条約破り
アーラムギールとの会談が終えると、ベルノルトの仕事はだいたい終わったようなものだった。気分的にもかなり楽になり、メフライルとまた街に繰り出そうかと話したりもした。サラに見つかり、結局三人で遊びに出かけ、そして揃って叱られた。
後はもう、帰るだけと言っていい。ただ半月ほど後に故ヌルルハーク四世の葬儀のための儀式の一つがあり、ミールワイス枢機卿を通じて出席を請われたので、弔問団はまだ法都ヴァンガルに残っていた。
時間ができたので追加で会談の予定を組んだりしたが、数はそれほど多くない。そのため空き時間が多く、要するにベルノルトは少々暇だった。ただ暇だからといって、そう頻繁に大使館の外へ出るわけにもいかない。こうなると彼としては、早くクルシェヒルへ帰って久しぶりにダンジョン攻略でもしたかった。
彼のその願いは思わぬ形で半分だけ叶うことになる。それが後の世に言う「第二次西方戦争」の幕開けとなることを、ベルノルトはまだ知らない。いずれにしても、歴史はまた動き出そうとしていた。
ことの始まりは、弔問のために法都ヴァンガルを目指していたキャラバン隊が、賊に襲われたことだった。悲しい話ではあるが、今までもなかったわけではない。それで一度だけならば大きな問題になることはなかっただろう。
だが襲撃はその後、頻発した。狙われたのはキャラバン隊だけではない。村や町、寺院にいたるまでが襲撃を受けるようになった。短期間の内に襲撃被害が増えたことは明らかに異常だ。調査が行われた。
襲撃の犯人はすぐに判明した。遊牧民である。多くても一〇〇〇騎ほどの集団が各地に散らばり、襲撃と略奪を繰り返しているという。当然ながら放置はしておけない。ただ遊牧民の略奪隊の総数が分からず、ルルグンス軍だけで対処可能か不透明だ。
法都ヴァンガルもいつ襲撃を受けるか分からず、「イスパルタ朝に援軍を要請するべきではないか」という声が大きくなった。しかしそこへ反対意見を述べる者がいた。ミールワイス枢機卿である。彼は枢密院でこう主張した。
「最初から他力本願の姿勢とは嘆かわしい。そのようなことだから、我がルルグンス法国はイスパルタ朝の属国であるなどと言われるのだ」
ミールワイスは言う。略奪隊の総数は不明だが、彼らは分散して行動している。これは各個撃破の好機であり、数において優勢な討伐隊を出せば退けることは難しくない。敵は集結を図るかも知れないが、そのためには時間が必要なはずで、イスパルタ朝に援軍を求めるのはその兆しが見えてからでも遅くはないはずだ。
「国内の問題はまず自国で対処してこそ、独立国の矜持は保たれるのです。同盟国とはいえ、最初から他国の力をアテにしていて、どうして国家の独立を守れましょうか!?」
ミールワイスは枢密院でそう熱弁を振るった。彼のその演説に深く頷いたのは、他ならぬフサイン三世。彼はルルグンス法国の独立を死守せねばならぬと心に決めている。その姿勢を見せなければならない。そう思ったのだ。
「討伐隊を編成する」
フサイン三世の決断は下され、ただちに討伐隊が編成された。人馬五〇〇〇の部隊が二つ、合計で一万の兵が動かされた。ただ結論から言うと、この討伐隊はほとんど役に立たなかった。遊牧民の略奪隊は、この討伐隊を徹底的に避けたのである。
考えてみれば当然である。略奪隊の目的は略奪を行うことであり、ルルグンス軍と戦って勝利することではない。そして騎兵のみで構成された略奪隊と、歩兵を中心とする討伐隊では移動速度が段違いだ。
例えてみるなら、それは蜂と亀の追いかけっこだった。蜂の一刺しでは、亀の固い甲羅を貫くことはできないかもしれない。だが蜂の目的はあくまでも甘い花の蜜。動きの遅い亀を嘲笑うかのように翻弄し、阻まれることなく蜜を貪った。
討伐隊は略奪隊に散々振り回された、と言っていい。被害報告は山ほど来るし、「どこそこにいた」という話も聞くのだが、肝心の姿形を捉えることができない。「まるで幽霊を追いかけているようだった」と書き残している者もいる。敵と戦うことさえできずに被害を拡大させ続けたことで、討伐隊の面子は潰れた。
