急報2
近年、ルルグンス法国にとって最大の脅威とは何か。それはアンタルヤ王国とガーレルラーン二世に他ならない。二五州もの領土をふんだくられた屈辱と恐怖は、法国の中でいささかも薄れていないのだ。
ガーレルラーン二世の崩御が伝えられると、法王ヌルルハーク四世は躍り上がって喜んだ。「悪魔は討たれた! 女神イーシスは法国を見捨てなかったのだ!」と叫んだという。だがすぐに彼は現実を突きつけられることになった。
言うまでも無いことだが、ガーレルラーン二世が死んだからと言って、二五州の割譲地が戻ってくるわけではない。毎年支払うことになっている、金貨五〇〇〇枚の貢納金もそのままだ。つまりルルグンス法国の状況は何一つとして変わっていない。
「何とかならぬか?」
枢密院の会議の席で、ヌルルハーク四世は珍しく自分からそう発言した。つまり何とか割譲地を取り戻し、貢納金も支払わなくて済むようにできないか、というわけだ。しかし三名の枢機卿の表情は厳しい。
ちなみに、枢密院にはもともと六名の枢機卿がいた。だがこの内三人は、ガーレルラーン二世と戦って敗北し、火刑に処された。空席が出たのだから新たな枢機卿を選んでも良さそうなものだが、ガーレルラーン二世の顔色を気にしたのと、あとは純粋に経費削減のため、今日に至るまで空席のままとなっていた。
まあそれはともかくとして。三名の枢機卿も、情勢が大きく変化しようとしていることは分かる。だがそこへルルグンス法国が食い込めるか否かというのは、全くの別問題だ。さらに食い込んだとして、利益だけを享受できるとは限らない。むしろ損失を被る可能性もあるのだ。
ガーレルラーン二世の後を継いだのは、イスパルタ王ジノーファであるという。ガーレルラーン二世よりジノーファの方が組みやすいのは確かだろう。少なくともヌルルハーク四世や枢機卿らはそう思っている。
だが同時に、割譲地を返したり貢納金を減免したりする理由が、ジノーファにはないこともまた事実だ。むしろ彼としては、この二つは是非とも確保しておきたいに違いない。であれば「返してくれ」と頼んだからと言って、易々と返してくれたりはしないだろう。
「兵を挙げてはどうか。ジノーファもまだ国内を掌握しきれてはおるまい。圧力をかければ譲歩を引き出せるのではないか?」
そう主張したのはヌルルハーク四世だった。かつてガーレルラーン二世は彼を「臆病にして意志薄弱」と評したが、その彼が強硬論を口にしている。彼の目にはよほど今の情勢が好機と映るらしい。だが枢機卿らの反応は渋かった。
「確かにガーレルラーンは死にました。ですがジノーファはそのガーレルラーンに手傷を負わせ、死に追いやったまさに張本人なのですぞ。軽く見てはなりませぬ」
「そもそも割譲地には、カスリム将軍率いる二万五〇〇〇のアンタルヤ軍がおります。仮にジノーファが動けないとしても、まず事に当たるのは彼らでしょう」
「加えて申し上げるなら、割譲地を取り戻した後の事も考える必要があります。この件でしこりを残せば、彼は将来的に軍を率いて我が国へ襲来するでしょう。そうでなくとも、西の蛮族どもが押し寄せてきた際に助力を得ることが難しくなります」
口々にそう言われ、ヌルルハーク四世は唸った。枢機卿らの言うことも一理あると思ったのだ。しかしだからと言って、この好機逃して良いものか。少なくともジノーファが自発的に割譲地を返還し、貢納金を取り下げてくれることなどあり得ないのだ。自ら行動しなければならないのは確かだが、しかしどうすれば良いのか分からない。彼は歯ぎしりした。
「猊下。焦っては成りませぬ。まずは情勢の推移を見守りましょう」
「左様。少なくとも割譲地の総督たるカスリム将軍と新王ジノーファの間には少なからず緊張がありましょう。上手くすればそこへ我らが付け入ることも可能かと」
「アンタルヤ王国の再統一を含め、ジノーファがどれほど国内を掌握できるのか。まずはそれを見定めるべきでしょう」
