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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国

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筆を置く前に


 ジノーファは高祖であろうか、それとも世祖であろうか。歴史家の間では、時折そんなことが議論になる。


 高祖とはつまり、創始者のことだ。王朝に当てはめるなら、建国者のことになる。一方で世祖とは、創始者ではないものの、創業に等しい功績を挙げた人物のことを指す。亡国を復活させた人物などがこれに当たるだろう。


 ジノーファはイスパルタ朝を興した。よって彼は建国者であると言える。それで彼は高祖であるとする声がある。


 一方で、イスパルタ朝はアンタルヤ王国の流れを汲んでいる。ジノーファ自身、アンタルヤ王国の再統一を行った、という認識でいる。それで、彼はアンタルヤ王国を刷新したのであり、その功績からすれば世祖とするべき、とする声もあった。


 大アンタルヤ王国イスパルタ朝と呼ばれる彼の王国が、その名の通り政治・文化の両面でアンタルヤ王国の影響を強く受けていることは事実だ。だがある地域において新王朝が旧王朝に成り代わった場合、前者が後者の影響を強く受けることは当然である。その地域にはその地域の伝統というものがあるのだから。


 またジノーファは旧王朝の、つまりアンタルヤ王家の血を引いていない。旧王家に何の権利もない人間が、その立場を取って代わったのだ。アンタルヤ王国の再統一を成し遂げたのは、アンタルヤ王家の人間ではなかった。仮にそれを成したのがイスファードであったなら、彼は世祖と呼ばれただろう。となればジノーファはやはり高祖と呼ぶべき、かもしれない。


 ただイスパルタ朝はアンタルヤ王国の制度を踏襲するところから始まっている。国を支える構成員とも言うべき貴族らも、多少の変化はあれど、ほぼ同一と言っていい。また同じ王朝であっても、支配者の血筋が代わることは歴史上珍しくない。


 何よりジノーファがガーレルラーン二世から譲られたのは、他でもないアンタルヤ王国の王権だ。彼はアンタルヤ王国を託され、改革を推し進めてさらなる大国へと成長させたのである。それは世祖の仕事である、とも言えるだろう。


 とまあ、こんな具合に議論は続く。一般人からすればどちらでも良いことなので、恐らくこの先も結論は出るまい。実際、ジノーファを建国者と見る本がある一方、中興の祖として描く戯曲もある。


 要するにアンタルヤ王国とイスパルタ朝は全く別の王朝なのか、それとも看板を掛け替えただけの実質的には同じ王朝なのか、その辺りがはっきりしないと言うことなのだろう。少なくともジノーファは、アンタルヤ王国を破壊することを目的とはしてなかった。建国というカードを切りつつ、形式的に譲歩することで、実質的な改革を行った。あるいはその解釈が、真実に最も近いのかも知れない。


 さらにもう一点付け加えるなら、アンタルヤ王国は変革を必要としていた。特に防衛線の維持に関して、旧来の方法では限界に来ていることが露呈していたのである。ちなみに結果的にではあるが、その認識を広めたのはカルカヴァンとイスファードだった。


 何か手を打つ必要があった。しかし手を出そうとすれば、それは貴族の兵権にまで話が及ぶ事柄であり、つまり彼らの自主自立を脅かすことに繋がりかねない。ガーレルラーン二世も抜本的な対策には乗り出さず、つまり内側からの変革は起こらなかった。そして変革が起こらないまま、不満だけが蓄積されていったのである。


 そんなときに登場したのがジノーファだった。彼の登場により、アンタルヤ王国は三つに分裂した。建国以来、最大の混乱に直面した、と言っていい。そしてこの混乱を収める過程で、ジノーファは必要な改革を行ったのである。


 つまりジノーファの再統一事業とは、アンタルヤ王国を元の姿に戻すことではなかったのだ。いや、再統一と同時に改革を行った、というべきか。いずれにしてもジノーファは再統一事業を通じて、アンタルヤ王国を生まれ変わらせたのである。


 ちなみに余談になるが、ガーレルラーン二世は北アンタルヤ王国を認めておらず、それはあくまでも「北方の反乱」という認識だった。そしてイスパルタ朝はその認識を王権と一緒に受け継いだ。つまり「アンタルヤ王国の再統一」というが、北アンタルヤ王国との戦いは公式には「北方の反乱の鎮圧」なのだ。


