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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
外伝 誰がために鐘は鳴る

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マドハヴァディティア


 マドハヴァディティアは全身に覇気を滾らせていた。彼は今年で四六歳になる。三三歳のジノーファと比べると十三歳年上であり、一回り上の人物と言って良い。眼光鋭く、馬上にあって甲冑を身に纏うその姿は威風堂々としている。まさに王者の風格を備えた人物と言っていい。


 彼は今、自らの直轄軍ともいうべきヴェールール軍三万を率いてオリッサ平原へ向かっている。そこで西方諸国の各軍を糾合し、百国連合軍を催すためだ。その数は十万に迫ろうかという規模で、かつて西方諸国においてこれほどの大軍が組織された例はない。ただこの一事だけでも、マドハヴァディティアは歴史に名を残すことができるだろう。


 さて東へ向かうその途中、マドハヴァディティアは前方から一人の兵士が懸命に馬を駆ってくるのに気付いた。護衛が先行して誰何を行うと、先にオリッサ平原に到着していた他国の軍の伝令兵であるという。


「急ぎマドハヴァディティア王にお伝えしなければならないことがある」


 伝令兵がそう言ったので、護衛たちは彼をマドハヴァディティアの下へ案内した。そしてマドハヴァディティアは伝令兵の口から思わぬ報告を受けることになる。オリッサ平原に集まっていた友軍が、なんと敗走したというのである。それを聞き、彼は顔に困惑の色を浮かべてこう聞き返した。


「はあぁ? 負けた? 一体、誰が誰に負けたというのだ?」


 マドハヴァディティアは伝令兵の言っていることの意味がさっぱり分からなかった。まさか友軍同士で仲間割れでもしたというのか。彼の頭にまず真っ先に浮かんだ可能性はそれだった。


 百国連合の諸国はほんの二年ほど前までは群雄割拠の乱世にあったのだ。因縁もあれば恨みもあろう。馬鹿馬鹿しい話ではあるが、何かの拍子で諍いが起こりそのまま戦闘へ突入することも、決してあり得ないことではない。それでマドハヴァディティアは表情を険しくしながらこう尋ねた。


「仲間割れか? どことどこが争った?」


「違いますっ、敵です! イスパルタ軍が現われたのです!」


 しかし伝令兵は首を激しく横に振りながら、叫ぶようにしてそう答えた。それを聞き、マドハヴァディティアは眉間に深いシワを刻みながら、また「はあぁ?」と聞き返す。彼もまた、「オリッサ平原に集結中の百国連合軍が敵に襲われることはあり得ない」と考えていたのである。


 しかし詳しく話を聞く内に、マドハヴァディティアは徐々に表情を強張らせていった。周囲にいる彼の部下たちは、怖れのために血の気を失い顔面を蒼白にしている。それは全く受け入れがたい話だった。


 一体どうして信じられようか。オリッサ平原に集まっていたおよそ四万の兵がことごとく蹴散らされ、さらに運び込まれていた大量の物資が失われたなどと。それはマドハヴァディティアの歴史的偉業が、始まる前に大きく躓いてしまったことを意味していた。


「貴様ぁ! う、嘘を申すな!?」


「嘘ではありませぬ!」


「信じられるかっ、そんな、そんな……!」


 報せを聞いた者たちは騒然とし始めた。「嘘だ、嘘だ!」とわめく者、苛立って怒鳴る者、それを宥める者。混沌とした状況を鎮めたのは、マドハヴァディティアの不機嫌さを押し殺した一言だった。


「黙れ」


 その声音に険を感じ取り、ヴェールール軍の幕僚たちは静まり返った。そして今度は一転して重苦しい沈黙がその場を支配する。誰かが何かを言うべきなのだが、誰も最初の一人になりたがらない。ややって、ようやく腹立ちを押さえ込んだのか、マドハヴァディティアが口を開いて意見を求めた。


「ラーヒズヤ、どうするべきと考える?」


 意見を求められたのは、先ほどの喧騒の中でも沈黙を保っていた男だった。名はラーヒズヤ。ヴェールール軍の参謀長であり、マドハヴァディティアの右腕とも言うべき男だ。名前を呼ばれた彼は、主君に一礼してからこう答えた。


