ダンジョンの出口
ベルノルトはダンジョンの中で風を感じた。風には草木の青臭さが混じっている。まさか、と思い彼はパーティーメンバーの顔を見渡した。ブルハーヌから預かった地図を見ても、そろそろ出口が近い。
ベルノルトらは少し足早になって進んだ。角を一つ曲がると、ダンジョン内の明るさが増す。外の光が差し込んでいるのだ。吹き込んでくる風も合わせて、空気はすでに外のものになっている。彼らはついに出口へ到達したのだ。
ダンジョンの外は、木々に囲まれてうっそうとしていた。事前に聞いていた話によれば、小高い山の中腹あたりなのだという。小鳥のさえずりが耳に届く。何という鳥だろうか。ベルノルトはつい、益体もないことを考えた。
見渡した限り、周囲に人が行き来している痕跡はない。要するに放置されているような状態な訳だが、それでスタンピードが起きないのだろうかと、ベルノルトは少し心配になった。まあ、その辺りはきっと上手く管理しているのだろう。
空を見上げると、雲が夕日に照らされて赤く染まっていた。もう少しすれば日没だろう。ましてこの辺りは木々がうっそうとしている。暗くなるのは早い。そして野営するなら、火を熾さなければならない。
「殿下。一旦、中へ戻りましょう」
そう提案したのはアッバスだった。火を熾して野営すれば、少なからず痕跡を残すことになる。追っ手がダンジョンの中を追ってくるとは思わないが、用心は必要だ。痕跡を残さなければ、「ベルノルトはダンジョンの中で死んだ」と勘違いしてくれるかもしれない。
また野営するとしても、今度は狼などの野生動物を警戒しなければならず、どのみち不寝番は必要だ。ダンジョンの中で仮眠を取るのと、大きな違いはない。
「それなら、水場で休んだ方が良いでしょう。入り口を塞げば、モンスターの侵入はかなりの程度防げます。仮に戦闘になったとしても、ダンジョンの中の方が明るい」
「そうだな。そうしよう」
アッバスの提案に、ベルノルトは頷いた。それで彼らはダンジョンの中へ戻り、出口に近い水場で仮眠を取って朝を待つことにした。ここから先、まさか生肉を持ち歩くわけにはいかないので、全員ドロップ肉のステーキをたらふく食べた。
食事を終えると、ベルノルトらは荷物のチェックを行った。ダンジョンの外へ出れば、メフライルの収納魔法は使えなくなる。必要な荷物を出しておく必要があった。加えて、もう一つ話し合って決めなければならない事がある。
「……それで殿下、如何なさいますか。東へ向かうのか、それとも西へ向かうのか。お考えは定まりましたか?」
ベルノルトにそう尋ねたのは、シェマルだった。イスパルタ朝本国を目指すのであれば、東へ向かう必要がある。だが法都ヴァンガルが早々に陥落した場合、彼の不在を知ったマドハヴァディティアが追っ手を差し向ける可能性があった。
彼がダンジョンに気付くかは分からない。だが本国を目指すことは容易に想像がつくだろう。ヴァンガル以北の地域をしらみつぶしに探索されると、たった五人しかいないベルノルト一行にはかなりの危険だ。
もちろん、マドハヴァディティアがそうしないことも考えられる。フードやデニスが捕まった場合、「ベルノルトは決死隊に混じって本国へ帰還した」と嘘の説明をする手筈になっている。
仮にそれが嘘だと見破られたとしても、いきなり「ダンジョンを使って脱出した」というところにまではたどり着くまい。まず考えるのは、ヴァンガルの市街に潜伏しているか、ヘラベートを目指して秘密裏に南へ向かった可能性だろう。その場合、マドハヴァディティアの注意が北へ向くことはない。
ただ、マドハヴァディティアの命令によるヴェールール軍の探索が行われなかったとしても、ヴァンガル以北の地域には他にも警戒するべき敵がいる。マドハヴァディティアが陽動代わりに差し招いた、遊牧民の略奪隊だ。彼らは主に北方からやって来る。つまりルルグンス法国の北部は彼らの活動範囲内なのだ。