 よってイスパルタ朝は、イスファードの即位と戴冠を、公式には認めていない。北アンタルヤ王国にまつわる事柄は、全て彼らの自称と言うことになっている。ただジノーファも公式の場で「北アンタルヤ王国」と発言しているし、イスパルタ朝のその公式見解が徹底されていたとは言いがたい。


 実際、イスパルタ朝の文書には、普通に「北アンタルヤ王国」だの「南アンタルヤ王国」だの、挙句には「イスファード王」だの、そんな単語がポンポン出てくる。世間一般の認識としては、そちらの方が正解だったのだろう。


 ただ、ガーレルラーン二世から王権を譲り受けたという歴史的な事実を重視し、彼の権威に敬意を表するために、彼の見解を公式なものとして受け継いだ。そう言うことなのだろう。つまりイスパルタ朝としては「それはガーレルラーン二世が言っていたことだから」というスタンスであったと思われる。


 まあそれはそれとして。ジノーファの時代以降、アンタルヤ王国はその姿をがらりと変えた。版図を大幅に拡大した、というだけではない。強力な常備軍を持ち、貴族の兵権を制限し、つまり中央集権化が進んだ。


 さらに商業を発展させることで、国の経済を発展させた。王家は屈指の経済力を持つようになり、その面でも貴族たちを圧倒した。軍事力と経済力を兼ね備えたイスパルタ王家に、貴族らは逆らうことができなくなったのである。力関係が確定した、と言ってもいいだろう。


 その一方で、ジノーファは貴族たちから人質を取らなかった。それどころか、せっかくガーレルラーン二世が制定した人質制度を撤回している。その意味では、彼は貴族たちの権利を守ったとすら言えるだろう。実際、彼は成文法で貴族を押さえつけようとはしなかった。


 そう言うジノーファのスタンス、特に人質を取らなかったことについて、「非常に開明的である」と評価する歴史家は多い。ただ実際のところ、彼は開明的であったのでそれらの施策を講じたわけではないだろう。


 彼が求めたのは実力だった。そこには当然、権力、軍事力、経済力も含まれている。要するに、王家が強くなれば貴族たちは自然とそれに従う、と考えたのだ。彼が人質を求めなかったのは、求める必要がなかったからなのだ。


 いや、必要がないと言うよりは、意味がないと思っていたのかも知れない。人質を取ろうが取るまいが、謀反を起こす者は謀反を起こす。そもそもいかに大貴族であっても、一人で謀反を起こして王朝を倒せるはずがない。外敵による侵略を別にすれば、全ての王朝は自らの失策によって滅ぶのだ。


 ジノーファはたぶん、そのことを意識していた。彼が王冠の裏に「灰は灰に」という、一見不吉な言葉を刻ませた逸話はあまりにも有名だ。王家に対するカウンターの役割を貴族に期待していた、というのは言い過ぎか。ただ思うに、彼は人を信じていたし、恐らくは人を信じたかったのだ。


 ジノーファは英雄だった。その功績と武勇伝は、数え上げればきりがない。ただ英雄であることが彼の本質だったのだろうか。彼にその資質があったことは事実だろう。だが彼の本質とは、もっと別のことにあったように思える。


 では彼の本質とは一体何だったのか。その問いに答えを出すには、また膨大な考察を行わなければならない。それはまた別の機会に行うとしよう。今は彼に関わった人たちのその後の人生を概観しつつ、筆を置こうと思う。



 □ ■ □ ■



 ダンダリオン一世はイブライン協商国を滅ぼした後、ただちに皇太子ジェラルドへ帝位を譲れたわけではなかった。もっとも、譲位の準備には相応の時間がかかるものなので、これは特別おかしなことではない。譲位が行われたのは、ロストク帝国がミストルンを手に入れてから三年後のことだった。


 退位した後も、ダンダリオン一世の快活な性質は変わらなかった。海を越えて魔の森で指揮を取ってみたり、帝国中を巡視してみたりと、精力的に動き回っている。国の外へも何度か出ており、特にイスパルタ朝には五回訪れた。ラグナとも面会を果たしており、ジノーファも含め、聖痕(スティグマ)持ちが三人揃った光景は壮観であったという。


 そのラグナは、アヤロンの民がジノーファの直臣となったのち、彼の特別な臣下として仕えた。なにか役職が与えられたわけではない。公式にはアヤロンの民のまとめ役でしかなかったが、しかし彼は国の内外から注目と尊敬を集めた。


