交渉開始
和平交渉すると決めると、マドハヴァディティアの動きは早かった。彼は麾下三万六〇〇〇の兵を率いてオリッサ平原へ向かったのである。
これに反対する幕僚は多かった。イスパルタ軍の戦力は味方の二倍以上。無論、すでに「和平交渉を行いたい」と使者を送ってはいるが、イスパルタ軍からの返答はまだない。不用意に近づけば、攻撃されるおそれがあった。
『せっかくここまで来たのだ。イスパルタ王の顔をおがむぐらいのことはしなければ、せっかく兵を挙げたかいがないというものよ』
マドハヴァディティアは豪胆にそう言って周囲を説得したという。彼は颯爽と全軍の先頭を進んでオリッサ平原を目指した。
さて、オリッサ平原に陣を張るイスパルタ軍のもとへ和平交渉を求めるマドハヴァディティアからの使者が到着したのは、その地で決戦が行われてから八日後のことだった。その間、ジノーファは軍を動かすことはしなかったものの、方々に使者を出して精力的に調略を行っていた。
その目的は、ヴェールールとマドハヴァディティアに対抗する勢力を作ることである。今後、マドハヴァディティアが東へ進もうとする度にイスパルタ軍が出張ってくるのは、面倒であるしまた負担が大きい。そこで現地にいわば反マドハヴァディティアの勢力を作りそれを後援することで、防波堤の役割を負わせようと考えたのだ。
ただその一方で、そう簡単に反マドハヴァディティア勢力を作り出せるとは、ジノーファも考えていない。当面は現地で親イスパルタとなり得る勢力や有力者を見いだすのが目的であり、要するに顔見せ的な意味合いが強かった。そしてそんなときに、マドハヴァディティアからの使者が到着したわけである。
「早かったな」
幕僚を集めて開いた軍議の冒頭、ジノーファはポツリとそう呟いた。ちなみに使者は別のテントで待たせている。その呟きのとおり、彼を含めたイスパルタ軍の幕僚たちは、マドハヴァディティアがこんなにも早く和平交渉を求めてくるとは思っていなかった。
なるほど、確かに先の決戦においてイスパルタ軍は大勝した。しかしそれは敵戦力が壊滅したことを意味しない。敵兵の多くは逃げてしまった。イスパルタ軍も厳しく追撃をしたわけではない。オリッサ平原にまだ到着していなかった敵部隊もあるだろう。それらの戦力を一つにまとめ上げれば、その規模は侮りがたいものになるに違いない。
無論イスパルタ軍としても、敵が強大になるのをみすみす見逃すつもりはない。しかしだからこそ、この先二度三度と決戦を繰り返さなければなるまいとジノーファらは考えていた。
だがマドハヴァディティアは二度目の決戦を挑むことなく、和平交渉を行うことを選択した。イスパルタ軍としては想定外の展開だったが、しかし悪い方へ転がったわけではない。むしろ望外の展開と言うべきで、和平交渉に応じる方向で軍議はまとまった。
「さて、問題は落し処ですな」
使者に「和平交渉に応じる」旨を返答して送り返した後、そのまま続けられた軍議の席で幕僚の一人が苦笑気味にそう発言した。ジノーファも少し困ったようにして頷いている。その原因はルルグンス法国にあった。
オリッサ平原の戦いに勝利したことを、ジノーファは法都ヴァンガルにも報せていた。その報せを受けて、法王ヌルルハーク四世は大いに喜んだ。そして戦争それ自体に勝ったのだと思い込み有頂天になった。彼はすぐさまイスパルタ軍のところへ戦勝を祝う使者を出し、同時にある頼み事をした。
曰く「交渉権は譲るので、法国の取り分として二〇州を確保してほしい」
最初これを聞かされたとき、ジノーファをはじめイスパルタ軍の幕僚たちはその意味が分からなかった。そして意味が分かってくると、今度は揃って微妙な顔つきになる。誰かがやるせないように「はあ」とため息を吐く。ジノーファもため息は堪えたものの、しかし不快感は隠せなかった。