三人の枢機卿に説得され、ヌルルハーク四世はひとまず頷いた。こうしてしばし情勢を注視することになったのだが、事態は彼らが思うようにはならなかった。カスリム将軍は新王ジノーファに挨拶の使者を送り、彼に恭順する姿勢を見せたのである。
「どうしたものか、どうしたものか。このままでは割譲地を取り戻せないではないか」
「猊下。むしろこれは、両者の間の溝が明らかになった、というべきです」
「まさしく。カスリム将軍は自ら挨拶へ赴くことをしませんでした。ジノーファとしては、彼の忠誠心に疑問を抱かざるを得ません」
「一方でカスリムの方も、粛清を恐れているものと思われます。直接挨拶へ行かなかった以上、これから両者の緊張は高まるでしょう」
枢機卿らは口々にそう言った。つまりもう少し様子見をしろということだ。だがヌルルハーク四世としては一日も早く割譲地を取り戻したい。可能なら貢納金も撤回させたいが、やはりまずは割譲地だ。割譲地を取り戻すべく、彼はさび付いた頭を必死に回転させた。
「そうじゃ、カスリム将軍を法国へ迎えるのだ! さすれば割譲地は将軍についてくる。おまけに精強な兵どもも手に入る。ジノーファの相手も将軍にさせればよい。まさに一石三鳥じゃ!」
ヌルルハーク四世は目を輝かせてそう叫んだ。彼はこれを名案だと思ったが、枢機卿らの反応は鈍い。数秒の後、一人が口を開いてその案の欠点をこう指摘した。
「猊下。それではカスリム将軍の力が強くなりすぎます。いずれ法国は将軍に喰われる事になりましょう」
カスリムをルルグンス法国へ引き抜けば、彼は必ずや自らの所領として割譲地全体を要求するだろう。何しろイスパルタ朝と事を構えるのだから、それくらいの旨みがなければやっていられない。
だがその場合、ルルグンス法国の半分以上は彼の所領ということになる。軍事力においても彼の方が強大だ。その牙は遠からず法国それ自身へと向けられるだろう。そして法国にそれを防ぐ手立てはない。
例えるなら、羊が獅子から身を守るため、虎にすり寄るようなものだ。すり寄った次の瞬間、喉元に噛みつかれるのは目に見えている。それを指摘され、ヌルルハーク四世は顔面を蒼白にした。
「猊下。拙速に動いてはなりませぬ。今はカスリムとジノーファの間で緊張が高まるのを待つのです」
ヌルルハーク四世はその言葉に何度も頷いた。しかし事態はまたしても彼らの望む方向へは進まなかった。カスリムが総督の任を解かれ、クルシェヒルへ戻ることになったのである。なんでも伯爵となり、二州をもらうとか。さらにその二州は割譲地から与えられるという。
カスリムの後任として新総督となったのはロスタム。彼を任じたのは言うまでもなくジノーファであり、つまり新総督は新王に忠誠を誓っている。総督と国王の間で緊張が高まることを期待していたルルグンス法国としては期待が外れた格好だ。
「どうするのじゃ!? これでは、これでは……」
ヌルルハーク四世はわなないた。三人の枢機卿も渋い顔だ。あっさりと総督が交代してしまったことで、彼らは割譲地の情勢に介入する機を失ってしまった。しかしそれでもまた、イスパルタ朝の体制は盤石ではない。
何より彼らは北に敵を抱えている。防衛線のことも合わせて考えれば、いかに戦力で勝ると言えど、ジノーファは難しい戦いを強いられるだろう。彼の足下が揺らぐ可能性はまだ残っているのだ。
だが結局、クルシェヒルにてイスファードが捕虜になったことで、その可能性もほぼ潰えてしまった。アンタルヤ王国の再統一は遠からず成るだろう。そして誕生するのは以前よりも強大になった、大アンタルヤ王国だ。
国内の貴族たちもその事業を一代で成し遂げた英雄に逆らおうとは思うまい。国王の権威と権力は格段に高まっている。ルルグンス法国の付け入る隙は、無くなってしまったのだ。