彼らがベルノルトを探しているかは分からない。だが彼らは要するに盗賊だ。旅人を見つければ襲って荷物を奪おうとするだろう。ベルノルトらは全員徒歩な上に、たった五人しかいない。略奪隊からみれば、手頃なおやつに見えるだろう。少なくとも、襲撃を躊躇させる要素は何もない。
もちろん略奪隊のことも、襲われると決まったわけではない。ヴェールール軍本隊が堂々とルルグンス法国に侵入した以上、もう陽動は必要ないはず。加えてマドハヴァディティアはヴァンガル攻略のために多数の戦力を必要としているはずで、略奪隊を本隊に合流させて戦力を増強しようとするだろう。
北部で活動する略奪隊の数が減れば、それだけ襲われるリスクは低くなる。ただしリスクは低くなるだけでゼロにはならない。東へ向かうのであれば、少なくとも遊牧民に襲われることは覚悟しなければならない。
「相手が少数であれば、返り討ちにして馬を奪ってやるのですが……」
アッバスは勇ましくそう言ったが、しかし歯切れが悪い。相手が三〇騎、四〇騎ともなれば、戦力差は絶望的だ。しかも徒歩では、騎馬から逃げ切ることも不可能である。ただアッバスの言ったとおり馬を奪うことができれば、本国を目指すのはかなりの程度容易になるだろう。
一方、西へ向かえば百国連合域内へ入ることになる。敵の勢力圏へ飛び込む訳だから、普通ならばあり得ない。しかしだからこそ、マドハヴァディティアの意表をついて彼の目をごまかすことができるだろうと思われた。
もちろん百国連合域内でベルノルトの身分が露見すればただでは済まない。たちまち四方が敵ばかりになるだろう。また当然のことながら、最終目的であるイスパルタ朝への帰還は遠のくことになる。
ただ、何もヴェールールへ潜入しようというのではないのだ。百国連合とは言っても、一枚岩ではない。そもそもベルノルトの顔を見知っている者などほとんどいないだろう。であればそうと公言しない限り、彼の身分がバレることはほぼあり得ない。
本国への帰還が遠のくは痛手だが、例えば連合域内を南へ向かい、海沿いを東へ進んでヘラベートを目指す、というルートもあり得る。海路を使えば、陸路よりも速くクルシェヒルへ戻ることができるだろう。まさに「急がば回れ」というわけだ。
また何よりも重要なのは、マドハヴァディティアの手を逃れて生き延びることである。マルセルたちが上手くやってくれれば、遠からず総督府の戦力が動く。クルシェヒルへ一報が伝われば、ジノーファも軍を動かすだろう。本国へ帰還できずとも、それを待つという手もある。
ただそうは言っても、ベルノルトたちにとって百国連合、いや西方諸国は未知の土地だ。情報が何もなければ、さすがに西へ向かおうとは思わない。しかし幸か不幸か、今の彼らには情報があった。
まずはサラだ。彼女は西方に存在した小国アースルガムの王女だ。西方の出身者であり、当然ながらある程度の事情には通じている。ただ彼女は王女だったから、市井での暮らしには疎い。「あまりアテにはできない」というのがベルノルトたちの評価で、本人も不祥ながらそれを認めていた。
もう一つは、地図などの資料である。ベルノルトらがダンジョンに入る前、フードは取り急ぎ地図などの資料を用意し、それを彼らに持たせていた。その中に西方諸国に関する、地図などの資料も含まれていたのだ。
と言うより、分量としては西方諸国に関するものの方が多かった。中にはアースルガム解放軍関連など、機密情報と思しきモノまで含まれていて、ベルノルトたちは少なからず顔を引きつらせることになった。
『フードはどういうつもりこれを持たせてくれたんだろう……?』
資料の確認を終えたとき、ベルノルトは若干途方に暮れたようにそう呟いた。最初に地図を見つけた時、ベルノルトらは自分たちが西へ向かう可能性をフードが考慮していたのだと考えた。