『いやはや、恥知らずなことで……』
幕僚の一人が呟いたその言葉が全てだった。今回確かにイスパルタ軍は勝利を収めたが、百国連合域内へ深く踏み込んだわけではない。この状況で二〇州を要求するのは明らかに過大だ。となればヌルルハーク四世の要請は、「このまま百国連合を蹂躙せよ」という意味にも受け取れる。
だが百国連合軍と戦うその主力は、あくまでもイスパルタ軍である。ヌルルハーク四世にそのつもりはないのかも知れないが、要するに彼の要請は「イスパルタ軍を顎で使ってやるぞ」と言っているに等しい。ルルグンス法国が自力で敵を退けられないことを考えれば、これを恥知らずと言わずして何と言えば良いのだろう。
『新たな国土が欲しいのなら、自ら切り取るべきではないか』
それがジノーファらの思うところだった。ルルグンス法国はイスパルタ朝の友好国である。だからこそこうして大軍を動員し、敵を打ち払った。だがヌルルハーク四世の要請は、彼がイスパルタ軍を利用することしか考えていないような印象をジノーファらに与えたのだ。
まあ、ヌルルハーク四世の要請に唯々諾々と従うべき理由はない。使者にはそっけなく「善処する」とだけ応え、ジノーファらはひとまずその要請については考えないことにしていた。前述した通り、この先も幾度か戦わねばならないと考えていたからである。和平交渉についてあれこれと考えるのは時期尚早と思っていたのだ。
しかし想定よりずっと早く、マドハヴァディティアが和平交渉を求めてきた。そしてイスパルタ軍としても、それに応じると返事をした。となればヌルルハーク四世の要請をどう扱うのか、考えねばならない。それでジノーファが意見を求めると、幕僚の一人がまずこう発言した。
「まさか馬鹿正直に二〇州の割譲を求めるわけにはいきますまい。頭がわいたのかと思われまする。まとまる話もまとまりますまい」
その言葉に皆が笑った。ジノーファも苦笑している。だが誰も否定はしない。それくらい非常識な要求なのだ、二〇州というのは。マドハヴァディティアは「イスパルタ軍はまともに交渉する気がない」と受け取るだろう。
とはいえルルグンス法国は友好国であるし、今回も一万の兵を出している。分け前を得る資格はあるのだ。となればまったく無下にしてしまう事はできない。では、どうするのか。
「とはいえ、最初にふっかけるのは交渉事の常。まずは五州程度の割譲と賠償金を求めてみては如何でしょうか。それが通ったなら、土地は法国へ渡せば良いでしょう」
別の幕僚がそう提案する。ジノーファらも一つ頷いた。ただ、恐らくマドハヴァディティアは僅かばかりの土地も譲る気はないだろう。
だが最初にふっかけておけば、本命の要求を通しやすくなるし、ルルグンス法国のこともしっかりと考えていたと言える。もし法国が不満を示すようなら、「独自に交渉しろ」と突き放すだけだ。
その後、ジノーファらはさらに条件を詰めた。基本的には賠償金と相互不可侵条約を結ぶことが軸になりそうだ。イスパルタ朝優位の通商条約を結ぶことも検討されたが、自尊心が強いマドハヴァディティアがそれを呑むのかは分からない。交渉がこじれるようなら取り下げもやむなし、と言うことになった。
また交渉がまとまるまでは、調略の手は緩めないことが確認された。交渉は決裂するかもしれず、その場合戦いは続く。その可能性も踏まえなければならない。それに調略を続ければ、それ自体がマドハヴァディティアに対する良い圧力となるだろう。
そしてその軍議から二日後。マドハヴァディティア率いる三万六〇〇〇の兵がオリッサ平原に到着した。主力となっているのはヴェールール軍だが、それとは違う旗もちらほらと見受けられる。どうやら最初の決戦で敗走した部隊のいくらかが、マドハヴァディティアのところへ合流したらしい。
