王たちの会食
ジノーファがテントの中に入ると、中にはすでに人がいた。人数は全部で九人。この人数は事前に話し合って決められたもので、ジノーファがテントの中へ連れてきたのも、自身を含めて九人だ。残りはテントの外で待機する事になっている。
そしてテントの中にいた九人のうち、一人だけが椅子に腰掛けていた。彼は腕を組み、瞑想するかのように目を閉じている。その男は大柄で、良く日に焼けた肌をしており、黒い髪の毛は短く切り揃えられていた。身につけた鎧も立派なもので、彼こそがマドハヴァディティアであると思われた。
ジノーファが現われたことに気付いたのだろう。マドハヴァディティアがゆっくりと目を開けた。彼の鋭い眼光がジノーファを見据える。ジノーファはそれをごく自然に受け止めた。
「……イスパルタ王とお見受けする」
ジノーファに視線を向けたままゆっくりと立ち上がり、マドハヴァディティアはそう言った。特別低いわけではないが、重々しい声だ。
ガーレルラーン二世に似ているかとも思ったが、ジノーファはすぐに内心で首を横に振る。彼は氷山のような人だった。一方でマドハヴァディティアは、冷たさよりも剣呑さが勝る。抜け目のない獣のような男だ、とジノーファは思った。狼のよう、とは言いたくなかった。
「……いかにも。貴公がヴェールール王だろうか?」
「うむ」
マドハヴァディティアは一つ頷いた。ただ、彼の目に少しだけ落胆の色があるのをジノーファは見逃さない。彼は多分「百国連合の盟主殿」と呼ばれるのを期待したのだろう。そうすれば、彼の権威を高める事に繋がる。
だが実際問題として、「百国連合の盟主」などという地位は規定されていない。だから彼が実質的に「百国連合の盟主」であったとしても、公式にはヴェールール王と呼ぶより他にないのだ。
マドハヴァディティアの視線が、ジノーファからそれて彼の背後に向く。ジノーファが連れてきた護衛を確認しているのだ。そして途中で一瞬、マドハヴァディティアが顔をしかめた。その理由に、ジノーファはもちろん心当たりがある。
ジノーファは自分を除く八人の中に、ベルノルトを混ぜていた。特別に集められた腕利きの中に、一人だけ弱冠十五歳の少年が混じっているのだから、そこに違和感を覚えるのは当然だろう。ちなみにメフライルはこの八人の中には入っておらず、他の騎士たちと一緒に外で待機している。
マドハヴァディティアは腕利きの中に混じった少年について、あれこれと詮索したりはしなかった。その少年がジノーファの息子と気付いたのかは分からないが、「どうでもよいこと」と思ったのだろう。ジノーファもことさら彼を紹介したりはせず、二人はほぼ同時に椅子に座った。
テントの中には、長机が一つ用意されている。ジノーファとマドハヴァディティアはそれぞれその短辺に座って向かい合った。二人とも帯剣している。だがこの位置ならば、立ち上がって抜剣しても刃は相手に届かない。
「……此度の戦、我が軍にとっては痛恨事であった。まさかほとんど戦うことなく敗れようとは、な」
椅子に座って向かい合い、最初に口を開いたのはマドハヴァディティアだった。その口調は自嘲気味で、口元には苦笑が浮かんでいる。とはいえ、恨み言を言っているふうではない。はらわたが煮えくりかえったはずだが、それはもう呑み下したようだ。そういうところは流石だな、とジノーファは思った。
「外へ打って出るのを、いささか急いたようにお見受けする。余計なお世話とは思うが、しばらくは内を固めることに注力されてはいかがか」
「耳の痛い話だ。まあ、そうせざるを得まい。そのためにも、この調印、つつがなく終えねばならぬと考えてござる」
「それは重畳」
ジノーファがそう応えると、頃合いを見計らって合意文章が二通用意された。ジノーファとマドハヴァディティアが両方にサインと押印し、それぞれが一通ずつ保管することでこの合意文章は有効になるのだ。
二人が一通目にサインと押印すると、それぞれの護衛が仲介して合意文章を交換する。なおこの護衛は腰に吊った剣を外している。そしてジノーファとマドハヴァディティアは二通目にサインと押印すると、二人はそれをお互いに見えるように相手に示した。
その瞬間、拍手が起こった。演出じみた拍手ではあるが、この瞬間に合意が無事まとまったことは事実だ。ジノーファもふっと表情が緩む。マドハヴァディティアも満足げに頷いていた。
それからジノーファとマドハヴァディティアは合意文書を片手に持ったまま、歩み寄って握手を交わした。マドハヴァディティアがギリギリと力を込めてきたので、ジノーファもそれを迎え撃った。
ジノーファもマドハヴァディティアも、顔には笑みを浮かべている。だが双方、目の奥は笑っていない。二人の視線がこすれる。貼り付けただけの笑みなど、どちらも目に入っていない。火花が散る前に、彼らはお互いの手を離した。