 ラグナは生涯を通じて魔の森のダンジョンの攻略に精力を注いだ。彼個人が成し遂げたことは、率直に言ってそれほど大それたことではない。だが彼が先頭に立つことには大きな意味があった。彼の名は歴史に刻まれ、彼のあとに続く人々は、彼の名のために誇りを持つことができたのだ。


 さて、ジェラルドはミストルンを得た後、そこにおよそ二年留まって占領地の統治を安定させた。アイフェルン山地を越える交易ルートも、この頃に彼が整備したものだ。この地を着実に帝国の一部にした功績は、間違いなく彼のものである。


 帝都ガルガンドーに戻った翌年、彼は帝位を継承してジェラルド三世を名乗った。治世中、彼はもっぱら内政に力を注いだ。為政者としての彼の評価は、父ダンダリオン一世よりも高い。強力な軍隊、安定した統治機構、富をもたらす貿易港、友好的な隣国。これらの要素が揃った彼の時代、帝国は黄金期を迎えたのだった。


 兄ジェラルドが即位すると、シュナイダーは大公位を与えられて臣籍に下った。その後、彼は総督としてミストルンに赴き、帝国の交易政策の陣頭指揮を取った。イスパルタ朝やランヴィーア王国との交易が盛んになったのは、彼の功績と言われている。


 ミストルンへ赴く前にシュナイダーは結婚している。いい加減身を固めろと皇太后アーデルハイトにせっつかれたのである。お相手はノーラという女性で、彼の秘書官を務めていた女性だった。


 ただ彼女は身分が低かったため、名門貴族の養女となってからシュナイダーに嫁いだ。彼女の出自等については不明な点も多い。記録が残っていないことは珍しくないが、中には「元は細作だった」などという説もあり、歴史家たちを悩ませている。


 ルドガーは皇帝となったジェラルド三世にとって、最も信頼できる臣下であった、と言っていい。直言を恐れず、時には怒鳴りつけることもあったという。それが出来たのは二人の間に強い信頼関係があったからに他ならない。ジノーファとも親交があり、両国の友好にも一役買ったと言われている。


 ジェラルド三世の治世中、皇帝直轄軍は出番があまりなかった。それでも直轄軍が精強さを保ち得たのは、ルドガーの働きによるところも大きい。実際、彼の指揮する部隊は、帝国内でも屈指の精兵揃いと言われた。


 ヴィクトールとヘレナの老夫婦は、ガルガンドーにあるイスパルタ朝の大使館の維持管理を担った。大使館として使われた屋敷は、かつてジノーファが暮らした屋敷であり、二人は赴任した大使らに彼の逸話を話して聞かせたという。


 二人は老齢のため最期までガルガンドーを離れることはなかったが、それでも終生ジノーファの特別な家臣だった。季節ごとに私的な手紙のやり取りをし、二人の葬儀にはクルシェヒルから弔問の使者が立てられた。


 ガルガンドーにあるイスパルタ朝の大使館には、金貨や宝石がつまった金庫があるという。だがその金が使われることはない。この金はもともと、ジノーファがヴィクトールとヘレナのために残していった金なのだ。


 だが二人はこの金を使わなかった。いや、多少は使ったがその分は後で補填した。二人にとってこの金は自分たちのものではなく、主ジノーファのお金だったのだ。二人の死後もその金はそのまま残されていて、大使が交代する際に業務と一緒に引き継ぐのが通例となっている。


 他の使用人たちはどうなったのか。ボロネスはジノーファのために料理を作り続けた。彼は結婚しなかったものの、一〇〇人を越える弟子を育てた。彼が残したレシピの数々は、今なお料理人たちに大きな影響を与えている。


 カイブとリーサの夫婦は、ジノーファとシェリーに近いところで仕え続けた。娘のエマは第一王子ベルノルトの乳兄弟であり、また彼の初めてのお相手とも言われている。二人は相手が王子や王女であっても遠慮なく叱ったので、ジノーファとシェリーに、そしてマリカーシェルにも、子育ての面では大いに頼られたという。


 クルシェヒルの王宮の庭では、狼が放し飼いにされている。ラヴィーネの子孫だ。眉をひそめる者がいないわけではなかったが、防犯上、この狼たちは非常に役に立ち続けた。実際「クルシェヒルの王宮に忍び込める者なし」と言われた程だ。