「そなたたちのせいであるぞ! そなたたちが、様子見などと悠長なことを言うから……!」
ヌルルハーク四世はそうわめいた。枢機卿らは俯いて黙り込んでいる。彼らにも言いたいことはあっただろう。だが事ここに至れば、何を言っても言い訳でしかない。選択を誤ったと言われれば、その通りなのだ。
「こうなれば直談判しかあるまい。そなたたちの内の誰かがクルシェヒルまで赴き、割譲地と貢納金のことを話し合って来るのだ。ジノーファは戦場の英雄と言えども、年齢的には小僧と言って良い。丸め込んで参れ!」
必ずや結果をだすのじゃぞ! と言い残し、ヌルルハーク四世は肩を怒らせて枢密院を後にした。その背中が遠ざかっていくのを見送り、残された三人の枢機卿は揃ってため息をこぼす。
正直ヌルルハーク四世は変わった、と彼らは思う。以前は意志薄弱で、国政に関わることは何一つ自分で決められなかった。だがガーレルラーン二世に国土をふんだくられ、ザールジャングら三名の枢機卿の火刑を強行したことで、彼は確かに変わった。
以前は何も決められない法王に歯がゆさと失望を抱いていた。せめて方針だけでも示してくれればと何度思った事か。だが今こうして彼が自主性を見せ始めると、このような変化なら変わらないでいてくれたほうが良かったと思ってしまう。変わったのは確かだが、必ずしも良い方へ変わったとは言いがたい。
「……幸い、法国はジノーファ陛下に敵対したわけではありませぬ。『情勢が落ち着いてきたように見受けられたので、新王への挨拶に来た』と言えば、おかしくはないでしょう」
枢機卿の一人がそう話すと、他の二人も揃って頷いた。ルルグンス法国とアンタルヤ王国は伝統的な友好国だった。その関係維持を望んでいることを伝え、その上で割譲地や貢納金について譲歩をお願いする。そういう事になるだろう。
だが誰が行くかについては、誰も手を上げない。三人が三人とも、露骨に視線を逸らした。割譲地や貢納金について「結果を出せ」と法王に厳命されてしまったからだ。ジノーファの側からすれば譲歩する理由は何もない。大変困難な任務になるのは明らかで、誰もやりたがらなかったのだ。
「それはそうと。挨拶へ行くとなると、手土産が必要ですな」
あまつさえ、もっともらしいことを言って話題を逸らした。ただこれもまた、無視して良い話ではない。
新王の即位を祝うのだから、祝いの品を持って行くのは当然だ。そして祝いの品を持って行くのに、今年分の貢納金を持って行かないというのもおかしな話である。つまり両方持って行く必要があり、手痛い出費となりそうだった。
ただ彼らは金銭面での心配はあまりしていなかった。金が必要なら、信者どもをせっついて寄付を出させれば良いのだ。それは彼らにとって当たり前のことだった。それに祝いの品を持って行ったとして、帰りには相応の返礼品が期待できる。旅費も必要になるが、それとて彼らの懐が痛むわけではない。
「……手土産にしろ貢納金にしろ、準備するには時間が必要です。使節団の人選については、そちらの目途が立ってからでも良いのではありませんか」
結局、そういう事になった。結論を先送りにしたわけである。そしてその間にまた、情勢は進展を見せることになる。北アンタルヤ王国とイスパルタ朝の間で、いよいよ交渉が始まったのだ。
□ ■ □ ■
その時、ファティマはシャガードが冗談を言っているのだと思った。イスファードがイスパルタ軍の捕虜になったなどという話は、とてもすぐには信じることができなかったのである。
「証拠は、証拠はないの……?」
「物証は、なにも。ですが向こうも、ここまで荒唐無稽な嘘をつくでしょうか?」
「確認を、確認をしないと……」
「時間がありません、殿下。事実であった場合、恐らくこの一件はすでにカルカヴァン閣下の耳にも入っています。確認に時間を取られれば、交渉の主導権は閣下のものになるでしょう。割って入って主導権を握るには、今動くしかありません」
