北アンタルヤ軍、クルシェヒルに肉薄す
ジノーファはカスリム将軍に命じて、一万の兵を動かした。北アンタルヤ軍の後背に回り込ませ、追い立ててクルシェヒルとの間で挟み撃ちにするためだ。
さらにカスリムにはクルシェヒル以北の貴族たちを糾合し、彼らの戦力をまとめ上げるという任務もあった。とはいえ貴族たちが協力的な姿勢を示すかは分からず、その場合は例え単独であっても作戦を遂行するよう、ジノーファはカスリムに命じていた。
ただ、敵軍を迂回してその背後に回り込むわけであるので、当然それ相応に時間がかかる。下手をすると、北アンタルヤ軍のほうが先にクルシェヒルに肉薄するかも知れない。兵を動かしたからにはそれを最大限活用したいという思惑もあり、ジノーファはさらに兵を動かす事にした。
「クワルド将軍に命じる。三万の兵を率い出撃し、南下してくる北アンタルヤ軍に対して遅滞戦闘を行え」
「ははっ」
これでジノーファは合計四万の兵を動かしたことになる。クルシェヒルに残っているのはおよそ一万で、これはハザエル将軍がまとめて指揮を取っていた。これ以上兵を動かす事はできないだろう。
クワルドはジノーファの命令をほぼ完璧に果たした。少数の兵による奇襲と夜襲を繰り返し、さらに囮を使って敵をおびき寄せては手痛い逆撃を喰らわせた。損害を与えることが目的ではないので、しつこく追撃することはしない。ただ、時間を稼ぐことが目的なので、クワルドは昼夜を問わず嫌がらせのような攻撃を繰り返した。
こうなるとイスファードも襲撃を警戒しなければならず、遮二無二に兵を進ませることはできなくなった。北アンタルヤ軍の進軍速度は大幅に低下した。それを見てクワルドも兵を下げる。ただしクルシェヒルに戻ったわけではない。もう少し時間を稼ぐ必要がある。それで守りに適した地形の場所に軍を展開し、敵軍を迎え撃つ構えを見せた。
待ち構えるイスパルタ軍に対し、北アンタルヤ軍は奇襲や夜襲を警戒しながらじりじりと近づいた。この間、クワルドは敵に手出しをしていない。だがこれまで散々彼の手練手管に翻弄されてきた北アンタルヤ軍は、警戒を緩めることができない。彼らは神経をすり減らしつつ、イスパルタ軍に接近した。
この時点ですでに、イスファードはイスパルタ軍を率いているのがジノーファではなくクワルドであることを知っていた。周辺に斥候を放ち、情報を集めさせたのだ。そしてその情報が彼を悩ませていた。
クワルドは練達の将軍だ。寡兵も大軍も、まるで手足のように操る。イスファードはそのことを十分に思い知らされていた。無論、勝つ自信はある。だがジノーファを討ち取ることはできない。それにクワルドは手強い相手だ。彼に手こずる様子を見せれば、相互不干渉の密約を結んだ貴族たちがどう動くのか分からない。
堅く守りを固めたクワルドに対し、イスファードはなかなか攻めかかることができない。睨み合ったまま、三日が過ぎた。この間、クワルドはやはり奇襲や夜襲を仕掛けてきた。正確にはその素振りを見せただけで損害は受けていないが、ともかくそのために北アンタルヤ軍は気の張り詰めた状態を強いられていた。
「陛下。そろそろ仕掛けませんと、物資が……」
「分かっている。だが……!」
ジャフェルの進言に、イスファードは苦々しく顔を歪めた。クワルドが時間稼ぎをしていることは、彼も気付いている。恐らくはジノーファの指示だろう。北アンタルヤ軍の兵站が心許ないことを見透かされているのだ。
だが一般的に言って、防御に適した地形で守りを固めた軍を、ほぼ同等の戦力で短時間の内に圧倒するのは難しい。周囲の情勢や心許ない物資のことも合わせて考えれば、好機を待つのが上策であるようにイスファードは思っていた。
