西へ2
総勢七万となったイスパルタ軍は、現在、ルルグンス法国との国境近くに陣を張っていた。西のほうへ目を向ければ、そこにはもう法国の大地が広がっている。だが今はまだここを動くわけにはいかない。そして陣を張ってから三日目、ついにその報せが来た。
「マドハヴァディティアが法国に対して、宣戦を布告しました!」
その報告を持ってきたのは、ヘラベートの総領事館に勤務する、バハイルとは別の駐在武官の男だった。彼によると、マドハヴァディティアは宣戦布告と同時に百国連合に加盟する各国に対し、それぞれの兵を集結させる地点もまた指示していた。その、百国連合軍の集結予定地はオリッサ平原。それを聞くと、ジノーファは凄みのある笑みを浮かべた。
オリッサ平原は広々とした平原だ。十万の兵を集結させるのに、十分な広さがある。またルルグンス法国と百国連合との国境近くにあるので、そのまま法国へ攻め込むにも都合が良い。それで、敵の集合地点としてあらかじめイスパルタ軍が予想していた場所の一つでもあった。
「出るぞ! 準備を急げ!」
ジノーファがそう命じると、イスパルタ軍の陣内はにわかに慌ただしくなった。そして準備が完了すると、彼らは整然と西へ進み国境を越えた。この越境については、すでにルルグンス法国に話を通してあった。
宣戦布告を確認すると同時に、イスパルタ軍には法国国内において自由な移動が認められることになっているのだ。またルルグンス軍との合流や、ヘラベートに集積しておいた兵糧の輸送などについても手配は済んでいる。ジノーファの手回しは万全だった。
「ベル。此度の戦、我々はどう戦うべきだと思う?」
陣を引き払い西へ進むその道中、ジノーファは馬に揺られながら隣を進むベルノルトにそう尋ねた。突然の問い掛けにベルノルトは驚いたが、それでも素早く考えをまとめてこう答えた。
「ええっと、敵はオリッサ平原を集結場所として定めました。そうである以上、侵攻ルートは限られます。そのルート上にあらかじめ防御陣地を築いて、敵軍を迎え撃ってはどうでしょうか? あらかじめ準備をしておけば、有利に戦うことができます」
「なるほど。悪くない」
ジノーファは笑みを浮かべながら、一つ頷いてそう言った。それを見てベルノルトはぱっと顔を明るくする。
「では!」
「だが、敵軍を迎え撃つと言うことは、逆を言えば敵は万全の状態で攻めてくるということだ。敵は十万。負けるとは言わないが、楽な戦いにはならないだろう。それに戦が長期化する恐れもある。法国は友好国だが、あくまで異国だ。それを忘れてはいけない。
それにマドハヴァディティアは我々の動きをまだ掴んではいないはず。つまり我々は先手を取れる状態にある。だが待ち受けることにすれば、その優位を捨てることになる。主導権を握っておくことも、難しくなるだろうね」
ジノーファがそう語ると、ベルノルトは情けなさそうな顔をした。それを見てジノーファは楽しげに笑う。ベルノルトはちょっとムッとした顔をして、父王にこう尋ねた。
「では、父上はどう戦うおつもりなのですか?」
「簡単なことだ。このままオリッサ平原を目指して進軍し、そこで敵を叩く」
ベルノルトは一瞬、父王が何を言っているのか分からなかった。それでは策も何もないではないか。ただでさえ、イスパルタ軍は百国連合軍に対して数的には不利な状態にあるというのに。
「まさか、正面決戦を挑むのですか!?」
「正面決戦とは違う。これは奇襲だ。言っただろう、我々は先手を取れる状態にある、と」
ベルノルトが首をかしげると、ジノーファはまた小さく笑った。そしてこう言葉を続ける。
「つまり敵の全軍が集結する前に、これを叩くのだ」
そう言われて、ベルノルトはようやく「あっ」という顔をした。それならば確かに、数的な不利を覆すことができる。また特にマドハヴァディティアが合流する前なら、全軍を統率できる者がいない。寄せ集めの軍は連携もままならないはずで、イスパルタ軍は容易くこれを蹴散らせるに違いない。
もちろん、それで戦争が終わるとは限らない。ヴェールール軍が無傷なら、マドハヴァディティアは容易く諦めたりはしないだろう。残存勢力を結集し、もう一度決戦を挑んでくることも考えられる。
だがその戦力が十万に届くことはあるまい。出だしで躓いて厭戦気分が広がっているであろうし、そのまま逃げてしまう兵も多いはずだ。マドハヴァディティアの統率力次第ではあるが、六万程度も集まれば御の字であろう。そしてそのくらいなら、イスパルタ軍の方が数は多い。
つまり今オリッサ平原へ集結しつつある敵軍に対し奇襲を仕掛けてそれを成功させることができれば、その後イスパルタ軍はかなりの程度優位に戦えるだろう。また「敵は分断して叩くべし」という用兵の基本にも沿っている。「このまま進軍して敵を叩く」というのは、単純なようでいて理にかなった戦術なのだ。
