西方に騒乱の兆し有り
――――王位を望んではなりません。
ベルノルトはそう言い聞かせられながら育った。そのことに不満があるわけではない。そういうものだと、今では受け入れている。だが時折彼は思うのだ。王になれないのなら、なぜ自分は王家に生まれたのだろうか、と。
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イスパルタ朝の西にはルルグンス法国が位置している。そして法国のさらに西には、いわゆる西方諸国と呼ばれる国々があった。有名なところではバルツァー、オスロエル、ルミニアなどの国があるが、そのいずれも小国である。
西方諸国とはつまり、小国と都市国家の集まりだった。しかも興亡が激しく、国が興ったかと思えば滅亡し、呑まれたかと思えば独立する。その繰り返しだ。情勢の変化が激しく、群雄割拠といえば聞こえは良いが、要するになかなかまとまることの出来ない混乱した地域だった。
そんな西方にも、ついに一人の英雄が現われた。名をマドハヴァディティアという。彼はもともとヴェールールという小国の世子であったのだが、彼の父が貿易港を有するある都市国家を攻め取ったことが伸長の下地となった。
マドハヴァディティアの治世中、ヴェールールはこの貿易港を足がかりにして富を築き、西方諸国の中でも随一の富国となった。そしてマドハヴァディティアはこの富を使って軍事力を整え、周辺を切り従えたのである。
マドハヴァディティアとヴェールールの躍進は、イスパルタ朝と無関係ではない。ヴェールールが船をだしていたのは主にルルグンス法国であり、それらの船が向かうのは法国の貿易港ヘラベートである。そしてヘラベートにはイスパルタ朝の商人が大勢おり、彼らこそがヴェールールの主たる取引相手だった。
要するにルルグンス法国を介して、イスパルタ朝とヴェールールは交易を行っていたのだ。加えて言うなら、ヘラベートにイスパルタ商人が大勢いたのはイスパルタ朝とルルグンス法国が通商条約を結び直したからであり、それはジノーファの強い意向によるものだった。
巨視的な視点で眺めるなら、ジノーファが大アンタルヤ王国イスパルタ朝を興し、その巨大市場と繋がることで、マドハヴァディティアとヴェールールは躍進したのである。ジノーファとマドハヴァディティアが同じ時代に現われたことは、決して偶然ではないのだ。
さて、マドハヴァディティアに率いられたヴェールール軍は、その潤沢な資金力を背景に周辺国を圧倒。瞬く間にその一帯を席巻した。そしてある程度勢力を伸長させると、もともと小国ばかりの西方において、ヴェールールに抗し得る国はなくなる。
そして西方において比較的長い歴史を持つ、オスロエルを中心とする連合軍がヴェールール軍に降伏した時、その流れは決定的なものとなった。マドハヴァディティアは独立を保っていた残りの西方諸国に対して臣従を要求。大多数の国々がそれに従った。こうして西方諸国はマドハヴァディティアとヴェールールの名の下に統一されたのである。
ただし統一とは言っても、それはヴェールール以外に国がなくなったことを意味しない。例えばオスロエルも降伏したとは言え滅亡はしていないし、バルツァーやルミニアも健在だった。ヴェールールはそれらの小国を属国化することで西方諸国を統一したのである。
大統暦六五七年、マドハヴァディティアは〈百国連合〉の樹立を宣言。ヴェールールをその盟主に据えた。西方諸国の王たちは彼の下に集い、彼に対して頭を下げて臣従を誓ったのである。
こうしてマドハヴァディティアは多数の王を従える存在となった。西方諸国の王たちが平伏するその様子は、彼の自尊心を肥大化させた。彼は「王の中の王」を名乗った。「我はただ一国を治める王にあらず。王を治める王なり」。そう宣言したのである。
マドハヴァディティアの宣言は事実に則したものではあったが、その一方で滑稽なものでもあった。「王の中の王」を名乗ってみても、それは結局自称でしかない。彼の権威が通用するのは、西方諸国という狭い範囲での話でしかなかったのである。
百国連合と名乗っては見たが、当然構成国が一〇〇国もあるわけではない。記録によれば小国、都市国家合わせて三〇弱。それが六〇州程度の版図の中にひしめき合っているのだ。まさに烏合の衆と言っていい。