だが機密情報が含まれていることが分かると、今度は別の意図がフードにあるように思えてくる。それは機密情報を総督府へ持って行ってもらうことだ。
ベルノルトらがダンジョンに入った後、フードとデニスは大使館に保管している情報をことごとく焼き捨てる手筈になっている。今頃はもうそれも終わっているだろう。それは機密を守る上で致し方のないことだが、同時に多数の情報が失われればその分の不都合が生じることは避けられない。
そこで一部の機密情報をベルノルトらに預けて、総督府まで持って行ってもらおうとフードは考えたのではないか。そういう推測も成り立つわけだ。ただそれなら、事前に一言もなかったのは気になる。もっとも、いま重要なのはフードの意図ではない。
フードが持たせてくれた機密情報のおかげで、西方諸国で根を伸ばすアースルガム解放軍のネットワークについて、ベルノルトらはある程度のことを知ることができた。また今の彼らには、大使館の職員という肩書きがある。つまり百国連合域内に入れば、解放軍の助力を期待できるのだ。もちろん、そのためには彼らの側から接触しなければならないが。
(さて、どうするかな……?)
色々つらつらと考えてはみたが、東へ向かうのか、それとも西へ向かうのか、ベルノルトはまだ決めかねていた。どちらにもメリットとデメリットがある。少なくとも即決できるほど優劣がついているようには、彼には思えなかった。
東へ向かうべきか、それとも西へ向かうべきか。そのことはダンジョンを攻略している間も、度々パーティー内で話し合われた。しかし結論は出ていない。アッバスやシェマルが話し合いに加わっていてもそうなのだ。どちらかが明らかに優れているなら、二人ははっきりとそう進言しただろう。
だが甲乙付けがたいために、二人は自分たちなりに結論を出すことを避けた。どちらを選んでも大差ないという判断だが、別の見方をすれば責任を回避したとも言えるだろう。だが弔問団の指揮系統から言っても、最終的な判断を下すのはベルノルトの責任だ。そして彼自身、そのことは分かっている。
分かっていて、彼は今まで判断を保留してきた。言うまでもなく、この判断は五人全員の命に関わる。それどころか事と次第によってはイスパルタ朝やルルグンス法国、百国連合の戦略にさえも影響を与えるだろう。
ベルノルトが今までにこれほど大きな決定をしたことはない。彼が今までに下してきた決断は、その前の段階で選択肢が選別されており、何を選んでも大きな失敗に繋がることがないようあらかじめ段取りがされていた。もしくは彼の傍に正解か、それに近い回答を持っている者がいて、そのサポートがいつでも受けられるようになっていた。
本人がそれを自覚していたかは別として、言ってみればベルノルトはこれまでずっと、父王たるジノーファの庇護下にあったのだ。だが今の状況はそうではない。しかも彼が全責任を負わなければならない。そのことが彼に決断を躊躇わせていたのだ。
しかしそれでも、決断しなければならない。このままずっと、ダンジョンに引きこもっているわけにはいかないのだ。むしろ決断が遅れればその分だけ状況は悪くなっていく。手持ちの食料は徐々に減っていくし、最悪マドハヴァディティアがダンジョンに追っ手を差し向けている可能性だってあるのだ。
「……東へ、東へ向かおう。可能なら、どこかで馬を調達して一気に本国を目指す」
ベルノルトはそう決断した。その判断を下す大きな要因となったのは、やはり百国連合が敵であることだ。住民でさえ、潜在的には敵だ。だがルルグンス法国なら、少なくともそこで暮らしている住民は敵ではない。イスパルタ朝の金貨はもちろん、大使館の権威も通用するだろう。
別の言い方をすれば、「ルルグンス法国の方がまだ地の利がある」とベルノルトは思ったのだ。堅実な選択だろう。彼自身もそう思っている。ただ同時に、「死地に活路を求める」という選択ができなかったことに、彼は不甲斐なさや失望に似たものを覚えていた。だからなのかも知れない。彼はさらにこう言葉を続けた。