こうして講和条約の調印は終わったわけだが、双方ともこれで早々に引き上げるわけではなかった。ささやかではあるが、会食が予定されているのだ。それで二人はまた椅子に座り直す。それぞれの護衛が彼らの前に食事を並べた。
これらの食事はすべてそれぞれが用意して持ち込んだものである。正式な会食ならホスト役が準備するのだろうが、今はこういう情勢であるから、饗された食事となると毒殺を警戒しなければならない。それで食事については、こうしてお互い弁当を持ち込んだわけである。
ジノーファの前に並べられた食事は、色鮮やかなものだった。新鮮な野菜や果物がふんだんに用いられている。メインディッシュは兎肉のソテーと、白身魚のムニエル。魚貝類をたっぷりと煮込んだスープもある。パンも硬い黒パンではなく柔らかい白パンだ。ワインは本国から持ち込んだ最高級品で、さらには甘い菓子も用意されていた。
超大国の〈大王〉に饗される食事としては、かなり質素なものだ。しかしここは戦場である。日持ちのする保存食ばかりということも珍しくない。それを考えれば特に新鮮な野菜や果物は非常に貴重だし、また鮮度の良い魚には黄金にも等しい価値がある。
これらの食材は、もちろんあらかじめ持ち込んだものではない。新鮮な野菜や果物、それに白パンは周辺の街などから買い付けたもので、兎は今朝仕留めてきたものだ。最も手間がかかっているのは魚貝類で、ルルグンス法国のヘラベートから特殊な魔道具を用いて輸送させたものだった。
もちろん、ジノーファは常日頃からこのようなものを食べているわけではない。むしろ彼はいつも一般の兵士たちと同じものを食べている。だがマドハヴァディティアの前でまさか黒パンをかじるわけにはいかない。それでこのように金のかかった食事を用意したのである。必要なこととはいえ、イスパルタ朝の面子を保つのも楽ではない。
一方でマドハヴァディティアも同じようなことを考えていたのだろう。彼の前に並べられた食事も戦場には似つかわしくない豪華なものだった。香りからして、香辛料を大量に使っている。西方諸国において香辛料は貴重な品のはずで、それをふんだんに使えるということは、かなりの財力があることを示している。
(ただ……)
ただいささか下品だな、とジノーファは思った。漂ってくる香りからして、マドハヴァディティアの料理には香辛料がやたらめったらに使われている。あれでは多分、香辛料の味しかしないだろう。少なくとも、ジノーファは食べてみたいとは思わなかった。
食事が始まると、ジノーファとマドハヴァディティアは雑談に興じた。二人とも交易に強い関心を持っているので、舶来品などのことで話は盛り上がった。食事を半分ほど食べ終えたところで、マドハヴァディティアがこう言った。
「……ところでイスパルタ王。そのワインを一杯、味見させてもらえぬかな?」
「ええ、どうぞ。ヴェールール王のワインも、一杯いただきたい」
「もちろんだとも」
マドハヴァディティアが快諾したので、二人は互いのワインを一杯ずつ交換した。ジノーファの銀製の杯に注がれた赤ワインは、黒と見間違うほどに色味が濃い。そっと揺らしてみると、香辛料や燻製肉を思わせる特徴的な香りが彼の鼻腔をくすぐった。なかなか個性的なワインのようだ。
ただ呑んでみると、色や香りの印象よりもずっと滑らかな味わいだった。渋みは少なく、コクが深い。その中で固くて鋭い酸が、良いアクセントになっている。鹿肉あたりに良く合いそうだな、とジノーファは思った。
一方でマドハヴァディティアの杯には、白ワインが注がれた。黄金色に輝くその色彩に、彼は「ほう」と息をもらす。そして少量を口に含んでゆっくりと味わい、それからこう評した。
「華やかで気品のある香り。果実味は十分に感じられるが、甘ったるさはない。むしろ辛口だな、これは。……ふむ、僅かに塩味もあるか。海の近くの産地と見た」
美味いな、とマドハヴァディティアは呟く。そしてジノーファのほうに視線を向けてこう尋ねる。
「それで、いかがかな? 我が国のワインは」
「強い個性がありつつも、存外呑みやすい。良いワインだ」
ジノーファがそう答えると、マドハヴァディティアは上機嫌に笑った。その後、二人はお酒の話題で盛り上がった。イスパルタ朝には、同盟国であるロストク帝国やランヴィーア王国のみならず、世界中のお酒が集まってくる。ジノーファがそのことを話すと、マドハヴァディティアは膝を叩いてうらやましがった。
「気候や風土が異なれば酒の味もまた変わるというもの。異国の酒を心ゆくまで味わってみたいものだ」
「正式に通商条約が結ばれれば、船の行き来も盛んになるはず。ヴェールール王の望みも、近いうちに叶うのではないかな」
「はは、楽しみなことだ。……ところで異国と言えば、イスパルタ王はかつてロストク帝国で暮らし、かの炎帝とも親しい間柄と聞く」
「悪い遊びの幾つかはガルガンドーで覚えたものだし、あの頃、ダンダリオン陛下には随分お世話になった。それに何といってもわたしにとっては義理の父上だ」