「早く蛮族どもを追い払え!」
そして討伐隊の面子はフサイン三世の面子である。一向に成果を上げられない討伐隊に業を煮やし、彼は檄文を送りつけた。ヴァンガルにいるベルノルトのことを、意識せざるを得ない面もあったのだろう。
檄文を受け取った討伐隊の指揮官らは成果を急いだ。部隊を小分けにして展開したのである。だがこれは悪手だった。一隊毎で比べた場合の戦力差が小さくなったことで、逆に討伐隊は略奪隊に蹴散らされてしまったのだ。討伐隊はほうほうの体でヴァンガルへ逃げ帰った。
こうして討伐隊はなんら戦果を挙げられなかったわけだが、その一方で兵を動かしたことが全くの無駄というわけではなかった。討伐隊は貴重な情報を持ち帰ってのである。すなわち「略奪隊の中にヴェールール軍の騎兵が混じっていた」という情報を。
「馬鹿な!? 今はまだ相互不可侵条約の有効期限内だぞ! それに宣戦布告も何もされていないではないか!」
フサイン三世はそうわめいて報告を信じなかった。あるいは信じたくなかったのかも知れない。いずれにしてもそのためにルルグンス法国の対応は致命的に遅れた。そしてマドハヴァディティア率いるヴェールール軍三万の姿が確認された時には、彼らはすでにヴァンガルまであと五日の距離に迫っていたのだった。
「なぜだ!?」
フサイン三世はそう叫んだ。なぜマドハヴァディティアは相互不可侵条約を破ったのか。なぜこれほど接近するまでヴェールール軍の存在に気づけなかったのか。その疑問に答えることはできる。だが今求められているのは回答ではなく、現実への対応策だった。そしてそれはベルノルトらイスパルタ人たちにも同じ事が言えた。
「さて、なかなか大変なことになりましたな」
落ち着いた声でそう言ったのは、弔問団の護衛部隊を率いるマルセルである。彼の発言に、フードやデニス、それにベルノルトも険しい表情をしながら頷く。状況は最悪に近い、と言わなければならなかった。
大使館では「略奪隊の中にヴェールール軍の騎兵が混じっていた」という情報をかなり早い段階で掴んでいた。ただこれが本格的な侵攻に繋がるかどうかは、否定的な意見の方が多かった。
マドハヴァディティアが動くとすれば、百国連合軍を編成するはず。だがその兆候は報告されていない。ならば今回の作戦はヌルルハーク四世の葬儀の邪魔をし、フサイン三世の面子を潰して彼の求心力を低下させることが目的ではないか。大使館ではそう考えていたのだ。
しかしその予想は外れた。マドハヴァディティアは動いた。子飼いとも言うべき、ヴェールール軍のみを率いて。いや、この状況からして遊牧民の略奪隊を嗾けたのも彼なのだろう。何にしてもイスパルタ朝の諜報網は裏をかかれた。
「遊牧民を陽動に使い、秘密裏に動かした子飼いの戦力のみでヴァンガルを強襲する。それがマドハヴァディティアの狙いでしょう。上手くやられました」
マルセルは悔しげに顔を歪めた。要するにマドハヴァディティアはヴァンガルに狙いを絞ったのだ。奇襲攻撃でヴァンガルを落し、ルルグンス法国を機能不全に貶めてから、改めて百国連合軍を組織する。そしてイスパルタ軍と戦うつもりなのだろう。
「……嘆いていても仕方がありません。今回は敵の方が一枚上手だった。それだけのことです。今考えるべきは、我々がどうするべきか、です。ただ残念ながら、悠長に考えている時間はありません」
冷静さを保った声でそう発言したのはフードだった。彼の言葉に、居並ぶ者たちは揃って一つ頷く。それを見てフードも一つ頷き、それからこう言葉を続けた。
「まずマルセル隊長にお伺いします。ヴァンガルはイスパルタ軍が来援するまで、持ちこたえる事ができると思いますか?」
「ヴァンガルの城壁は高く堅牢です。ただ肝心の戦力を損耗してしまいました。無傷の兵は一万に満たないでしょう。士気も低いと思われます。加えて法国はまだ援軍の要請を行っていません。来援には時間がかかります。