また百国連合に加わった国々というのは、多くても二か三州程度の国土しか持っていなかった。イスパルタ朝においては、だいたい伯爵から侯爵に相当する。「その程度で王を名乗るなど烏滸がましい」というのがイスパルタ貴族の認識で、それが「井の中の蛙」とか「田舎者」という評価に繋がっていた。
そもそもマドハヴァディティア治めるヴェールールさえ、二〇州程度の国土しか持っていない。ルルグンス法国の十七州よりは大きいが、イスパルタ朝のイブライン自治区の二三州とほぼ同じだ。
西方諸国においては最強の大国も、はるか東へ目を向ければ小国である。百国連合もイスパルタ朝の半分以下の大きさしかない。それを率いる者が「王の中の王」を名乗っても、そこに畏怖を覚えることはない。むしろ滑稽に映るだけだ。
あるいはマドハヴァディティアは劣等感を覚えていたのかも知れない。交易を行っていたのだから、彼はイスパルタ朝とジノーファのことを知っていただろう。一二〇州を越える大国について聞き及び、そして一代にしてその大国を築き上げた英雄の姿に、彼は一体何を思ったのだろうか。
負けたくない、と思ったはずだ。だからこそマドハヴァディティアは百国連合という道を選んだ。西方諸国をことごとく征服するのではなく、連合してその筆頭の地位に収まるというやり方を選んだのだ。
征服することも可能であったろう。だがそれをするには時間がかかる。人の命には限りがあるのだ。それはマドハヴァディティアといえども変わらない。西方を統一し、さらに東に向かうその時間をひねり出すには、百国連合の道しかなかった。「王の中の王」を名乗ったのは、征服しない道を選んだことを隠すという意味もあったのかも知れない。
あるいは全て逆であった、という見方もできる。つまりマドハヴァディティアは劣等感を抱えていたがために、「王」を超越した存在になることを願った。「王の中の王」を名乗るがために、征服ではなく百国連合の道を選んだ、というわけだ。
いずれにしても、マドハヴァディティアは野心家だった。彼は西方諸国をまとめ上げたが、しかしそれで満足しなかった。前述した通り、彼はさらに東へ進むことを望んだ。イスパルタ朝は豊かだ。交易を通じ、彼はそれをよく知っている。東の地は彼の目に魅力的に映っただろう。
大統暦六五八年、マドハヴァディティアは百国連合に名を連ねる国々に号令をかけ、遠征の準備をさせた。さらに北方の遊牧民に声をかけ、彼らを騎兵として雇い入れる。彼は着々と東征の準備を進めた。
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――――西方諸国に不穏な動き有り。
そう報せてきたのは、ルルグンス法国のヘラベートにあるイスパルタ朝の総領事館に駐在武官として勤める、クワルドの次男バハイルだった。彼は主に法国と西方諸国に関する情報の収集を行っているのだが、そのなかで彼は西方諸国が大がかりな戦の準備を進めていることを掴んだのだ。
西方諸国においては、これまでもずっと戦が続いていた。百国連合が樹立されたとはいえ、今までの歴史がなくなったわけではない。火種や軋轢はそこかしこに残っているだろうから、連合内で争いが起こっても不思議ではない。
だがバハイルによれば、今回行われている戦の準備は、これまでとは一線を画すものであるという。特に穀物の取引量が増えており、つまり兵糧を備蓄していることが窺える。マドハヴァディティアは大がかりな遠征を行うつもりなのではないか、とバハイルは書いていた。
その報告書を読み、ジノーファは「ふむ」と呟いた。彼は今年、三三歳になる。国王として最も脂の乗っている時期と言って良い。まだ老け込んだところは少しもなく、体つきも細身ながらしなやかでよく鍛えられている。落ち着きと風格を身につけ、少年の頃のような繊弱さはもう少しもない。灰色の髪は相変わらず伸ばしていて、今は一つにまとめている。
ジノーファは報告書を読み終えると、それを今度はクワルドに見せた。彼は少し前に近衛軍元帥を退いており、今はジノーファの相談役として彼に仕えている。クワルドの頭や髭には白髪が目立つようになってきていて、それを見るたびジノーファは時の流れをしみじみと感じるものだった。