 そしてこの放し飼いだが、始めたのはカイブだと言われている。彼は王宮内の、ジノーファの私的な生活空間の警備を担当していたのだが、人間だけではどうしても手落ちがでる。また薄着を纏った令嬢など、力尽くでは追い返しにくい相手もいる。そんな時に狼たちの力を借りたのが始まりだったと言われている。


 そんなわけであるから、その場所の警備担当者らの仕事として、狼たちの世話やしつけの業務が増えたのは当然と言える。放し飼いとは言え、最低限の世話やしつけは必要なのだ。ちなみに狼たちの最高のご馳走はドロップ肉であり、ダンジョンに潜ってそれを獲ってくるのも彼ら警備担当者の仕事の一環だった。……狼たちが自分で獲りに行くこともあったが。


 ユスフはジノーファにとって最も近しい家臣だった。侍従であり、近侍であり、秘書官であり、政務官だった。側近中の側近であり、懐刀とも右腕とも言われた。代理や留守居役を任されることが多く、ジノーファにとっては「もう一人の自分」という意識があったのかも知れない。


 一方でユスフはジノーファの悪友だった。悪い遊びはほぼ全て彼が教えたと言われている。まあ「悪い」とは言っても、違法賭博がせいぜいだが。二人して飲み過ぎた挙句、ユスフの母に頭から井戸水をぶっかけられたという逸話も残っている。


 このようにジノーファに極めて近い人物であったから、ユスフに取り入ろうとする者は多かった。しかしその全てを、彼は飄々とかわしている。一方で華麗な浮名も流しており、そのあたりの見極めは抜群に上手かった。


 そうやって遊びまくっていたユスフだが、三〇を越えたころに結婚している。ちなみに結婚した年齢的にはシュナイダーより早い。相手はイゼルという、ネヴィーシェル辺境伯家に仕える士官だった。本人は「まさかこんな形で責任を取ることになるとは」と自嘲混じりに話したというが、二人ともそれ以上詳しくは語らなかった。


 ユスフの父であるクワルドは、近衛軍元帥として辣腕を振るった。イスパルタ朝がイブライン自治区を得た時点で近衛軍の改革はまだ道半ばの状態だったのだが、彼はこれを推し進めて近衛軍を完全な常備軍へと生まれ変わらせたのである。以降、イスパルタ朝の近衛軍はロストク帝国の皇帝直轄軍と並び称されることになる。


 クワルドの息子たちであり、ユスフの二人の兄であるエクレムとバハイルも、それぞれジノーファに仕えて身を立てた。ただ、クワルドが元帥として辣腕を振るっている間、二人はクルシェヒルから遠ざけられた。ユスフのことも含め、自分の家族でジノーファの周囲を固めることがないように、というクワルドの意向だった。


 もっとも二人は冷遇されていたわけではない。エクレムはずっとセルチュク要塞を任されていた。そしてクワルドが元帥を退き相談役になると、クルシェヒルに呼び寄せられて近衛の一軍を預かっている。なお、クワルドの後任はハザエルだった。


 バハイルはウファズで情報収集などに当たっていたが、後にルルグンス法国の貿易港であるヘラベートにイスパルタ朝の総領事館が置かれると、そこに駐在武官として赴任。ヘラベートを拠点に、法国やさらに西方の情勢について情報の収集に当たった。晩年については記録が残っていないが、クルシェヒルには戻らなかったものと思われる。


 スレイマンはイブライン自治区を得てからさらに十年宰相を務めた。ジノーファやユスフにとっては、政務のイロハを教わった師であると言っていい。宰相を退く際には相談役を打診されたが、高齢を理由に辞退。以降はクルシェヒルに居を構えて晩年を過ごした。彼の隠居後もジノーファはたびたび彼を訪ねており、その頭脳は最期まで明晰であったと言う。


 前述した通り、引退したクワルドの後任となったのはハザエルだった。彼は北方方面軍司令官だったので、この人事に驚いた者は多い。クワルドの後任は、いわゆる中央軍から選ばれるに違いないと多数の者が思っていたのだ。


 もっとも、ジノーファからすればこの人事は必然だった。なぜ周囲は驚くのかと、逆に不思議がったという。そしてクワルドが生まれ変わらせた近衛軍はハザエルによって完成される。