「まずは、オリッサ平原の状況を確認するべきと考えます」


 イスパルタ軍がオリッサ平原に現われたのはおそらく事実であろう。しかし報告からは味方が混乱していたことが窺える。全面敗走したのか、それとも大きな損害を出しながらも何とか踏みとどまったのか、あるいは負けたにしても後退して抵抗を続けているのか。まずはそれを確認するべきであるとラーヒズヤは答えた。


「何よりイスパルタ軍は今どこで何をしているのか、それを把握しないことには我々としても動きようがありませぬ」


「もっともだ。すぐに斥候を出して調べさせろ」


 マドハヴァディティアがそう命じると、ただちに幕僚の一人が動いた。ただ、現状を把握しなければ下手に動けないのはそうだとして、今のヴェールール軍の位置は中途半端過ぎる。ともすればイスパルタ軍が迫ってきているかも知れないのだ。この場所で、しかもヴェールール軍単独で戦うとなると、かなり分は悪い。


 駆け込んできた伝令兵の話によれば、オリッサ平原から撤退した幾つかの部隊がこちらへ向かってきているという。それでマドハヴァディティアはまずそれらの部隊と合流・糾合し、戦力を増強しつつ陣を張るのに適当な場所を目指すことにした。


 撤退してきた部隊と合流したことで、オリッサ平原の戦いの詳細な様子も分かってきた。どうやらかなり一方的な戦いだったようだ。純粋な戦力差もそうだが、何より味方の連携が上手く行かなかったことが大きい。


(我が全軍の指揮をしていれば、負けることなどなかっただろうに……!)


 マドハヴァディティアは不機嫌そうに舌打ちをした。実際、ヴェールール軍が間に合っていれば結果はかなり違っただろう。だが彼は間に合わなかった。それが全てだ。


 マドハヴァディティアを不機嫌にしている要素は他にもあった。オリッサ平原から撤退してきた幾つかの部隊を糾合することにより、彼は現在、およそ三万六〇〇〇の兵を率いている。つまり六〇〇〇程度の戦力を増強したわけだ。オリッサ平原に集結していた四万の内、たった六〇〇〇である。


 オリッサ平原で味方が惨敗を喫したことは、腹立たしいがもはや仕方がない。しかし話を聞く限り、敗戦の度合いに対して戦死者は多くない。大半の者が逃げたし、イスパルタ軍も放置された物資の確保を優先して、追撃のほうはなおざりだったからだ。


 そうであるなら、もっと多くの兵がマドハヴァディティアのもとへ合流しに来ても良いはずだ。しかし現実にはたった六〇〇〇しか兵は合流しなかった。他の兵はすべてどこかへ、恐らくはそのまま祖国へ帰ってしまったのだ。


 これが壊滅的敗北で、統御する者なく兵が四散してしまったためであるなら、まだマドハヴァディティアは納得することができただろう。だが実際にはそうではない。イスパルタ軍の追撃がなおざりであった以上、三万以上の兵がことごとく四散してしまったというのは考えにくい。


 つまり部隊を率いる者は健在で、そのもとには一定数の兵が集まっており、彼らは秩序だった仕方で祖国への帰途についたのだ。彼らはマドハヴァディティアの権威や存在を無視したのである。ここで勝手な行動をしても、マドハヴァディティアがそれを咎めることはできないと考えたのだ。


(舐めた真似を……!)


 マドハヴァディティアははらわたの煮えくりかえる思いだった。確かに、百国連合が樹立されて彼が盟主として西方諸国を支配するようになってから、まだ日は浅い。しかしこれまでに、彼は十分力を示してきたはずだった。それでもまだ彼を認めようとしない者がこれだけいる。


「へ、陛下。せ、斥候が戻って参りました……」


 不機嫌さを隠そうともしないマドハヴァディティアへ、侍従がビクビクしながらそう声をかける。彼が黙ったまま視線を向けると、侍従はかわいそうなくらい身を縮こまらせた。その様子に内心でため息を吐きながら、彼は侍従にこう告げた。


「通せ。直接聞く」


「は、ははっ」


 上ずった声でそう答えると、侍従は急いで身を翻らせた。その背中を見送ってから、マドハヴァディティアは人知れず嘆息する。そして一度地面を殴りつけてから、彼は目を閉じてむかっ腹を鎮めた。