「……!」
そして、この日。彼の待っていた好機が訪れた。妙に生ぬるい風が吹いたのである。風は徐々に強くなり、空は重たい雲に覆われていく。そして日暮れを目前に降り出した雨は、すぐに滝のような激しさになった。
「これぞ天佑!」
雨に打たれながら、イスファードは歓喜も露わにそう叫んだ。そしてすぐに幕僚らに命じて攻撃準備を行わせる。重たい雲のために、辺りはすでに闇が濃くなり始めている。風の音はうるさいほどで、激しい雨も合わせれば、例え二万を越える軍勢であろうともその接近にたやすく気づけるものではない。
「陛下、馬に枚は噛ませますか!?」
「不要だ! 出るぞ!」
夜陰に紛れて北アンタルヤ軍は出撃した。イスパルタ軍の陣には少し前から明々とかがり火が焚かれている。その明かりを目印に北アンタルヤ軍は進んだ。そしていよいよ全軍突撃のラッパが鳴り響く。
「「「おおおおおお!!」」」
地鳴りのような鬨の声が上がる。さすがにこれほど大きな声を上げれば、イスパルタ軍にも気付かれただろう。だが気付いたとしても、もう遅い。北アンタルヤ軍は猛然と敵陣に雪崩れ込んだ。しかし……。
「なんだ、これは!?」
敵を求める北アンタルヤ兵らの熱狂はすぐに困惑へと変わった。イスパルタ軍の陣は空だったのだ。旗を立て、さらにはかがり火を焚いて、あたかも人がいるかのように見せていたのである。
それでも、いつも通りならさすがに気付いただろう。だが辺りはすっかりと暗くなっているし、それに加えて強風と豪雨という悪天候。クワルドはそれを利用してまんまとイスファードの眼を欺き、麾下の兵を撤収させたのだ。
「クソッ!」
イスファードは悪態をついてかがり火を蹴り倒す。イスパルタ軍を撃退することには、彼らの物資を奪うという目的もあった。だが武器や食料をはじめ、めぼしい物資は何も残っていない。敵を退けはしたものの、結局、掌で踊らされたような徒労感だけが募った。
さて、風雨を利用して兵を退いたクワルドは、そのままクルシェヒルへ帰還した。十分に時間を稼いだと判断してのことである。実際この時点ですでに、カスリム将軍率いる一万の分隊が、北アンタルヤ軍の後方に回り込んでいた。
イスファードがそのことを知ったのは、夜襲を決行した日からさらに三日後のことだった。この間、北アンタルヤ軍はほとんど動くことができていない。理由の一つはイスパルタ軍の策略を警戒しなければならなかったからだ。
夜襲において、クワルドはまんまと北アンタルヤ軍を欺いた。少なくとも北アンタルヤ軍の視点ではそう認識せざるを得ない。となればイスパルタ軍がただ退いたとは考えにくく、どこかで手ぐすね引いて待っていると思われた。
北アンタルヤ軍としては念入りに索敵を行うより他になかった。だが間の悪いことにその後二日間、雨が降り続いた。悪天候のために索敵ははかどらず、結局、北アンタルヤ軍は足止めを喰らったのである。
「イスパルタ軍の分隊およそ一万が後方に回り込んだ」という報せがイスファードのもとへ飛び込んできたのは、ちょうどそんな頃だった。報せてきたのは、相互不干渉の密約を結んでいた貴族の一人である。密使が持ってきた書状に目を通し、イスファードは顔を強張らせた。
書状によれば、兵を率いているのはカスリム将軍。彼はジノーファの命令としてクルシェヒル以北の貴族たちに号令をかけ、配下の兵を連れて参集するよう求めているという。仮に全ての貴族がその求めに応じれば、イスパルタ軍分隊の戦力は優に三万を越えるに違いない。
