秋の空と誕生日
ロストク帝国はアンタルヤ王国よりも北に位置する。帝都ガルガンドーは十月を前に、すっかり秋が深まっていた。
(十月、か……)
少々物悲しい気分にひたりながら、ジノーファは秋の空を見上げた。青い空に白い雲がたなびいている。吹きぬける風は爽やかだ。帝都ガルガンドーの空は、王都クルシェヒルの空よりも高く、そして遠く見えた。
「ジノーファ様? どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない」
振り返ったシェリーに、ジノーファは小さく苦笑を浮かべてそう答えた。そして彼女の隣に並ぶと、また人ごみの中を歩き始める。
二人は贔屓にしている武器屋、工房モルガノへ向かっていた。一角の双剣を買ってからというもの、そこへ定期的に武器の手入れもお願いするようになったのだ。今日は預けておいた武器を取りにいくのである。
ジノーファは上客だし、なにより聖痕持ちという最高峰の武人である。そんな彼を出向かせることに恐縮したのだろう。工房モルガノの店主は「手入れが終わったら屋敷まで届ける」と言ってくれたのだが、ジノーファはそれを断っていた。
彼のほうでも、そこまでしてもらうのは悪いと思ったのだ。加えて、こうしてシェリーと二人、のんびり街を出歩くのをジノーファは結構楽しんでいた。露店を冷やかし、大道芸に拍手を送る。帝都での暮らしにも慣れたものだった。
「あ、シェリー。ピザを売っている。一切れ食べていこう」
買い食いなどという、お行儀の悪いこともするようになった。放蕩皇子シュナイダーの薫陶によるものだが、専属メイドたるシェリーにとっては少々複雑である。大事なご主人様をあまり毒さないで欲しいと思いつつ、彼女はピザにかぶりついた。
さて、そんなふうに寄り道しつつ、二人はようやく工房モルガノへ到着した。二人の姿を認めると、店番をしていた娘さんがぱっと顔を輝かせ、そして奥にいる店主を呼ぶ。表に出てきた店主は、二人に対して丁寧に頭を下げた。
「砥ぎの件ですな。木札をもらえますか?」
ジノーファが預かっていた木札を返すと、店主は番号を確認してから一度奥へ戻り、大きな木製のトレイを持って戻ってきた。トレイの上には手入れを頼んでおいた武器が並べられている。
双剣が二組でショートソードが四本。それと主にシェリーが使っているナイフが大小合わせて十三本。ちなみに他の武器屋で買ったナイフも含まれているのだが、店主は何も言わずに手入れを請け負ってくれた。
ジノーファはショートソードを一本手に取ると、鯉口を切ってその刃の具体を確かめる。磨き上げられた刀身はまるで鏡のようで、刃には刃毀れ一つない。いつもながら見事な仕事である。
「お見事」
ジノーファはただ一言そう言った。そして満足げに一つ頷くと、白刃を鞘に戻す。店主はホッとしたような、それでいて喜ばしいような表情を浮かべている。この瞬間は彼にとって決闘のようなもの。実力だけでなく、名誉や矜持をかけているのだ。もっともジノーファはそんなことはつゆ知らず、「そんなに緊張しなくていいのに」と思っているのだが。
店主の仕事に満足すると、ジノーファは剣帯に双剣を吊るした。ダンジョンの外でも使えるほうの双剣だ。位置を調整し収まりの良い場所に吊るすと、彼は小さく頷いた。腰元に重みが戻ってくると少し安心する。
「では、こちらの双剣はわたしがお預かりしますね」
シェリーはそう言ってトレイの上に残っていた一角の双剣を手に取った。ジノーファはこれから宮殿の図書室へいく予定で、一角の双剣はシェリーが屋敷に持って帰るのだ。
ちなみに、同じくトレイの上に載っていたはずの十三本のナイフは、しかしいつの間にかなくなっている。シェリーが片付けたはずなのだが、いつの間に片付けたのか。そして大振りなナイフもあったのに、メイド服姿の一体どこに片付けたのか。それは聞かないのがマナーだと、ジノーファは学んでいた。
手入れの手数料は前払いしてあるので、武器を受け取り礼を言うと、二人はそのまま店を後にした。途中まで一緒に歩き、それから分かれてジノーファは宮殿へ向う。その際、シェリーは彼にこう注意した。
「いいですか、ジノーファ様。あまり熱中しすぎないでくださいね?」
心当たりと前科のあるジノーファは苦笑して頷くことしかできない。シェリーの方はいまいち信頼しきれていないようで、「もう」と言って小さく唇を尖らせた。
シェリーと別れ一人で歩いている途中、ジノーファはふとまた空を見上げた。クルシェヒルの王城で見上げていた空とこの空が繋がっているだなんて、なんだか信じられなかった。
ダンジョンに入るときと同じようにドッグタグを見せて宮殿に入る。そして色々な人に声をかけられながらジノーファは図書室へ向かった。お目当ての本を手に取り、備え付けの一人掛けのソファーに座る。
本を開き、文字を目で追う。内容は頭に入ってくるのだが、しかし不思議といつものように集中できない。無意識の内に目をあげ、窓の外の空を眺めている。秋の空は、やはり高い。
□ ■ □ ■
(もう……!)