 さて、戻ってきたのはオリッサ平原の様子を探るよう命じた斥候だった。その報告によると、オリッサ平原にすでに味方の姿はなく、ただイスパルタ軍が陣を張っているのみであると言う。


「それで、運び込ませた物資はどうなっていた?」


「大半は接収された様子でございます。平原にはところどころ焦げた箇所がありましたが、到底全てを処分できたとは考えられませぬ」


 斥候がそう答えるのを聞き、マドハヴァディティアは「ぬう」と唸って一つ頷いた。不愉快なことではあるが、撤退してきた将兵らの証言とも一致している。東征のために彼が用意した大量物資は、その半分近くが失われたと考えねばなるまい。その重大な事実を前に、マドハヴァディティアは頭を抱えたくなった。


 仮に残存戦力を全て再結集できたとして、イスパルタ軍を排除し、ルルグンス法国を征服するには時間が足りない。どこかで物資が尽きて息が切れる。マドハヴァディティアに現地調達をはばかる気はないが、それで足りるかも不透明だ。


 そして将兵らを食わせられなくなった瞬間、百国連合軍は瓦解するだろう。内輪揉めが起こり、もはや東征どころではなくなる。マドハヴァディティアの歴史的事業は無残な失敗に終わるのだ。


(そんな終わり方をするくらいならば……)


 最初からしない方がマシだろう。マドハヴァディティアはそう思った。無論、宣戦布告をして各国に動員を命じた以上、彼はその場にいなかったとは言え、オリッサ平原での敗北はマドハヴァディティアの汚点になる。彼の影響力、求心力にもマイナスだろう。だがさらに大きな失敗を避けるために、今は損切りをしなければなるまい。


 当然、忸怩たるものはある。だがマドハヴァディティアには失敗を失敗として受け入れる器量があった。失敗を認められない者は自滅する。彼はそれを理解していた。彼自身、百国連合を樹立するまでに、幾度も躓いた。だがそのたびに立ち上がってきたのだ。今回もそれと同じである。彼は自分にそう言い聞かせた。


「……イスパルタ軍は、どうしている?」


「周辺の警戒は行っていましたが、大きく動く気配はないように思えました。ただ、外から眺めただけですので……」


 斥候は言いにくそうに言葉を濁す。つまり陣の内側でイスパルタ軍が何をしているのかは未知数、ということだ。とはいえマドハヴァディティアもそこまで踏み込んだ報告は期待していない。それで怒りを滲ませることもなく、彼は小さく頷いて斥候を下がらせた。


 当然のことだが、マドハヴァディティアが放った斥候は一人だけではない。むしろ彼は幾人もの斥候を広い範囲に放っていた。そしてそれらの斥候が持ち帰った情報により、マドハヴァディティアは徐々に状況を把握していった。


 周辺には、やはり味方の部隊はもういないらしい。要するにオリッサ平原から四散した味方は、思った通りそのまま自分たちの国へ帰ってしまったらしい。それがどの国の者たちであったのかも、斥候たちは調べていた。


 彼らが報告するその国の名前を、マドハヴァディティアはしっかりと記録させた。もっともそれは不要であったかもしれない。彼は断じてそれらの国名を忘れまい。そして必ずやその愚行の結果を負わせる。彼は冷徹な決意をそう固めていた。


 また、報告されたイスパルタ軍の動向は、やはりマドハヴァディティアにとって不利益となるものだった。イスパルタ軍はオリッサ平原から動いていない。しかしそれは彼らが何もしていないことを意味しない。むしろ活発に動いていた。周辺の街や城砦へ食指を伸ばしていたのである。


 十中八九、調略であろう。どのような働きかけをしているのかは分からない。だがイスパルタ軍が積極的に人を動かしているのは確かだ。放っておけばマドハヴァディティアにとって面白くない結果に繋がるだろう。


「しかし、オリッサ平原から動かないということは、イスパルタ軍に現時点でさらに西へ踏み込んでくるつもりはないということでありましょう。そうであるなら、いずれ彼らは撤退するはず。それを待てば、少なくとも連合域内ではいくらでも挽回できるのではありませんか?」