シャガードがそう迫ると、ファティマは苦悩の表情を浮かべた。もしもこの話が事実であった場合、言うとおりにしなければイスファードは殺されてしまうだろう。だがもし策略の一環であったとすれば、今動けば北アンタルヤ王国に無用な混乱を招くことになる。
「殿下」
「一時間、一時間だけ待って」
ファティマは両手で頭を抱えながらそう呟いた。シャガードは何かを言いかけたが、その姿を見て静かに一礼し退室する。一時間後、彼がもう一度ファティマの部屋を訪ねると、彼女はしっかりと顔を上げていた。そして迷いのない声で彼にこう告げた。
「やりましょう。もし嘘だったとすれば、愚かな女が一人、踊らされただけのことです」
シャガードはまた、静かに一礼した。一度決断すると、ファティマの動きは早かった。彼女はその日のうちにメルテムのもとへ向かったのだ。彼女は公爵家の別邸に軟禁されていた。
ファティマがメルテムと面会するのは、およそ三年ぶりである。メルテムは外部との接触をほぼ遮断されており、そのため様々なことを聞きたがった。ファティマは彼女が軟禁されていた間のことを簡単に説明し、それからいよいよ本題に入った。
「王太后様。気をしっかり持ってお聞き下さい。イスファード陛下がイスパルタ軍に囚われました」
「なっ……、あの子が!?」
メルテムは悲鳴を上げて、思わずファティマに掴みかかった。肩を強く掴まれてファティマは顔を歪めたが、それでも彼女を宥めて落ち着かせ、ジノーファからの提案を説明する。それを聞くと、メルテムはすぐさま頷いた。
「降伏すればあの子の命は保証すると言うのですね……! ならば是非もありませぬ。協力しましょう」
「王太后様。これは策略であるかもしれません。その場合、わたしに協力すれば、今後お立場が危ういものとなるかも知れません。それでもよろしいのですか?」
構わない、とメルテムは言った。彼女の眼に迷いはない。これが母の愛なのだろうか。ファティマの目に彼女の姿はまぶしく映った。
ただ、イスファードの命が保証されたとして、彼は残りの生涯幽閉の身だろう。実際に牢に入れられるかは分からないが、自由に出歩くことや許可無く他の人と面会することは許されない。もう一度世に自分を試すことなど論外だ。
ファティマもメルテムも、そのことは十分に承知していた。承知した上でなお、二人はイスファードに生きていて欲しいと思ったのだ。
メルテムの協力を取り付けると、ファティマは彼女を連れて本邸に戻った。そして各所に手紙を書きつつ、積極的に情報を収集する。その結果分かったのは、イスファードの件がどうやら事実であるらしいこと、ネヴィーシェル辺境伯が本当に誘引作戦を再開しようしていること、そして彼女らに協力的な貴族が一定数いるということだ。
実のところ、ファティマらに協力的な貴族というのは、イスパルタ朝が調略している貴族たちだ。ただ彼女らはそれを知らない。それで二人の主観としては、国内に降伏論者が一定数いるように見えた。
「これなら……」
「はい、王太后様。これなら、降伏で国内の意見を統一することもできるかも知れません」
ファティマとメルテムは手応えを覚えて頷き合った。これならばカルカヴァンから交渉の主導権を奪えるかもしれない。そして交渉が始まってしまえばまとめるのは難しく無い。すでにおおよその内容については知っているからだ。
そしてついに、カルカヴァンが主だった貴族たちをシュルナック城へ招集したという報せが来た。この報せを寄越したのはファティマらに協力的な貴族たちである。それを受けてファティマとメルテムはいよいよシュルナック城へ向かうことにした。
ファティマ「これも妻の勤め、かしらね……」
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というわけで。
今回はここまでです。
続きは気長にお待ち下さい。