 新領土の総督となったロスタムは、その領地の統治に功績を残した。ルルグンス法国からの干渉をはね除け、僧職者の専横を許さず、治安の維持に腐心した。治水を行い、街道を整備し、発展の基盤を整えた。


 一方で総督の職権は縮小され続けた。新領土のそれぞれの州には順次代官が入れられ、イスパルタ朝の統治体制の中に組み込まれていった。ロスタムはそれに抵抗しなかった。ジノーファは彼に対し侯爵位と所領四州を約束していたからだ。


 これは前総督カスリムと同じ待遇であり、また国内を眺めても文句なしに大貴族であると言っていい。クワルドにさえ領地が与えられなかったことを考えれば、十分すぎるほどの厚遇と言って良く、ロスタムの自尊心を大いに満足させたのだった。


 ちなみに、最終的に総督職は廃止された。その後、総督府は西方方面軍司令所として使われた。言ってみれば、総督の兵権だけが残されたような格好である。こうして新領土は“新領土”ではなくなったのだ。


 さて、王朝が変わっても、ユリーシャとオルハンの夫婦の生活はそれほど変わらなかった。オルハンは国立図書館の館長の職を安堵され、ヘリアナ侯爵家も前王朝の血筋を伝える名家として尊重された。


 ジノーファは特にユリーシャを姉と慕っていたが、マリカーシェルとシェリーもすぐに彼女と親しみ、王家と侯爵家は家族ぐるみの付き合いになった。後に、彼女の次女とマリカーシェルの次男が結婚している。


 この婚姻は無論、現王家と前王家の血を混ぜるという、政治的な思惑を含んでいる。だがジノーファがこの婚姻を意欲的に進めたのはそれだけが理由ではなかった。婚姻が成立し、いよいよユリーシャと家族になれたことを、彼は喜んだという。


 ガーレルラーン二世の庶子であるファリクは、十五の時にシェリーの娘であるエスターリアと婚約、二〇の時に結婚し同時にアルトゥク侯爵を名乗った。ガーレルラーン二世はイスファードを絶縁していたので、ファリクこそが彼の世子であり、よってこのアルトゥク侯爵家が前王朝の歴史を受け継ぐ家と言うことになる。


 アルトゥク侯爵家は特別政治に関わらないことを誓った家ではなかったが、結果的に代々政治とは距離を取った。ファリクが、そして歴代の当主らがヘリアナ侯爵家を意識したことはまず間違いない。


 さて、ジノーファはクルシェヒルに美術館を建てたが、ファリクはその館長を任された。以後、アルトゥク侯爵家がその職を受け継いでいくことになる。美術館には王宮の宝物庫に保管されていた美術品が多く陳列された。


 美術館にはアンタルヤ王国に下ることになった小国や都市国家由来の品々も陳列されている。ダーマードが献上した王笏や、カルカヴァンが献上した王冠などがその一例だ。それらの品が見世物にされることに対して一部反感がなかったわけではないが、それもすぐに沈静化した。


 ジノーファがイスパルタ朝の王冠も常時はそこに陳列しておくことにしたのだ。さらに空白の台座がもう一つ設けられ、そこには「次なる王朝の栄光」と刻まれたプレートが掲げられた。彼の歴史観を示す、一つの作品と言っていい。


 美術館にはまた、貴族らの私物も展示された。要するに自慢したかったのである。収蔵品が増えるにつれて美術館は賑わうようになった。ファリクは市井の芸術家たちが作品を公開する場としても美術館を用い、こうしてクルシェヒルの国立事物館はイスパルタ朝の文化の中心になっていくのだった。


 ダーマードはイスパルタ朝においてもネヴィーシェル辺境伯家の地位を揺るぎないものにした。かつてのライバルだったエルビスタン公爵家は、領地を削られて伯爵位へと降爵されている。防衛線の維持を一部担っていることも含め、辺境伯家はまさにイスパルタ貴族の筆頭格だった。


 前述した通り、ファリクはエスターリアと婚約・結婚したが、ダーマードはその際にそれぞれ膨大な贈り物をしている。彼はファリクを無理に擁立しようとしたことがあったが、これはその謝罪であったと言われている。同時にこれは辺境伯家の財力を示すものともなり、彼と辺境伯家の名声を高める結果ともなった。