無論、これは最大限多く見積もった数字だ。密約もあることだし、貴族たちの動きは鈍いと思われる。だが最低でも一万の戦力が後方にいることは事実なのだ。北アンタルヤ軍にとっては、これだけでも大きな脅威と言わざるを得ない。クワルドが時間稼ぎをしていたのはこのためか、とイスファードは臍をかんだ。
「……確認されますか?」
密使の背中を見送ってから、ジャフェルがイスファードにそう確認する。イスファードは無言のままゆっくりと頷いた。密約を交わしているとは言え、情報の裏を取ることは必要だ。ただ、一つ問題があった。
それは敵分隊の位置だった。馬を駆けさせても二日以上かかる。往復で約五日だ。その間、動かずに待機しているのは難しい。時間をかければ敵の戦力は増大してしまう。その前に動く必要があった。
「先に分隊を叩く、という手もあります」
ジャフェルがそう提案する。分隊に貴族が誰一人として合流しないということはないだろう。そして分隊に合流したと言うことは、その貴族は相互不干渉の密約を破ったことになる。であればその領地を荒らすのを躊躇う理由はもはやない。
「分隊そのものが嘘かも知れんぞ」
「その時は、我々を謀ったとして報せてきた貴族を咎めれば良いのです」
いずれにしても、物資を現地調達することができる。北アンタルヤ軍の厳しい兵站事情をいくらかは改善できるだろう。ジャフェルはそう意見を述べたが、イスファードは少し考えてから首を横に振った。
「クワルドは明らかに時間稼ぎを目的としていた。分隊のこの動きを待っていたのだ。であれば、我々が今ここで北上すれば、奴がその動きを見逃すはずがない」
「ですが現在のところ、斥候はイスパルタ軍の姿を発見していません。敵はすでにクルシェヒルまで後退しているのではありませんか?」
「そうだとしても、我々の動きは監視しているはずだ。それに忘れるなよ、我々は位置的に分隊よりもクルシェヒルに近いのだ」
イスファードにそう指摘され、ジャフェルは考え込んだ。北アンタルヤ軍が北へ反転したのを見計らい、クルシェヒルからイスパルタ軍の本隊が出撃。北アンタルヤ軍の後背へ襲いかかり、さらに分隊との間で挟み撃ちにする。
あるいはそれがジノーファの作戦なのではなかろうか。だとすれば、密使が分隊のことを報せてきたことそれ自体が、もしかしたら彼の仕込みなのかもしれない。北アンタルヤ軍を反転させるためには、イスファードらが分隊のことを把握しなければならないのだから。
一体、どこからどこまでがジノーファの筋書き通りなのか。ジャフェルは眉間にシワを寄せた。主導権を握られているように感じる。良くない兆候だ。ただでさえ敵に比べ、味方の兵は少ないというのに。
「このまま、一挙にクルシェヒルに肉薄する」
「陛下、それは……!」
「分隊が貴族どもを糾合するにしても時間がかかるだろう。それまでにジノーファの首を取る。それでこの戦争は終わりだ」
そう言ってイスファードは薄く笑った。分隊を出したということは、敵の狙いは北アンタルヤ軍を挟み撃ちにすることであるはず。ならば分隊が動けるようになるまでは、本隊も積極的には仕掛けてこないはず。その隙を突いて一気にクルシェヒルへ肉薄するのだ。
「ただちに出撃準備を整えろ。敵が動く前に決着をつける」
「……了解しました」
少し逡巡してから、結局ジャフェルはイスファードの意向に従った。実際問題、時間はイスパルタ軍の味方だ。ならば速攻でジノーファの首を狙うというイスファードの方針は間違っていない。
出撃準備は一時間ほどで完了した。イスファードは馬にまたがり進軍を命じる。最初こそ奇襲を警戒してゆっくりと進んでいたが、敵軍の姿が周囲にないことが確認されると、北アンタルヤ軍は一気に速度を上げた。そして三日後の昼前に、彼らはついにクルシェヒルへ肉薄したのである。