表面上は何事もなく、しかし内心には小さな怒りを抱えて、シェリーは前の職場である宮殿の廊下を歩いていた。向かうのは図書室。予定の時間になっても帰ってこないジノーファを迎えに来たのだ。釘を刺しておいたのに、この有様である。おかげでシェリーはちょっとお冠だった。
図書室に入り、シェリーはジノーファの姿を探す。彼は奥まったところにある、窓際のソファーに座っていた。彼の姿を見てシェリーは「はっ」と息を飲む。彼は本を読んでいなかった。ぼんやりと窓の外の、おそらくは空を眺めている。その横顔は儚げで、今にも消えてしまいそうなほど透き通っていた。
「ジノーファ、様」
シェリーが躊躇いがちに声をかけると、ジノーファはゆっくりと振り返った。そしてシェリーの姿を見つけると、少しバツが悪そうに苦笑を浮かべる。
「ああ、すまない。どうやら、またやってしまったようだ」
そう言って読みかけの本を閉じると、ジノーファはソファーから立ち上がった。その時にはもうすっかり儚げな様子もなくなっている。それでシェリーもこの時はそれほど気に留めなかったのだが、それからというものジノーファは空を見上げてもの思いにふけることが多くなった。
それで何か問題があるわけではない。来客があればきちんと対応するし、誘われれば遊びにも出かける。集中力を欠いてミスをするわけでもないし、ダンジョン攻略も危なげない。
ただ、ジノーファの様子がおかしい事は、屋敷で働く使用人の全員が気付いていた。一番近くにいるのがシェリーなので何かと尋ねられたのだが、彼女にも原因は皆目見当がつかない。言葉を濁して首を横に振るしかなかった。
「ふむ。まあ、秋ですし、もの思いにふけることもあるでしょう」
家令のヴィクトールはそう言ってさほど問題視しなかったが、シェリーにはただのもの思いであるようには思えなかった。
「ずばり、恋ですね。旦那様は恋をしていらっしゃるのだと思います!」
メイドのリーサは鼻息も荒くそう断言したが、シェリーはやはり首をかしげた。もしもジノーファが恋をしているのであれば、あのように儚げで消えてしまいそうな横顔はしないだろう。
それで、十月も十日を過ぎたある日の夜、シェリーは思い切ってジノーファに直接尋ねてみることにした。夕食を食べた後、早めに部屋に戻ったジノーファをシェリーは訪ねた。
彼の部屋に入ると、風の香りがした。窓を大きく開けているのだ。明かりはつけていないが、差し込む月明かりのおかげで部屋の中の様子はぼんやりと見て取れる。
そんな暗い部屋の中、ジノーファは窓のところに腰掛けて星を、いや空を見上げていた。月明かりに照らされた彼の横顔は、神秘的で現実離れしており、まるで絵画でも眺めているかのようだった。
「空を、眺めておられるのですか?」
シェリーがそう尋ねると、ジノーファは視線だけわずかによこして「うん」と答えた。そしてポツリポツリと、まるで独白するようにこう言葉を続ける。
「見える星は、同じなのだな……。星を見てようやく、同じ空が繋がっているのだと信じられる気がする」
「信じられなかったのですか?」
「どうだろうか……。あるいは信じたくなかったのかもしれない。クルシェヒルもガルガンドーも、同じ空の下にあるだなんて……」
ジノーファがクルシェヒルのことを口にしたことで、シェリーは内心で「やはり」と納得した。やはり彼は空を見上げて過去のことを思っていたのだ。
「クルシェヒルがどうかいたしましたか?」
シェリーがそう尋ねると、ジノーファはようやく振り返った。その顔には苦笑が浮かんでいる。
「いや、クルシェヒルがどうというわけではなのだけど……。ただ、十月も十日を過ぎたし、近いな、と思ったのだ……」
「近い……?」
「うん。誕生日が、ね」
誕生日と言われ、シェリーは小さく「あっ」と呟いた。来る十月十九日。それは王太子だったジノーファの誕生日である。しかしその日に生まれたのは、ジノーファではなくイスファード。王太子でなくなった彼は、地位や家族と一緒に誕生日も失っていたのである。
「わたしの、本当の誕生日は、一体いつなのだろうな……」
視線を逸らしてまた星空を見上げながら、ジノーファは誰にともなくそう呟いた。そしてさらにこう言葉を続ける。
「別に、毎年の誕生日を楽しみにしていたわけではないのだ。ただ、今年はそこにイスファード殿がいるのだと思うと……」
アンタルヤ王国の賠償金の支払いが完了し、イスファードの身柄が解放されたことはジノーファも聞き及んでいる。今年は彼が王子としての身分を回復し、王太子として冊立された年。敗戦の記憶を過去のものとするためにも、誕生日にはきっと盛大な祝宴が開かれるに違いない。