 ジノーファに建国時から協力した人物と言えば、マルマリズ太守のムスタファーがいる。ムスタファーは不正な蓄財をクワルドに咎められて捕らえられたが、ジノーファの恩赦によって釈放され、以後彼に仕えた。


 ただ、一度知った甘い蜜の味は忘れられなかったらしい。後年、再び不正が発覚し、ムスタファーは太守の職を追われた。本来なら極刑に値するが、ジノーファはこの件を直々に裁定し、金貨五〇〇枚を持たせた上で彼と彼の家族を国外追放とした。ただしこの際、家を出ていた子供らについては処分の対象外としている。


『これまでの働き、大義であった』


 ジノーファは勅使を派遣し、ムスタファーに対しそう言わせたという。ムスタファーは涙を流した。ジノーファは彼の過去の働きをなかったことにはしなかったのだ。涙の理由は、命を取られなかったことより、むしろそちらなのだろう。


 建国前に不正を行っていた人物としては、もう一人、ウファズの太守ハムゼンがいる。もっとも彼の場合、不正の証拠はなく、推測でしかないが。ただし限りなく黒に近いとは思われていた。


 そのようなわけであるから、ジノーファに仕えることになったあとも、ハムゼンを見る目は厳しかった。また不正を働くなら、今度こそその尻尾をつかんでやる。そう意気込んでいた者もいるだろう。


 しかし不敵にも、というべきか。ハムゼンは尻尾を掴ませなかった。高齢を理由にその職を退くまで、彼は太守の任を全うした。あるいは本当に不正などしていなかったのかも知れないが、しかし多くの人はそれを信じていない。巧くやったものだ、と多くの者がこぼしたという。


 そのせいなのか、戯曲や演劇に登場するハムゼンは多くの場合、不正を暴かれて断罪されてしまう。後世においてはむしろそのイメージが主流となっている。彼にとっては、恐らく不本意なことであろう。


 ジノーファの北伐後、メルテム王太后は一時エルビスタン伯爵領内に居を構えたが、すぐにクルシェヒルにほど近い天領に居を移した。イスファードは新領土の僧院に身柄を預けられていたのだが、年に一度彼に面会するためにはそちらの方が都合が良かったのである。


 またクルシェヒルには孫のイドリースがいた。彼女はイドリースのことも溺愛していたので、居を移した理由にはこの孫のことも含まれていたのだろう。一方でメルテムはクルシェヒルには近づこうとせず、ジノーファも彼女に干渉しようとはしなかった。ユリーシャなどは二人の仲立ちをしようとしたようだが、主にメルテムの方がそれを望まず、結局二人の関係は冷え切ったまま終わった。


 イスファードはクルシェヒルで捕らえられた後、山奥の僧院に身柄を預けられ、そこで余生を過ごした。彼の残した日記などを見ると、決して無念がなかったわけではないことが窺える。


 それでも彼は今一度事を起こそうとはしなかった。その理由は息子イドリースだったと思われる。息子の立場をこれ以上危うくしないことが、彼なりの親心であったわけだ。彼は僧院でいわゆる修行に精を出したわけではなかったが、農作業で汗を流すことを嫌がらなかった。そうすることであるいは雑念を払っていたのかも知れない。


 世俗を離れて暮らすイスファードの心を慰めたのは、主に妻子からの手紙だった。彼は全ての手紙を保管しており、頻繁に取り出しては読み返していたことが窺える。所々にインクの滲んだ跡があるのは、きっと雨漏りでもしたのだろう。


 ただ妻子、つまりファティマもイドリースも、イスファードと手紙のやり取りは欠かさなかったが、面会に行くことはついぞ一度もなかった。行きたくなかった、というわけではない。そのことは残された手記などからもはっきりしている。彼と面会することはそれだけリスクが高いと二人は判断していたのだ。


 ファティマにとって最大の使命は何だったのか。それはエルビスタン伯爵家を存続させることである。そのために彼女は徹頭徹尾、王家に臣従した。もっともジノーファはあれこれと無茶な命令を下す王ではなかったので、臣従するのは難しくなかった。ただ彼女が伯爵家存続のために気を遣っていたのは事実で、イスファードと面会しようとしなかったのもそのためだった。


 ファティマにとって最大の宿願とは何だったのか。それはイドリースにエルビスタン伯爵家を譲ることである。彼女が再婚しなかったのもそのためと言っていい。だがそれは容易なことではなかった。仕置きの一環として、伯爵家の世子を立てるには、ジノーファの承認がいる。その承認がなかなか下りなかったのである。