一方でヴェールール軍はおよそ三万。各地の略奪隊を合流させれば、最低でもあと三〇〇〇は戦力を増やせるでしょう。戦力比からすれば、ヴァンガルが陥落したとしておかしくはありません。まして指揮官はマドハヴァディティアですから……」
マルセルは険しい顔をして言葉を濁した。要するに、ヴァンガルの陥落は避けられそうにない、ということだ。皆が予想していた事とは言え、改めてそれを突きつけられて、雰囲気は重くなった。
「こうしてはいられません。ただちに殿下をヴァンガルから脱出させるべきです」
焦った様子でそう発言したのはデニスだった。極端なことを言えば、大使館の職員も弔問団のメンバーも全員ことごとく死んでしまったとして、イスパルタ朝全体としては何ら問題ない。ただしベルノルトとサラに関しては別だ。この二人の身柄がマドハヴァディティアに抑えられるようなことは、何としても避けなければならない。
マドハヴァディティアもサラのことはまだ把握していないだろう。だがベルノルトのことは承知しているはず。むしろこのタイミングで兵を動かしたと言うことは、彼の身柄を抑えて人質にすることを主要な目的の一つとしているに違いない。このまま何もしないでいれば、待っているのは破滅である。
それを避けるためには、一刻も早くヴァンガルを脱出し、イスパルタ朝本国へ落ちのびなければならない。この際、時間は黄金よりも貴重である。だがその作戦に懸念を示す者がいた。マルセルである。彼はこう述べた。
「ベルノルト殿下がヴァンガルにおられることや、その護衛戦力が五〇〇程度であることなどは、すでにラーヒズヤによって報告されているでしょう。となればマドハヴァディティアはそれを勘案した上で策を講じているはず」
「待ち伏せされていると、そういうことか?」
「十中八九。のこのこと出て行けば、勢子に追い立てられる兎のようになりかねませぬ」
渋い顔で確認するベルノルトに、マルセルも劣らず険しい顔でそう答えた。もちろん捕まると決まったわけではない。だがずいぶんと分の悪い賭けになるだろう。
「……法国から兵を借りましょう。殿下が囚われれば、イスパルタ軍も動くに動けなくなります。それで一番困るのは法国です。将来のことを考えればそれが最善手であると、フサイン三世も分かるはず」
十分な戦力があれば、敵の待ち伏せ部隊を突破できるだろう。そもそも待ち伏せされているのであれば、来援を請うためにもある程度の戦力を動かさざるを得ないのだ。であればこれは、ルルグンス法国にとってもそう悪い話ではない。フードの提案にそこかしこで頷く姿が見られた。
力を借りるのであれば、例えばユーヴェル商会などの候補がある。だが今必要されているのは、即物的な戦力だ。それも、最低でも五〇〇。それだけの戦力をすぐに用意できるとなると、やはりルルグンス法国という国家を頼るより他にない。そして他に有効な手立てもないように思われた。
「……ではただちに要請を行います。ブルハーヌ枢機卿に会わなくては」
「お供します」
フードが立ち上がると、デニスもそれに続いた。二人は慌ただしく大使館を後にして大聖堂へ向かった。
大聖堂へ赴いた二人は、少し待たされただけでブルハーヌに会うことができた。大聖堂も混乱しているようで、彼はやつれて見えた。「ふう」とため息を吐いてソファーに座る彼に、二人はまずこう尋ねた。
「……法国としての対応はどうなりましたか?」
「はっきりと決まった訳ではありませんが、籠城することになりそうです」
ブルハーヌは嘆息気味にそう答えた。籠城を主張したのはミールワイスだった。彼は討伐隊の編成を主張した時のように、熱弁をふるってこう主張した。
曰く「国主たる者が一戦もせずに逃げ出すのはいかがなものか。そのようなことをして法王の権威に傷がつくことを懸念する。またヴァンガルは大きな都である。たった三万では四方を厳重に包囲することなどできない。つまり相対したとしても脱出は容易である。ならば最初から逃げの姿勢を見せるべきではない」
「猊下は戦うつもりでおられます。『戦って敵を退けてこそ、法国の栄光を取り戻せるのだ』と。私は全軍をもってヴァンガルを脱出し、イスパルタ朝へ一時逃れるよう申し上げたのですが……」
