父と娘1
時間は少し遡る。イスファードがイスパルタ軍の捕虜になった、その翌朝のことだ。彼が目を覚ましたとき、その目に映ったのは見覚えのない天井だった。
(知らない天井だ……)
覚醒しきらない頭で、彼はぼんやりとそんなことを考える。そして徐々に目がさえてくるにつれて、彼の表情は強張っていった。昨夜の出来事を思い出したのである。ベッドの上で、彼は反射的に身体を起こした。
「俺は、なぜ……」
イスファードは負けたはずだった。策を逆手に取られ、罠にはまったのだ。ジノーファに一騎打ちを挑んだが、しかし勝つことはできなかった。そして敗北とはすなわち死を意味していたはずである。
だがイスファードは生きている。ジノーファがなぜ自分を生かしておいたのか、それは彼にも分からない。だが生きている。生きているのだ。
「う、うう、くぅぅ……!」
イスファードの口から嗚咽が漏れる。あの時、彼は死にたくないと思った。そして今、その願いかなって彼は生きている。そのことが情けなくて悔しくて惨めで。そして同時に彼は、心の底から安堵した。
□ ■ □ ■
ファティマがメルテムを伴ってシュルナック城に現われた時、カルカヴァンは思わず顔をしかめてしまった。彼に二人を呼んだ覚えはない。ということは、誰かが二人に諸々情報を伝えたことになる。北アンタルヤ王国が一枚岩でないことが早々に明らかになってしまった。
さらに厄介なのは、カルカヴァンがイスファードを切り捨てるつもりでいることだ。二人はそれに猛反発するだろう。ファティマだけなら抑えられるだろう。だがそこにメルテムが加わるとなると、その発言力は楽観視できない。カルカヴァンは内心で舌打ちを漏らしたくなった。
「なぜ来た? お前たちを呼んだ覚えはないぞ」
挨拶に来たファティマに、カルカヴァンはそう尋ねた。彼の口調は苦い。一方のファティマは毅然とした態度で逆にこう尋ねた。
「お父様こそ、なぜ教えて下さらなかったのですか? 事は陛下と国の行く末に関わる一大事。わたしやメルテム王太后殿下の意見も聞いていただかなければ困ります」
宰相の執務室で、父と娘は火花を散らした。カルカヴァンはファティマがかなりの程度事情を把握していることを悟った。それでもこの時の彼にはまだ、自分の腹案を通す自信があった。
イスパルタ朝との交渉は、不利な立場からの難しいものになる。その交渉をまとめる力量は、ファティマにはない。力量のない者が交渉に挑めば、結局は丸呑みにされてしまうだけだ。そしてそのことは他の貴族たちも分かっている。
だからカルカヴァンとしては、紆余曲折あろうとも、最後には自分で筋道をつけられると思っていた。それに彼とてイスファードを完全に諦めたわけではない。可能な限り解放を求めるつもりでいる。その辺りの事を説明すれば、ファティマやメルテムの理解も得られるだろう。
さて、主立った者たちが全て集まると、早速会議が開かれた。カルカヴァンはその冒頭で現状を説明する。イスファードを含む北アンタルヤ軍主力が全て捕虜になったと聞かされ、大半の者たちはすでにおおよその事情を把握していたのだが、それでも流石に渋い顔をした。
「何という結果か……! カルカヴァン卿。卿には宰相として国政に大きな責任があるはず! この責任をどう取るおつもりか!?」
会議室に次々と怒号が響く。演技も混じっているだろうが、彼らの怒りは本物だ。北アンタルヤ王国の状況は危機的である。その独立の経緯を考えれば、彼らはことごとく族滅させられてもおかしくはない。
なぜなら彼らはアンタルヤ王国国王ガーレルラーン二世に叛旗を翻す形で独立したからだ。そしてジノーファはガーレルラーン二世の後継者である。彼がガーレルラーン二世の路線を踏襲したとして、何ら不思議はない。
ジノーファはガーレルラーン二世ではないのだから、北アンタルヤ王国に対してそれほど隔意は抱いていないだろう。仕置きはそれほど苛烈にはならないはず。そう考える者もいるが、それは甘いと言わざるを得ない。
第一にジノーファとイスファードの間には因縁がある。出生と王太子位にまつわる確執だけではない。イスファードは一度、イスパルタ王国に攻め込んでいるのだ。ジノーファがそのことを根に持っていたとしてもおかしくはない。