「阿呆。奴らは橋頭堡を作ろうとしているのだ」


 考えの足りない参謀に、マドハヴァディティアは呆れながらそう教えてやった。確かにイスパルタ軍はオリッサ平原から動いていない。しかしだからといって彼らに、いやジノーファに西への領土的野心がないとは断言できない。


 むしろ喰えるモノは喰う腹づもりであるに違いないとマドハヴァディティアは思っていた。何も兵を動かすだけが侵略ではないのだ。調略によって自らの影響力を浸透させていくことも、立派に侵略の一種であると言える。


 つまり西方諸国の中に、イスパルタ朝のシンパを作るのだ。イスパルタ朝の後ろ盾を得た彼らは、ヴェールールと対立するだろう。百国連合は空中分解しかねない。そうならなかったとしても、内部にゴタゴタを抱えることになる。マドハヴァディティアの号令の下、一糸乱れずに動くことはできなくなるだろう。


 そうなればもう東征どころではなくなるに違いない。マドハヴァディティアが東へ進むためには、西方諸国を文字通り統一することが必要になる。だがそれさえ可能であるのか不透明だ。


 三年前であれば、十年以内に西方諸国をヴェールールの名の下に統一することができただろう。だがオリッサ平原の戦いによって情勢は大きく変わってしまった。イスパルタ朝の視線がはっきりと西へ向けられたのだ。


 今後、イスパルタ朝は何かにつけて西方諸国へ介入しようとしてくるだろう。百国連合内に親イスパルタ朝の国々があれば、介入はよりしやすくなる。兵を動かす事も今まで以上に容易になるだろう。


 マドハヴァディティアの言う「橋頭堡」とは、つまりそう言う意味だ。なるほど確かにイスパルタ軍は今回これ以上西へ進むつもりはないかも知れない。だがそのための準備をしている。それは実際に兵を動かす事と同じくらい、マドハヴァディティアにとっては厄介で危険だ。


「やむを得ぬ。交渉だ。さっさとお引き取り願うとしよう」


 斥候らの持ち帰った情報を分析し、マドハヴァディティアはその結論を下した。いま和平交渉を行えば分の悪いことになるだろう。また意気揚々と宣戦布告したというのに、ルルグンス法国へ足を踏み入れる前に負けを認めることになる。彼自身の面子も丸つぶれだ。


 だがここで損切りを誤れば、百国連合内におけるマドハヴァディティアの地位が揺らぐことになる。妙な話だが、今ならば面子は潰れても地位は揺らがない。ヴェールール軍三万は無傷だからだ。


(せめて……)


 せめてあと一万五〇〇〇の戦力があれば、とマドハヴァディティアは思う。合計で五万強の戦力があれば、彼は交渉ではなく戦うことを選んでいただろう。例え新たな国土を猫の額ほども得られなかったとしても、イスパルタ軍に勝ったという事実があれば、彼の面子は保たれたに違いない。交渉でも五分に持ち込めただろう。


 だが現実問題としてそれは厳しい。戦力のことだけを考えるならば、現在オリッサ平原へ向かっている部隊と合流するという手がある。だが時間が足りない。遠からずイスパルタ軍はこちらの動きを掴むだろう。戦力の合流を急いでいることを知れば、彼らはそれが完了する前に動くに違いない。仮に動かなかったとして、その間に調略を進められれば、将来的にはより厄介なことになる。


 イスパルタ軍とその影響力を排除するためには、戦力が今すぐに必要なのだ。だがその戦力は今、マドハヴァディティアの指揮下にない。そう思うと、彼はまた勝手に国へ帰ってしまった者たちへの怒りが湧いてきた。彼は「くそっ」と悪態をつき、それからすぐに交渉へ向けて頭を切り替えるのだった。


マドハヴァディティア「我、登場!」

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― 新着の感想 ―
[一言] こういうとき素早く方針を切り替えられるのが優秀なところですね。
[一言] 細かい所ですが世代は親→子なので普通25~30歳差です。一世代よりは一回りの方がいいかと。
[一言] 46歳の「はあぁ?」に子供っぽさを感じるのは演出なのだろうか
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