「しかし父上、間に合うでしょうか?」
「間に合う、と父は思っている」
自信を滲ませながら、ジノーファはそう答えて一つ頷いた。マドハヴァディティアは宣戦布告と同時に集結地点を指示した。つまり百国連合各国の軍はこれから動き出すことになる。
加えてオリッサ平原は連合域内の東の端にある。移動距離に差が出るわけで、当然到着日時もバラバラになる。「十日程度は差が出るはず」と参謀らは見込んでおり、つまりそれまでの間に仕掛ければよいのだ。
「ですが父上。全て敵の策略ということはないでしょうか?」
ベルノルトは少し心配そうにそう尋ねた。つまり敵軍の集結地点がオリッサ平原ではなかったり、あるいはすでに大半の兵が集まっているのではないか、というわけだ。はたまた十万という戦力それ自体が偽りで、マドハヴァディティアは直属のヴェールール軍のみを率いて法都ヴァンガルを強襲するつもりなのかもしれない。
もしそうであれば、イスパルタ軍の戦略は根底から覆されることになる。そしてジノーファも息子の言葉を否定しなかった。
「もちろんその可能性はある。だから斥候を放ち、常に敵の様子を探りながら兵を動かすのだ」
その点、イスパルタ軍は優位にあると言っていい。すでにルルグンス軍の斥候が西の国境を監視しており、その情報がイスパルタ軍にも伝えられているからだ。そしてその情報によると、敵はまだ国境近くに現われていない。戦況はまだイスパルタ軍の想定の範囲内だ。
「ベル、覚えておきなさい。全てを読み切って兵を動かす事など不可能だ。だから幾つものパターンを想定して準備しておく。あらかじめ考えておけば、虚を突かれることはないからね。仮に準備が無駄になったとしても、それが無意味だったと考えてはいけない」
「はい、父上」
「だがどんなに準備しても、それでも想定外のことは起こる。実際に動くときには、そのことも考慮に入れておかなければならないよ」
ベルノルトはもう一度「はい」と答えて大きく頷いた。それを見て、ジノーファはフッと微笑んだ。そして手を伸ばし、兜の上からベルノルトの頭を撫でる。
「まあ、父も全て一人で考えているわけではない。今回の作戦も、ハザエルたちと相談して決めたものだ。
ベルも自分の意見に固執せず、周りの意見をよく聞きなさい。特に軍略に関することは、参謀たちが専門だ。彼らの言うことを聞いておけば、そう滅多なことにはならないだろう」
ベルノルトは少し恥ずかしそうにしながらまた頷いた。「無理をして大人になる必要はない」。そう言われた気がした。
さて、イスパルタ軍はルルグンス法国国内を西へ進んでいる。途中、ルルグンス軍一万が合流し、兵の数は合計で八万となった。この時点で厳密に言ってイスパルタ軍だけではなくなったのだが、イスパルタ軍が主力であることに変わりはないので、今後もイスパルタ軍と呼称することにする。
法国国内を進む中、ジノーファのもとには百国連合軍に関する情報も漸次もたらされた。それによると、敵はマドハヴァディティアの宣言通り、オリッサ平原に集結しつつあるという。集まった兵は、現在のところはまだ二万弱という話だが、今後さらに増えていくことは間違いない。
「気を抜かずに監視を継続するように」
ジノーファはそう指示を出した。なお、指示した相手はルルグンス兵なのだが、そのことを不自然に思う者は一人もいない。ある意味、良く行き届いていると言えるだろう。アンタルヤ王国時代からのしつけの成果、と言えるかもしれない。
まあそれはそれとして。将帥としてのジノーファは、情報の重要性をよく理解していた。それで彼は情報の収集をルルグンス軍任せにするのではなく、独自にイスパルタ軍の斥候も動かして情報を集めさせた。
それにより、ジノーファは馬上にありながらルルグンス法国の西の国境の状況について、かなりの程度のことを知ることができた。敵が兵を集めているのは、やはりオリッサ平原。今のところ、それを囮にした別働隊の存在は確認されていない。またオリッサ平原には大量の物資も運び込まれてきているという。
「それで、どれくらい集まっていた?」
「はっ。四万程かと。ただ、集積された物資は、それに似合わぬ量であるように見受けられました」
「多いのか?」
「御意」
斥候に出したイスパルタ兵のその報告を聞き、ジノーファは大きく頷いた。兵の数に対して物資の量が多いように見えるのは、要するに物資は物資で集めておいたから、ということなのだろう。
つまりマドハヴァディティアは買い集めた兵糧等を、連合域内の東寄りの場所に保管していたのだ。東へ進むのだから、東に置いておくのは合理的だ。そして宣戦布告の後に、それらの物資もまたオリッサ平原へ運ばれたに違いない。