 イドリースの、少なくとも人格や能力に問題があったわけではない。問題は彼の出自だった。彼はエルビスタン公爵家とイスファードの血を引いている。仮にこの先、北アンタルヤ地方で再び謀反が起こったとして、彼ほどその旗頭に相応しい人物はいない。ジノーファとしてもそれを警戒しないわけにはいかなかったのだ。


 乳離れしたのち、イドリースは王都クルシェヒルで育てられた。十五歳までは伯母であるユリーシャに預けられた。王都の外へは出られなかったが、特別窮屈な生活だったわけではない。ユリーシャは人格者だったし、クルシェヒルは大きくそして賑やかな都市だ。貴族の子息としてはごく平凡に暮らした、と言っていいだろう。


 十五歳の誕生日を迎えてからは、イドリースは王都にあるエルビスタン伯爵家の屋敷で暮らした。母であるファティマは一年の三分の一ほどは王都で過ごすようにしており、その際にはこの屋敷で母と子は一緒に過ごしていたので、彼にとってはもう一つの家であったと言っていい。


 だがイドリースがヘリアナ侯爵家を出ることの意味は大きかった。彼はいわばそこでずっと庇護されていたのだ。しかしその外へ出たことで、世間の風は彼に強く当たるようになった。


 これは容易に予想できることだったが、それでも彼を侯爵家の外に出したのは、無論ファティマの指示だった。この頃、彼はまだ伯爵家の世子として認められていなかったが、それを実現させるための布石であったと言っていいだろう。彼以外に伯爵家の世子はいない、と世に示した格好である。


 十五歳になったイドリースは、自分の置かれた立場を良く理解していた。生まれる前から絡みつくしがらみに、叫びたくなることもあっただろう。父であるイスファードとは手紙のやり取りをしていたから、あり得たはずの未来を考えることもあったに違いない。なぜ、という疑問は尽きなかったはずだ。


 だがそれでも、イドリースは自分が何者なのかを悩む必要はなかった。彼の出自に関して、なんら秘密はなかったのだから。そのことを彼がどう思っていたのか、それが分かる資料は少ない。ただ彼は、少なくとも家の外で、自らの境遇に不満をこぼすことはなかった。


 事情が変わったのはイドリースが十八歳の時だった。彼はなんと、マリカーシェルの長女と婚約する事になったのだ。ファティマの忠勤と地道な働きかけが実を結んだ瞬間だった。そしてこの婚約の成立と同時に、彼はエルビスタン伯爵家の世子として承認されたのである。


 彼は、父であるイスファードが生存中に面会する事はなかった。父が危篤であるとの報せを受けたときには、馬を駆けさせて僧院へ向かったのだが、結局最期には間に合わなかった。ただ遺体と面会することはでき、その時彼は初めて父の顔を見たのだった。老いた父の亡骸を前に、彼は滂沱の涙を流したという。


 王妃マリカーシェルはジノーファとの間に、長子アルアシャンを含めて二男二女をもうけた。王太子アルアシャンの妃にはランヴィーア王国の王女が迎えられ、こうして三カ国の結びつきはより強いものとなった。


 すでに述べたとおり彼女の子供のうち息子一人と娘一人は、どちらも前王家の血を引き継ぐ者と結婚している。これもまた王朝の安定に大いに貢献したことは言うまでもない。イスパルタ朝の国母はマリカーシェルでなければ務まらなかった。彼女の持つ血の重みがジノーファの王朝を安定させたことは、多くの歴史家が認識を共にするところである。


 ジノーファに嫁ぐ前のマリカーシェルは、典型的な箱入り娘だった。純粋で世間知らずなお姫様だった。イスパルタ朝が大国となったとき、母であるアーデルハイトはあの娘に大国の国母が務まるのか心配したという。


 だが子供が生まれたことでマリカーシェルは変わった。芯が強くなり、何より思慮深くなった。積極的に政治に関わろうとしない姿勢は変わらなかったが、王妃である以上、全くの無関係ではいられない。その言葉一つで王宮が混乱に陥る可能性は常にあったわけだが、しかし彼女はついぞそのような事態を起こさなかった。


 それができたのは、マリカーシェルの傍に信頼できる味方がいたからである。その中でも最も頼りとしたのがシェリーだった。マリカーシェルはシェリーを何かと頼みにし、万事を彼女に相談した。