「……クワルド、どう思う?」
クワルドが報告書を読み終えると、ジノーファは彼にそう尋ねた。彼は「そうですな」と呟きながら報告書をジノーファに返し、顎髭を撫でながらそのまま少し考え込む。そしてこう答えた。
「やはり、狙いはルルグンス法国かと」
それを聞いて、ジノーファも大きく頷いた。マドハヴァディティアはいまだ四十代。活力も野心も、十分すぎるほどにあるだろう。西方諸国をまとめ上げて百国連合を成立させ、それで満足するとは思えない。さらに東へ進もうとするはずだ。そして百国連合の東を抑えているのは、他でもないルルグンス法国である。
実際、西方諸国はこれまで何度も、ルルグンス法国への武力侵攻を図っている。一つにまとまった彼らが東へ目を向けるのは自然なことだ。また法国はここ十年ほどは衰退傾向にあり、マドハヴァディティアの目には旨そうな肉に見えるに違いない。
もっとも、だからといって法国の征服が容易かと言えばそれは違う。法国はイスパルタ朝と同盟関係にあるからだ。つまり法国へ進攻すれば、ほぼ確実にイスパルタ軍が救援に現われる。何を隠そう、西方諸国の東進をこれまでずっと阻んできたのは、他でもないアンタルヤ王国であり、ここ最近においてはイスパルタ朝なのだ。
「マドハヴァディティアはイスパルタ軍と事を構えるつもりだろうか?」
「少なくともその覚悟はしておりましょう。そのための大がかりな準備かと」
クワルドの返答に、ジノーファはもう一度頷いた。マドハヴァディティアが本気で法国を征服するつもりなら、イスパルタ軍こそが最大の障害であることは理解しているはず。ならばそれに備えるのは当然のことだ。
マドハヴァディティアが百国連合を作り上げたのもそれが理由だろう。西方諸国の力を結集しなければイスパルタ軍に勝つことは難しい、と彼は考えたのだ。彼にとって西方の統一は、さらに東へ進むための布石に違いない。
「マドハヴァディティアはどこまで考えていると思う?」
ジノーファはそう尋ねた。つまりルルグンス法国を越えてイスパルタ朝にまで踏み込むつもりなのか、あるいは法国を併呑した上で改めてイスパルタ朝との国境線を定めたいのか、それとも法国それ自体は残しつつイスパルタ朝の影響力を排除して緩衝地帯としたいのか。他にも考え得る目標は幾つもあるだろう。
「現時点ではなんとも言えませんな。敵の目的を推察するには、情報が足りませぬ」
クワルドの言葉にジノーファは苦笑しつつまた頷いた。バハイルは「情報収集を継続する」と書いている。おっつけ次の報告が来るだろう。それでマドハヴァディティアの狙いも見えてくるはずだ。
しかしながらそれが分かるまで、ただ座して待っているわけにはいかない。百国連合が東進の準備を進めていることは事実なのだ。狙われているのはルルグンス法国で、そして法国はイスパルタ朝に救援を求めるだろう。であれば、相応の準備を進めなければならない。
「クワルド、どの程度必要になると思う?」
「さて、それはハザエルと相談したほうが良いでしょう」
クワルドは少々意地悪げにニヤニヤと笑いながらそう答えた。近衛軍のトップを退いてからというもの、彼は具体的な事柄に口出しをしようとしないのだ。「いつまでも年寄りを頼るな」と言われているようで、ジノーファは思わず肩をすくめた。
「分かった。そうしよう」
「それがよろしいかと。ただ、百国連合と事を構えるとなれば、何をするにしても法国との連携が重要になります。それだけはどうかお忘れなく」
「ああ、覚えておこう」
クワルドにそう応じてから、ジノーファは侍従に命じてハザエルを呼びに行かせた。ちなみにこの侍従はユスフではない。ユスフには現在、政務官としてジノーファを補佐する仕事が与えられている。クルシェヒルの外へ出る仕事も多く、今は南方へ行っているはずだった。
さてハザエルが執務室へ来ると、ジノーファは彼にバハイルの報告書を見せた。そして彼がそれを読み終えるのを待ってから、クワルドと話し合ったことも含めて認識のすり合わせを行う。マドハヴァディティアはルルグンス法国に対して軍事行動を取るつもりに違いない。二人の意見は一致した。