通常、荷駄部隊の足は遅い。マドハヴァディティアはそのことも考慮に入れて物資を東に置いておいたに違いない。あらかじめ配ってしまうと、オリッサ平原に兵を集めるのに時間がかかる。そう考えたのだ。
そのおかげで、各国の軍は比較的身軽な状態でオリッサ平原を目指せるようになった。行軍速度は上がるはずで、連合軍の集結に要する時間は短縮されるだろう。しかしその一方で、兵が揃うより前に物資が山積みされることになった。イスパルタ軍にとっては好機であると言っていい。
「ハザエル、どう思う?」
「仕掛け時かと存じます。敵の、特に兵糧を奪うか燃やすかできれば、マドハヴァディティアは軍を動かしたくとも動かせなくなりましょう。さすれば、最初の一戦で趨勢を決することができます」
ハザエルがそう答えると、他の幕僚たちも揃って頷いた。いかに数で勝るとは言え、敵兵四万をことごとく討ち取ることなど不可能だ。大半は逃げる。そして再集結するだろう。だからイスパルタ軍としては、何度か戦うことを覚悟していた。
だが兵糧をはじめとする物資は違う。勝手に逃げ出すことはないし、持って逃げるには邪魔だ。つまり敗走時には放置される。これをまとめて奪うか、それが無理なら全て焼き払う。およそ二倍の戦力差だ。さほど難しい話ではないだろう。
そして大量の物資を失えば、ハザエルの言うとおりマドハヴァディティアは東進を断念せざるを得なくなる。兵を食わせることができないからだ。略奪して現地調達しようにも、イスパルタ軍が目の前に陣取っていてはそれもできない。
もちろん、物資を失えばマドハヴァディティアは諦める、と決まったわけではない。百国連合にとって今回の戦は、成立後初めての戦だ。その戦であまりにも無残な負け方をすれば、彼の指導力に疑問符がつきかねない。西方諸国はまた混沌とした状態に逆戻りしかねず、そうなれば彼の宿願たる東進の成就は遠のいてしまう。
己の面子にかけて、マドハヴァディティアは簡単には退くまい。ルルグンス法国の完全な征服は無理としても、イスパルタ軍と戦いそして勝利することには大きな意味がある。仮に勝つことができれば、「王の中の王」たるマドハヴァディティアの名声は大いに高まるだろう。彼がそれを考えないはずがない。
「それで陛下。どこまで進まれますか?」
幕僚の一人がそう尋ねたのも、マドハヴァディティアが簡単には負けを認めないだろうと考えてのことだ。彼が退かないのなら、イスパルタ軍としても引き上げるわけにはいかなくなる。
そうであるなら、踏み込んでマドハヴァディティアを討つしかない。発言した幕僚はそう考えたのだろう。だが、まさか地の果てまで追いかけるわけにもいかない。補給線を伸ばすにも限界があるからだ。それであらかじめ攻勢限界を定めておく必要がある。だがジノーファの返答は意外なものだった。
「オリッサ平原から先へは進まない」
「しかし陛下、それでは……」
「分かっている。だが準備不足だ」
そう言われ、発言した幕僚は黙り込んだ。兵糧だけを考えるならば、多少の余裕はあるだろう。なんなら十州程度切り取ることも可能かも知れない。だがオリッサ平原からさらに西へ進むと言うことは、つまり敵国の領内を移動するということ。兵糧さえあれば良いというものではない。
今回、イスパルタ軍はルルグンス法国への侵攻を試みる百国連合軍を撃退することを戦略目的としている。つまり逆侵攻することは想定していなかったのだ。当然、そのための準備は何もしていない。
例えばどこで戦えば良いのか、逆にどこで戦ってはならないのか。どこを攻め落とせば良いのか、あえて落とさずとも良いのはどこか。誰に調略を仕掛ければよいのか、誰と誰が反目しているのか。拠点を築くべきはどこで、その場合、どのように補給線をつなげ、またそれを保護するのか。
遠征の前に考えておくべきこと、知っておくべき事は山ほどある。無論、多少の情報はあるし、これから作戦を立てることもできるだろう。だが十分とは言いがたい。そして地の利は向こうにある。調子に乗って進軍した挙句、敵国のど真ん中で孤立してしまっては目も当てられない。
「まあ、あまり先のことを心配しても仕方がない。マドハヴァディティアの出方次第で、我々がどう動くべきかも変わるだろう。まずは緒戦で勝つことだ」
ジノーファがそう言うと、幕僚たちは揃って一礼した。緒戦の勝ち方次第で、その後のマドハヴァディティアの動きも変わってくるだろう。完膚なきまでに叩いて敵の出鼻を挫ければ、そのまま講和に持って行くことも出来るはずだ。
そのためには、時こそが要である。「兵は拙速を尊ぶ」とも言う。今は議論に時間を費やしている場合ではない。ジノーファは適当なところで軍議を切り上げると西へ、オリッサ平原へ向けて進軍を命じるのだった。
ハザエル「さあ諸君、次は戦争の時間だ」




