞き、メフライルは一つ頷いてからそれを紙にメモした。そしてベルノルトが手紙を書き上げるのを待ってから、彼らは一度ダンジョンへ戻る。収納魔法からあれこれと荷物を取り出すためだ。
「……よし、これでいいな」
再度準備を整え終えると、背中に担ぐ荷物は先ほどまでよりもさらに重くなっているようにベルノルトは感じた。仮にも敵の勢力圏に飛び込むのだから、少なくとも軍資金に不安があってはまずい。それで換金用として、持てる限りのドロップアイテムも持って行くことになり、そのせいで荷物が増えたのだ。
逆にシェマルの方は、なるべく身軽に済ませられるよう、資金が多めに分配されている。必要最低限の荷物にして、後はなるべく現地で買うようにするためだ。足が遅くなれば、それだけ略奪隊に捕捉される危険は増す。それは避けなければならない。
全員が荷物を背負うと、ベルノルトらはいよいよ行動を開始した。彼らはまず揃ってこの小高い山を下りる。その際、やや東寄りに進路をとった。さらに剣で茂みを切り払うなどしてはっきりとした痕跡を残す。
これで仮にマドハヴァディティアがダンジョンに追っ手を差し向けたとして、追っ手はこの痕跡を頼りに追跡を行うだろう。彼らの意識は東へ向かうに違いない。その分だけ、西へ向かうベルノルトたちは安全になる。
「では殿下。どうかご無事で」
「ああ。シェマルも気をつけて。武運を祈る」
山の麓のあたり、勾配がかなり緩やかになってきたところで、ベルノルトらはシェマルと分かれた。歩き始めてから少しして、ベルノルトはふと考える。シェマルに「武運を祈る」と言ったが、さてそれで適切だったのか。
シェマルの任務は一刻も早く総督府へ駆け込むことで、略奪隊と戦うことではない。なのに「武運を祈る」では、ベルノルトが彼に戦果を期待しているようにも受け取れる。
(まあ、シェマルなら大丈夫か)
シェマルも優先順位は弁えているはず。ならば任務を果たすことこそが、最大の戦果だと判断するだろう。
敵を殺すことだけが戦いではない。百人隊長にまでなったシェマルなら、その程度のことは承知しているだろう。一緒にダンジョンを抜けた経験が、ベルノルトにその信頼を抱かせていた。
同時に、ベルノルトはふと苦笑をもらす。「敵を殺すことだけが戦いではない」。さっき彼はそう考えた。そして初陣でエクレムに言われたことを思い出す。「私も此度の戦では一人も討ち取っておりません。それは将の仕事ではないのです」。その言葉の意味が、ようやく分かったような気がした。
シェマル「逃げ足は誇れないが役に立つ」