第二にジノーファはアンタルヤ王国を継承したのだ。そしてアンタルヤ王国は伝統的に貴族の力が強い。北アンタルヤ王国について言えば、ほとんど貴族の連合体だ。国王の立場からすれば、目障りなことこの上あるまい。であれば、貴族の力をそげるこの機会を逃しはしないだろう。貴族的価値観から言って、それは間違いない。
第三に、隔意はなかったとして、しかし好意的に接する理由もまたない。そもそも一度戦争をふっかけているのだ。ジノーファがどれほど寛大かつ寛容であったとしても、その分のけじめは付けなければならない。そうしなければ、今度は味方に対して示しがつかないからだ。
北アンタルヤ王国の貴族たちについていえば、彼らの命はすでにジノーファの掌中にあると言っていい。悲鳴を上げたくなるのも当然だろう。カルカヴァンに矛先を向けるのも、言ってみれば八つ当たりだ。それで彼も厳めしい顔をしながらこう答えた。
「宰相としての責任は痛感している次第。かくなる上は、死力を尽くして北アンタルヤ王国の独立を維持する所存」
「では、宰相閣下におかれては何か腹案があるのか?」
「左様。現在までに、イスパルタ朝からの接触はまだありませぬ。ですが遠からず動きがあるでしょう。軍勢が押し寄せてくるのか、それとも使者が送られてくるのか、それは分かりませぬ。ですがそれまでにこちらの方針を決めておく必要がある。
それで私としては、イスパルタ王の第一王子ベルノルト殿下を北アンタルヤ王国の国王としてお迎えすることを提案する。自分の息子を送り込めるとなれば、イスパルタ王もことさら我らを滅ぼそうとはなされまい」
「それはイスパルタ朝の属国になると言うことではないか! それで独立を守ると言えるのか!?」
「確かに属国でござる。しかしそれでも、主権を持つことはできる。主権を保持し、時間を稼いで国力を回復させるには、これが最良の案と考える」
さらにカルカヴァンはベルノルトがまだ幼いことを告げる。これなら傀儡にするのは難しく無いし、もしかしたら実際に王座につくまでに数年程度時間が稼げるかも知れない。その説明を聞き、貴族たちも考え込む。そこへ甲高い声が響いた。
「反対ですっ! それではイスファードが処刑されてしまうではないですか!」
金切り声を上げてそう言ったのはメルテムだった。カルカヴァンの案はイスファードの切り捨てに他ならない。メルテムにとっては到底受け入れられない案だ。しかし彼女のその反応は、カルカヴァンも織り込み済み。落ち着いてこう応えた。
「イスファード陛下のことは、命を助けていただけるよう、お願いする所存です。なに、一国差し上げると言っているに等しいのです。イスパルタ王もイスファード陛下の事はご寛恕下さるでしょう。ご心配なら、王太后殿下もそのことを是非お願い申し上げればよろしいかと。イスパルタ王はガーレルラーンのあとを継いだのです。王太后殿下のお願いを無下にはできますまい」
「いや、しかし……!」
メルテムは納得のいかない顔をした。要するに彼女はジノーファのことが信じられないのだ。彼が何の理由もなしにイスファードを許すとは思えないのである。そもそもベルノルトを王座につければ、いよいよイスファードは用なしである。殺すことを躊躇いなどしないだろう。
また彼女自身、彼には冷たく接してきた。母の愛情を求める彼を、幾度となく突き放してきたのである。どこの馬の骨とも分からない子供など、彼女にとっては煩わしくて仕方が無かったのだ。そして彼はとうとうそれを諦めた。その自分の頼みを彼が聞いてくれるのか、彼女にはそちらの自信も無かった。
だからこそメルテムはファティマに協力することにしたのだ。イスファードの命を容赦することが前提条件だったからである。逆を言えば、これ以外にイスファードの命を救う方法はないと彼女は思っているのだ。
「宰相に幾つか聞きたいことがあります」
「何でしょうか、王妃殿下」
ファティマが口を開いたのを見て、メルテムはひとまず口を閉じた。他の者たちもファティマとカルカヴァンのやり取りを、固唾を呑んで見守っている。そしてカルカヴァン自身、いよいよ来たかと身構えた。