煌びやかなパーティーを、ジノーファは容易に想像することができた。しかし自分の誕生日だと思っていたその日を祝われているのは自分ではない。そこにいるのは真の王太子イスファード。その光景を想像すると、全てを失ったのだと改めて思い知らされるようで、やりきれなくなる。
「わたしは、何者なのだろうな……」
結局、そこに行き着くのだ。答えなどでないと分かっている。自由になったのだと言い聞かせてなお、自らを哀れんで過去を捨てきれない。滑稽だった。
「ジノーファ様……」
「益体もないことを言った。忘れてくれ」
ジノーファは苦笑を浮かべるとシェリーにそう言った。その顔は泣くのを堪えているようにシェリーには見えた。
「ジノーファ様……。ここでの生活は、お辛いですか?」
「いや、そんなことはない。むしろ、ここにいられて良かったと思っている」
それはジノーファの本音だった。ここにいることを選んだのは彼自身。後悔はない。感謝もしている。けれどもその言葉の後に、彼は「ただ……」と続けた。
――ただ空虚な自分に気付いてしまい、途方に暮れるときがあるだけで。
「わたしは、空っぽだ」
「いいえ。ジノーファ様は空っぽではありません」
自嘲気味なジノーファの言葉を、シェリーはきっぱりと否定した。そして彼女は驚いたような顔をするジノーファに近づき、彼の手を取ってその目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「ジノーファ様は、大切なものをまた蓄えている最中なのです。空っぽだ、などと仰らないでください」
「シェリー……」
「よしんば空っぽに感じられるとして、それはそれだけジノーファ様の器が大きいということ。そして未来に多くを持っておられるということの証拠ではありませんか」
「……!」
未来に多くを持つ。シェリーのその言葉にジノーファは救われたような気がした。何もかもが終わってしまったかのように感じていた人生が、しかしまたここから新たに始まる。そう信じられるような気がした。
「未来、か……」
ジノーファは小さくそう呟いた。王太子だったころ、彼にとって未来とは絵に描かれた宮殿のようだった。国王の地位を約束された未来は輝かしい。けれども同時に、そこには彼の意思など少しも関わってはいなかった。
今、彼が持つ未来はどうだろうか。それは、例えるならば真っ白なキャンバス。約束も保証もない可能性の塊。気後れしそうなほどの、自由。
足がすくみそうになる。けれども忘れてはいけない。未来など勝手にやって来るのだ。焼け野原の灰の中から、また新たな芽が萌え出すように。生きてさえいればきっと、人はおのずと何かを掴むのだろう。この空の下、人々はそうやって生きている。
(なら、わたしも……)
生きられるかもしれない。いや、ここで生きることを選んだのだ。新たな人生は、もう始まっていた。
ジノーファはシェリーの目を見た。黒真珠のような彼女の瞳には、月明かりが映っている。握られた手は温かい。愛おしさがこみ上げてくる。
「今夜は、一緒にいて欲しい……」
そう言ってしまってから、ジノーファは少し慌てた。自分がシェリーに惹かれていることを、彼はだいぶ前から自覚している。けれども自分は主だし、彼女は派遣されてきているとはいえ専属メイド。求められれば拒めるような立場ではない。
彼女の意思を無視したくはなかった。なにより、自分の心を押し殺すようなまねを彼女にして欲しくなかった。ジノーファが惹かれたのは、歌いながらじょうろを振り回す、そんなシェリーなのだから。
「……っ、すまない。なんでもない」
そう言ってジノーファは手を離そうとした。しかしシェリーはその手を離さない。むしろ瞳を潤ませこう尋ねた。
「わたくしで、よろしいのですか?」
彼女の頬が上気している。その瞳に映るのは期待と不安。
「……ああ、シェリーが、いいんだ」
ジノーファも、覚悟を決めてそう答える。すると彼女は蕩けそうな笑みを浮かべ、そのまま彼の胸に身をゆだねた。ジノーファもその身体をしっかりと受け止める。
「一つだけ、お願いがございます」
「なんだろうか?」
「キスは、ジノーファ様からしてくださいませ」
ジノーファの腕の中、シェリーは顔を上げて上目使いにそうねだる。ジノーファは小さく頷いて応えると、彼女の唇にそっとキスを落とした。
シェリーの一言報告書「きゃあ~~! もうっ、もうっ、もうっ、もうっ!」
ダンダリオン「読んで分かる報告書を書いてくれ」
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まあそんなわけで。第二章「帝都暮らし」でした。
今更ですけど、サブタイトルを付けるのに結構苦労しています。
次はたぶん幕間。気長にお待ちくださいませ。