 ジノーファの側妃であるシェリーが、もともとも細作であったことは広く知られている。そのことで陰口をたたかれることもあったが、彼女は細作であった過去を卑下しなかった。そのおかげでジノーファに添うことができたからである。


 歴史家の観点からすると、王朝内におけるシェリーの存在感は薄い。それは彼女が無力な妃だったから、ではない。ジノーファは彼女を寵愛していたし、また彼女の子供たちのことも大切にしていた。また彼女にかかれば、マリカーシェルなど操りやすいお嬢様に過ぎなかっただろう。やろうと思えば彼女は権勢を振るえたはずなのだ。


 しかし彼女はそうしなかった。むしろ彼女は徹底的に政治に関わろうとしなかった。表舞台に立つことを避け、出ざるを得ない場合には不用心な発言を避けた。それでも何か言わなければならない場合には、全てジノーファの意向に沿う発言をした。


 ではシェリーが居ても居なくても同じ存在だったのかといえば、それは違う。前述した通り、マリカーシェルは彼女を頼みにした。彼女に促されて、マリカーシェルは何通もの手紙を母国へ送ったと言われている。また子供たちの面倒をよく見た。ジノーファの子供は全て彼女にお尻を叩かれたことがある。そのためアルアシャンは王座に就いてからも彼女に頭が上がらなかったという。


 要するに、シェリーは王家という家族のなかで余計な諍いが起こらないように腐心したのだ。ジノーファの後継者を巡って、特にベルノルトが野心を覗かせなかったのは、彼女がそのように教育したからだと言われている。彼女は見事に御家騒動の芽を摘んだのである。


 余談になるが、歴史的に見ても、この頃のイスパルタ王家ほど家族関係が良好であった王族というのは、なかなか例がない。その要因として「正妃マリカーシェルがおおらかで素直な気質の人物であったからだ」とする評論家もいる。


 だがそれより大きかったのは、シェリーが徹頭徹尾マリカーシェルを立てたことだろう。彼女が対抗馬にならなかったので、マリカーシェルはおおらかでいられたのだ。彼女は自分が一歩退くことで、王家の安寧を優先したのだ。


 またジノーファがこの二人以外に妃を持たなかったことも大きい。「新たな側妃を迎えてはどうか?」という話は何度もあったが、彼はその全てを断っている。ガーレルラーン二世が表向き側妃を持たなかったことも、彼には幸いした。ユスフなどは「面倒だったようだ」などと書き残しているが、ともかく彼が色に溺れることはなかった。


 そのおかげで、王家という家族の中に、いわば異物が入り込むことはなかった。マリカーシェルのための箱庭は守られた、とも言える。だからこそ彼女はおおらかでいられたのだ。歴史上、多数の側室を迎えたために王家の内部が殺伐とした例は枚挙に暇がなく、もしかしたらジノーファの頭にはそういう先例があったのかもしれない。


 閑話休題。前述した通り、シェリーは王朝の表舞台に立とうとはしなかった。しかし舞台裏となれば、むしろ彼女の専門分野と言っていい。彼女は主にクルシェヒルを中心に独自の諜報網を築き、隠密衆の仕事を補完した。彼女からの報せで隠密衆が動くことも度々あったという。彼女の耳は抜群に良かった。


 私生活にあっては、シェリーはベルノルトとエスターリアの他に、さらに一男二女をもうけた。末娘は四〇を越えてからの子供だったが、周囲はそれほど驚かなかった。彼女の容姿は若々しく、ジノーファの寵愛も依然深かったからだ。


 ジノーファは数奇な運命を歩んだ。シェリーはその傍らにあって、己の運命を差し出して彼を助けたように思う。それで彼女の項を書き終えて、筆を置こうと思う。


 大統暦二〇二〇年九月三日 ― 完 ―



19:00にあとがきを、20:00に人物一覧を投稿します。

ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
[良い点] よそさまのブックマークから辿りついて、本編完結まで読ませていただきました。 その時点では無駄にも思えたもの含め過去の言動や交流がロングパスで行く先に大きな影響を与える様。といって一部の隙も…
[良い点] 楽しく読ませていただきました、素敵な物語をありがとうございます!続きも読ませていただきますね [一言] 一言報告、読んでて和みました♪
[良い点] 完結おめでとうございます。
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