「ベルノルト王子を玉座にお迎えするというのですね。では即位されたベルノルト陛下が、最初の勅命でイスパルタ朝への臣従を表明された場合、宰相はそれに従うのですか?」
「それは……。そのようなことにならぬよう微力を尽くすのが臣下との勤めと心得ております」
「ですが宰相が力を尽くしても、ジノーファ陛下がそれを望まれればその通りになるでしょう。ベルノルト王子をお迎えするのは、実質的に無条件降伏と同じであると考えます。するべきではありません」
ベルノルトの勅命による臣従。それは十分にあり得る話だ。その可能性を示唆されて会議室に集まった貴族たちは表情を曇らせた。形式上であったとしても、臣従がなってしまえば、結局のところ北アンタルヤ王国の仕置きはジノーファの胸三寸と言うことになる。それでは現状と変わらない。
いや、ともすれば現状より悪いだろう。国家としてイスパルタ朝と交渉することができないからだ。ジノーファの心情としても面白くはないだろう。貴族らの立場はさらに悪くなる。だが逆らえば攻め滅ぼされる。歯がみしつつ、仕置きを受け入れるより他にない。
それに独立を保ったからといって、北アンタルヤ王国の状況が好転するとは限らない。属国であり、しかも塩を握られた立場になるのだ。将来的に使い潰される危険性もある。そしてその危険性は、世代が進めば進むほど高くなるだろう。イスパルタ朝とくらべ、北アンタルヤ王国が弱小国であることに変わりはないのだ。
一つ間違えば八方塞がりの状況へ追い込まれかねない。それを懸念して表情を曇らせる者が出た。その中で、しかしカルカヴァンは朗らかな声でこう反論する。
「無条件降伏に等しいとは暴論ですな。そもそもイスパルタ王が北の完全な併合を望んでおられるのか、それもまだ分からないのです。この地は防衛線を抱え、治めるのが難しい。人に任せておけるなら、そうするのではありませぬか?」
「イスパルタ朝も防衛線を抱えています。今更忌避する理由はないでしょう。そもそもジノーファ陛下は防衛線の維持に強い関心を持っておられます。むしろ人任せにすることの方がリスクは大きい。そう判断されるでしょう」
ファティマの反論を聞き、カルカヴァンは僅かに顔をしかめた。誘引作戦の実施など、これまでの経緯を思えば、ジノーファの視線が魔の森に向いているのは確かだ。それは認めなければならない。
またイスパルタ朝はアンタルヤ大同盟の後継者を主張している。そうである以上、防衛線には積極的に関わる姿勢を見せるだろう。それこそが国を治める大義名分だからだ。であれば北アンタルヤ王国を目障りに思っても不思議ではない。
「……では、王妃殿下におかれてはどのような対案をお持ちなのか、お聞かせ願いたい」
「ジノーファ陛下の望みはアンタルヤ王国の再統一です。であればそれを受け入れるより他にないでしょう。ですが無条件降伏はしません」
「ほう、ではどのような条件を付けるのですかな?」
「先ほども述べたとおり、ジノーファ陛下は防衛線の維持に強い関心を持っておられます。というより、危機感を抱いておられると言った方が良いでしょう。このままでは表層域が拡大してしまうとお考えなのです。だからこそ、これまでに誘引作戦を行うなどの支援をしてくださった。
であれば、再統一後はすぐに防衛線へ注意を向けられるはず。きっと大規模な作戦が行われます。その作戦に我々も全面的に協力するのです。むしろ我々の協力無くして作戦は成功しないでしょう。ジノーファ陛下としてもこの申し出は無下にできない。そこに妥協点があると考えています」
魔の森の脅威は差し迫っている。しかもその動きを予測することはできないし、まして交渉が通じる相手でもない。すぐさま取りかからなければならない問題だ。だが北アンタルヤ王国の仕置きに手間取れば、問題は時間と共に深刻になっていく。
繰り返しになるが、ジノーファの視線は明らかに防衛線へ向けられている。彼は手間取られることなく、防衛線の問題に取りかかりたいと思っているはずだ。そこへの協力を申し出れば、彼が乗ってくる公算は高い。なにしろ地元の協力がなければ、どんな活動も満足には行えないのだから。
ファティマの説明に頷く貴族の数は多かった。この地で防衛線を守ってきたのは彼らである。蓄積された経験と知識は替えが利かない。つまりこの部分に関してだけは、イスパルタ朝に対して強気に出られるのだ。そしてそのことを、ファティマはこう言葉にした。