百国連合軍はイスパルタ軍から十分な距離を取って陣を張った。そして双方合意の下、向かい合う両軍の真ん中にテントが立てられる。和平交渉はそのテントで行われることになる。
マドハヴァディティアは「イスパルタ王の顔を見に行くぞ」と言っていたが、当然のことながらいきなり両者が顔を合わせることはなかった。交渉はまず実務者のレベルで行われ、条件のすりあわせと条文の作成が行われることになる。
最初の交渉で、イスパルタ側はまず以下のことを要求した。すなわち、国境際から五州を割譲、賠償金として金貨十万枚、イスパルタ朝に有利な通商条約、五年間の相互不可侵条約である。
これに対し、百国連合側は「相互不可侵条約以外は受け入れられない」とした。通商条約も締結は構わないが、「あくまでも対等な条約」を彼らは求めた。交渉役の態度に卑屈なところはなく、むしろ堂々としたものであったという。
「マドハヴァディティアの目的は、時間稼ぎかも知れませぬな」
初日の交渉が終わり、軍議を開いてその報告を聞いていると、幕僚の一人がそう発言した。つまり交渉を引き延ばして時間を稼ぎ、その間に他の部隊を合流させて戦力を増強する、というわけだ。十分にあり得ること、と言って良い。
特にマドハヴァディティアが雇ったという、遊牧民の騎兵一万が合流すれば、その戦力は侮ることができない。無論、戦って負けるつもりはないが、交渉を早めにまとめるべきか、迷うところではある。
「明日の交渉で、むこうがどの程度折れるのか。それ次第でしょうなぁ」
別の幕僚のその発言に、ジノーファは一つ頷いた。マドハヴァディティアが本気で交渉をまとめようとしているなら、多少なりとも折れて条件を呑む姿勢を見せるだろう。だが時間稼ぎが目的なら、のらりくらりとかわそうとするはず。もっとも、あえてそうやって見せてイスパルタ側の譲歩を引き出すつもり、ということも考えられるが……。
「しばらくは交渉の行方を注視するとしよう。ただし周辺の警戒は怠らないように。敵の増援については特に注意してくれ」
ジノーファはそう指示をだした。幕僚らは「御意」と答えて畏まる。それを見て重々しく頷いてから、ジノーファはさらにこう言った。
「交渉はいつ打ち切ってくれても構わない。現場の判断を尊重する」
「はっ!」
「ハザエルはそのことを踏まえ、いつでも兵を動かせる状態にしておいてくれ」
「了解でございます」
そう言ってハザエルは粛々と頭を下げた。その後、ジノーファはさらに幾つかの指示を出す。そして軍議が終わり幕僚たちが解散すると、黙って軍議の行方を見守っていたベルノルトが父王にこう尋ねた。
「父上は、マドハヴァディティアを討つおつもりなのですか?」
「ベル、なぜそう思う?」
目を輝かせる息子に、ジノーファは苦笑しつつそう問い返す。それに対し、ベルノルトはこう答えた。
「マドハヴァディティアはイスパルタ軍の手の届くところまで来ました。それにイスパルタ軍は数の上で有利です。ここでマドハヴァディティアを討てば、イスパルタ朝は一挙に西方諸国を席巻することができます!」
見通しが甘いとは言え、ベルノルトの言うことは間違っていない。敵の大将が目の前にいて、しかも敵に対して二倍以上の戦力を有しているこの状況は、確かにまたとない好機であろう。
それを考えれば、交渉を決裂させて一戦するというのは、十分選択肢になり得る。本当にマドハヴァディティアを討てるかは不透明だが、勝てばその後の交渉でさらに優位に立てるだろう。国土の割譲を呑ませることも、恐らくは可能だ。
そもそもイスパルタ軍としては、さらに一度か二度戦うことは覚悟していたのだ。仮に戦端が開かれたとして、それは想定内の出来事である。そして戦うのであれば敵の増援が到着する前に、というのは合理的だ。