そう言ってブルハーヌはため息を吐き、力なく首を左右に振った。安全策を講じるなら、ブルハーヌの案を採るべきだろう。だがそうやってマドハヴァディティアを退けたとして、ルルグンス法国に対するイスパルタ朝の影響力はさらに強くなる。
一方でミールワイスの言うことにも一理あるのは確かだ。城壁を頼りに戦えるので、数的な不利はある程度補える。フサイン三世がはっきり「戦う」と言えば、兵士らの士気も上がるだろう。
ブルハーヌの話を聞き、フードとデニスは顔を見合わせた。フサイン三世が戦うことを選んだとすれば、大使館にいるイスパルタ兵五〇〇は是非とも組み込みたい戦力だろう。また同盟国としてここで共に戦うという選択肢は十分にあり得る。だが二人は顔を見合わせると、当初の予定通り兵を貸して欲しい旨の要請を行った。
「待ち伏せの部隊が展開しているとなると、伝令兵を一人二人送っても無駄でしょう。ある程度まとまった戦力を使って、敵の警戒網を突破する必要があります」
無論、イスパルタ軍としてはベルノルトを本国へ逃がすことが最優先である。だがベルノルトの口添えがあれば、総督府の戦力を動かすなりして素早く援軍を送ることができるだろう。そもそも籠城戦とは援軍を期待して行うもの。最終的な勝利のためにも、ここは兵を貸してもらいたい。二人はそう説明した。
「……なるほど。ごもっともな事と思います。法王猊下に上奏してみましょう」
フードとデニスの話を聞き、ブルハーヌは大きく頷いてそう言った。そして彼は要請された件をフサイン三世に伝えるために立ち上がる。その際、フードとデニスも同行を申し出たが、ブルハーヌはまず一人でフサイン三世のもとへ向かった。
およそ一時間後、二人のところへ戻ってきたブルハーヌはさらに憔悴しているように見えた。その顔を見て、フードとデニスは結果が思わしくなかったことを悟る。そしてその予想通り、ブルハーヌはすまなそうに頭を下げてこう言った。
「申し訳ありませぬ……! 『いくら同盟国の頼みとは言え、籠城戦のための貴重な戦力を割くことはできぬ』と……」
ブルハーヌはかなり言葉を選んでいた。フサイン三世の言葉と態度は、とてもではないがそのまま伝えることなどできないものだったのである。
『ヴァンガルを脱出するだと!? 敵前逃亡ではないか! 何のための同盟だ! イスパルタ朝は我が法国を盾にするだけなのか!? ええい、役に立たん餓鬼共め! 奴らのために割く戦力など、一兵として存在せぬわ!!』
要約すればこのような内容のことを、フサイン三世は延々と喚き続けた。「ベルノルトを大聖堂に保護するから、イスパルタ兵を籠城戦に参加させろ」とまで言い出した。ブルハーヌはそれを何とか宥め、こう言った。
『籠城するばかりでは埒が明かぬのも事実です。イスパルタ兵は援軍を呼びに行くのだとお考え下さい』
ブルハーヌに説得され、フサイン三世はイスパルタ兵らのヴァンガル脱出には同意した。だがその一方で、兵を貸すことは強硬に拒否した。「なぜ逃げ出す者どものためにヴァンガルを手薄にしなければならないのか」。フサイン三世はそう考えていた。
もっともブルハーヌはそういう反応を全て見越していた。それでフードとデニスを同席させなかったのである。もっとも外れて欲しいとも思っていたので、自分の予想が当たってしまったことに彼は内心で嘆息した。
だが嘆息ばかりもしていられない。ベルノルトの身柄をマドハヴァディティアに渡すわけにはいかないのだ。そしてブルハーヌにはそのための腹案があった。それを彼は二人にこう告げた。
「実は、大聖堂にはダンジョンの入り口が隠されています。そしてそのダンジョンを使えば、ヴァンガルを脱出することができます。法王猊下からそのルートの使用許可をいただきました。このルートを使って、ベルノルト殿下にはヴァンガルから脱出していただいてはいかがでしょうか?」
ベルノルト「マドハヴァディティアがアップを終えていた、だと!?」