「……ただ、ダンジョンを出てから、一度この山の頂上まで登ってみよう。それで少しは周囲の様子が分かるかも知れない」
ベルノルトがそう言うと、他の四人は頷いてそれを了解した。アッバスとシェマルは、正直に言って山頂まで登っても無駄足になるだろうと思っていた。情報が欲しいのは分かる。だが山頂から眺めて分かることなど、せいぜい大まかな地形くらいだ。
それでも二人が反対しなかったのは、大まかにでも地形を把握しておくのは無駄ではないと思ったからだ。加えて、もしも山頂から眺めてそれとはっきり分かる異変が起こっているのなら、それも考慮に入れてもう一度判断を下さなければならない。
一応の結論が出たことで、彼らは交代で不寝番をしつつ仮眠を取った。サラも横になって目を閉じる。本音を言えば、彼女は西へ向かいたかった。祖国アースルガムの様子を知りたかったのだ。
(まあ、直接足を向けるなんて、どのみち無理でしょうけど……)
アースルガムは西方諸国の中でも比較的西寄りの国だ。百国連合域内を経由してヘラベートを目指すとして、さすがにそこまで足を伸ばすことはない。サラもそれは分かっている。
だが百国連合域内なら、遠くクルシェヒルにいるよりも、より詳しいことが分かるだろう。アースルガムの国民は今どうしているのか。サラはそれが知りたかった。それもなるべく肉声に近い声を聞きたかった。
そして連合域内でアースルガム解放軍と接触できれば、それは可能なはずだった。ベルノルトたちが連合域内を通過するなら解放軍に頼るのが最善で、その際ついでとして祖国の様子を聞けばそれで良かったのだ。
ただそれは、彼女の個人的な要望にすぎない。パーティー全体の、自分も含めて王族が二人もいる一行の、行動を左右するようなものではない。いや、その程度のことでこのパーティーの行動を左右してはならないのだ。
サラはそう考えて、あえて西へ向かいたいとは言わなかった。彼女自身、メンバーを説得できるほどのメリットが思いつかなかったのだ。確かに潜伏先の一つや二つ、アースルガム解放軍に頼めば用意してくれるだろう。それで当面の安全は確保できるに違いない。
だがそこから先、どうするのか。当初の計画では、西へ向かうことなど考えてもいなかった。つまり西へ向かえば、ベルノルトは行方知れずということになる。彼の安否が不明では、イスパルタ軍も思うように動けないだろう。そしてそれはアースルガムの再興が遅れることにも繋がりかねない。
(それに……)
それに自分が口を挟んだら、また事態が妙な方向へ転がってしまうかも知れない。サラはそんな懸念を抱いていた。ヴァンガル行きが決まったとき、こんなことになるとは全く思ってもみなかった。なら、敵の勢力圏へ飛び込むようなまねをすれば、それこそ本当に何が起こるのか分からない。
もちろん、今回の一件はサラが悪いわけではない。何度も言うが、一番悪いのはマドハヴァディティアだ。だが同時に、彼女がいま蒔いたものを刈り取っているのも確かだ。少なくとも彼女に限って言えば、クルシェヒルで大人しくしていればこんなことにはならなかったのだから。
彼女自身、それを自覚している。それで自重というにはいささか消極的な理由で、サラは口をつぐんでいた。自分の意見を言うことが、自分の意思を通すことが、怖くなったのだ。
幸いにも、と言うべきか。サラはパーティーのなかで決断を下すべき立場ではなかった。その立場に甘んじた、というのは辛口が過ぎるかもしれない。ただいずれにしても彼女の姿勢は受動的だった。
とはいえ、それを咎める者もまたいない。それでサラは西へ向かえないことを少しだけ残念に思いながら眠りに落ちた。
ベルノルト「西へ向かうのか、東へ向かうのか、それが問題だ」