「炎帝といえば、聖痕抜きには語れぬ。イスパルタ王は炎帝の聖痕を見たことがお有りか?」
「二度、いや三度か。拝見したことがある。炎を思わせる、立派な聖痕だった」
「そうか。そのような機会に恵まれて、うらやましいことだ」
そう言ってマドハヴァディティアは頭を左右に振った。その仕草はやや大仰で芝居がかっている。それを見て、ジノーファはイヤな予感を覚えた。そしてその予感は当たることになる。マドハヴァディティアは続けてこう言ったのだ。
「聖痕持ちはこの世に僅かしかいない。聖痕を直に見ることができるのも、ほんの一握りだ。権力を振りかざし金を積めば見れるというものではない。俺も成長限界に達してしまった。イスパルタ王は聖痕持ちと聞く。この機会に是非、その聖痕、見せてもらいたい」
にやりと不遜な笑みを浮かべて、マドハヴァディティアはそう頼んだ。それを聞いて顔色を変えたのは、ジノーファではなくむしろ彼の護衛たちだった。ジノーファの聖痕は背中に現われる。それを見せろというのは、この場で上半身裸になれということ。無礼極まりない申し出であり、護衛たちが気色ばむのも当然と言えた。
一方でマドハヴァディティアの護衛たちは彼の後ろで顔色を悪くしていた。どうやらこれは彼らの主の完全な独断と思いつきらしい。とはいえマドハヴァディティアが口にした以上、その言葉はもう取り消せないし、彼は取り消す気もないだろう。
ジノーファは「ふむ」と呟いた。後ろにいる護衛たちが、随分と腹を立てているのが伝わってくる。中には剣に手をかけている者もいるようだ。それでも彼らが動かないのは、ジノーファが怒りを露わにしていないからに過ぎない。急速に剣呑さを増すテントの中、しかし次の瞬間、その空気はまとめて吹き飛んだ。
「っ!?」
ジノーファが聖痕を発動させたのだ。凄まじいプレッシャーが、テントの中で吹き荒れる。それをまともに浴びせられて、マドハヴァディティアはニヤついていた頬をそのまま引きつらせた。まるで冷や水を浴びせられたかのようだ。そしてジノーファは聖痕を発動させたまま、いつもと変わらぬ口調でこう言った。
「聖痕を見せるのは構わないが、それならばヴェールール王にも代わりに見せてもらいたいものがある」
「ほ、ほう。何を見せれば良いのだ?」
「心臓を」
ジノーファのその言葉は、聞く者の心胆を寒からしめた。彼はことさら凄んだわけではない。しかしいつもと変わらないからこそ、のし掛かるような圧がある。マドハヴァディティアの護衛たちが顔色を失っているのは、今はもう主の無茶な発言のためだけではあるまい。
吹き荒れるプレッシャーに曝されていたのは、彼らだけではない。ジノーファの護衛たちも、ついさっきまで気色ばんでいたというのに、今は身体を硬くして直立不動の姿勢を崩さない。ベルノルトも恐ろしくて父王の姿を見ていられなくなり、視線をテントの支柱に逃がして、震える身体を何とか押さえつけた。
「俺の心臓など、珍しくもなんともあるまい」
そう応えるマドハヴァディティアは、身体が若干仰け反っており、声も上ずっているように聞こえた。それに対し、ジノーファは両肘をテーブルについて手を組み、身体を僅かに前屈させて、さらに一歩踏み込むかのようにこう言った。
「いいや、ヴェールール王の心臓には毛が生えていると聞く。そのような人間、この世に二人といるまい。是非見せてもらいたい」
無論、「マドハヴァディティアの心臓には毛が生えている」などという話はジノーファも聞いたことがない。要するにこれは痛烈な皮肉だった。「お前のように厚顔無恥な人間は、心臓に毛でも生えているに違いない」ということだ。
「ふ、ふふ。いや、失礼。少々飲み過ぎたようだ。好奇心を抑えきれず、無茶なことを言った。許されよ」
「謝罪を受け取ろう。では、この件は水に流すということで」
マドハヴァディティアが「うむ」と言って頷くのを見てから、ジノーファは聖痕を消した。その途端、嵐のように吹き荒れていたプレッシャーが消える。誰かが「ふう」と安堵の息を吐く。それを咎める者はいなかった。
プレッシャーが消えると、マドハヴァディティアはひったくるように杯を掴み、ワインを一息で飲み干した。ジノーファは飲み過ぎを注意してやろうかと思ったが止めた。どうせ「飲み過ぎ云々」など方便なのだから。
代わりにジノーファはゆっくりと、味わいながら杯を傾けた。それを見てマドハヴァディティアは僅かに顔を歪める。彼の目には、ジノーファが勝利の美酒を飲んでいるように見えたのだ。まあジノーファとしても、そういう風に飲んで見せたのは否定しないが。
その後、食事を終えると、マドハヴァディティアは護衛を伴い早々に自陣へ引き上げた。ジノーファも同様に自陣へ引き上げる。さらにその後、両軍はそれぞれ東西へ分かれた。こうして、世に言う「第一次西方戦争」は終結した。
ユスフ「心臓に毛が生えていそうなのは、むしろウチの陛下ですよね」