実際、ジノーファも戦うという選択肢を排除していない。先ほども、ハザエルにそのつもりで準備しておくようにと命じている。しかしその一方で、戦うと決めたわけではない。むしろ彼個人の心情としては、現在の交渉がまとまれば良いと思っていた。
その理由は、やはり地理的なものだ。地図を広げれば簡単に分かることだが、イスパルタ朝と西方諸国の間にはルルグンス法国が位置している。つまりこの地域に新たな国土を得ても、それは飛び地となるのだ。
恐らくは持て余すことになる。ジノーファはそう思っていた。となると土地を割譲させたとして、それはルルグンス法国に回すのが自然だ。その分、法国から代替地をもらうという手もあるが、ヌルルハーク四世は嫌がるだろう。
だがそうなると、イスパルタ朝としてはメリットが少ない。ただ働きとは言わないが、国益を考えた場合、これ以上戦う意味があまりないのも事実だ。ならばいたずらに兵を損なう前に交渉をまとめた方が良い。
最初の決戦で、イスパルタ軍の強さは十分に見せつけたのだ。マドハヴァディティアの権威に疑問符を突きつけることもできた。調略の下地もできあがりつつある。あとは百国連合内に親イスパルタ朝の勢力を作ってマドハヴァディティアに対抗させれば、今後彼が兵を挙げることは難しくなるだろう。
ジノーファとしては、そういう展開を思い描いている。ついでに百国連合がイスパルタ朝にとって新たな市場になれば良いと考えているが、それに関してはどう転ぶのかまだ分からない。いずれにしても、戦うことだけが選択肢ではないのだ。
「ベル。まず基本的なこととして、戦争とは外交の一種だ。だからこそ話し合いで終わらせることができる。無秩序で果てのない殺し合いではないし、またそうしてはいけない。戦争を始めたなら、必ず終わらせなければならない。それが戦うと決めた者の責任だ」
ジノーファはベルノルトの肩に手を置いてそう言い聞かせた。ベルノルトは神妙な顔をして「はい」と頷いたが、しっかりと分かっているわけではないだろう。いま彼の頭にあるのは、戦で手柄を立てること、それだけだ。
ベルノルトはこれが初陣なのだから、仕方がないのかも知れない。だが彼にはもっと高い視点が必要だ。戦場だけではない。もっと広く、巨視的な視点で物事を眺めて欲しいのだ。そうすれば、モノの考え方だって違ってくる。
ベルノルトにはこの初陣でそういうものを学んで欲しい。その方が手柄首を上げるよりもよほど今後のためになる。ジノーファはそう考えながら、さらにこう言葉を続けた。
「……そして同時に戦争は手段でもある。つまり戦争で勝利すること、それ自体が目的ではない。重要なのは、戦後の情勢や国同士の関係をどうしたいのか、それを考える事だ。それが為政者の仕事だよ」
ジノーファは息子にそう言い含めた。ベルノルトは分かったような分からないような顔をしながら、それでも「はい」と言って一つ頷く。それを見て、ジノーファは柔らかい微笑みを浮かべた。
彼には息子に教えてやりたいことがまだたくさんあった。為政者の視点で戦争を見るには、戦略や戦術以外にも多くの要素を考える必要がある。だがその全てを説明しようとすれば日が暮れてもまだ時間が足りないだろう。何より、ベルノルトも一度に全てを理解することはできない。
それよりは今教えたことをきちんと考えて欲しい。そう思い、ジノーファは話を切り上げた。そしてそのタイミングを見計らい、参謀の一人が彼に声をかける。
「陛下、少しご相談したいことが……」
「分かった。……ベル、また後で話そう」
ベルノルトが「はい」と応えると、ジノーファは身を翻した。そして声をかけた参謀の話を聞きながら、その場を後にする。ベルノルトはその背中を見送りながら、心の中でポツリとこう呟いた。
(父上。王になれない私が、為政者の仕事を学ぶ意味はあるのでしょうか……?)
ベルノルト「ええ!? もう交渉?」