クルシェヒルを擁する州は、言うまでもなく天領である。そしてクルシェヒルのすぐ北西には、王家の狩猟場があった。王家の男児は成人を迎えた際、この狩猟場で獲物を仕留めて家族や臣下に振る舞うのが慣習だった。ちなみにジノーファの場合、成人を迎える前に例の戦があったので、この慣習はまだ行っていない。
北アンタルヤ軍が陣を置いたのは、この狩猟場だった。この狩猟場が軍勢を展開するのに適した場所であることは確かだが、北アンタルヤ軍の進路からすると途中でわざわざ進路を変更してそこへ向かっている。何かしらの目的があるのだろうと思われた。
目的の一つは食料の確保だった。狩猟場ということは、そこには獲物がいる。北アンタルヤ軍の食糧事情は決して思わしくなく、全軍の腹を満たすにはもちろん足りないとはいえ、ここで新鮮な肉を手に入れられるのは大きかった。
軍勢を展開し終えると、イスファードは早速狩りへ赴いた。ただ食料を確保するだけなら部下にやらせればよい。だからわざわざ彼が直々に弓を取ったことには、それ以上の政治的な思惑が絡んでいた。
一つには、戦意高揚のための前祝いという意味合いがあった。大将が獲物を仕留めることは、戦で武功を上げることに通じる。「狩りが大猟なら戦も大勝」というのはいかにもこじつけだが、それでも戦の前には幸先と景気の良い話題が必要なのだ。
そしてもう一つには、前述した狩猟場にまつわる王家の慣習が関わっていた。無論、イスファードはこの慣行をすでに終えている。だが改めてここで狩猟を行って獲物を分配し、自分がアンタルヤ王家の直系であることを誇示することが目的だった。そうやって王権を戴く正当性を内外に示すのだ。
「陛下、来ましたぞ!」
「ああ、任せておけ!」
追い立てられた牡鹿が一頭、現われる。イスファードは馬を走らせながら矢を弓につがえた。そして射る。放たれた矢は牡鹿の首を貫通し、獲物を一撃で仕留めた。たちまち歓声が上がる。イスファードもまんざらではない様子で、弓を掲げてそれに応えた。
「陛下、お見事です」
「ああ。ジノーファもこうやって仕留めてやるぞ」
兵士たちがイスファードの仕留めた牡鹿を荷車に乗せて運んでいく。その様子を見ながら、彼は気分良くそう豪語した。
さて、それからさらにウサギを二羽ほど狩ったところで、イスファードは場所を変えることにした。狩猟場には小さな森(林と言うべきかも知れない)がある。彼は一〇〇名ほどを引き連れてそこへ向かった。
林の真ん中には、石造りの廃墟がある。もとは休憩所として作られたという話だが、何代か前のアンタルヤ王の時代に落雷のために火事になり、以後そのまま放置されているのだ。クルシェヒルから近い狩猟場なので多くの場合は日帰りだし、休憩所が欲しければテントを建てれば良いので、再建する理由がなかったのだ。
イスファードは馬をおり、廃墟の裏手へ回る。そこには井戸があった。結構深い井戸である。彼はそこに桶を投げ入れて水を汲んだ。
「陛下、我々が……!」
「いや、良い」
国王ともあろうと者が手ずから水を汲むのだから、周りの者たちの方が慌てた。すぐに騎士の一人が交替を申し出たが、イスファードは機嫌良くそれを断った。そして水の入った桶を井戸の縁に置き、そこから水を飲む。冷たい水が、ほてった身体に心地よい。
周囲の者たちにも、水を汲んで飲むことを許可する。彼らは交代で水を汲んで喉を潤した。その後、林の中ではめぼしい獲物を見つけることができず、彼らは草原の方へ戻った。イスファードがこの廃墟へ戻ってきたのは、翌日の夜のことだった。
クワルド「イスファードめ、まだまだ青い」