「そして協力するからには対価を得る権利がある。つまり処分の減免です。加えて我々が“使える”ことを証明すれば、ジノーファ陛下も今後、我々を頼りにするでしょう。それは難しくないはずです。わたくしたちは今日まで防衛線を守ってきたのですから」
ファティマの言葉はその場にいる貴族たちの自尊心をくすぐった。北アンタルヤ王国の建国以来、彼らにはほとんど良いところがない。そんな中、防衛線の維持はやむにやまれぬ事だったとは言え、ほとんど唯一の成果だ。それを評価されれば悪い気はしない。
「そう上手く行きますかな。現状でも防衛線は持ちこたえているのです。防衛線の手当ては最低限にして、まずは仕置きを優先するのが常道でしょう。そうしてこそ、王家の力と権威は増すというもの。そもそも、此度の交渉は非常に困難なものになりまする。失礼ですが、王妃殿下にそれをまとめる力量がありますかな?」
「その、交渉に関してですが、一つお話しするべき事があります。わたくしの権限でイスパルタ側と独自に交渉した結果、近々誘引作戦を再開していただける事になりました。また条件さえ揃えば、塩に限って輸出を再開できるかもしれない、とも聞いています。今にして思えば、その条件とは恐らく、降伏を前提にした交渉の事なのでしょう」
その話を聞き、会議室はざわめいた。このタイミングでの誘引作戦の再開は、イスパルタ側がそれだけ防衛線のことを重く見ている証拠と言っていい。だとすればファティマの腹案も重みを増す。
また誘引作戦の再開は、つまりファティマにはイスパルタ側を動かす力があると言うことになる。無論、実際には彼女が再開させたわけではない。だが事情を知らない者たちからすれば、彼女がイスパルタ側に太いパイプを持っているように映った。
あるいはファティマならば、この交渉をまとめられるのではないか。貴族たちの考えはそちらの方へ傾いた。カルカヴァンはそれを敏感に感じ取り、内心で舌打ちを漏らす。そしてその流れを断ち切るため、少々声を荒げてこう言った。
「独自に交渉とは! 王妃殿下、ともすれば敵への内通を疑われても仕方の無いことですぞ! しかもその貴女が降伏を主導するとなれば、これはまさに国を売り渡すに等しい行為! そのような方にこの大切な交渉、お任せするわけにはいきませぬ!」
「これは内通ではありません。皆様ご存じの通り、私はこれまで私貿易の取りまとめをしていました。『わたくしの権限で』と申し上げたとおり、この交渉は範囲内でのものと認識しています」
ファティマは冷静にそう反論した。そもそも誘引作戦は私貿易の中で彼女が実現させたものだ。であればそこに彼女が関わるのはむしろ当然と言っていい。だがカルカヴァンは彼女の言葉に引っ掛かるモノを覚えた。
私貿易とはジノーファの発案であり、彼の命令によって行われていたはずだ。誘引作戦も同様だ。であればその再開にも彼の許可、あるいは命令が必要なはず。彼がこのタイミングで北アンタルヤ王国を利するような真似をするだろうか。
(だがこうもはっきり言い切る以上、嘘ではあるまい……)
そう考えた瞬間、カルカヴァンは「あっ」と内心で声を上げた。これが出来レースであることに気付いたのだ。つまり彼が交渉役となり、自分の腹案を披露してみても、イスパルタ側は絶対にそれには乗ってこない。そして軍事力というカードがない以上、先に折れるのは北アンタルヤ王国の側だ。敗北を悟ったカルカヴァンの目の前で、彼の娘は最後にこう語った。
「皆さん、どうかわたくしに交渉を任せてください。もちろん、厳しい交渉になることは承知しています。エルビスタン公爵家を含め、無傷とはいかないでしょう。ですが必ずや、全ての家を存続させて見せます。それができるのは、この国でわたくしだけです!」
パチパチパチ、と拍手が響いた。最初、まばらだった拍手は一秒毎に数を増していく。そして十秒もしない内に、会議室は拍手喝采に包まれた。もはやカルカヴァンにこれをひっくり返す余地はない。そしてそれだけの気力も、彼には残されていなかった。
カルカヴァン「娘が反抗期……!」