「我々はこの動きに備えなければならない。それでハザエル。現状、どの程度の備えをするべきと考える?」
「……百国連合の版図はおよそ六〇州。『大規模な軍事行動』というのであれば、最低でも五万は動かすでしょう。であればこちらとしても、やはり五万程度は必要かと」
ハザエルの返答にジノーファは一つ頷いた。それを見てハザエルはさらにこう続ける。
「それからロスタム総督にも備えていただく必要があるでしょう。事と次第によっては、まずは総督に動いていただく事になります。敵の動きが速ければ、最悪、新領土への侵入を許すことになりかねませぬ」
「総督府の方にもこれを同じ報告がいっているはずだが、分かった。わたしの方から改めてロスタムに準備を命じておこう。ひとまず、兵を二万。それから本隊の分も合わせて物資の備蓄を行わせる。それで良いな?」
「はっ。十分かと存じます」
ハザエルは恭しく一礼した。その後も、ジノーファとハザエルの話し合いは続く。二人とも、はなからルルグンス軍のことはアテにしていない。イスパルタ軍単独で戦うことを前提に話し合っている。それくらいルルグンス軍は頼りないというのが彼らの認識だった。
まあそれも仕方がない。国土を比べてみても、ルルグンス法国の十七州は百国連合と比べてはるかに小さい。単独で抗し得ることはほぼ不可能で、イスパルタ軍が主力になるのはある意味当然のことだった。
とはいえ、イスパルタ軍にだけ負担を負わされるのも面白くない。そもそも第一の当事者はルルグンス法国なのだから、ちゃんとしてもらわねば困る。バハイルの報告は法国にも報されているはずなのだが、ジノーファの方からも注意を促しておくことになった。
その中でジノーファは一万ほどの兵を集めておくことを勧めた。さらにイスパルタ軍が進駐した場合のことを見越して、地理に明るい案内役の用意を求めている。ちなみに法国国内の地図はすでに持っているので、改めて要求することはしなかった。
「それにしても、西方はなかなか落ち着かないな」
「まことに。ですが考えようによっては、好機と捉えることもできましょう」
「ふむ。この機に西を平らげてしまえ、とそういうことか?」
「……それが陛下のご命令ならば、是非もなく」
「はは、冗談だ。つまりこの機に百国連合と何かしらの約定を結んではどうかと、そういうことだろう?」
「御意」
そう言ってハザエルは恭しく一礼した。これまで西方諸国には纏まりというものがなく、その上興亡が激しいので、特定の国と約定を結んで国同士の関係を安定させるということができなかった。
だが西方諸国は百国連合という形でまとまった。であればと百国連合との間で約定を結び、それによって西方の情勢を安定させ整理することができるのではないか。ハザエルはそう言っているのだ。
「一戦して勝利を収めれば、イスパルタ朝にとって有利な約定を定めることができましょう。無論、それが守られるとは限りませんが、定めることそれ自体に意味があるはずです」
ハザエルの言葉にジノーファは頷いた。何かしらの約定、あるいは条約を定めることができれば、それはすなわちイスパルタ朝の影響力が西方諸国にまで及ぶようになることを意味する。
無論、どの程度の影響力を発揮できるようになるのか、それは分からない。だが現在においてさえ、イスパルタ朝の商人たちは西方諸国へ足を伸ばしている。そこはもう「世界の果てのそのまた向こう」ではないのだ。
もはや西方諸国を無視しておける時代ではなくなったのだ。ジノーファはそう思う。そうであるなら、百国連合という統一組織が現われたことは確かに僥倖であると言える。交渉相手は一つにまとまってくれていた方が、何かとやりやすいのだから。
「分かった。フスレウや政務官たちとも相談してみよう。ハザエルはひとまず、近衛軍から五万の動員を進めてくれ」
「御意!」
ハザエルは胸に拳を当ててそう応えた。五万を越える兵を動員して国外へ赴くのは、彼が近衛軍最高司令官の位についてから初めてである。身の引き締まる思いがする一方で、彼は血がたぎるのを感じるのだった。
ジノーファ「いきなり三〇を越えてしまった」




